五章
「じゃあ次は、『お帰りなさいませ、ご主人様』」
「お、帰りなさい、ませ、ご……あたしには無理。こっぱずかしい」
「お帰りなさいましぇ、ご主人さばっ……うぅ、噛んじゃいました」
「おっかえりなさいませー! ご主人様ー! お風呂にする? ご飯にする? それともウ・チ・ら?」
「はい、もう一回」
夏の眩しさはとうに過ぎ去り、吹きつける風が徐々に肌寒く感じられる季節が訪れた。それでもまだ暖房をつけるには早く、うとうとと眠気がピークに達する六限目の教室で月野さん、若葉さん、安藤さん、滝口さんがメイドさんの有名フレーズを復唱している。他の女子もそれぞれグループをつくって同じようにメイドさんのセリフやポーズを練習している。とはいっても、彼女たちがどこぞのお屋敷にメイドとして雇われるわけでも、秋葉原のメイドカフェでバイトをするわけでもない。高校生にとってメイドさんとは秋の風物詩、俳句でいうところの季語といって差し支えないのだ。
そう、我が一年一組は文化祭の出し物としてメイド喫茶を開く予定なのである。
「堂島、手が止まっているぞ。早く僕の輪と繋いでくれ」
「ああ、ごめん笹部くん。ぼけっとしてた。眠くって」
「ニイさん、のりを自分の指に塗りたくってどうするんスか」
「うわ、ほんとだ! 手洗ってくる!」
一方の僕や笹部くん、寺井くんたち男子勢は折り紙を輪っかにして繋げたり、買ってきたカーテンに絵を描いたり、客引きの看板にペンキを塗ったりと主に裏方の作業を任されている。
当日は女子がメイド服を着ての接客、男子は家庭科室でオーダーの調理、また校内を歩き回っての集客を担当する。
キーンコーンカーンコーン
六限目の終了を告げるチャイムが鳴った。今日までで僕たちの作業は半分程終わった。このペースなら文化祭当日を余裕を持って迎えられそうだ。
「よし、みんな。今日はこれで終了だ。女子も装飾や道具を準備室に運び入れるのを手伝ってくれ」
笹部くんが手を叩いてみんなを促す。実際彼は体育祭委員のはずなんだけど、人を纏めるのが好きなのか、当初から率先してリーダーシップを取り始めた。まあ、そのおかげで準備は滞りなく進んでいるので誰も文句はいわない。文化祭委員の稲葉くんと杠さんも「ま、俺らはその分楽できるし」「私もメイド服のデザインに忙しいし」と喜んでいた。適材適所というやつか。
「アニキー、中庭の看板持つの手伝ってくんねー?」
「藤丸くん、三日前もそういって僕一人に押しつけたよね。まだ忘れてないよ」
「今度は持つって。ほんとほんと」
「ねえ、ニイさん。ちょっといい?」
「和泉さん。どうしたの?」
「このガムテープって準備室に置いてあったんだっけ? それとも美術室?」
「それは確か二組に借りたものだったかな」
「そっか。ありがとねー」
「ねえねえオジさぁん、ここにあったアタシの鏡知らなぁい?」
「加賀美さんの鏡は落ちそうになってたからそっちに移動させておいたよ」
「マジ? サンキューオジさぁん」
「おや? 堂島くん、また藤丸に雑用を押しつけられているようだね」
「そうなんだよ。もう藤丸くんはいいから僕と片桐くんだけで運んじゃおう」
「そうだね。藤丸はあっちいってなよ。しっしっ」
「おれも運ぶっていってんだろ! 除け者にしないでくれよぉ」
体育祭が終わってからというものの、僕に対する周りの評価は徐々にだが、確実に変わっていった。僕が必死になって走り、応援した姿がみんなのわだかまりや誤解を解く要因になったらしく、日に日にあいさつや会話を交わしてくれる生徒が増えたのだ。最近では特に仲良くなった藤丸くん、片桐くんとアニメ談義に花を咲かせることも多い。それでも加賀美さんのように僕を「オジさん」と呼ぶ生徒はまだまだいるけれど、もはやそれは軽蔑の意味ではなく愛称になりつつある。
