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杉乃木神社の神様神主

作者: とうあい

 江戸らしき、町の外れの竹やぶに、そこそこ大きくなかなか古びた、神社がひっそり建っている。塗りのはげた鳥居には『杉乃木神社』とあるのに、境内のどこにも杉の木はない。本殿の左には狛犬がいるのに、右は対になるはずの獅子ではなく、狐の像が置いてある。ありがたい神様を祀るはずの本殿には、なぜだか囲炉裏や茶箪笥、文机ふづくえなんてものもあり、まるで人の家のよう。

 なんとはなしに珍妙な、この神社には、代替わりしたばかりの若き神主が一人と、下働きの男が二人。


「うぅん……先代のようにはうまく書けないなぁ。ねぇ、これ、お札らしく見える?」

 真剣な面持ちで文机に向っていた若き神主 小杉こすぎがすずりに筆を置き、書いたばかりの札を手にくるりとふり返った。日ごろは優しげな、今は自信のなさそうな顔が、ななめにかしいでいる。

「なに、見た目など気にすることはありません」

 何が心配だったのか。小杉がお札を書く間、文机に向う細い背をじぃっと見守っていた犬剛いぬごうが、その仏頂面を横にふる。

「そうですよ。ご神木からお生まれになった、小杉様の書いたありがたいお札です。この世のどんな札より効き目がありますよ」

 こちらはいそいそと、ひと仕事、終えた小杉に茶の一杯でもふるまおうと、湯のみを並べていた狐衛こえいが、綺麗に笑ってうなずいた。


 杉乃木神社には、昔、確かに杉の木があった。物の怪や悪霊を封じこめ、長い年月をかけて鎮め、天界へ送るという霊験あらたかな御神木だ。あるときこの杉に雷が落ち、中から小太刀ほどの長さの木刀が出てきた。雷火によって朽ちた木にはもう、悪しきものを封じる力がない。神主は代わりにこの木刀で、それらを退治するようになった。今ではこの神社を、お刀様などと呼ぶ者もある。

 だが、御神体として祀られている、そのありがたい木刀は、実は人が作った物であり、どんな力も秘めてはいない。神主は、落雷のおりに杉から生まれた幼い神と、その落雷に巻きこまれたおかげか、不可思議な力を賜った犬と狐の力を借りて、悪しきものを祓ってきたというのが本当のところ。その神が小杉であり、犬は犬剛、狐が狐衛というわけだ。

 本殿の脇に狛犬と狐が控えているのは、犬剛と狐衛を模したから。本殿が人の家のようなのは、小杉が暮らし良いように。この神社の神が本殿で、菓子を食おうと昼寝をしようと、誰もバチを当てたりはしない。


 つい先日のこと。今は先代となった神主が、小杉に向けてこう言った。

「小杉様、私には子がおりません。つまり、この神社の神主を継ぐ者がいないわけですな」

「はぁ……」

 神主の穏やかな顔を眺めつつ、小杉は間の抜けた返事をした。そういえば、とも思う。神主はずいぶん白髪が増えてきた。これはそろそろ代替わりするという印。しかし跡継ぎがいない。己が生まれてから、神主は幾度も変わってきたが、こんなことは初めてだ。どうするつもりなのかと小杉は首をひねる。

「そこでですな、小杉様に神主を継いでいただこうかと、私は思ったわけですな」

 神主は穏やかなままに、とんでもないことをしれっと、のたまってくれた。

 こうした経緯いきさつにより、神である小杉は神主までやる破目になった。犬剛と狐衛は、元よりこの神だけに仕えているので、人の神主などいなくなって清々したとばかり、せっせと小杉の世話を焼いている。


「人は見た目も気にするものだって、先代は言ってたよねぇ」

 小杉は先代の手による札と、己が書いた札を見比べ、うぅんとうなった。一方は力強く、それでいて流れるような筆運び。もう一方はひょろひょろと、なんとも頼りなげな墨が、みみずのようにのたくっている。人から見れば小杉の札は、到底ご利益など望めそうにない、となる。

「先代の札はなんとも弱々しい。それに比べ、小杉様のお札の神々しいこと!」

「ええ! これさえ貼っておけば、先代のようにお祓いなんてものをしなくても、物の怪も悪霊も、どこかに吹っ飛んでしまいますよ」

 犬剛はふんっ、と鼻息も荒く褒めたたえ、狐衛は上等な布でも扱うような手つきで、小杉の札をそっと撫でた。二人はけっしてお世辞を言っているのではない。お札から立ち昇る、霊験あらたかな力を褒めている。己の札のほうが効き目はあると、それは小杉もわかっている。けれど……


「見た目の悪いお札は売れないだろうし、貼っただけで祓えるんじゃ、神社の仕事が減るかもしれないよ? そうしたらお金も入らなくなるかも……」

 先代は商売も大切だと言っていた。金がなければ小杉の好きな団子も買えないし、犬剛の好物の鴨鍋も食べられない。狐衛がこだわる着物だって新調できない。こうしたことを、眉を下げた小杉が話すと、犬剛と狐衛はうなり始める。

 もっとも、神とその眷属である三人は、食べなくとも生きていけるし、犬剛と狐衛にいたっては、獣の姿になっていれば着物などいらないのだが。


「それに、物の怪も霊も、悪いものばかりじゃないしねぇ」

 小杉は思案するように、目の玉をくるりとまわした。

 世間が物の怪と呼ぶものと、犬剛や狐衛にそれほどの違いはない。二人は神の眷属であるから、人のお札やお祓いなんて半端なものは、まったく効かない。もちろん二人にとって小杉の力は、どれほど強かろうとも別物だ。他に違うところといえば、小杉が大好きなことくらいか。

