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廊下に出れば、夜のひっそりとした空気。
わずかに音はしているから、寝静まっているわけではない。
でもみんな自室で、くつろいでいる時間だ。
あまり足音を立てずに廊下を歩き、階段を降りる。
二階の端の部屋は、茶色の扉。
やわらかな茶色の丸みを帯びた扉は、優しい彼によく似合う。
小さめにノックをすると、すぐに扉が開いた。
少し驚いたような顔で、でも優しく顔を緩めて、招き入れてくれる。
部屋の中は、造りは私たちの部屋と同じもの。
柱や梁が茶色で、壁がクリーム色の、統一感のある内装。
けれど家具がなく殺風景だった。
そして居間の隅に、大きな武具がいくつも置いてあった。
お部屋の一部が武器庫になっている件について。
私の視線に気づいて、グレンさんは少し困った顔になった。
「すまない。その…誰かを招き入れることを考えていなくて、椅子がなかった」
いや、私が見ていたのは、あちらの武具です。
家具云々の前に、あれらがすごく気になります。
グレンさんは、いつもはベッドでくつろいでいるのだという。
寝室以外はほぼ、物置状態なのだと。
あの小さな寝室で生活を完結させるのはどうかと思うけど、一階の居間や作業場など、自由に使っていい場所が自室以外にある。
トイレや洗面台は部屋の外だし、このお邸そのものが家なのだ。
部屋は寝たり着替えたりするだけの場所なら、そんなものかも知れない。
実際に今も、寝間着に着替えていたのだろう。
楽そうな、柔らかい素材のズボンに、簡素なシャツ。
もしかして寝るところを、邪魔してしまっただろうか。
出て来た早さから考えると、まだ寝ていなかったと思うけれど。
実は彼に会いに来て、何をどうするという考えがあったわけではない。
なんだかひとりでいたらダメな気がして、会いに来てしまった。
さて、どうしようかと考える。
「ちょっと、色々と考えてしまって、眠れなくて」
素直にそう伝えると、居間に行こうと言ってくれた。
居間の隅のソファに、並んで座った。
グレンさんの腕にもたれさせてもらったら、優しく頭を撫でられた。
甘やかされるのが心地良くて、困る。
しばらく黙って、筋肉質の腕に額をつけていた。
本当にもう、この筋肉に安らいでしまう自分が困る。
「私はもう帰れないんだなって、ちょっと気がついたんです」
口にしてから、これでは訳がわからないだろうと思った。
今までもそういう認識だったんだし、勝手に希望を持ったのは私だ。
でもグレンさんは、また優しく頭を撫でてくれた。
実は私の方も、詳しく話すつもりではない。
ただ心が落ち着かなくて、誰かにいて欲しいという気分だった。
甘えてしまって、申し訳ないけれど。
「魂に役割があるのだとしたら、どうすればいいんでしょうね」
答えを期待したわけではなく、独り言のような呟きだったけれど。
「別にそのままで構わない」
思いがけず、即答が返ってきた。
顔を上げると、まっすぐな視線が来た。
「魂に何かの役割があったところで、今ここにいる自分が全てだ」
視線は揺るがず、まっすぐに私を見ている。
相変わらずの低い美声で、本心からそう思っているとわかる、言葉。
「魂そのものの役割も記憶も、それらは全て過去の情報だ。今の家族も周囲も、そして自分自身も異なる」
何かを知る竜人族の彼が、まっすぐにそう言ってくれている。
「だから今ある自分がすべてで、そのままで構わない」
ストンと、意外なくらいに何かの力が抜けた。
なんだろう、聖女として気負っていたつもりではなかったけれど。
こう成らなければいけない、こうでなければいけないということが、何かあるのではないかと思っていた。
あとは、あちらの世界に生まれた私という存在は、私の家族は、いったいどういうものだろうと。
でも、あの家族の中で生まれ育った私が、今の私のすべてだ。
魂がどうの、役割がどうのなんていうこと以前に、今の私が私のすべてだ。
うん。なんだか、もういいかな。
父と仲違いしたままの心残りは、また何か方法を考えるとして。
私が帰れないことは、もう仕方がないのだろう。
そして私に何かの役割があったとしても、私は今の私のままでいい。
あの世界で生きてきた、私でいいんだ。
また彼の腕に額を押しつける。
頭を優しく撫でてくれる、大きな手。
困ったなあ。
子供の保護対象として優しくしてくれるのが、ちょっと困るなあ。
