112 精霊王
それはダンジョン攻略三日目のこと。
朝、ダンジョンの転移魔方陣で、攻略できている階層まで転移したときだった。
転移が完了した途端に、異様な臭さが鼻についた。
昨日ダンジョンを出るときに見た景色と、違う場所に私たちはいる。
洞窟でも、土の地面でもない。ちょっと崩れた石畳の、人工的な通路。
遺跡みたいな雰囲気がある。
以前ヘッグさんから聞いた、変動期ダンジョン特有のトラブルが起きたようだ。
攻略エリアよりも深層に、いきなり転移してしまったらしい。
深層で精霊王に会うのが目的なので、ラッキーではあるけれども。
「うええ、何ですか、これ」
匂いのきつさに、顔がぎゅっと寄ってしまう。
「…特殊魔獣か」
ヘッグさんがちょっと険しい顔をしている。
特殊魔獣。どういうものだろう。
「ダンジョンでは希に、魔獣と言うには悍ましいものが出る。死体が動くんだ」
それ、アンデッドモンスターというやつではないでしょうか。
ゾンビだったり、スケルトンだったり。
あちらのRPGでは定番のモンスターだ。
「来たぞ」
言われて指された方を見れば、出て来たのは狼みたいな魔獣の群れ。
だけど様子が、おかしかった。
所々が腐っている身体を引きずって、数頭がこちらへ、ヨタヨタ歩いてくる。
その身体から、臭さが漂ってくる。
ズルリ、グチャリという音が、気持ち悪さをさらに高める。
「うえええ、こんなリアルな死体が出るんですか」
「まあ、特殊魔獣だな。あまりオレも出会ったことはなかった」
珍しい物なら仕方がないけれど、そうそう会いたくないなあ。
「ミナ、浄化だ。こういうアンデッド系は、聖魔法が効くはずだ」
シエルさんの言葉に、急いで浄化の魔力を広げる。
腐臭が薄れ、さあっと空気が清浄になった。
そうして腐った魔獣が、すうっと溶けるように消える。
あとにはドロップ品らしき物が、残されていた。
倒した、ということだろう。
シエルさんが、便利魔法でドロップ品を回収してくれる。
「この階層は、アンデッドが多いのかも知れないな」
言われてまた鼻に皺が寄ってしまう。
だって、臭いの嫌だ。
「ミナの浄化が効くんだから、いいじゃないか」
そう言われて、まあそうだけどと口を尖らせていたら。
いきなり足元が光った。
「え?」
反応する暇もない。
光った足元には魔方陣があり、召喚の、あのときみたいな浮遊感。
「え、嘘!」
何が起きたのかわからず、思わず顔が引きつる。
グレンさんが、顔色を変えてこちらに駆け寄るのが見えたけれど。
すぐに周囲は消え、視界が闇に飲まれた。
真っ暗で、息苦しい。
黒い押しつぶすみたいな靄に包まれた状態で、圧迫感に身動きも取れない。
魔方陣で強制的に転移させられての、危機的状況。
ヤバイということはわかるけど。
考える間にも、気が遠くなってくる。
何をどうしたものかわからないまま、死という文字が頭を過ぎる。
ふっと、体が軽くなった。
ぼんやりしてしまった頭で、グレンさんの魔力だと感じる。
どうやら転移で結界が消し飛んだけど、髪飾りの結界が発動したみたいだ。
『ああー、しもたァ! 聖女はんは人族やねんから、これアカンやつやったわー。えらいこっちゃで』
何か、場にそぐわない、漫才師のおじさんみたいな声が聞こえる。
周囲の間近な闇が薄れるのを感じて、ほっと息を吐いた。
『すんまへんなあ、聖女はん。強引に呼び立ててもうて悪かった思てるんやけど、こっちも大変なんで、ちょっと手伝ったってえな』
闇が濃くて、周囲が見渡せないけれど、人がいる気配はない。
ただ強烈な魔力の塊みたいなものを感じる。
あと、瘴気がひどい。
『聞こえてはるんやろ! 聖女はんが親しく思う言語で話しかけとるんやで』
親しく思う、言語、とな。
嘘だ。こんな濃い言葉を話す知り合い、記憶にない。
テレビで見る芸人さんくらいしか心当たりがない。
『ああー、これもしかして、前の人生の記憶かいな。浅い記憶で見たつもりやのに、半端な魂の流転させよってからに』
魂の、流転。
いったい何の話だろうか。
『でも別の世界で、人生繰り返してはってんなあ。そらあ、こっちの世界でなんぼ待っても、聖女はんの魂が巡る気配があれへんと思たわ』
魂の、巡り。
ん、待って。今、どういう状況?
