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冒険者ギルドから戻ると、ザイルさんが落ち込んでいた。
「身分証について、私の認識不足で配慮が足りなかった」
どうやら商業ギルド長が気づいてくれたことを、ザイルさんがまったく気づいていなかったことで、落ち込まれているらしい。
でも、それは仕方がないことだ。
たぶん私みたいな聖女は、すごくイレギュラーなんだと思う。
竜人族は、画期的な発明でも、竜人族の中で完結することが多い。
竜人族だけが使っている魔道具が、聞いているとたくさんある。
外の商業ギルドでたくさんの登録をしている竜人族の方が、珍しいのだろう。
人は自分の価値観や経験則で物事を見ると、聞いたことがある。
竜人たちは、利権絡みで、いかに自分が得をするかは、あまり考えそうにない。
せいぜいパンの数に余裕がある状態で、いかに自分が多く食べるか考える程度だ。
欲がないわけではないけれど、基本的に善良だ。
人を利用しようとするような人物がいるとは、知っている。
でも身分証ひとつにそれが絡むとは、考えにくい。
商業ギルドのレシピ登録は、ただそれだけの情報という認識だ。
身分証がきっかけで、利権絡みで煩わしい思いをするなんて話は、実際にその経験をした人から話を聞かなければ、思いつかない。
自分がそうしようとは考えないから、彼らにとっては思いもよらないことだ。
竜人族にとって、冒険者登録はさらっと出来ることなので、今回のダンジョン行きで問題があるとは誰も考えていなかった。
「こればかりは、経験不足だ。商業ギルド長に教えを請うとしよう」
ザイルさんは、何かを決意された顔で、そう呟いた。
大変申し訳ございません。ザイルさんのせいではないのです。
でもきっと、今後必要そうな気はしているので。
そして私が自分で対処できるとは、とても思えないので。
お手数をおかけ致しますが、よろしくお願い致しますと心の中で手を合わせた。
さて、ヘッグさんとは明日の朝に合流予定だ。
なので冒険者ギルドから帰宅後は、またお料理をした。
落ち込むザイルさん浮上のため、今日のおやつはシュークリームにした。
前回、テオくんに食べてもらいそこねたままだったものだ。
カスタードと生クリームを口につけながら、美味しそうに食べるテオくん。
彼においしいねと声をかけて、自分も頬を緩めて食べているティアニアさん。
そんな二人を見るザイルさんが嬉しそうなので、これで良し。
グレンさんが私に食べさせようとしたけれど、シュークリームはそういうのが難しいので、お断りした。
しょんぼりされたけれど、考えてみて欲しい。
シュークリームの食べさせ合いは、二人羽織くらいに難易度が高いと思う。
しょんぼりなグレンさんに、胸が痛い。
なのでこっそり、ミニクッキーを二人で食べた。
こちらなら、食べさせ合いも難しくない。
でもテオくんに見つかって、ミニクッキーもテーブルに出す羽目になった。
私たちを見て、ザイルさんがティアニアさんに食べさせている。
まあ、今日の目的としては、これで良しとしておいた。
聖水作りもして、夕食後のお風呂も普通に行って。
そんな寝支度をしている中でのことだった。
「じゃあこれ、きちんと身につけておいて下さいね」
「ああ、わかっている。マリアさん、ありがとう」
寝る前にお水を飲もうと厨房に向かったとき、密やかな声を聞いた。
マリアさんとシエルさんだ。
「ダンジョンだなんて、危なそうだわ。気をつけて下さいね」
「大丈夫だ。私には結界魔法があるからな」
「それでもです」
「わかっている。心配してくれてありがとう、マリアさん」
両方がとても、優しい親しげな声だ。
マリアさんはともかく、シエルさんのそんな声が意外だ。
ちょっと無駄に自信ありげなのが、いつものシエルさんだ。
それが気遣いや照れみたいな声を含ませている。
なるほど。これがティアニアさんが気づいた、二人の雰囲気。
うわ、確かに恋人同士の雰囲気だ!
えええ、マリアさん、シエルさんがいいの?