 つまるところ、人に都合のよいことをすれば、神の御使いなどと言われて崇められ、害を為したりすれば、物の怪と怖れられて祓われる。それだけの違いなのだ。

 札の力が強すぎると、なんの悪さもしないものまで、追いだすことになるかもしれない。それは可哀そうだと小杉が首をふる。そんな神の様子に、小杉様は優しいと、犬剛は仏頂面のまま目だけ優しげに、狐衛は華のある笑みを浮かべ、眷属二人はうなずき合う。


「そうだ! 僕の代わりに狐衛が書いてよ。字はうまいじゃない」

「ですが、私には札を作る力なんて、ありませんよ」

 狐衛も犬剛も、人の姿をとったり、風雨を呼んだり、こうした不可思議な力は賜ったが、札を作ったり、悪しきものを祓ったり、そんな力は持ち合わせていない。狐衛がお札を書いたとしても、ただの紙と墨。ではどうやって、物の怪や悪霊と対峙するのか。もちろん腕っぷしである。

「最後にちょっとだけ、僕が手を加えればいいんだよ」

 困惑気味の眷属に小杉が笑いかければ、二人はなるほどと、小杉様は頭がいいと、感心してうなずく。

 この後、本殿は「同じくらいかなぁ?」「いや、少し先代より強いようです」「いえ、もうちょっと力を込めたほうが」と、案外楽しげな声で賑わっていた。



「小杉様、しばらくお刀に入っていてください」

「うん」

 小杉が本殿の奥に祀られた、木刀を手に取れば、その姿がすぅっと消えた。杉の木から生まれた神は、その杉に身を込めることができる。木刀が畳に落ちてしまう前、優しくパクリと咥えたのは狐、狐衛だ。犬剛も犬の姿になっている。

 犬と木刀を咥えた狐は、風より速く走りだす。神社を出た二頭は、あっという間に竹やぶを抜け、突風を巻き起こしながら町を駆けていった。


 着いた先は、とある寺の仲見世。白衣に袴、上には羽織を着込み、腰に木刀を差した小杉を先頭に、黒い作務衣の犬剛、縞柄の着物を粋に着こなした狐衛といった、なんともまとまりのない格好の三人が、仲よく歩いている。

「先代がいないと、動くのも速くていいですね」

 狐衛がぶしつけな物言いをすれば、犬剛も仏頂面のままにうなずく。

 杉乃木神社は江戸らしき町の外れにあり、ここは人であふれる繁華な地。先代と一緒では、たとえば犬剛が身を大きくし、背に乗せることもできなくはないが、目にも留まらぬ速さで駆けては、背の上の先代が堪らないだろうし、ではとゆっくり走っては、誰かに見つかり騒ぎになる。結局は歩いたり、駕籠を呼んだり、舟に乗ったり。とにかく時間がかかってしまう。三人ならばこの町の、端から端まで思いのままに駆け抜けられる。

 小杉もそのとおりだと、咲き始めた桜に顔をめぐらせ、ニコニコしながらうなずいた。神も案外、遠慮がない。


「まず、雷神様にお参りしようか」

 小杉は茶屋で休む人々の、手にした団子をチラリと見つつ、のどをゴクリと鳴らしつつ、それでも仲見世を素通りする。門の脇におわします、雄々しき雷神像へとまっすぐ向う。落雷のおりに生まれた小杉にとって、杉の木が母なら父は雷。まず、何をおいても雷神様に挨拶するのが、彼の習慣となっている。先代のしつけの賜物だろう。

 三人は雷神像の前に並ぶと、人目も気にせず拍手かしわでを打ち、頭を下げてはまた拍手。しっかりと神式の拝礼を済ませ、寺に足を踏み入れた。


 今日の目的は、寺にお札を届けること。寺社にはいわくつきの代物が、祓ってほしい、鎮めてほしいと持ちこまれ、ひっそり奉納されている。力ある僧がいるときは、各々なんとでもするだろうが、人の身でありながら霊力ある者など、そうそういるものでもない。杉乃木神社はこうした寺社にお札を売り、厄介なものがあればお祓いもする。彼らにとって、寺社は上客というわけだ。

 ちなみに小杉たちが仲見世に寄り、団子を片手に茶をすするのは、ちゃんと仕事を終えて、お金をもらってから。これも先代の教えである。


 三人は境内をぐるりと回り、人気ひとけのない、僧たちが寝起きしている僧房へ向った。寺も、杉乃木神社にお祓いしてもらっているとあっては、外聞が悪いのだろう。とはいえ、神主の装束をやめてほしいとまでは言わないし、寺社も互いにこうした事情はわかっているので、彼らが出入りするのを見ても、ことさら言い立てる者もいない。

 小杉たちは小坊主の案内で、奥の間に招かれた。



「杉乃木様、いつもありがとうございます。今日もよろしくお願いいたします」

 血色のよい、ついでに恰幅もよい僧が、つるりとした頭を深々と下げる。

 代替わりして間もないとはいえ、小杉は一年も前から、見習いとして先代とともに顔を出し、すでに寺の信用を得ている。このころから先代は、彼に跡を継がせるつもりだったのだろう。

 これより前はどうしていたかといえば、小杉は木刀に身をひそめ、こっそり力を使っていた。


 杉の木から生まれたとき、神は三つほどの童であった。それから百年をかけ、ゆっくり歳を重ねた今、小杉はようやく十七、八ばかりの若者となった。

 なかなか姿の変わらない彼を見れば、人はおかしいと騒ぐだろう。物の怪だと思う者もいるかもしれない。神と知れば、その力にすがろうと、利用してやろうと動く者もいるかもしれない。だからこれまでは、人目につくわけにいかなかったのだ。

 その小杉も、どうやら成長の時を終えたらしい。背丈の伸びが止まり、歳も若者から老人まで、自在に操れるようになった。これなら人の目も誤魔化せると、先代は考えもしたのだろう。