それと、安藤さんとも和多河市シリーズをきっかけに親しくなり、僕のことを「おニイさん」と呼んでくれるようになった。小動物系の彼女がいうととてもそれっぽいので、僕は密かに気に入っている。
一方で、僕の周りに人が集まっていくのと比例するように二階堂からの攻撃は強まった。体育で野球やサッカーをすれば僕と対峙する時だけやたら荒っぽくなるし、以前にも増して大きな声でバカにしてくるし、確証はないけど未だによからぬ噂を立てているらしいしで非常に厄介な存在だ。取り巻きも調子に乗って僕を見下してくるので面倒なことこの上ない。
二階堂のことを考えてむかむかしているうちに準備室に辿りついたので看板を置き、気を紛らわすべく三人で和多河市シリーズのアニメ化について熱く語りながら教室へと戻った。
その道中、こそこそと図書室を覗き込んでいる若葉さんを発見した。
「どうしたの若葉さん、そんなところでうろうろして」
「ぅおう! って何だよニイさん、と片桐に藤森か。脅かすなよ」
「俺は藤丸だ!」
「ところで若葉さん。その手に持っているのは何だい? 大事に抱えているようだけど」
片桐くんが藤丸くんを華麗にスルーし、若葉さんの持っている大きめの茶封筒に目をつけた。書類でも入っているのか、封筒はこんもりと膨らんでいる。
「あー、えーとだな、これはその、何でもない。気にすんな。ほら、早く教室に帰ろうぜ」
若葉さんはそそくさと封筒を後ろ手に隠した。余程見られたくないものなのだろうか。僕は訝しみながらも若葉さんたちと教室に戻った。
それからしばらくしてホームルームも終わり、放課後は月野さん、若葉さんと共に青梅屋で新作の和菓子を食べに行こうという話になった。安藤さんも美化委員の仕事が終わり次第合流する予定だ。
「じゃーねーみんな。また明日ー!」
「また明日、滝口さん」
「さおりん、部活頑張ってね」
「滝口、廊下走ってっとまた笹部にどやされるぞ」
「おい滝口! 廊下は走るなと毎日いっているだろう! 毎日だぞ!」
「ほらいわんこっちゃない」
猛ダッシュで廊下を駆け抜ける滝口さんとそれを早歩きで追う笹部くんを見送り、僕たちも歩き出した。
「青梅屋の新作って何だろうね。私の千里眼によると、もう秋だし十中八九かぼちゃを使った和菓子で決まりだね。かぼちゃのきんつばとか、かぼちゃの大福とか。かぼちゃのおまんじゅうもいいよね。えへへ、おいしそう」
「月野さんの千里眼はよく当たるからなあ。でも僕はさつまいもじゃないかなって睨んでるよ。若葉さんはどう思う――って、若葉さん?」
並んで歩いていたはずの若葉さんがいないと思ったら、図書室の前で立ち止まっていた。先程のことといい、図書室に執着する何かがあるようだ。
「……わりーな、遅れた。さ、行こうぜ」
「リオ、それでいいの?」
月野さんは歩み出すことなく若葉さんを問いただした。どうやら彼女は事情を知っている様子だ。
「あんなに面白いもの描けるんだから、もっと自信持とうよ。リオだってみんなに楽しんでもらいたいってこの前いってたじゃん。私もリオが描いた作品、たくさんの人に読んでもらいたいよ」
「で、でもよ、やっぱはずいし、それに、そんなに才能あるわけでもねえしさ……」
「ああん、もう! リオの癖に男らしくないよ!」
「ちょい待てひま、あたしは一応女だぞ!」
「でもリオらしくない! うじうじしてたら締切過ぎちゃうよ」
「お、お前には関係ねーだろ」
「関係あるよ。リオが頑張って描いてたの知ってるもん。このままじゃリオ、絶対後悔するよ」
「…………」
「よし、こうなったら荒療治するしかないね」
「な、何する気だよ」
「堂島くん、手伝って! リオのマンガ読んであげて欲しいの」
「よかった。やっと僕も会話に入れるんだね……って、マンガ? 若葉さんが?」
唐突な会話参入からの突然の秘密暴露で思考が鈍くなったのもあるが、僕は若葉さんの普段のイメージとマンガを上手く結びつけられずにいた。何せ意外過ぎる。
