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第86話 古川家

「いらっしゃい」

「お邪魔します……」


 夏の昼下がり。三十五度を優に超える蒸し暑い地獄にいた俺は、ドアの向こうから感じるクーラーの冷気に、やっと安息地に着いた……、と心の中でぼやく。


「それにしても珍しいわね。ほまれが私の家に来たいだなんて……」

「ごめん、迷惑だった?」

「ううん。そんなことないわよ。ほまれこそ、大変よね。家のクーラーが一度にすべて故障してしまうなんて」

「うん……家は灼熱地獄だよ……」


 俺は、みなとの案内に従って廊下を歩き、彼女の部屋に通される。当然ながら、部屋はクーラーが効いていて涼しかった。


 家のクーラーが故障してから三日が経った。旅行から帰って来てから今までの日中、俺はクーラーの効いたメイド喫茶でバイトをしたり、クーラーの効いた市の図書館へ本を読みにいったりして、なんとか暑さをやり過ごしていた。

 しかし、今日はあいにく、バイトはないし、図書館も休館日だ。


 これではとても日中の暑さを乗りきれそうにない。しかも、今日も猛暑日で、最高気温は三十八度になるというではないか。

 というわけで、俺はみなとに連絡して事情を説明し、彼女の家に避難……お邪魔することになったのだった。


 ちなみに、みやびは、俺が旅行から帰ってきた次の日から研究所に泊まっている。彼女には俺とは別に暑さを回避する安全地帯があったのだった。


「そういえば、なぎさちゃんは?」

「自分の部屋で勉強しているわ」

「そうなんだ」


 それなら、大声で話したり騒ぐのは避けた方がいいな。なぎさちゃんは今、中学三年生。冬には高校受験を控えている。夏は受験の天王山だ。勉強に集中しなければならない。


「ほまれはお水でいいのよね」

「え? うん」

「わかったわ。少し待っててちょうだい」


 そう言うと、みなとは部屋から出ていった。俺のために水を取ってきてくれるらしい。その気遣いがありがたかった。


 相変わらず、みなとの部屋はさっぱりしている。前回お邪魔した時は、みなとが風邪を引いていて、その看病でそれどころじゃなかったが、今回はそんな切羽詰まった状況ではない。俺はみなとの部屋をゆっくりと見渡す。


 部屋の中央には、小さな丸いテーブルが用意されていた。それ以外は、前回とほとんど変わっていないように見えたが、俺はすぐに、一つだけ違っている点に気づいた。


「あれ、これは……」


 俺は本棚の一番下に置かれているそれを、思わず手にとる。

 このぬいぐるみのクマ、確か数カ月前に俺がクレーンゲームで取って、みなとにあげたやつじゃなかったっけ?


 そこまで考えたところで、みなとが戻ってきた。手には、水とオレンジジュースが入ったコップを一つずつ持っている。


「お待たせ。はい」

「ありがとう」


 俺は水の入ったコップを受け取ると、一気飲みした。みなとが俺のそばに座って、オレンジジュースをテーブルの上に置くと、俺の手の中を見た。


「……クマさんじゃない」

「懐かしいな、ゲーセンで取ったやつだよね」

「そうね。前、私を家まで送ってもらった時は洗濯してベランダに干していたのよ」

「そうだったんだ」


 なるほど、だから前回この部屋では見かけなかったわけだ。


「それじゃあ、始めましょうか」

「うん」


 俺は持ってきたリュックの中から、筆記用具と問題集、そしてノートを取り出す。

 今からやるのは、夏休みの課題だった。


 俺は、ただみなとの家へ涼みにいくわけではなかった。この際、夏休みの課題を一緒にやって、わからないところは教えてもらおう、と企んでいたのだ。


 学生の本業は勉学。夏休みだからといって遊んでばかりいられるわけではない。当然、俺たちには夏休みの課題がどっさり出ていた。


「みなとはどこまで課題やった?」

「そうね……あと化学のプリントが半分と英語のワークだけかしら」

「もうそこまで終わったの⁉」


 スゴいな……。まだ夏休みは半分くらいしか経過していないのに、もう八割くらい終わらせている。きっと、毎日コツコツと勉強していたんだろうな……。


「ほまれはどこまで終わったの?」

「俺は……まだ全然。国語の課題がやっと終わって、数学に手をつけ始めたところだよ」


 対して俺はまだ全然終わっていなかった。バイトに部活に旅行に大忙しで、宿題までまったく手が回らないのだ。しかも、俺は頭の出来がみなとほどよくはないので、問題を解くのに時間がかかっていた。