「こちらこそ、いつもお世話になっております」

 小杉は僧に向け、穏やかな笑みを作って頭を下げる。犬剛は眉間にしわを寄せ、なおさらの仏頂面。狐衛は片方の眉を上げ、目は半眼になっている。お世話しているのはこちらのほうだと、小杉様が頭を下げるから、これも商売だから仕方なくと、そんな本音が聞こえてきそうな顔で、少しばかり腰を折る。

 この一年でもう慣れたのか、それとも気のまわる先代が、この二人は変わり者だから、とでも口を添えていたのか。僧は無礼であろう二人を気にする風でもなく、ひととおりの挨拶を終えると、眉を下げた困り顔で、口をすぼめて「実は相談ごとが……」と切りだした。


「とある像、ですか」

「ええ。とある像が、です」

 僧は肉づきのよい頬を、ぶるぶる震わせながら首をふる。話を聞いてみれば、それほど変わったことでもなかった。


 とある家に伝わってきた、とある像の様子が、最近どうにもおかしい。さては何かが憑いたのか、古い像だというから付喪神つくもがみにでもなったのか。小杉は考えつつ、相槌を打ちつつ、話に耳を傾ける。

 妙に甘やかな、女の声が聞こえてくるようになった。雨の日にはガタガタと、身を震わせるように揺れ動いたりもする。家人は気味悪がり、それでも大切にしてきた像だからと、遠巻きにしつつ拝んでもいたのだが、いつの間にか、息子が心奪われてしまったらしい。うっとりとした顔で像を抱き、優しげな手つきで撫でている。何事かしゃべっているときもある。ついには先日の晩、その像と、なぜか母親のかんざしを持ちだし、季節外れの雷雨の中を一晩中、町をさまよい歩いていたそうだ。

 雨やかんざしというのは、憑物か付喪神にとって、何がしかの意味があるのだろう。こちらはまだわからないと、小杉は心に留めておく。


「ご主人がこのままでは身の破滅と、ついにその像を、寺に納めることにしたわけです」

 ふたたび僧が、ぶるぶると、ゆるゆると首をふった。小杉はといえば、首をひねった。

 息子が夜中に出歩くのは、確かに外聞が悪いだろうし、悪しきものに憑かれたなどという噂が立てば、嫁の来手がなくなるかもしれない。けれど、それが身の破滅とは大げさにすぎる。それに僧は先ほどから、とある像とだけ繰り返し、どんな像かを一切口にしないのだ。


「では、杉乃木様にも見ていただきましょうか」

 僧はまた、ぶるぶると、ゆるゆると首をふり、体も重たそうに立ち上がる。小杉たちもそれに続き、さらに奥にある、寺の者もほとんど寄りつかないお堂へと向った。



 ひっそりと建つお堂は、壁の四方に杉乃木神社の札が貼られ、周りをぐるりと注連縄しめなわで囲われていた。寺には相応しくないだろうが、神社が手を貸せば、何事も神式だから仕方がない。


 お堂の前に立った恰幅のよい僧は、血色のよい顔を曇らせ、頬の肉と一緒にぶるりと身を震わせる。

「このお堂に運ぶときも、杉乃木様のお力を感じたのでしょうか。像がガタガタと動きまして……いやぁ、あれは恐ろしかった」

 小杉は「それは大変でしたねぇ」と、眉を下げて相槌を打った。神である彼は、動く像などちっとも怖くないけれど、神主は人の話もうまく聞かなければいけないと、こうしたときは同情めいた顔を作ってうなずくものだと、先代が言っていたからだ。

 犬剛は仏頂面のまま、ふんっと鼻を鳴らし、狐衛は唇の片側だけを上げ、目は半眼。それでよく僧などやっていられるな、とでも言いたいのだろう。こちらは先代の言葉など、右から左に抜けたらしい。それでも余計な口を挟んだりはしないから、口のまわる狐衛は、ちゃんと考えているのだろう。犬剛は元々、小杉と狐衛以外の者には、あまり口を開かない。今も考えた上で大人しくしているのか、いささか疑問ではある。


「では、こちらです」

 僧がお札をはぎ、扉を開けると、そこには一体の像があった。それほど大きくはないが美しく、優しげでもあり、珍しい装いをした女人の像だ。

「これは……」

「ええ。マリア様とかいう、キリシタンが崇める像なのです」

 小杉のつぶやきに、僧も声をひそめ、困り顔でうなずく。

 キリスト教は幕府によって禁止されており、禁教令が出された当初、ずいぶん取り締まりが厳しかったとも聞く。それから多少の時は経たものの、発覚すれば、ただで済みはしないだろう。元の持ち主が、身の破滅と怖れたのもわかる。代々家の奥に、そっと隠し祀ったであろう像を息子が持ちだしたときは、堪らない思いもしただろう。

 このような物があると、この寺も危ういのでは……と僧の沈んだ声は続いたが、しかし小杉が驚いたのは、そこではなかった。

「小杉様、これは間違いなく……」

「なんてバチ当たりな……」

 犬剛の眉間に深いしわが寄る。狐衛の眉が跳ね上がる。二人の眷属が、低いうなりをもらした。


 この像は、杉乃木神社の御神木でできていた。この杉から生まれた小杉と、その眷属が見間違えるはずもない。

 像には女の霊が憑いていた。杉の木に雷が落ち、小杉が生まれて百一年。この像が作られたのはそれ以後になるから、百年近く経つのだろう。物が長い年月を経ると付喪神になるという。マリア様は崇められ、大切に扱われてきたはずだから、本来なら善きものになるはずであった。それが、この女が憑いたことで、ねじ曲げられてしまったようだ。

 今、像はガタガタと揺れている。憎々しげにこちらを睨む、女の影が重なっている。狐衛がバチ当たりと言ったのは、御神木で異教の聖母を作ったからではなく、御神木から生まれるはずの善きものを、悪しきものに変えた、こちらのことだ。


 ――どうして、どうして。お前は神様になったのに、あたしは物の怪なんだ。百年も待ったのに、付喪神なんて神様じゃないじゃないか。あたしたちは同じ木にいたのに……どうして、どうして、お前だけが神様なんだ!