「そう。中学の頃からリオはマンガ家になるのが夢で、密かにマンガ描いてたの。でね、書き溜めてた作品の一つを今度の文化祭で披露しようって話になったんだよ」
「文化祭? ああ、そういえばそんな企画があったね」
図書室の文化祭の出し物として、生徒たちが描いたマンガやイラスト、小説を展示する企画が話題になっていたのを思い出した。聞いた話によれば、図書室では毎年の恒例企画であるらしく人気も高いんだとか。これがきっかけで月刊誌の編集者にスカウトされた卒業生も過去に存在したらしい。
「この前描いてたマンガ、今日持ってきてるんでしょ?」
「うっ、そこまでお見通しかよ。……わかった、降参だ。……ほらよ」
若葉さんは顔を真っ赤にしながらバッグからあの時に僕が見た封筒を取り出し、僕に手渡した。中身の原稿用紙を取り出すと、先頭の一頁目には「水星のアクアリウム☆ウィッチ」とポップなタイトルが書かれており、その下には水色の魔法少女風の服を着たかわいらしい女の子がステッキを持って決めポーズを取っている。どうやらこれが表紙のようだ。
「や、やっぱダメだっ!」
読み始めようとした僕の手から若葉さんは素早くマンガを引ったくった。相変わらず初動が速くて目で追えない。
「リオ、ここが踏ん張りどころだよ。勇気を出して、一歩踏み出そうよ」
「でも、でもよ、ニイさんだってあたしみたいな……男勝りな奴がこんなかわいいマンガ描いてるの、引いただろ? 変だって思ったろ?」
若葉さんの震える目を見て僕は気づいた。若葉さんは怖がっている。自分を見る周りの目が変わってしまうことに。そのせいで、避けられたり嫌われてしまうことに不安を感じているんだ。
僕には彼女の気持ちがよくわかる。昨日まで温かく接してくれた人たちが、自分への興味をなくして離れていってしまった時の無力感や焦燥感がとても辛いものだと知っている。足踏みしてしまうのも無理はないだろう。
でも、だからこそ僕は彼女を応援したい。どんな時でも僕は味方だということを知っていてほしい。不安や恐怖に打ち勝って、前に進んでもらいたい。
「変だなんて思わないよ。僕は若葉さんが頑張って描いた作品を変だなんて絶対に思ったりしない」
「ほ、本当かよ。でもこれ少女マンガみたいなガチの恋愛物だし……」
「僕はマンガならどんなものでも普段から分け隔てなく読んでるよ。それにさ、変だっていうなら僕の方がよっぽど変だよ。だって、二十歳過ぎたニートが制服着て高校生として学校に通ってるくらいだからね」
僕がそういうと、若葉さんに笑みが戻った。
「……へっ、いわれてみりゃそうだな。まさかニイさんに自虐ネタで励まされるなんて思わなかったぜ」
「更にいうならこの年で未だに彼女だっていたことないし、そもそも女の子と手を繋いだ試しもないし、榎本さんたちにはよく『雰囲気からして童貞っぽい』なんていわれるし、いやまあその通りなんだけどさ、いざ面と向かっていわれるとやっぱりショックだし……あれ、何だか悲しくなってきたな……」
「わ、わかったわかった! ニイさんの励ましは痛い程伝わったからもうそれくらいにしとけって! ……ありがとな、ニイさん。あんたのおかげで今度こそ腹くくれたよ。あたしの渾身作見せてやるから、二人共図書室にこい」
若葉さんは勇み足で図書室に向かった。
彼女を励ますつもりがいつの間にか自分語りになってしまったけど、結果オーライだ。
「ありがとう、堂島くん。リオのこと応援してくれて」
若葉さんの後に続きながら、月野さんが若葉さんに聞こえないように小さな声で感謝を述べてきた。
「リオってばああ見えて小心者だから、リオの描いたマンガを誰かに見せようって話を私がするとすぐに尻込みして――」
「ひま、余計なこと話してんじゃねえ!」
若葉さんは相当地獄耳のようだ。僕たちは互いに顔を見合わせ、苦笑した。