二人に動きが出たので、咄嗟に物陰に隠れた。
シエルさんはそのまま階段を上っていく。
その場に残ったマリアさんが、こちらに歩いてきて。
「なあにミナちゃん、のぞき見かしら?」
隠れている私を覗き込んで、にんまり笑った。
ちょっと、どんな顔をしていいか、困ってしまう。
「えええと、マリアさんて、シエルさんと」
「あら、直球で聞くのね」
マリアさんは面白がっている顔でこちらを見た。
「そうね。私はシエルさんを好ましいと思って、お付き合いを始めたわ」
「シエルさん、ですか」
私の意外そうな声に、マリアさんがちょっと困った顔になる。
「ミナちゃんは、グレンさんのちょっとズレてるところが可愛いって、言っていたでしょう」
以前私が言った言葉を持ち出されて、頷いた。
マリアさんも頷いて、話を進める。
「私は若い頃ね、皆に認められるような人がいいんだと、盲目的に思っていたわ。前の夫は、一見そんな人だったの。紳士的でスマートで」
お付き合いを始めた当初は、仕事も順調で、立派な大人に見えた。
デートのエスコートもスマートで、頼もしく優しい結婚相手に思えたそうだ。
「でも付き合うと、違和感があったわ。いざってときに弱腰で、私を盾にしそうなところがあって」
「え、ちょっとそれは、どうなんですか」
私は顔を顰めてしまっていたと思う。
マリアさんは笑って、そうよねと頷く。
「そのときはね、皆が認める人の、私だけに見せる弱さみたいに、思えたの」
いやいやいやいや、無理がある。
そう私は思ったけれど、そのときのマリアさんには、そう見えていたという。
「でも表面を整えていい顔をするのは、いくらでも出来ることよね」
「ですね。アランさんとか、猫が主張しまくってますよね」
私の感想に、マリアさんが笑った。
マリアさんも、アランさんの猫かぶりは、気づいていたみたいだ。
「今の私はね、他の人にどう見えても、この人のここが一番好きだと、私が思えるところがないと、意味がないと思っているの」
マリアさんは静かに語る。
「あの召喚の場で、同じように召喚された人たちの中から、シエルさんは一番に、声を上げてくれたわ」
私もあのときのことを思い出す。
マリアさんを嘲笑するみたいな態度の三バカと、あちらの国の人たち。
どうにかしなければと思っても、何が最善か出方を窺い、私もまだ動けなかった。
他の人たちも、嫌な空気だと感じながら、行動に移せなかった。
一番に動いてくれたのはセラム様だけど、他国の王族という立場があってこそだ。
同じように召喚された弱い立場の中、一番に声を上げたのは、シエルさん。
とても勇気が必要だったと思う。
そうしてカッコイイところを見せた反面。
私と大人げなく言い争ってみたり。
教えろと尊大そうに言いながら、実際は素直に言うことを聞いてみたり。
攻撃魔法を使って声を上げて笑うとか、ちょっと引くほど夢中になったり。
そんな素顔が見えたことで、人柄がわかったという。
「善良で優しくて、慎重で臆病だけど、やんちゃなことにも憧れる」
そんな子供みたいな本質は、好ましく見えたそうだ。
中二病的なところも、逆に可愛く思えたのだと、マリアさんは言った。
「大人っていろんな経験から、態度を作っていくのよ。あの、ちょっと尊大だったり、自信ありげな口調は、そうやって慎重で臆病な自分を、守ろうとしてきたのでしょうね」
ふと、お客さんの言葉を思い出した。
あれは中学になったばかりの頃だ。
『ミナちゃんみたいな子供には、まだわからないだろうけどね。大人の顔を続けるのって、けっこう大変なんだよ』
うちの店の常連だったおじさんが、そんなふうに言っていた。
その人は、甘い物が大好きで、なんなら甘い物で生きていきたいという。
でも健康に悪いし、大人としては顰蹙を買うので我慢しているのだと。
子供みたいなそうした本音は、大人になると隠さなければならなくなる。
甘い頂き物は、自分が一番に食べたいけれど、子供に譲らなければならない。
親は、親の役割としての顔をするけれど、最初からそうだったわけではない。
一生懸命、親であろうとして、そういう顔を作っているのだと。
そんな話をされた。
当時の私には、よくわからない話だった。
立場が人を作るという言葉は聞いたことがあっても、ピンと来ない。
でも母にその話をしたら、「わかるわー」と言っていた。