 恨みのこもった叫びを一身に受け、思いもしなかった言葉をぶつけられ、小杉はただ、立ち尽くした。

「小杉様!」

 像がひときわ大きく揺れ、小杉に向って飛んでくる。狐衛が小杉をかばうように立ちはだかったのと、犬剛がその拳で像を打ち払ったのは、同時だった。

 ガタン、と大きな音をたて、床に叩きつけられた像に、ひびが走る。女の霊はその裂け目から天井へ、飛び上がるように抜けだすと、開いていたお堂の扉からサァッと、その姿を消した。



 寺を辞し、仲見世の茶屋に腰を下ろした小杉は、先ほどの、女の霊の言葉を考えていた。その膝には、ひび割れた像が、風呂敷に包まれて乗っている。

 僧にはもう霊は去ったと、この像はこちらで供養すると、言い含めてきた。これまでマリア様として崇められてきたとしても、霊が憑いた物だったとしても、小杉にとっては母なる杉の木。大切な物なのだ。


 膝に乗せた杉の木をそっと撫で、小杉は考えをめぐらせていた。

 あの女の霊は「あたしたちは同じ木にいた」と言っていた。小杉とあの女は、杉乃木神社の御神木であった、杉の木にいたということだろう。物の怪や悪霊を封じ、鎮め、天界へ送るという、霊験あらたかな御神木。そこにいたのなら、小杉も悪しきものであったのか。

 だとするなら「お前は神様になった」とは、落雷によって、小杉は悪しきものから神に生まれ変わった、ということになる。

 そう思えば小杉の指先が、すぅっと冷えた。彼は神として、生まれるより前の記憶を持っていない。その前にも己が存在していたなどと、考えたこともなかった。もしそれが本当なら、己はどのような悪行を働いてしまったのか。考えれば恐ろしく、小杉はふるりと頭をふる。


 一方で、女の霊はあの落雷により、杉の木から放りだされた。居心地が良かったのか、それとも天界に行きたかったのか、それはわからない。わからないが、女は同じ杉から作られた像を見つけ、入りこんだ。

 そして女は、小杉が神になったところを目の当たりにしたせいなのか、マリア様として拝まれ続けたからなのか、己も神になりたいと、望むようにもなった。付喪神という名から、神だと思っていたのだろう。だから「百年も待った」のだ。だが、なってみれば神ではなく、それは物の怪だった。


 ――どうして、あたしは物の怪なんだ。どうして、お前だけが神様なんだ!


 同じ杉の木にいたものが、一方は神になり、一方は物の怪となった。女は理不尽に思っただろう。小杉が神になったのだから、女も神になれるはずだと考えただろう。

 では何が足りないのか、それは雷だ。雨の日になると像が騒いだのは、雷を待っていたからだ。憑かれた息子が像を抱き、雷雨の中をさまよい歩いたのも、落雷を受けるためだ。雷は金物を好むとも聞く。かんざしは、雷を呼ぶために持ちだしたのだ。そう考えれば、つじつまは合う。

 小杉は苦しげに眉を寄せた。女は彼を知っていた。彼が神として生まれたとき、雷が落ちたことも知っていた。となれば、やはり小杉は杉の木に封じられた、悪しきものだったのだ。はたして、そんな己が神として、この世にあっていいものか。


「小杉様、大丈夫ですか?」

 犬剛の声に、ハッと小杉は顔を上げた。見れば眷属の二人が、心配そうな、気遣うような目を向けている。しかし小杉は、それが己に向けられて良い目ではないように感じて、己が神として存在してはならないように思えて、胸が苦しい。

「僕は……神として生まれる前、この杉の木にいたのかな?」

 膝に乗せた、杉の木へと添える手に、ぎゅっと力がこもる。反対に、小杉ののどから出た声は、ひどく弱々しい。

 彼とは違い、落雷によって力を賜った二人は、それ以前から生きていた。二人なら何か、知っているかもしれない。神として生まれる前の己の存在など、考えたことがなかったから、小杉はこれまで聞いたこともなかった。今は、聞くのが恐い。

「はい」

「小杉様は御神木にいらっしゃいましたよ」

 返ってきた答えは、小杉の望むものではなかった。しかし二人の声は力強く、そして誇らしげでもあった。見れば、犬剛は優しげに目を細め、狐衛は嬉しそうに笑っている。二人は口々に言葉を紡ぎだす。


 人に打ち据えられ、狼に襲われ、それぞれが弱った体を休めたのが、御神木であった。雨風がひどいとき、杉は、ふっさりと葉のついた枝を優しく落としてくれた。何ものかに襲われそうになったとき、杉は、その枝を勇ましく振るってくれた。御神木は、いつも二頭を守ってくれた。


「それは……僕じゃなくて、杉の木がしてくれたんじゃないの?」

「いや、あれは小杉様でした。御神木が動いたとき、小杉様の匂いがしました」

「ええ。ときどき話しかけてくれたのは、小杉様の声でしたよ」

 あのころは犬であり、狐であったため、何としゃべってくれたのか、わからなかったのが残念で堪らないと二人は首をふる。

「ですが、私に狐衛と名付けてくれたのは、小杉様ですよ。それはわかりました」

「俺の名も、小杉様からもらったんです」

「そういえば、小杉様が神としてお生まれになったとき、最初に呼んだのが私の名でしたね」

「違う。俺の名だ!」

「違うよ! 私の名だよ」

「いや、俺の名だ!」

 突如、言い合いを始めてしまった眷属に、小杉はきょとんとした。

 話はどんどん別の方向に進んでいく。着物を買うより鴨鍋を食うほうが多いと、犬剛が鼻息も荒く自慢をすれば、小杉様の入ったお刀を咥えるのは己の役目だと、狐衛が口のを上げ、胸を張る。小杉を背に乗せるのは犬剛だと、いや、小杉は狐衛の淹れた茶のほうが好きだと、話があちらこちらへ飛びまくる。


