18.白の扉
「いやですわ、恋人同士の抱擁を覗くだなんてはしたないこと」
頬を赤らめて言う令嬢の言葉を聞いて、私はハッと我に返る。
「あ、リシャ様、ここを真っ直ぐ行って右にある白い扉を入った先に副所長様がお待ちですわ」
「えぇ……ありがとうございました……!」
令嬢たちに手短にお礼を言ってすばやく身を翻した。
何も見たくない。何も考えたくない。
そう考えるや否や私は走り出していた。
いろんな気持ちを振り切りたくてひたすら走った。
慣れていない長いドレスとヒールの高い靴がもどかしい。
そうしてなんとか、教えてもらった白い扉らしきものの前までやってきた。
外観はとてもシンプルで、落ち着いている。
待合室か何かなのかな?
何の疑問も持たずにドアを開けて入ると、そこには先ほどまで居た庭園と同じような景色が広がっていた。
ここも庭園の一部なのだろうか。
辺りは静けさに満ちていて、今の気分にはぴったりかもしれない。
ハニカ様と合流する前に気持ちを落ち着かせよう。
そう思い直して、私は散歩することにした。
少し歩いた所に小さな噴水とベンチが見えて来たので、腰を下ろして休憩した。
エメルラルド塔の庭園を思い出すこの風景に、安堵の気持ちが沸き起こる。
あそこにはいつもナジェが居て、無愛想だけど私の存在を歓迎してくれているのが分かり心地よかった。
そんなことをふと思い出す。
ゆるやかで少し冷たい夜風が吹いていて気持ち良く感じる。
普段の私なら寒さを感じるだろうこの気温も、熱を帯びている今の身体には丁度いい。
自分で思っているより、気持ちが昂ぶってしまっているようだ。
なんで?さっきの場面を見たから?
私、ショック受けてるの?
自分でもよく分からない感情に頭を抱える。
……いや、正直に言えば“認めたくなかった”感情だ。
私はナジェが好き。
多分、自分で思うよりずっと。
いつも愛想の無い表情を浮かべている割にたまに見せる笑顔だったり、ぶっきらぼうな優しさ。
研究に対して真面目に真摯に取り組んでいる所、実は仲間想いである所も全て。
年下だからとか、婚約者がいるからとか、自分の気持ちをごまかしていたけど、とうとうそれも出来なくなったということだ。
そう、婚約者。
ナジェにはティナ様という婚約者がいるのだ。
好きになっていい相手ではない。
こんなことならずっと見て見ぬ振りをしておけば良かったかな。
しかし、エメラルド塔にいる以上、彼と関わらない訳にはいかない。
遅かれ早かれ向き合わなければいけなかった感情だ。
ああ、どうしたらいいの……。
頭を抱える私だったが、ふと思い直す。
いや、でもさ、別に私のこんな感情は誰も知らない訳だし、少なくとも表に出さなければ迷惑はかからないのでは……?
人を好きになるということ自体は悪いことじゃないもんね……!
うん、それは尊い感情だもの。
なんて、ちょっと都合が良すぎるかもしれないけれど――――。
色々考えていたら、なんだか急に気持ちが振り切れた。
しかし、いくら研究のためとはいえ、ティナ様からしたら自分の婚約者と他の女性が話し込んでいるのを幾度も見かけるのは決して気分が良くないだろう。
も〜!この前ラガの街から帰って来たときにも分かってたはずなのに、本当に私って忘れっぽいんだから……。
うん、これからは必要以上に接触しないように気をつけよう。
顔を見ないように離れていれば、その内こんな浮ついた気持ちも収まっていくだろうし。
だから、今だけ、ほんの少しだけはこの気持ちを心の中に置いてもいいかな……。
それだけでいい。
何も望まずにこの気持ちを大切にして、そして、ちゃんと忘れよう。
そうしたら、きっと前に進めるはず。
うん、ここは私の唯一の取り柄である前向き思考で乗り越えよう!
そう考えたらなんだか気持ちがすっきりしてきて、私は勢いよく立ち上がった。
とにかく今はハニカ様と合流して、このパーティーを楽しもう。
そう思った瞬間、背後で物音がしたのでハニカ様が来たのかと思い振り返った。
……!!!!!
しかし、そこに居たのはハニカ様ではなく、見上げる程大きな白い狼だった。
狼は鋭い目をこちらに向けて、静かに低い唸り声を上げている。
何、これ……。
一瞬にして頭の中は真っ白になった。
何が起きているのか分からないけど、非常に危険な事態であることは分かる。
なんとか心を奮い立たせて気をしっかりと保った私は頭をフル回転させた。
ま、まずは刺激しないように、ちょっとずつ動こう。
さっき入ってきた白い扉からここまではそんなに遠くない。
そこまで逃げて扉を閉めてしまえばいいのではないか。
さっき通ってきた会場の1階出入り口には護衛騎士が立って居たはずだから、そこまで走って助けを求めるのが確実そうだ。
とはいえ、このドレスと靴で走ったところで、すぐに追いつかれてしまう可能性の方が強い。
でも、とにかくやるしかない。
意を決してそっと足を一歩横にずらしてみると、狼は一際低い唸り声を上げた。
駄目だ、怖すぎる……!
青ざめて辺りを見回してみると、ギリギリ手の届きそうなすぐ近くの生垣に太い木の枝が引っ掛かっているのが目に入った。
あれを狼の目に目掛けて投げて怯ませたら、時間稼ぎになるかもしれない。
私にはもう何の余裕もなく、思った瞬間、衝動的に手が動いていた。
木の枝を掴んで思い切り投げつける。
当たった……!!!
狼が悲鳴を上げた瞬間、私は扉に向かって思い切り走る。
必死で走って、前方に扉が見えた瞬間、気が緩んだのかドレスの裾を踏んでしまった。
あっと思った瞬間にはもう遅かった。
身体のバランスを崩して倒れこみ、すぐ目の前には狼が迫っている。
ああ、もう駄目だ。
何かを悟ったように私は観念して、唸り声と共に今にも地面を蹴ってこちらに飛び掛かってこようとしている狼の前でギュッと目を瞑った。
ほぼ同時に、バタン!という大きな音と共に声が響く。
「リシャ!!」
「リシャ様!!!」
その瞬間、私は強い光に包まれた。