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※引き続きシエル視点です
夕食は保存食とスープだった。どちらも美味しくない。
この味がこちらの世界の基準だとすれば、今後の食生活が不安になる。
私は料理が出来ないわけではないが、上手でもない。
独居を始めてから自炊らしきことはしていたものの、栄養が取れればいいという程度で、美味しい食事は作れていなかった。
異世界召喚で新しい人生は楽しみだが、食事に関しては不安だ。
今回の温泉旅行で、美味しいと評判の和菓子の店にも行く予定だった。
事前に予約していた和菓子を受け取り、旅館で温泉に入ってから、ゆっくり味わうつもりだったのだ。
あれが食べられないことは、実に残念だ。
ネットで情報を見てから、いつか食べたいと思っていたものだ。
ようやくの機会だったのに残念だ。
さらに異世界となると、好物だった和菓子はもう食べられないだろう。
もし小豆が見つかっても、さすがに和菓子職人はいない。
召喚された者の中にいるとも思えない。
あのようなお菓子の文化が、こちらにもあるとは思えない。
異世界で賢者として新しい生活を始める。
それはとても魅力的だが、色々と悩ましいこともありそうだ。
配られた、まずい保存食を、スープでふやかして噛みしめながら、スキルの把握をしたり、周囲の話を聞く。
都市間を結ぶ転移魔法陣なるものがあるらしい。
国境へ急ぐと見せて、それを活用してこの国を脱出するという。
転移魔法の仕組み、その施設の活用法。ルールについて。
興味深い話をケントさんが色々と教えてくれる。
ミナが興味深そうに質問しているのを耳にしながら、私も気になったことをザイルさんに聞いてみた。
この国は魔法や魔術の研究が遅れており、彼らの住むサフィア国は、もっと発展しているそうだ。
なるほど。この国より住みやすい土地へ連れて行ってくれるのは、ありがたい。
そういえば魔道具の普及などは、地域差があるという。
サフィア国は比較的、魔術や魔道具は発展しているそうだ。
城の研究所でも様々な研究がされているというので、保護されている間に学びたいものだ。
食事を終えたミナが、元気に立ち上がり、何やら箱を取り出した。
生ものだから今食べてしまいましょうというので、食べ物らしい。
「家へのお土産だったものです。私、ちょうど一年半ぶりに帰省するつもりで」
笑顔でザイルさんに渡したと思ったら。
いきなり泣き出した。
本当に、いきなりだった。
前触れもなく、明るい笑顔から涙がいきなり流れた。
そして劇的に表情が変わり、泣きじゃくりだした。
まったく意味がわからず、私は固まってしまった。
対照的にマリアさんは、すぐ察したように動いた。
「そうね。あなた、とても頑張ってくれていたのね。私といっしょで、本当は帰りたくて、悲しいのよね」
その言葉に、違和感の正体が、彼女の空元気だったと知る。
子供のようにしゃくり上げ、泣き続ける彼女。
そうだ。彼女はまだ子供だ。
しっかりした様子から、小学生ではなく中学生だろう。
中学生なのに一年半ぶりの帰省とは、学校の寮か何かだろうか。
切羽詰まった状況だからこそ、態度を整えて気持ちをそこに持っていくことで、なんとか持ちこたえていたということだ。
私も経験がある。
父のことで日々不安だったあのとき、会社では平気な態度をとった。
そうすることで、職場での平常心を保っていた。
思えば、わざとはしゃぐような空気は、無理をして元気に見せるときのものだ。
ああ、なんてことだ。
大人として、それこそ私が気づいてやらなければいけなかった。
彼女が狙ってやった演技は、あの場で私を庇うこと。
私たちが無事に逃げられるように、国王に誓約魔法という枷をつけたこと。
若いときに酷い目に遭ったあの女性と重ねてしまったけれど、まったく違う。
昔のトラウマが刺激され、わざとらしい態度だったことで警戒していたが。
どうやら彼女に対して構えていたのは、間違った態度だったようだ。
父とケンカをしたままだったと泣く様子は、良好な親子関係だったのだろう。
ケンカをしたまま親と引き離される。
それは彼女にとって、どれほど大きな傷になるのか。
自分が彼女にとった態度を思い返し、胸が抉られた。
これでは本当に、嫌っていた父と同じではないか。
父は高齢になり暴力が出るようになったが、以前から威圧的なところはあった。
ああはなるまいと、私は父を反面教師にして、人と接するようにしていた。
なのに今回、彼女に対しての私は、ことごとくあの父のような態度が出てしまっていた。
若い頃は、自分の中に父と似た面を見つけるたびに、不安にかられた。
姉は、父と私は違うから大丈夫だと言ってくれたけれど。
自分自身が、ひどく嫌になるときがあった。
虐待を受けた子供は、自分の子に対して同じことをしてしまうケースがあると聞いたことがある。
私は虐待というほどではないけれど、父の威圧的な言動に晒されて育った。
ときに父と似たものを自分の中に見つけて、嫌でたまらなくなることがあった。
なんとかそうした面をなくそうと、努力はしてきたつもりだ。
それなのに今回ミナにとった態度は、どう考えても父の言動に似ていた。
本当に嫌になる。