 なんとかして、今日みたいな何も予定が入っていない日で挽回したいところだ。さもなければ、夏休みの最終日に『課題が終わらないよー』と必死になって勉強する状態になってしまう! もう高校生なのだから、それだけは避けたいところだ。


 早速、俺たちは勉強を始める。一学期の後半から毎日勉強を習慣づけていたおかげで、数学は赤点スレスレ状態からなんとか平均点近くまで上げることができた。それでも、問題を解いていると自分の力不足をヒシヒシと感じる。


 わからないところを教えてもらったり、少し話したりしながら二時間勉強する。


「……ちょっと休憩にしましょう」

「そうだね」


 そう言って、みなとは空のコップを持って部屋を出ていった。

 俺はみなとのベッドの側面を背に、グデッと座る。

 勉強で気力がゴリゴリに削られた……。


 俺はそのままゴロンとひっくり返って、みなとのベッドに、膝立ちで顔を埋めるような格好になる。

 はたから見たら、ちょっと変態的な光景に見えるだろうが、今の俺にはそこまで考える気力がなかった。


 あー……みなとの匂いを顔いっぱいに感じる。なんだか安心する香りだ。このままお昼寝してしまいたい……。


「……何やってるのよ」

「ふぇ? はっ! えっ⁉」


 ぼーっとしていたせいで、みなとへの反応が遅れてしまった。慌てて上体を起こして振り返ると、みなとがちょっと呆れたような目でこちらを見ていた。


「い、いや……これはその、みなとのベッドがいい香りするなぁとかそういうんじゃなくて……いやいい匂いはするんだけど!」


 いったい俺は何を口走っているんだ! あー、俺のバカ! 言い訳してごまかすべきなのに正直に言ってどうするんだよ! 何のフォローにもなっていない!


 俺がワタワタしていると、みなとは無言でこちらに向かってくる。そして、俺の目の前で膝をつくと、ちょっとイタズラっぽい笑みを浮かべながら言った。


「ふーん……私のベッドがいい匂い、ね……」

「う、あ……」

「……私のベッドよりも、もっと『いい匂い』がするものがあるんだけど、知ってる?」

「え、ちょ、ま」


 そう言うと、みなとはさらに接近してきた。そして、俺に覆いかぶさるように迫ってくる。俺は後ろに逃げようとして、上半身をベッドの上に預ける。みなとはそれに合わせるようにして、俺の顔の両サイドに手をつき、見下ろしてきた。


 彼女の顔は妙に赤い。顔の温度が上がっているのがわかった。部屋のクーラーは十分効いているはずなのに。

 俺は何もできない。こんな状況になった時、俺はどうすればいいのか知らない。

 みなとはそのまま顔を近づけてくる。体と体が触れ合って、そして──


「ひやぁ」


 声がした。俺でもない。みなとでもない。第三者の声だった。そして、この声には、俺もみなとも聞き覚えがあった。

 みなとが声のした部屋の入り口の方へ振り返る。俺も体を起こしてできた隙間から、入り口の様子を窺う。


 そこには、自室で勉強しているはずの、なぎさちゃんが立っていた。こちらをビックリした表情で見つめている。


 数秒の静寂。その後、なぎさちゃんはハッとした表情をすると、叫びながら勢いよくドアを閉めた。


「し、失礼しましたっ! お二人でごゆっくり!」


 バタン! とデカい音が部屋に響く。その瞬間、俺たちは、なぎさちゃんに大きな誤解をされたことを悟った。


 俺たちは誤解を解くため、なぎさちゃんを慌てて追いかけ始めるのだった。

 次回、2022/12/15 19:00に投稿予定

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