それから僕たちは図書室の片隅の席に座り、改めて若葉さんからマンガを渡された。
僕が読んでいる間、先程の堂々とした態度はどこに落としてきたのか、若葉さんは落ちつかない様子で図書室をウロウロし始めた。と思えば今度は本棚の後ろから僕を凝視して反応を窺ったりと、やたらせわしない。
今僕が読んでいる「水星のアクアリウム☆ウィッチ」は、地味で引っ込み思案の主人公がある日ひょんなことから水族館のクラゲを助けたことで魔法少女の力を授けられるシーンからスタートする。魔法が使えるようになった主人公は、その力で水族館の生物たちを魔法に変えて難破船の救出や密漁者を退治し人々の役に立ちながら、海の平和を脅かす悪の海底組織「RYUGOON」との戦いを繰り広げていく。また、それと並行して幼馴染みとの甘く切ない恋愛要素や現代の環境問題に対する警鐘もあり、中々奥が深いストーリーになっている。
「ふう」
いらぬプレッシャーを受けながらも僕は全五十五頁のマンガを読み終えた。
「ど、どうだったよ?」
若葉さんが恐る恐る僕の顔を覗き込む。マンガの率直な感想を述べるならば、
「凄く面白かったよ」
「本当か!」
「うん、本当本当。絵はまだ荒いけど書き込み過ぎてないから見やすいし、ストーリーもメリハリがついててグイグイ引き込まれたよ。魔法のアイデアも個性的だし、月野さんのいう通りもっと自信持っていいと思うな」
偉そうに語ってしまったけど面白かったのは本当だし、一作品としてよくできていたのは確かだ。特にクライマックスでRYUGOONが巻き起こした渦潮により幼馴染みの乗った漁船が転覆し、それを主人公が助けに行くシーンは手に汗握る名シーンだ。そこから沈みゆく船の中での二人のやり取りは思わずじんとしてしまった。ただ――
「ただ、一つだけアドバイスさせて欲しい」
「ど、どこだ?」
やや怯えた表情で若葉さんが僕を見返す。彼女には申し訳ないけど、これだけは何としてでも直してもらいたい。
「マスコットキャラが絶望的に気持ち悪い」
主人公が助けたクラゲこそがそのマスコットキャラなわけだけど、これが非常に気色悪い。テニスボール程の目が触手の先端についていて、大きく分厚いくちびるが傘の部分に四つもある。必殺技の毒針攻撃も描写がリアル過ぎて敵組織より凶悪に見えてしまう、まさに「必殺」技だ。おまけに大体のコマで主人公の後ろからせわしなく触手を動かしているため、あらぬ誤解を招きかねない。その癖口調や性格は女児向けマスコットキャラのそれだからたちが悪い。夢に出そうだ。
「あれ? おっかしーな。キモカワ路線でウケると思ったんだけどな」
「いやいや、これはキモカワじゃなくてキモグロだから」
「そうか? 結構ラブリーに描けてないか? 見慣れれば愛着湧くって」
やけに執着している。このままでは読者にトラウマを与えかねない化け物が世に放たれてしまう。それを防ぐためにはまず味方を増やさなくては。
「ねえ、月野さんももう読んだことあるんだよね? この化け物かわいいと思う?」
「失礼な」
「うーん、そうだなあ。とりあえず、もう青梅屋行かない?」
僕と若葉さんは呆れた、といった顔で月野さんを見た。
「ひま。あたしたち真剣に議論してるんだからさ、お前もちっとは我慢してくれよ」
「月野さん、後でもみじまんじゅうご馳走するから今は君の意見を聞かせて欲しいんだ」
「え? あ、いや違うよ! そうじゃなくって、私たち、ゆめちゃん待たせちゃってるかもしれないってこと!」
「安藤さん? ああ! そういえば青梅屋で待ち合わせてたんだった!」
安藤さんは美化委員の仕事で遅くなるとはいっていたけど、ホームルームからもう三十分は経っている。もう仕事を終えて既に青梅屋に向かっているかもしれない。
「やべえ、すっかり忘れてた! 行くぞお前ら!」
僕たちは図書委員に叱られながらドタバタと青梅屋に急ぎ、半べそで席を確保してくれていた安藤さんと合流した。
