第一章 タメシス市長の来訪 1
「久しぶりだねミス・エレン。随分立派に事務所を経営しているのだね!」
タメシス市域ドロワー通り三三一番地の事務所兼下宿の応接スペースである。
秘書兼家政婦のマディソン夫人に短いベージュの薄手外套を預けた感じの良い初老の紳士は、昔馴染みの大叔父さんみたいに愛想のよい笑顔を浮かべて、事務所の主である若き諮問魔術師エレン・ディグビーに挨拶した。
「ありがとうございますミスター・リヴィングストン。――タメシス市長閣下、とお呼びするべきかしら?」
「いや、今日は私的な依頼なんだ」と、紳士――毛織物商人組合の長にして現タメシス市長のアシュレ・リヴィングストンは馬毛織のソファにかけながら表情を曇らせた。
「どうなさいましたの? ご家庭内で何か魔術的なトラブルが?」
「ああ、まあそういうことだ」
老リヴィングストンの口調は何とも歯切れが悪かった。
生き馬の目を抜くタメシス商業界の頂点に君臨する大商人とは思えないビクビクした様子で、ソファの前のローテーブルに茶菓を並べるミセス・マディソンをしきりと気にしている。
「ミスター・リヴィングストン、彼女のことはわたくしと同じほど信用してくださって大丈夫ですわ」と、エレンは職業的な笑顔を拵えて告げ、心なし声を潜めて訊ねてみた。
「……もしかして、お嬢様がたになにか?」
途端、リヴィングストン市長は救われたような顔で頷いた。
「そうなんだ。大きな声じゃ言えないんだが――ミス・エレン、あなたは確か私の長女のシビルと同い年だったね?」
「ええ。ミス・シビル・リヴィングストンとは、十八歳の社交シーズンに一緒に摂政宮殿の舞踏会でデビューした仲ですわ。彼女に何かありましたの?」
「それが、実は――」と、市長が再びミセス・マディソンを見やる。
これはよほど他言の憚られる事態らしい。
エレンは諦めて命じた。
「ミセス・マディソン、給仕はいらないわ。――ミスター・リヴィングストン、どうかご安心なさって。わたくしは顧客の秘密は守りますから」
五割増しの機密保持費をお支払いいただければね――と、エレンは心のなかでだけ付け加えた。
開業一年十か月目の諮問魔術師の事務所はまだまだ経営が厳しいのだ。
「実はね」
ミセス・マディソンが階下へ降りてゆく足音が完全に遠ざかるのを待って、リヴィングストン市長は話を再会した。
「シビルの結婚に関して、先日うちの別荘に脅迫状が届いたんだ」
「え、脅迫状?」
エレンはぎょっとした。「ミスター・リヴィングストン、それは魔術師ではなく、いますぐ警視庁に訴えるべきですわ!」
「それが最善だとは勿論分かっているんだが、未婚の娘の結婚問題が関わるからね、いろいろとこうデリケートな問題があるんだ。あなたがシビルの友人だと信じて打ち明けるんだが、あの娘には八年前、貧しい生まれのロマニア人の恋人がいてね。その男が魔術師だったんだ」
「まあ」と、エレンはどうにか相槌を打った。「そのロマニア人と、ミス・リヴィングストンは別れてしまったのですね?」
「当然だ」と、市長は忌々しそうに頷いた。