 ふふ、と小杉の顔に、かすかな笑みが点った。神として生まれる前、二人を守ったのが杉の木だったのか、そこにいた小杉だったのか、それはわからない。けれど今、二人は小杉を好いてくれている。神になったあとの小杉を、今の己を慕ってくれている。

 ならばそれより前、どれほどのことをしてしまったとしても、神となった今、つぐなえるのではないか。覚えていない過去に囚われるより、これからを懸命に生き、神として励むべきではないか。そう、思えてきたのだ。

 言い合う二人の手元を見れば、まだ団子に口をつけていない。二人も団子は好きなのに、小杉を心配し、小杉が食べるのを待ってもいたのだ。彼の顔に、朗らかな笑みが戻ってきた。


「ねぇ、二人とも。団子を食べようよ」

「あ、そうでした。食べましょう」

「ここの団子は、この仲見世で一番おいしいと、評判だそうですよ」

 小杉がにっこり笑えば、犬剛は仏頂面のまま目を楽しげに細め、狐衛は華やかに微笑む。三人は団子を頬張りつつ、桜を眺めつつ、そろって仲良く、ずずっと茶をすすっていた。



「この杉の木を使ったら、きっとうまくいくよねぇ」

「はい、さすが小杉様です」

「ええ。ですが、大切な御神木をあの女のために使うのは、もったいないですね」

 そこここに桜あふれる江戸らしき町を、袴の裾をはためかせ、歩く小杉は、懐にそっと手を当てた。そこには、マリア様の像に使われていた杉から、新たに作った、小さな童女の像を忍ばせてある。


 像に憑いていた女の霊は、百年も待ったほどだから、神になりたいという望みを捨ててはいないだろう。となれば、また同じ杉で作られた物に憑き、雷を待つのではないか。女が神になるかどうかは、雷神様のおぼし召し。小杉が口を出すことではない。だが、その方法が問題だった。憑いた物を人に持たせ、雷に打たせては、その人が命を落としてしまう。これは防がなければならない。そのためにも、まだ雷の少ない今のうち、女を捕まえたい。

 女はきっと、憑く物を求めて、さまよっているはずだ。木刀や、ひび割れた像は本殿に置いてあったが、小杉と眷属がいるから祓われるとでも思い、姿を現さないのだろう。この二つをどこか、離れたところに置いたとしても、女は小杉の罠だと警戒し、憑かないのではないか。


 そう考えた小杉は、先代に相談を持ちかけた。

「それなら腕のいい職人がおります。新しい像を作って、私の妹に持たせましょう。あれは小杉様のことも存じておりますし、肝も据わっておりますからな」

 先代は小杉の考えを善しとしたのか、穏やかな笑みをいっそう深くし、満足げにうなずいた。

 それから小杉は、女が入るための新たな像を作ってもらった。童女の姿にしたのは、女に幼いころの気持ちを、きっと幸せなこともあっただろう、人であったときの昔の心を、思いだしてほしいと考えたからだ。

 この童女像を先代の妹に持ってもらい、町を歩いてもらう。そうすれば、きっと女の霊は現れる。妹に白羽の矢を立てたのは、霊力ある先代が持っていても、やはり女は憑かないだろうからだ。

 小杉は今、その童女像を持ち、先代の妹の住まいに向かっていた。



「いらっしゃいませ! あら、小杉様。お久しぶりでございます」

「こんにちは、お千代さん。お店が繁盛してますね」

 先代の妹、お千代は飯屋を営む女将。歳のわりにスラリとして若々しく、いつも明るい笑みを絶やさない女だ。娘もこの店で働いている。彼女は小杉たちの素性を知らないが、伯父と母の態度が恭しいせいか、大きな神社の息子か何かだとでも思っているのだろう。歳若く見える小杉にも丁寧にお辞儀し、頭を上げると、その目はどこかうっとりと、狐衛の顔に向けられた。

 狐衛はなかなかの色男。けれど、残念ながら娘に興味はないようで、今もいそいそと、小杉のために椅子を引いている。犬剛は相変わらずの仏頂面。お千代らに挨拶のひとつもなく、さっさと席をとり、小杉が座るのを待っている。

 小杉もそんな眷属二人の、人としては少々無礼な様子を気にするでもなく、挨拶を済ませる。客が食べている、桜飯にみそ汁と香の物、他におかずが二品ついた、定食を見ては頬をゆるめ、狐衛の引いた椅子に、礼を述べつつ腰を下ろした。


「小杉様、兄から話は伺っております」

 小杉たちが桜飯に舌鼓を打ち、口も腹も満足し、のんびりと茶でも飲もうかというころ。お千代がそっと声をかけた。

「このたびはお手数ですが、よろしくお願いします」

「それなんですが、話を聞きましたところ、霊は女だそうですね」

 思案げに首をかしげたお千代に、小杉もなんだろうと小首をかしげる。続く、お千代の話はこうだった。

 女の霊は、マリア様の像から甘い声を出していた。この像の持ち主だった家の、息子を虜にもした。そんな女をおびき寄せるなら、像を持って歩くのは、男のほうがよいのではないか。