その後、若葉さんは安藤さんにもマンガを読ませた。そして僕と月野さんがかぼちゃのきんつばに舌鼓を打っている間に読み終わった安藤さんは「とっても面白かったです! これの続きがあるなら読んでみたいです!」と、若葉さんを尊敬の眼差しで見つめて応援してくれた。加えて、僕がマスコットキャラの是非について尋ねると「えっと、その、若葉さんには非常にいいにくいんですけど……ごめんなさい」と切り捨ててくれたおかげで、若葉さんもようやくデザイン変更を受け入れてくれた。
しかし、若葉さんは僕たちの高評価に自信をつけてくれたようで、急いで書き直したいから、と何も注文せずにクロスバイクに跨って颯爽と帰っていった。文化祭が楽しみだ。
「リオは元気になったし、新作の予想は大当たりだったし、いつものきんつばよりおいしいしでもう最高!」
「うん。かぼちゃがしっとりなめらかな舌触りでおいしい。味も大当たりだね。ところで月野さんはあのクラゲについてどう思ってるの?」
僕はずっと気になっていたことを聞いてみた。
「あれ、実は私がデザインしたんだよね……。リオも気に入ってたし、人気出ると思ったんだけどなあ……」
元凶がここにいた。
――寒い。
最近、通学や体育の授業で外に出ているとそう感じるようになった。あと一ヶ月も経てばスカートの下からジャージを履く女子が増えることだろう。男子が絶望する季節はもうすぐそこまで迫っている。
「ニイさん、ハケはもっとゆっくり動かした方が塗りやすいっスよ」
「そう意識はしてるんだけど、難しくて……」
五限目の昼下がり。僕と寺井くんは雲がかかった薄暗い寒空の下、ジャージを着て一年一組の隣に位置する中庭にてメイドさんが描かれたベニヤ看板をレンガ模様の地面に倒し、ペンキで彩色を施している。看板は縦横二百センチとそれなりに大きく、それだけ色を塗るのも大変だ。当日にはこれが校門近くに立てかけられ、一般客を集客する役目を担う。
「二人共、手伝いにきたよん」
「おう、和泉」
「助かるよ和泉さん」
「あれ、まだ赤色ないの?」
「赤ペンキは明日まで七組が使う約束だったからね」
「もー、今まで赤なしで作業とか信じらんない。事務員は怠慢だね、怠慢」
一組の前の廊下に中庭へ続くドアがついており、そこからジャージを羽織った和泉さんも加わった。僕たち三人はしゃがみ込みながらメイドさんに命を吹き込んでいく。
「ところでさー、寺井くんとニイさんはこの絵どう思う?」
泉さんはメイドさんの髪をムラなく塗りながら聞いてきた。
「俺はいいと思うぞ。特に足がいい」
「僕もアニメっぽくてかわいいと思うよ。そういえば、これデザインしたのって和泉さんだよね?」
和泉さんは漫画研究会、略して漫研の一年生部員だ。彼女は今でいう萌え系のイラストが得意で、その実力を見込まれて看板担当に任命された。
「そうなんだけどさ、うーん……何となく地味じゃない?」
「まあ、そうだな。白のソックスはよく見る」
「うん、地味といえば地味かも」
全身を描かれた身長二メートルの黒いロングヘアメイドさんは、露出度の低いエプロンドレスを着た身体をやや左に傾け、手にお盆を乗せたお決まりのポーズを取っている。和泉さんの画力のおかげで絵自体のレベルは高いけど、構図は確かに地味というか、ありきたりな印象を受ける。
「今から小物増やして配色も変えようかな。んー、でも私の独断で決めちゃうのもなー。……あ、黒色足りなくなってきた。げ、寺井くんの肌色もなくなりそうだね」
二人が使っていた缶の中はあと僅かしかペンキが残っていなかった。まだメイドさんの顔や髪が塗られていないから、肌色と黒色は必要不可欠だ。
「準備室だったよな? 俺が取ってくる」
寺井くんが率先して立ち上がった。流石男気溢れる寺井くんだ。頼りがいがある。
「待って。缶の置場変わったから案内するよ。それじゃ、ニイさんあとよろしくねー」
