17
目が覚めると、真っ暗に思えた。
けれど次第に薄明かりで、周囲の様子が見える。
馬車の中、片側の座席にマリアさんが横たわっているのが見えた。
その反対側の座席に私が横になっている。
窓から外を覗けば、少し離れて野営の焚き火。月明かりも感じられる。
まだ夜中みたいなので、改めて寝ようとしたけれど、目を閉じても眠れなかった。
感覚的には、まだ眠いはずの時間ではないかと思える。
外には夜空の下、夜の森が黒々と広がっている。
野営の焚き火には人がいるので、ちょっと話し相手にでもなってもらおうかなと、向かうことにした。
マリアさんを起こさないように、そっと馬車の扉を開けて、外に出た。
ひんやりとした空気が肌を撫でる。
こちらでの季節は、いつなのだろうか。
あちらは真夏だったが、冷房対策のカーディガンがちょうどいいくらいだ。
今は夜なので、カーディガンでも若干冷える。
見上げれば、満点の星空。
うわあと心で歓声を上げかけたとき、目を見開いて固まった。
月が、大きいのと小さいの、ふたつあった。
ああ異世界なのかと、思い至る。
なんて遠い場所に来てしまったのだろうか。
同じ空の下ではない、まったく別の次元、別の世界。
本当に、もう帰れないのだろうか。
立ち尽くして、動けなくなった。
月がぼやけてきて、ああダメだと思うのに。
息が震える。
ここが異世界だなんて、とっくにわかっていたはずだった。
昨日か一昨日か、大泣きして気持ちの整理はそれなりに出来たと思っていた。
震える息で浅い呼吸を繰り返す。
ひとまず馬車に戻ってうずくまろう。
毛布をかぶって横になった方が、泣くにはいい。
そう思ったときだった。
「ひとりで、泣くな」
低く優しい声とともに、温かいものに包まれた。
グレンさんの低音の美声が、優しいのに悲しそうだ。
どうしてグレンさんの声が悲しそうなのだろう。
背中からグレンさんに抱きしめられて、なぜか心が安らぐ。
安心感に、かえって涙が止まらないのが困ったものだ。
包み込んだ私が泣き止まないのを見て、グレンさんは抱き上げてくれた。
軽々と抱き上げられるのが、なんだかなと思う。
この体格差が子供と思われる理由だろうか。
子供を抱っこするみたいに、片腕で私のお尻を支えてしまう。
頭のどこか冷静な部分が、力持ちさんだなと思う。
私が安定する姿勢になるように抱え、間近から私の顔を覗き込むと。
大きな手の親指で、優しく涙を拭ってくれた。
それからそっと肩に、私の頭を抱き込む。
私はグレンさんの首筋の筋肉に、顔を埋めてさらに泣く。
「こういうの、ダメだよ」
涙が少しおさまってきた頃に、言ってみた。
少し責める口調になったかも知れない。
「ダメ、なのか?」
戸惑う声が返ってきて、首に顔を埋めたまま頷いた。
「うん、ダメだよ。簡単に、女子を抱っこしたら。…奥さんがいたら、泣くよ」
ひと呼吸、息を吸い込んで、グレンさんの体が固まる。
「い、いない!」
ひどく焦った声が来た。
そうだよね。子供だと思っている相手から、いきなりこんなことを言われたら、困って焦るよね。
でもこっちにしたら、大事なことなのだ。
後から成人女性だったと知られ、グレンさんの奥さんや恋人から、痴情のもつれ的なサスペンス展開を迫られたりしたら、困るんだよ。
「奥さんじゃなくても、恋人とか」
「いない!」
なぜか食い気味に言われた。
そうか、いないのか。
ならいいか。いいのか?
まあ、いいや。
そう思って、グレンさんの首に腕を回して、しっかりと抱きついた。
そうしたらグレンさんからも、優しい力で抱きしめ返してくれた。
こちらの世界の感覚は、まだわからない。
けれどたぶん、この世界でも、これは知り合いの距離ではないと思う。
でもなんだか安心できるし、心地良い。やはりこの筋肉の感触だろうか。
今まで筋肉を意識して、間近に感じたことはなかった。
父や兄や職人さんたちは、別にマッチョではない。
非力でもなかったけれど、筋肉をことさら意識したことはなかったはずだ。
こういった接触も、大きくなってからはしなくなっていたし。
けれど、グレンさんのこれに安心してしまうのは、この筋肉のせいな気がする。
そんな嗜好はなかったつもりだったけれど。
グレンさんの腕の中にいるときの安心感が、私にとってはどうやら、クセになってしまったらしい。
「あなたが、泣いたから」
私がまたもウトウトと眠りそうになってきた頃。
グレンさんから、低い囁きが聞こえた。
「あなたの不幸が、家族と離れてこの世界に来てしまったことだと、わかった」
…うん。そうだよ。
家族や友人たちがいる、あの世界から連れて来られてしまって、悲しいよ。
「ならば、オレが不幸にするわけではない」
…グレンさんが、私を不幸に?
そんなことはない。グレンさんは、安心できる相手だ。
むしろこちらの世界に来てから、お世話になりっぱなしだ。
そこでしばらくグレンさんは沈黙する。
温かさに私が眠りそうになったところで、不意に私を抱きしめる力が、少しだけ強くなった。
「だとしたら、どうか」
低い美声が、切なく響く。
「どうか傍に、いさせて欲しい」
続く低い囁き声は、耳に直接吹き込まれた。
ウトウトしかけていた意識が、一気にぐわってなった。
なんだか体の奥がぐわってなったのだ。
それ以外にうまく言えない。
寝たのか気絶だったのかは、わからない。
気がついたら朝で、またもグレンさんの膝に抱きかかえられており。
寝起きドッキリな状況だった。
しかも起きた途端に思い出し、一気に赤面の上、地面を転がる羽目になった。
グレンさんが不思議そうだったのが、いたたまれなかった。
もしかして、夢だったのだろうか。
だとしたらゴメンナサイ。
痛い女の妄想みたいな状況に、さらにいたたまれなくなった。
ようやく、作品種類『恋愛』に、仲間入りできたでしょうか。まだでしょうか。