「なるほど」

 いまひとつ、色恋沙汰や男女の機微に、うとい小杉はお千代の話に感心し、うなずきもした。だが、そうなると誰に頼めばいいのか。


「そこで、あたしの亭主に持たせてはどうでしょう? あの人は岡っ引きですから、朝から晩まで外にいることも多いですし、いろいろなところも歩きます」

 少々歳をとって腹も出たが、昔はそれなりの顔だったから、女の霊も満足とはいかずとも、まあ仕方ないと思って憑いてくれるのではないか。お千代は笑みも朗らかに、のたまう。

定七さだしち親分ですか。少しおっちょこちょいですが、像を持って歩くくらいならできるでしょう」

 狐衛が口の端を上げ、遠慮ない物言いをするも、杉乃木神社の娘として育ったお千代は、そんな眷属に慣れているらしい。苦笑いをこぼしつつ、うなずいている。犬剛はいつもどおり、仏頂面を縦にふっている。みなが賛成ということだ。

「じゃあ、定七親分さんに、持ち歩いてもらいましょう」

 小杉が懐から品を出すと、お千代は両手をそろえて頭を下げ、御神木でできた童女像を、恭しく受け取った。



「昼はあんなに天気がよかったのに、今は雲が出て、月が隠れちゃったね。雨が降るかも……」

「小杉様、夜はまだ寒い。風邪をひいてしまいます」

 本殿の障子戸を開け、小杉がポツポツつぶやけば、犬剛が心配そうな目を向けた。

 定七親分に童女像を渡してから、七日が経っていた。常に見張っていては、女の霊に気づかれてしまうかもしれないと、朝と晩、犬剛と狐衛が定七親分の元に駆け、女が憑いていないかとうかがう日も七日。今は狐衛が様子を見に行っている。

 もしかすると女はもう、他の物に憑いてしまったのではないか。暗い空を見上げた小杉から、溜息がもれる。


「あっ」

 障子戸を閉めようとした、小杉の手がピタリと止まった。遠くから、狐の鳴き声が聞こえてくる。遠いようでいて、頭の中にも届くような、ただの人には聞こえぬ不可思議な音、狐衛だ。おそらく定七親分が持つ童女像に、女の霊がいたのだ。ふり返って見上げれば、犬剛もうなずく。

「小杉様、俺の背に乗ってください!」

 言うが早いか、犬剛が虎より大きな犬に変わった。すでに日は暮れ、月も見えない夜。人目を気にすることもない。小杉は大きな体にまたがり、その首に手を回してしがみつく。犬剛がひとつ、ぐおぅと大きなうなりを上げれば、その衝撃で本殿の扉がバタンと開く。

 小杉を乗せた犬剛は、鳴き続ける狐衛を目指し、夜の町を駆けだした。


 狐衛の声は動いていた。彼にしてはずっと遅く、人が駆けるような速さ。おそらく女の霊が、定七親分を走らせているのだろう。それを狐衛が追っている。犬剛にまたがる小杉の顔には、雨粒が当たり始めていた。遠くからゴロゴロと、季節外れの雷も聞こえてくる。

 女はどこへ行こうというのか。疾風のごとき速さで駆け抜ける、犬剛の背で、吹きつける雨風になんとか薄目を開けた小杉は、狐衛が動く先を、女が目指すところを見極める。

 女は落雷を望んでいる。昼は天気のよかった空が、今は雨が降り、雷も低い音から少しずつ高く、近づいてきている。定七親分はかんざしなど持っていないだろうが、代わりに十手がある。あとはなるべく空の近くへ、高いところへ。狐衛の行く先で目につくのは、小高い丘にある寺だ。

「犬剛、あのお寺!」

 小杉はそれだけを言い切ると、ふたたび目を閉じ、きつく犬剛にしがみついた。



「小杉様!」

 小さな寺の境内には、狐のままに牙をむいた狐衛と、定七親分がいた。稲光いなびかりの中、その手には血のついた短刀が見えた。犬剛の背から飛び降りた小杉は、慌てて狐衛に駆けよる。

「狐衛、怪我してない?!」

「私は大丈夫です。あれは定七親分が捕まえようとした、下手人の女が持ってた物ですよ。御神木の像に憑いてた女がいきなり親分に移って、短刀だけ奪って逃げたんです」

 狐衛の答えにホッとした小杉は、定七親分に目を向けた。捕り物でもあったのだろう。彼が下手人を捕まえようとしたとき、すでに童女像に憑いていた女は、おそらく何かに心乱したのだ。短刀の血なのか、それとも下手人の女なのか。その辺りはわからないが、女の霊は暴走し、定七親分に短刀を握らせた。


 それより今は定七親分だ。小杉が一歩前へ出ると、彼は手にした短刀を、己ののど元に突きつける。

「近づくな! 近づいたら、この男を殺すよ!」

 小杉はピタリと足を止めた。女は今、定七親分に憑いている。祓うだけならできるが、それでは捕らえて封じる前に、女は逃げてしまうだろう。童女像に憑いてくれれば、そのまま封じられるのだが。

 雨足が強くなる。雷が近づいてくる。まだ春先の、夜の雨。けれど焦る小杉には、寒さを覚えている間もない。頬から唇へ伝った雨に、口の中が乾いていると、初めて気づく。

 三人に囲まれ、じりじりと後ろに下がった定七親分は、短刀を小杉に向って投げつけると、寺のすぐ脇にある木を、登り始めた。向ってきた短刀は、犬剛が楽々と咥え、ぺっとばかり吐きだしている。


 するすると登りきった定七親分は、間近な屋根に乗り移った。瓦の上を歩き、屋根の一番高いところへ。手は懐から出した十手を握っている。もう一方の手には童女像。定七親分は、いや、女は、両手を天に向け、気味の悪い哄笑をたてた。

