ヴァルハラ
僕はキルシェを麓まで送っていくことにした。
イェーガ―侯爵はせめて共に帰ろう、とは言ってくれたが狩りに招かれたわけでもない僕が同行しているところを見られたら変な噂になる。
変な噂は大体、悪意のある噂に変質する。
「よかったんですか、ラッテ様」
帰り道、キルシェがそう聞いてきた。
この道は焚き木や木の実を取るために山に入るためよく開けているし、さっきの一件を受けてイェーガ―家の腕利きの付き人が真っ先に駆除を行なっていた。そのせいか、ズィーベンはおろか虫一匹見えない。まず襲われる心配はないだろう。
「私は平民です。貴族様とは住む世界が違いますけど…… 命を救ったのに、何の見返りもないなんて、そんなのおかしいです。目立つ称賛が嫌なら、金品を要求するとか」
「ありがとね、キルシェ。君がそう言ってくれて、とっても嬉しい」
僕はそう言ってキルシェに笑いかけた。
するとキルシェは顔を背けて、俯いてしまった。
きっと男子と人気のない場所で二人きりなのが、怖いんだろう。
「でもいいんだよ。お礼をもらわなくたって、生きていけるから。領地のない男爵家が貴族社会で生き延びるには、手柄を立てるより目をつけられないほうが重要だから。テストでいい点を取るためには難しい問題を無理に解くよりも、簡単な問題をミスなくこなすほうがいいんだ」
「私は学校なんて行ったことがないし、テストなんて受けたことがないからわかりません。 命がけだったのに、口頭でのお礼だけなんて…… 上等の材料で作ったとびきり美味しいパンを、普通のパンの値段で売ったのと同じことじゃないですか。命がけだったんですから、それに見合う報酬があるべきだと思います」
キルシェは納得がいっていない様子だけど、それでいいと思う。
誰もが納得できる答えなんて、ありっこない。
「ならせめて、こうします!」
キルシェはそう言うや、僕の腕を取ってしがみついてきた。
彼女の豊かな双丘の間に、僕の腕が挟みこまれる。今までの人生で一番の心地よさが腕に伝わり、ヴァルハラに昇ったかのような陶酔感と多幸感に包まれた。
「な、なにしてるの」
僕はそう聞き返すのがやっとだった。
「私が、代わりにお礼をします。それにズィーベンを退治できてなかったら、私の、方に、向かってきた可能性もあるわけですから、私なりのお礼ということで」
かなり無理してるのが伝わってくる。言葉がおかしい。
キルシェみたいに可愛い女の子に抱きつかれて嬉しくないわけはないけど、無理やりにさせるのは駄目だ。
僕は鋼鉄の精神力で、キルシェをゆっくりと振りほどいた。
名残惜しかったな…… もっと挟まれていたかったな……
後悔ばかり浮かんでくる。一度逃がしたヴァルハラはもう、帰って来ない。
「結構自信あるんですけど、嬉しくなかったですか……」
引き離されたキルシェが目に見えて落ち込んでしまった。
彼女にしてみれば女子のプライドを正面から否定されたようなものだし、対応としては不味かったのか? 女心って難しい。
翌日、アプフェルが狩りに行った山で何らかのトラブルに遭ったが、父親に助けられたという噂が学園で流れた。
だが同時にイェーガ―侯爵の武勇伝や雷魔法が尾ひれをつけて広まっていく。
一撃で猪十頭を仕留めた後、山を焼き払ったとか、
猪だけに飽き足らず雷で大木まで一刀両断にしたとか、
魔法の雷で自然界の雷を切ったとか。
真偽を織り交ぜて、明らかに嘘とわかる情報までが噂として流れていく。
皆の関心は初めこそアプフェルを心配する声が多かったが、アプフェルが大したことなかったという態度を取り続けたことや、父親の武勇伝が冗談交じりに語られたためか深刻に捉える感じはなくなっていった。
さすがはイェーガ―家。緻密な情報操作だ。
ちなみにアプフェルを止められなかった使用人はクビになったらしい。まあ、仕方ないだろう。
色々あったけど。明日から、体育魔法祭だ。