「番って、どういうものなんでしょうね」
ポロリと。
本当にポロリと、言うつもりのない言葉が出た。
頭を撫でてくれる手が止まる。
「どういう、とは?」
「その…相手の中身とか、どういう人かとか、相手を好きになるってことじゃなく、魔力の相性だけで番だっていう感覚が」
こんなことを聞いてしまって、ちょっと気まずい。
でも、言ってしまった以上は最後まで言った方がいい。
グレンさんのしばらく考え込む気配。
ううう、やらかしたかも知れない。でも気になったんだ。
魔力の相性で、その人にだけしか惹かれないとか、どういう感覚なんだろう。
それは強制的な何かで、嫌な人が番になったりしないのだろうか。
「魔力というのは、その者の本質だ。本質に惹かれるのだから、相手そのものを好ましいと感じているのだと、思うが」
たぶん誠実に、考えてくれているのだろう。
考えながらゆっくりと、グレンさんは口にする。
「番が嫌な相手だったことは、ないのでしょうか」
「聞いたことがないな。魔力の、人としての本質で相性のいい相手だ。嫌な性質の人物が番だったなど、竜人族の中で聞いたことがない」
なるほど。本質で惹かれる存在だから、ハズレはないということか。
「確かに人族からすれば、番の魔力に惹かれる感覚は、わかりにくいと聞く」
あ、やっぱりそういう話はあるんだ。
「だが逆に、人族から時に聞く、一目惚れの方がどうかと思う。表面の、顔や姿形だけで好きになるというのは、どうなのか」
あー、そうですね、その通りですね。
なるほど、納得した。とても納得した。
確かに一目惚れの方が、無責任というか、わけがわからない。
そこから始まり中身を知っていくにしても、番の魔力に惹かれるのと大差はない。なるほど。
またしばらく沈黙。
でも今度は、気まずい感じではなくなった。
私はグレンさんの腕にもたれて。
グレンさんは静かに何かを考えている。
やがてぽつりと、グレンさんが口を開いた。
「オレは、番を守らなければ、そのために誰よりも何よりも強くならなければと、ずっと思っていた」
低い美声が、耳に心地良い。
「なぜそう思うのかは、よくわからない。ただ、幼い頃から強くそう思ってきた」
美声はともかく、話す内容は不穏だ。
なんだろう、その呪いみたいなのは。
「グレンさんは、充分強いと思いますけど」
あの巨大な魔獣たちをやっつけたときの力、技量、すべて高レベルだと思う。
幼い頃から思ってきたということは、そうあるために、とても努力したのだろう。
「そうだな。戦闘特化の黒竜族としては、それなりに強くなったと思っている」
さりげなく情報を突っ込まれている。
つまり竜人族にも、さらにその中の一族というものがあるのか。
「だが恐らく、竜王は番を守り切れなかった。想定外の強敵がいたのだろう」
うん。何の話だろう。
そう思うけれど、私の反応を待たずに、グレンさんは言葉を続ける。
「覚醒すれば、わかるのかも知れないが」
「覚醒、ですか」
またわからない話が出たなと思いながら、水を向けると。
「番と魂の契りを結ぶ。血に巡る魔力を結び合わせ、真名を交わす」
返事、なのだろうか。それが覚醒する方法ということだろうか。
竜人族特有の、番の儀式ということだろうか。結婚式みたいな?
よくわからないけれど、グレンさんは子供の頃から番を守るために強くならなければと思い込む、呪いみたいな状況にあった。
その理由が、覚醒という結婚の儀式をすれば、わかるかも知れない、ということ?
グレンさんを見上げれば、眉根を寄せている。
精悍な美形の悩ましい顔というのも、それはそれでイイ。
「だが、守るというのは、具体的にどうすればいいのか」
困ったような、グレンさんの声。
「実際の状況で考えると、強くなっただけではダメだと気がついた」
そこで溜め息。イケメンの悩ましげな溜め息。
頭上でそういうことをされると、ちょっとソワソワする。
「常に抱き上げるのでは、ダメなのだろうか」
…あれ?
待って。何て?
意外な言葉が続いたので、頭がフリーズした。
「腕の中がいちばん、守れる気がするのだが」
え、ちょっと、それってどういうこと?
「どうだろうか」
言いながら、グレンさんは私をまっすぐに見る。
え、待って。
私にそれを聞くの?
私はフリーズしたまま、グレンさんと見つめ合った。
「ダメに決まっているだろう」というセラム様のツッコミが欲しい