そうした言動は少なくなったと思っていたのに。
異世界に召喚され、その国から逃げ出すという非常事態の緊張感の中で、出てしまった。
今はマリアさんとグレンさんが、ミナを慰めている。
私はそうしたことが下手なので近寄らない方がいい。
今やれることとして、そっと防音結界を張り、ザイルさんが受け取ったまま困っている様子の箱を、ひとまず私の亜空間で預かった。
ミナは泣き疲れて寝てしまったようだ。
そうした一面は、まだ子供なのだと思える。
彼女はグレンさんが抱えて馬車に乗ることになった。
子供とはいえ、男性に抱えられるのを気にする年齢ではあるだろうと戸惑ったが、彼の体格がいちばん安定するだろうとザイルさんに言われた。
まあ、揺れる馬車の中は、その方がいいのかも知れない。
私たちも馬車に乗ろうとして、マリアさんが私の方を向き、近寄ってきた。
「シエルさん、大丈夫ですか?」
私がひどい顔をしていたのだろう。そんな言葉を向けられた。
「ミナは無理をして笑っていたのだろうに、ひどい態度をとってしまった。私は本当に、大人として至らないことが多い」
やってしまった自責の念にかられた言葉に、マリアさんが目を見開き、それからゆっくりと首を振る。
「それは私もです。無理をして頑張ってくれていたと、私も気がつくべきでした」
「いや、私の方がひどい。助けてくれたのに、きちんと礼を言わず、嫌味な態度をとってしまった」
そこから私は、自分の不安をマリアさんに話してしまった。
高圧的だった父が、歳をとり暴力が出るようになったこと。
私もいつかああなるのではないかと、ひどく不安なこと。
姉は大丈夫だと言ってくれるが、自分の中に父と似た面が、確かにあること。
今回は、それがミナに対して強く出てしまった。
本当に自分が嫌になる。
なくそうとしても警戒する相手には出てしまう、嫌な態度。
マリアさんは私を馬車に促しながら、あたたかい声をかけてくれた。
「あとからでも、そう反省できる方は立派です」
「あとから気がついても遅い。そうした言動をする前に気づけないと意味がない」
「いいえ。してしまったことに対して、自分を正当化する人は多いものです。あなたは自分の言葉や態度が悪かったと、それに向き合える。とても立派な人です」
彼女の言葉に、私は思わず目が熱くなった。
気がつかなかったが、私もきっと張り詰めていた。
なんというか、この歳になっても、こんなふうに涙が出ることがあるのだ。
ようやく泣けるようになった、ということかも知れない。
父のことで慌ただしかった日々も、会社では普通の態度をとっていた。
早退理由も、独居の父の関係で急用だとしか理由を告げていなかった。
あの一件がひとまず解決してからも、ほっとした気持ちから放心状態のようになっていた時期はあったが、泣くことはなかった。
でも今、あたたかな彼女の言葉に、あの日々までも思い出して目が熱い。
子供のように泣くわけにはいかないから、熱くなった目を押さえる。
彼女が寄り添ってくれるのが、申し訳なくもありがたい。
馬車はこれから、ゆっくりと静かに進むそうだ。
寝ていいと言われたが、そうすぐに眠れるものではない。
これまではミナを挟んで向こうにいたマリアさんが、隣に座る。
私に寄り添うように座ってくれる彼女の体温があたたかい。
こちらの季節はわからないが、昼間は暖かかった気温が、冷えてきている。
馬車にあった備品らしい外套を渡され、それに包まった。
ミナを警戒する理由になった女性の話をすれば、ひどく同情された。
マリアさんに色んな気持ちを吐き出せば、彼女は私の手をそっと握ってくれた。
若い女性にそのようなことをされるのは、普段なら困っただろう。
でも彼女の包み込むような存在感に、母や姉のような安堵を感じる。
マリアさんのような若い女性に対して、非常に申し訳ないが。
大人になってから、人の体温を感じることはめっきり減ってしまっていた。
こうして手を触れるだけでも、癒やされる気分になるものなのだと知る。
堪えていた涙が、また出そうになった。
ミナを傷つけた私が泣くのは違うと耐えたが、マリアさんは優しく私の肩を撫でてくれた。
「そうではないわ。今回のことは、みんな不安になって当然なのよ。いきなり違う世界に連れてこられて、その犯人はあんな人たちで」
マリアさんの声は、優しく温かい。
「それに、あなたは今まで、とても頑張ってきたのよ。こちらに来る前から、気持ちが張り詰めていたのでしょう。お疲れ様」
情けなくも、そんな言葉をかけられて、みっともなく泣いてしまった。
マリアさんだけでなく、他の面々もいる馬車の中なのに。
今までの頑張りを労られると、堪えることは出来なかった。
マリアさんがシエルさんにキュンと来たのは、このときです。
ちょっとダメな人が好きなマリアさんは、自己嫌悪を吐き出しながら泣いてしまったシエルさんに、ときめいてしまいました。
二人とも魔力効果によるお互いの若返り状態を知らないので、五十歳前後の自分に対し、相手が二十代くらいの若者だと認識しています。
若い子相手に好きになってもと、お互いに思っています。
男性主人公なシエルさんの話を書けば、また違った話になりそうですね。
ちなみにシエルさんが食べたかった和菓子は、ミナの父の和菓子です。