「いってらっしゃい」
ドアを開けた寺井くんの後に続いて和泉さんも中に入り、廊下を渡って準備室へと向かっていった。件の準備室は別棟にあり、缶もそこそこの重量だから戻ってくるまで十分程度はかかるかもしれない。
――やっぱり僕が行けばよかったかも。
僕は一人中庭で、自分が担当したエプロンドレスを塗りながらそう思った。
寺井くんと和泉さんが担当した足や髪は枠線からはみ出ずムラもなく塗られているのに対し、僕が担った青を基調としたメイド服はひどい有り様だ。さも当然のように枠ごと塗り潰されているし、ところどころムラがあってエプロンドレスに汚いグラデーションが生まれてしまっている。このままでは和泉さんの絵が台無しになりかねない。
「うわ、オジさんの塗ったところきったないわね」
後ろから僕の心の声を代弁する者が現れた。渚花凜だ。集中していたせいでドアが開く音を聞き流してしまっていた。
「センスなさ過ぎ。他は上手くいってるのにエプロンが汚くて安っぽく見える。オジさんのせいで台無しね」
鏡に映った自分に罵倒されている気分だ。僕の心の声が彼女の口から次々と言霊になってハートに突き刺さっていく。
「む、難しいんだよこういう作業は! 渚さんもやってみればわかると思うよ、ほら!」
バカにされっぱなしなのも癪だったので、僕は折れかけたハートでハケという名の挑戦状を渚さんに突き出した。
「ふーん。アタシにケンカ売るんだ? いい度胸ね。ニートの癖に」
渚さんは僕からハケを引ったくり、安っぽいエプロンドレスのそばにしゃがんだ。僕は軽くあしらわれるかと思っていたので、すんなり乗ってきたことに驚いた。僕のプライドを完膚なきまでに叩き潰そうという魂胆なわけか。面白い。
しかし、その前に彼女に注意しなければならないことがある。
「ちょっと待って渚さん」
「は? 何?」
「ジャージ着てから始めたほうがいいんじゃないかな。ペンキが制服に飛ぶしさ。よかったら貸そうか?」
渚さんは教室での装飾担当だったので僕のようにジャージを着ていない。ペンキが制服について落ちなくなったりでもしたら大変だろうし、「先にいいなさいよ!」と逆切れされても困る。
「問題ないわよ。アタシ、オジさんみたいに下手じゃないから。オジさんのジャージだって着たくないし」
「ぐぅっ!」
強烈なカウンターパンチをもらったが、まだぐうの音は出た。勝負が始まってもいないのにノックダウンされるわけにはいかない。
「よく見てなさいよ」
意気揚々と鼻歌を歌いながらハケを滑らせていった渚さんの手際は残念ながら……僕より遥かに上手だった。ハケを丁寧にゆっくりと扱いエプロンドレスをムラなく綺麗に仕上げていく様は、大袈裟かもしれないが僕の目には職人芸のように映った。そうして五分もしないうちに僕が手がけたパーティグッズのような安物の生地が、見る見るうちにお屋敷で働くメイドさんのそれに見えてきた。もうぐうの音も出ない。
「どう? 一通り終わったけど、この出来に文句ある?」
「ないです。完敗です」
こればかりは悔しいが、認めざるを得ない。僕が下手である以上に渚さんが上手過ぎる。月とすっぽんという表現がここまで的を射る出来事もそうないだろう。
「それにしても渚さん上手いね。こういうの得意なの?」
「まあね。誰かさんと違って」
一言余計だ。気が済んだのなら早くどこかに行って欲しい。
「で、他の色はどこにあるの?」
「は?」
「は? じゃないわよ。これまだ終わってないじゃない。オジさんにこの看板任せてたら一組の評判下がるし、お客さんだって集まらないでしょ。仕方ないからアタシが塗ってあげる。ニートはニートらしくそこら辺でもぶらついてなさい。あ、白のペンキはあるのね」
僕の返事を待つことなく、渚さんは白色のペンキでカチューシャを塗り始めた。先程から言動が刺々しいことこの上ないが、もしや渚さんはこの作業をやりたくて中庭に出てきたのではないだろうか。再び気持ちよさげな鼻歌が始まったし、表情もどこか明るく見える。
