プロローグ
雲一つない青空は、透き通るように澄み渡っていた。
生い茂る森は、陽の光を浴びてその緑を輝かせ、鳥たちはにぎやかにさえずりを響かせる。清らかな川や海は、豊潤な栄養を循環させ多くの生物を育んでいく。世界は、今日も穏やかに時を刻んでいた。
この世界には、動植物の他に、人間、獣の耳と尻尾を持つ獣人、ドラゴンの翼と尻尾を持つ龍人の三つの種族が住まう。龍人のほとんどは小さな島国で暮らし、人間と獣人は大きな大陸に五つの国を作って生活している。
大陸のほぼ中央に位置する国の王は、この世界の秩序を守る使命があると言い伝えられていた。
そんなある日のこと、黒い服に身を固めた三人の人物が、高台に立ち白亜の城を見つめている。
「なあ、クーレル。本当に一人で大丈夫か?」
狼の耳と尻尾を持つ長身の男が、黒髪の男に声をかける。
「フン、俺を誰だと思ってる? 大丈夫に決まってるだろ」
クーレルと呼ばれた男は、尊大な態度でそう告げた。
「まったく、アルフレッドは心配性なんだから」
黒髪の女が呆れたようにつぶやく。
「まあ、失敗するとは思ってねえけどよ」
と、アルフレッドと呼ばれた男は言い訳のように言って、眼下に広がる街に視線を向けた。
白亜の城を中心に円形状に広がる大きな街が一望できる。今から、あの白亜の城――ラクトア城に攻め込もうというのだ。しかも、クーレル一人だけで、である。心配しない方が無理というものかもしれない。
「お前たちはここで待ってろ。すぐ戻る」
そう言い置くと、クーレルは「空の扉」と小さく唱える。クーレルの足もとに円形の魔法陣が現れ、瞬く間に彼の姿がその場から消え去った。
次に彼が姿を現したのは、ラクトア城の最上階にある『祈りの間』だった。
およそ四畳ほどの小さな部屋には窓一つなく、壁と天井は淡いクリーム色で彩られている。光源は、部屋の四隅に置かれている篝火を模した常夜灯だけだが、それほど薄暗いとは感じなかった。床一面に描かれた魔法陣が、赤く発光しているからだ。
その魔法陣の中央に、一人の女がひざまずいて祈りをささげていた。
「世界のために祈る、か。健気だな、エルザ・フローティア」
音もなく彼女の背後に近づいたクーレルは、鼻で笑いながらそうつぶやいた。
その声に弾かれるように、エルザは後ろを振り向く。
「――っ!? ……誰ですか? 貴方。いったいどうやってここへ?」
警戒しながらたずねる彼女。それもそのはず、この部屋には、代々この国――ラクトア王国を統べる国王しか入ることが許されていないのだ。
「そんなこと、どうだっていいだろ。これからお前は、俺の復讐の礎になるんだから。まあ、お前自身には恨みはないがな」
悪く思うなよと、クーレルは冷笑を浮かべる。
短く悲鳴をあげると、エルザは震える体を引きずるように後ずさりを始めた。
クーレルは、そんな彼女を剣呑なまなざしで見つめながら呪文を唱える。
「闇の中で永遠に眠れ。『悠久氷結』」
エルザの悲鳴が響く中、クーレルの詠唱が終わると、彼女は一瞬にして氷漬けになってしまった。
「エルザ様!」
異変に気づいたらしい衛兵が、勢いよく部屋に入ってきたが一足遅かった。
「貴様! 何者だ!? エルザ様に何をした!?」
突然のことにうろたえながら、衛兵はクーレルに斬りかかる。だが、衛兵の剣が彼をとらえることはなかった。
クーレルは攻撃をひらりとかわすと、
「俺の名はクーレル。クーレル・アルハイド。世界を闇に染める者だ。その女を助けたくば、俺を殺すことだな」
と、あざ笑うように言って、先ほど使用した空間転移魔法『空の扉』でその場をあとにした。
クーレルが仲間のいる高台に戻ると、
「お帰りなさいませ、クーレル様」
と、黒髪の女が迎えた。
「その様子じゃあ、無事に終わったようだな」
と、アルフレッドがホッとしたように言う。
「ああ。女王様には、永遠の眠りについてもらったよ。それと、宣戦布告もしたから、これからが楽しくなりそうだ」
そう言って、邪悪な笑みを浮かべるクーレル。
「これからどうする?」
アルフレッドがたずねると、クーレルは少し考える素振りを見せた。
手始めにと、この街を混沌に陥れることを思いついたクーレルは、右手を手のひらを上に向けて胸の前にさし出した。
「生命のしずく、器に宿りて我が軍門に下れ。『魔物創造』」
静かに呪文を唱えると、彼の手のひらの上に鮮やかな紫色に輝く立方体の結晶が、四個ほど出現した。それは黒く禍々しい光を放ち、次第に球体へと変化していく。
「そら! 思う存分、暴れてこい!」
クーレルはそう言って、作り出した球体を眼下の街に無造作に放った。
それは、しばらく重力に任せて落下すると、速度を上げて街の四方へと散っていく。あとは、あの球体が魔物に成長して暴れだすのを待つだけだ。魔物の姿になるのに、そう時間はかからない。おそらく、一時間もしないうちに街を蹂躙するだろう。
だが、もう興味はないとでも言うように、クーレルは街に背を向ける。
「クーレル様……?」
と、女が不思議そうに彼の名を呼んだ。
街が壊れていく様を見届けるのかと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
「これから、ロードハルト公国へ向かう。アルフレッド、カミーラ。お前たちもくるだろう?」
クーレルの形だけの問いに、アルフレッドとカミーラと呼ばれた女は、もちろんとばかりにうなずいた。
「――あいつを探し出して、八つ裂きにしてやる!」
そう低くつぶやくクーレル。彼の深緑と金色の瞳には、漆黒の殺意が浮かんでいた。