 雷が、甲高い音をたてて、やって来る。


「犬剛、狐衛。雷が落ちる前に、女は定七親分さんから出て、あの像に移るから。そうしたら、すぐに親分さんを助けて。僕は女を封じるから」

 小杉が生まれたときと同じように、女の霊は杉の木に入り、雷を受ける。これが最初で、もし雷が落ちたなら、定七親分は命を落としてしまうだろうから、そのわずかな間、これが最後の機会でもある。

 小杉はふぅ、と大きく息を吐きだした。手を合わせ、身のうちの力をそこに込め、じっと女の霊を見つめる。犬剛は人の姿になっている。狐衛は体から風を巻き起こしている。


「来い、来い! 雷よ、来い! これであたしは神様だ!」

 声に応えるように、夜の空が稲光であふれ、明るく染まる。

 そのとき、女の霊が動いた。すかさず風をまとった狐衛が飛び、定七親分の体をぶわりと吹き飛ばす。その、落ちていく体をがしりと受けたのは、犬剛。女が移った童女像は、狐衛が起こした風に飛ばされ、宙に舞う。それを小杉の力で捕らえた。あとはこのまま封じるだけ。と、そこへ……


「ああっ」

「小杉様!」

 ひときわまばゆい雷が童女像を打ち、小杉の体が飛ばされた。しかし、彼が地に打ちつけられる衝撃を、感じることはなかった。その体を抱きとめたのは、人になった狐衛だ。犬剛も定七親分の体など、とうに放りだし、小杉のそばに駆けつけている。

「小杉様、大丈夫ですか?!」

 声を荒げた眷属の二人に、しかし小杉は答えず、天を見ていた。


 静まり返った夜の空を、美しく優しげな、そして清らかな、あのマリア様の像によく似た女が、天に向って昇っている。あれは付喪神。本来、生まれるはずであった姿の、今は像が壊れたことで、生を終えようとしている付喪神だ。天界へと召されるところを、小杉が見たのは初めてであった。胸が温かく、そして静まっていくような、そんな光景であった。

 そして、もうひとつ。地に落ちてくるものがあった。苦しげに身悶える、あの女の霊だ。

「あ、封じなきゃ!」

 小杉は姿勢を正し、犬剛が素早く拾ってくれた、雷に打たれたにも関わらず、傷ひとつない童女像を左手に乗せ、祈りながら女を引き寄せる。

 それが童女像に納まると、上から右手でそっと押さえ、女の霊を封じこめた。


「雷神様は、あの付喪神を迎えに来たんだね」

 雲が晴れ、月が顔をのぞかせた空を、小杉は見上げてポツリとつぶやく。

 手の中の女は、杉の木から放りだされ、今もまた、付喪神から引きはがされた。それが雷神様の采配ならば仕方ない。けれど、小杉は少しだけ、女が可哀そうに思えた。少しでも心穏やかになれるよう、神社で心を尽くして祀ろうと思った。



「小杉様。このたびの件、なかなかうまく進めましたな」

 杉乃木神社を訪れた先代が、茶をすすりながら、にこりと笑った。神主としての先達せんだつに褒められれば、小杉も嬉しい。にっこり笑ったものの、待て、と眉を下げる。

「でも、定七親分さんに迷惑をかけてしまいました」

 捕り物の最中、下手人を放りだして短刀を握り、なにやら男の名を叫び、どこぞへ駆けてしまった定七親分は、あとで同心の旦那から、こってり絞られたそうなのだ。最初は誰かを殺しにでも行ったのかと、ずいぶん心配されたようでもあったが。


「なに、なんの怪我もなかったんです。それで充分でしょう」

「ええ。定七親分も、小杉様の役に立てたんですから、男冥利に尽きますよ」

 犬剛が、仏頂面を力強く縦にふれば、狐衛も、綺麗な笑みを浮かべて何度もうなずく。

 定七親分は、このたびのことを何も覚えていないし、そもそも小杉が神であるとも知らない。年甲斐もなく雨の中、木に登り、寺の屋根を歩き、風に飛ばされて宙を舞い、それでも無事でよかったと喜ぶはずもなく、小杉の役に立ったと自慢に思うわけもない。

 小杉は首をかしげたが、先代のカラカラと笑う声を聞けば、まあ良いかと、ひとまず棚に上げておいた。


「どんな捕り物だったんですか?」

 雷に向うだけなら、短刀など必要ない。女に憑かれた定七親分は、男の名を叫んだとも聞く。はたして女の霊は、何に心を乱したのか。小杉はそれが気になった。

「どうも商家の女将が、亭主の妾をぐさっと、やったようですな」

 先代は穏やかなままに首をふり、そういえばと、話を続ける。


「昔、こんな女がいましたな」

 とある商家の、こちらは妾のほうが、なんとしても女将になりたいと、その妻を刺し殺してしまった。その女はすぐに捕まり、死罪となった。

 ところが、商家の主人には他にも妾がいた。主人がそのうちの一人を女将に据えると、異変が起こり始めた。まあ、ここはよくある幽霊騒ぎだ。ただ、新しい女将は亡くなり、妾の何人かも命を落とした。いくつかの寺社を経て、杉乃木神社に話が回ってきたころには、主人も危うかったそうだ。

「そんな女の霊を、御神木に封じこめたという話が、残っておりますな」

 話を終えた先代が、ずずっと茶をすする。

 この話は、あの女のことなのか。先代にも確かなことは、わからないだろう。だが、女が心乱したのは、女将と妾の争いを、己のこととして見たからではないか。定七親分が叫んだという名は、その商家の主人のものではなかったか。そうも考えられると、小杉は眉を下げてうなずいた。


「そういえば、こんな子供もいましたな」

 先代はいつもより優しげな目をして、ふたたび話を始めた。

 これは先ほどの女より、もっと昔のこと。杉乃木神社に、高い霊力を持つ子供が生まれた。御神木と話し、物の怪とも遊ぶ、ちょっとばかり変わっていて、人も動物も好きな優しい子供だ。