――案外かわいいところもあるんだな。
二階堂と話している時の渚さんも嬉しそうというか幸せそうな表情になるけどそれとはまた違った、子供のように純粋な顔つきだ。口角を釣り上げて僕を蔑んだ目で見てくる人と同一人物とはにわかにも信じられない。いつの間にか心が澄んだ双子の片割れとすり替わったのかとさえ思えてくる。
――今の渚さんとなら楽しく会話できるかもしれないぞ。
彼女の意外な一面を見て勝手に親近感を覚えた僕が、何か共通の話題はないかと頭を捻っている時だった。その「共通の話題」が中庭に現れた。鬼のような剣幕を露わにして。
「おい花凜! お前こんなところで何してんだよ!」
二階堂はドアを開け中庭に足を踏み入れるなり、校舎を震わせる勢いで怒鳴り散らした。
「教室にいたはずのお前がどうしてこいつと二人でいるんだよ!」
「ま、待って鋭二! アタシはオジさんとは何も――」
「うるせえ!」
「きゃっ!」
二階堂は誤解を解こうといい寄ってきた渚さんを強引に突き飛ばした。
「二階堂! 何てことするんだ!」
僕は尻餅をついた渚さんを助け起こそうと手を伸ばす。
「触らないでよ!」
「ふごっ!」
僕の伸ばした手はバシッと払われ、おまけに立ち上がり様のアッパーカットをお見舞いされた。渚さんもかわいそうだが、痴話ゲンカに巻き込まれた僕も中々にかわいそうだ。
「お前までオレを……もうお前みたいな尻軽女とはつき合ってらんねえ。おいクソニート。お前にそこのクソアマくれてやるよ」
そういって看板に唾を吐きかけると、二階堂は再びドアを開け、やじ馬が群がり始めた校舎の中に去っていった。
「待ってよ鋭二!」
渚さんも後を追い廊下で二階堂を引き留めたものの、またしても乱暴に突き放され、廊下にあるロッカーに身体を叩きつけられた。
それでも渚さんは二階堂の後について行った。僕を睨みながら。
――完全にとばっちりだな。
疲れを感じながらポケットに入れておいたティッシュで二階堂が吐いた唾を拭いていると、寺井くんたちが缶を抱えて戻ってきた。
「ただいまー。漫研の先輩がさ、もう赤色使わないからって貸してくれちゃった。ラッキー」
「ところで何かあったんスか? 廊下がやたら騒がしかったっスけど」
「まあ、カップルの痴話ゲンカってところかな」
詳しく話すのも気が進まなかったので、僕は早足で教室に戻りティッシュをゴミ箱に捨てた。
キーンコーンカーンコーン
僕が中庭に戻ろうとしたところで五限目の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「よしみんな、六限目は全校集会だ。体育館に向かってくれ」
笹部くんが仕切り、みんなが作業を中断して各自教室を出て行った。
僕も着ていたジャージを自分のロッカーに入れ、寺井くんたちと看板を校舎に立てかけてから体育館に向かった。集会の間、二階堂と渚さんは体育館に姿を現すことはなかった。
全校集会では先日美術部の二年生がコンクールで入賞を果たしたことによる証書の授与や文化祭の連絡事項などで二十分程かかった。現在は各組ごと、順番に体育館から退出しており、僕たち一組はもう少し後になりそうだ。
そうして順番を待っていると、隣のクラスの会話が耳に入ってきた。
「明美、今日って傘持ってきた?」
「傘? これから雨降るんだっけ?」
「お昼から夕方にかけて一雨くるかも、って朝テレビでいってたよーな、いってなかったよーな」
「はっきりしなさいよ。でも、あたしの家は近いから関係ないかな」
――僕も歩いてすぐの距離だし、関係ないな。もし今降ってきても濡れて困るものなんて……あ、あった!
僕は退出順を無視して人波をかき分け、走って廊下に躍り出た。
――今降ってきたら看板が濡れて大変なことになる!