「私はあんたたちのお母さんで、母親としてちゃんとしなきゃと思ってる。でも若い頃のお友達と、はしゃぎたいし、PTAのお付き合いは逃げたくなるわ」
母は私たちを育てるために、一生懸命、母親らしさを身につけたのだという。
「母親らしく、誰にも角を立てないようにって、本当に難しいのよ。内心腹が立っても、我慢しなきゃいけないときが、大人にはあるの。若い頃みたいに、正直にケンカが出来たら簡単だと、つくづく思うわ」
そんなふうに言われて、そういうものかと思ったものだ。
今はあのときより、少しだけわかる気がする。
いつまでも、子供の頃のままというわけにはいかないことが、色々とある。
立場が人を作るというけれど、バイト先でも、私よりあとから入ってきた人に教えるときは、先輩として教える必要がある。
あのときの私は、精一杯の先輩らしい顔をしていたと思う。
擬態、と言ってもいいかも知れない。
あとは集団の中で、変化を求められることはある。
やんちゃをして周囲からバッシングを受けた子が、それ以降は大人しくなったり。
人の言いなりだった子が、冷ややかに距離を置くようになっていたり。
本質が変わるわけではないだろうから、態度を変えたのだ。
シエルさんは、残念賢者と呼びたくなる子供みたいな一面と、大人の男の人としての顔が、ちょっとアンバランスだなと思っていた。
たぶん大人の男の人として、精一杯擬態して、あの態度になっていた。
でも異世界に来てからは、素顔を出すことが多くなっていた。
ゲームみたいなこの世界では、はっちゃけても大丈夫だと考えたのだろう。
あとは賢者として魔法で色々出来ることで、行動的になった。
何かがあっても、魔法でかなりリカバリー出来ると考えて、自信がついたのか。
本質は、慎重で臆病で、でも誰かのために勇気も出せる人。
異世界では新しい名前でいいというのは、シエルさんの今の心境かも知れない。
ちょっとずるいことも、今の私は考えている。
たぶんシエルさんは、以前の態度の方が窮屈そうで、異世界での新しい自分を気に入っている。
だって以前より、ずっと柔らかい顔になっているのだ。
だからたぶん、シエルさんはあちらに帰ろうとしない。
そのシエルさんとお付き合いを始めたマリアさん。
もし結婚とかするのなら、マリアさんもこちらに残ってくれる。
私はあちらに、もう帰れない。
だからマリアさんがこちらに残ってくれたら、嬉しいなと思っている。
あちらの世界の、娘さんたちには、悪いと思うのだけれど。
マリアさんは、こちらの世界でのお母さんな感じだ。
グレンさんのご両親な義父母はいても、日本の話が出来るお母さんは、別格だ。
それでも、もしあちらに帰る手段が出来て、マリアさんが帰ることを選ぶなら。
私はちゃんと、笑顔で見送りたいとは思っている。
だからこのズルイ自分は、内緒だ。
一度でも出せば、マリアさんを引き留めてしまいそうだから。
なのでそちらの気持ちは、いったん置いておく。
大事なのは、今のマリアさんのこと。
マリアさんは前の旦那さんのことを振り切り、新しい恋に前向きになった。
それは、とてもいいことな気がする。
まあ、残念賢者ではあるけれど。
マリアさんは、シエルさんにはもったいない気もするけれど。
なんなら私がシエルさんに感じる残念感は、ゲーム好きの兄に通じる印象で。
兄のいいところも、私はたくさん知っている。
そもそも残念感って、良いところがあって惜しいから生まれる感覚だ。
グレンさんも人によっては、残念なのだろう。
まあ、人がどう思っても、私から見たグレンさんは、素敵な人だ。
「シエルさんなら、尻に敷かれてくれそうですね」
私がイヒヒと笑って言うと、マリアさんがふふっと笑った。
うん。シエルさんなら、DVとは縁がなさそうだし、浮気も、たぶんしない。
何があったかは知らないけれど、あの尊大さも自信ありげな態度も、慎重で臆病な内面を隠すための、頑なな虚勢の態度だ。
初対面で構えていたときや、勢いが必要なときほど、ああした言葉になるけれど。
そのあとの行動が素直なところが、シエルさんの本質だろう。
当初は偉そうでわかりにくくて、扱いづらい人に思えた。
でも高圧的な口調ながらも、悪意はまったく感じなかった。
私はシエルさんに、最初から警戒心を持たなかった。
うん。お似合いかも知れない。
「ちゃんと幸せになってね、マリアさん」
あのときのお返しとばかりに、マリアさんが言ってくれた言葉を伝える。
マリアさんは柔らかく笑って頷いてくれた。