 あるとき、子供の祖父でもあった当代の神主は、今までにない、強い、強い鬼神と対峙することになった。

「杉の木が、力がたりないから、ぼくの力もかしてほしいって、言ってるよ」

 御神木と話した子供は、神主にこう言った。祖父としては心配であったし、まだ三つの孫を巻きこみたくはなかったが、神主としては御神木に従わなければならない。鬼神は人やものを喰らい、日々、力を増してもいた。神主は、孫の小さな頭を優しく撫でて、うなずいた。

 そして、長い時間をかけ、ようやく鬼神を御神木に封じこめたとき、子供の姿はもう、この世になかった。


 話を聞いていた小杉の胸は、ドキドキと騒いでいた。

 子供が姿を消したのは三つのとき、小杉が生まれたときの姿も三つほどの童。みなが杉乃木神社の杉を「御神木」と言うのに、小杉だけは昔から「杉の木」と口にしてしまう。その子供も同じようだ。話せたというから、杉の木がそう名乗ったのか、それとも子供らしく友だちのように思い、そう呼んだのか。それはわからないが、もしかして、この話は……


「神主は、孫の力をただ貸すだけだと、そう思っていたのでしょうな。ところが孫は消えてしまった」

 茶で口を湿らせ、ひと息ついた先代の話は続く。

 神主とその家人は、涙を流しつつ、悲しみつつ、御神木に語りかけるようになった。それから数年が経った、ある日のこと。

「ぼく、ここにいるよ」

 消えたときと変わらぬ子供の声が、御神木から聞こえてきた。子供が言うには、杉の木は鬼神を鎮めるため、まだ懸命に闘っている。それが少しばかり収まり、子供はもう力を貸す必要がなくなった。けれど杉の木に、他のものを鎮めるほどの余裕はない。他のものを救えるだけの余力はない。

「だからぼく、杉の木が鬼神をしずめるまで、ここにいるよ」


「それ以来、その子供が御神木に代わって、役目をはたしてこられた。そして百と一年前。鬼神を鎮めた御神木の神霊は天界へ、小杉様はこの世へ、お戻りになられたわけですな」

 神主は小杉に優しげな目を向け、柔らかく微笑んだ。

「僕……そう、だったんですか……」

 長い話が終わると、小杉はほぅ、と息をついた。気づかないうちに、体に力が入っていたらしい。強張っていた体が、ほどけていく。

 己が悪しきものだったとしても、これから精進していけばよいと、そう思ってはいた。けれど、悪行を為してはいなかったと知れば、やはり、心に安堵の気持ちが湧き上がった。よかったと、あの女のような悪しきものではなかったと、ここまでを思い、小杉はふるりと頭をふる。

 比べるものではないのだ。己が特別なものでもないのだ。あの女は、ただ商家の主人が愛おしくて、堪らなかっただけかもしれない。少しでも違えば、悪行など為さなかったかもしれない。小杉だって、人として暮らしていたら、悪いことをしたかもしれない。これから先だって、どうなるかわからない。

 だから、しっかり励まなければ。小杉は腹に力を入れ、居住まいを正す。


「僕も、いつかは悪しきものを鎮め、天界に送ることも、できるようになるでしょうか?」

 今の小杉は、祓うことしか、封じることしか、できない。心穏やかであれと、祈ることしかできない。だが、杉の木にいたときは、杉の力もあったのだろうが、鎮めたものを天界へと送っていたはずだ。天界に行ったものは、きっと幸せになれるのだろう。ならば小杉もそうしたいと願う。

 先代を見つめる小杉の瞳に、袴を握る小杉の手に、力がこもる。


「小杉様ならいつか必ず、できるようになります!」

「ええ。そうですとも! 悪しきものにも心を配る、小杉様のなんて優しいこと!」

 ここで合の手を入れたのは、二人の眷属。犬剛は気合が入っているのか、いつもより恐ろしげな仏頂面を、いっそう力強く縦にふり、狐衛はどんな娘でも蕩かせそうなほどの、甘い笑みを浮かべて、幾度となくうなずいている。

 きょとん、とした顔の小杉を、先代が笑う。

「小杉様は、神としてはまだ、お若いのでしょうな。去年、若い者から老人まで、姿を変えられるようになりましたな。ならばこれからも、新たな力が身につくことはありましょう」

 神である小杉ですら、わからないのだから、先代にもわかりはしないだろう。だから励むのだ。そうしていれば、きっと何かを得られる。先代はそう伝えたいのだろう。

 このことを忘れてはならないと、胸に手を当てた小杉は、しっかりとうなずいた。


「小杉様、お千代の飯屋に行きませんか? あの桜飯はうまかった」

「ええ。行きましょう、小杉様。今は桜も盛りですよ」

 犬剛と狐衛は、もう先代の話は終わったとばかり、仏頂面と綺麗な笑みを小杉に向けてくる。

 あの雷雨の夜。不思議なことに、雨はまったく桜を散らさなかった。あれほど稲光がまたたいていたのに、雷が落ちたという話も耳に届かない。やはり、あれは雷神様のお力によるものなのだろうと、小杉は開いた障子戸からのぞく、青い空を見上げる。

 お千代の飯屋に行ったら、定七親分の様子を伺おう。小杉は神棚に目を移す。そこには木刀とともに、童女像が置いてある。女も一緒に連れていこう。みなで満開の桜を楽しもう。

「うん。行こうか」

 小杉は今日の空と同じくらい、晴れやかに笑った。



- 完 -



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[良い点] 文体がしっかりしていて好感が持てました。最近の軽い適当な文章は、読んでいて途中で投げ出したくなることも多いですが、品の良い文体で書かれているので、安心して読めました。語彙も豊富で、的確な言…
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