そういえば私は、精霊王に会うために、ダンジョンへ来た。
え、待って。
その途中で足元に出た魔方陣に、引き込まれたんじゃなかったっけ。
慌てて起きると、何やら黒く凝ったものが、目の前に広がっていた。
急いで自力の結界を張り、距離を取ろうとしたけれど。
『待って待って、怪しい者とちゃうんや! 強引に連れて来てもうたんは悪かった思うけど、こっちもちょっと大変やし、早ようどうにかしてもらわんと、困るんやで、ホンマ』
私を聖女と知って、連れてきた何者か。
に、しては、なんだか話し方がちょっと違う気がする。
聖女はんと呼ぶ声は、親しみが込められている。
『ちょっとなあ、助けてえや。これ浄化したってえな。ギリギリ保っとる状態やねんけど、けっこう限界近くてなあ』
うん。なんだろう。
目の前の、この黒いものから、何かの言葉が聞こえる気がする。
しかも濃ゆい系の言語。
「ええと、精霊王、さん、ですか?」
もしやと呼びかけてみれば、喜びの雰囲気が伝わってきた。
『おおおー、そうやそうや。聖女はん、瘴気がえらい溜まってるから、源泉のここに来てくれたんやろ。ちょォ頼むわ。もうかなり限界やねんて』
これが精霊王。
黒い靄が広がって、まったく見えない。
ただ強烈な魔力の塊があることが感じられる。
言われてみれば、そんな感じもする。
そして精霊王さん、言葉がおかしい。
言語というよりも、頭の中に話しかけられている感じだ。
でも言語として、何かがおかしい。
なぜに濃ゆい系の関西弁で、話しかけられているのか。
まあ、でも、目的の精霊王だ。
魂の流転を司る精霊王を浄化する必要があると、グレンさんが言っていた。
そして目の前の靄は、確かに瘴気だ。
私は息を吸い、吐き、身体に魔力を巡らせた。
この靄を、なるべく広範囲に浄化する。
集中して、浄化の魔力をお腹の中で練る。
そして前方の靄に向かって広げた。
さあっと靄の一部が晴れて、少し見渡せるようになる。
でも少しだけだ。靄がまだ濃い。
『ああー、今のでちょっと楽になったわあ。でも、まだまだやなあ。もっと気張ったってえな』
うん。なんだろう、この気が削がれる言葉は。
精霊王が瘴気に包まれているって、けっこうな緊急事態じゃないのかな。
なんだか暢気な感じがする。
もう一度、浄化。再度浄化。
あの大規模瘴気溜りを浄化したときみたいに、残りの魔力数値を気にかけながら、浄化を進める。
ちょっと魔力が危なくなってきたあたりで、浄化をいったんやめた。
あれだけ魔力があったのに、二万を切った。
そろそろ休んだ方が良さそうだ。
ふうと息を吐き、亜空間から敷物を出して広げる。
その上で転がった。
『お疲れさんやったなあ。聖女はんでも、さすがにコレ、いっぺんに浄化は無理やわなあ。休み休みでええから、あんじょう頼んますわ』
本当に、この言語はどうにかしてもらえないだろうか。
そう伝えてみたのだけれど。
『あー、無理でんな。いっぺんこの言語で、聖女はんに話しかけるのをやってしもうたら、もう無理やねん』
ということで、精霊王からは関西弁のおっさん言語で話しかけられ続けることが、決定していた。
記憶にはないけれど、私の魂の浅い場所で、この言語が親しいものらしい。
地球での前世と言われたけれど、心当たりはまったくない。
まあ、前世だからね。
言葉の問題はさておき、私は本格的な休憩のため、飲み物とおやつを取り出した。
ミルクティーと、どら焼き。
疲れたときは、甘い物だ。
『聖女はん、それなんやろ。聖女はんが作りはったんかいな』
「あ、このお菓子ですか? 精霊王さんも、おやつは食べられるんですか?」
『食べもんか。なくてもええけど、食べてみたい気はするなあ。ちょっとこっちに寄越してんか?』
「ええと、寄越すって、どうやったらいいですか?」
『こっちこっち、投げ入れてえや』
靄の中から、チカチカと光が見えた。
どうやらそこに、精霊王の本体があるみたいだ。
「ここから投げて、届きますか?」
『なんとかなるやろ。そっから力一杯投げたってえな』
要望されたので、どら焼きをひとつ、光の方へ投げ込んだ。
力一杯やってみたけれど、届きそうにない勢いだ。
でも、どら焼きはふよふよと、靄の中に飲み込まれていく。
しばらくして、またチカチカと光が強く速くなった。
『うまあ! なんやこれ、人族はこんな美味いもん、食べてはったんかいな!』
どうやら、どら焼きを気に入って頂けたようだ。
『聖女はんの魔力も入ってるし、これええわ。他に何かないん?』
魔力が入っているという言葉は、よくわからないけれど。
亜空間には、それなりに料理もおやつも入れてある。
どうしようかと考えて、シュークリームを投げてみた。
そちらも気に入ったらしく、チカチカが激しく瞬く。
『また系統違うけど、こっちもうまいなあ』
大絶賛だ。
「ええと、味、わかるんですね」
『なんやその反応、ヒトを味音痴みたいに言わんといてくれへんか。これでも人の記憶をいっぱい見て来とんやで。人の感覚の、おおよそは知っとるんや!』
精霊王、けっこうグルメさんらしい。