数分前にぼけっと窓の外を眺めていた時は恐らく降ってはいなかったけど、小雨でよく見えなかった可能性もある。とにかく僕は急いで廊下を走り中庭に向かった。
体育館が設置されている三棟から一直線に二棟へと走る。その途中で突然脇の階段から二階堂が下りてきたものだから危うくぶつかりそうになってしまった。
「あっぶねえな、このクソニート!」
突撃しかけたことに一応の非礼を詫びようとしたが、止めた。今はこんな奴に構っている場合ではない。
二階堂を無視して一棟まで走り、突き当たりの廊下を左に進む。この廊下は左手に一年四組から六組があり、右手には窓がついていてそこから中庭の様子を覗くことができる。
僕は廊下の真ん中で立ち止まり、窓から天候を確認した。曇り空であることは確かだ。しかし、地面が濡れていないことから察するに、雨が降り始めているわけではないようだ。
ほっとしながら左奥側に見える一年一組近くの看板を見やると、何故かそのすぐそばに立っていた渚さんと目が合った。途端に彼女は慌てて身を翻し、中庭の向こう側へと走り去っていった。
集会にも顔を出さずに彼女が何をしていたのか気になったが、そんな疑問を吹き飛ばす程の凄惨な光景が僕の目に映った。
僕たちの手がけた看板メイドさんが、血みどろの状態で校舎にもたれかかっていたのだ。
――な、何がどうなってるんだ!
僕は驚きつつも再び廊下を走った。四組を通過し突き当たりを右に折れ、三、二組も通過して一組の前にあるドアを開け、中庭に飛び出した。
「ひ、酷い……」
中庭で僕を迎え入れたのは、腹部から大量に出血し背中を校舎に預けた状態でありながら、健気にポーズを決めている哀れなメイドさんだった。生気を失っているためか、顔色が優れない。まるでベニヤ板のように茶色い肌をしている。というのも、実際に被害を受けたのは看板に描かれた絵のメイドさんで、腹部の出血は赤いペンキだ。決して殺人や傷害事件ではない。
しかし、それにしたってむごい有り様だ。メイドさんのへその高さにハケで赤いペンキを乱暴に何度も殴ったような跡が残っていて、そのたくさんの跡により一文字が描かれたようになっている。更にその跡からペンキが流血のように滴っている。また、余程強い力で打ちつけたのか周辺のレンガ模様の地面にも赤いペンキが血飛沫のごとく無数に飛び散っていた。看板から一メートルは離れている僕の足元にもたくさんの赤い粒が飛んでいる。
――これ、渚さんがやったのか?
現状最も疑わしいのは彼女だ。看板のそばに立っていたし、僕に姿を見られたことに気づくや否や逃げ去っていったのはどう考えても怪しい。それに、二階堂に冷たく突き放されたことによるショックでむしゃくしゃして、という動機もある。
僕が渚さんを疑っていると、乱暴にドアが開かれ、二階堂が怒鳴り込んできた。
「おいクソニート! てめえ、謝りもしないで逃げんじゃねえ!」
執念深い奴だとうんざりしていると、どうやら二階堂にもこの惨状が目に入ったようだ。
「何だこりゃ。ペンキぶちまけられてんじゃねえか」
呆気にとられる二階堂に、渚さんとケンカした後のことを聞こうと口を開こうとした時、同時に奴がこちらを向き、ギラリとした眼光で僕を見つめてきた。
「へえ、これお前がやったのかよ。随分派手にやったなおい」
「僕じゃないよ! 僕がきた時にはもうこうなってたんだ」
「じゃあお前、犯人見たのか?」
「それは……見てないけど」
犯人は十中八九、渚さんで間違いないだろう。しかし、彼女がペンキを塗った現場を見たわけではないし、犯人探しというのも気が乗らない。だから彼女の名前は伏せた。
「ならお前が犯人で決定だな」
「どうしてそうなるんだよ!」
「お前が一番怪しいからに決まってんだろ。現場にはお前しかいなかったわけだし、やけに急いで走ってたのも疑わしいことこの上ないぜ」
「走ってたのは雨が心配で――」
「堂島、二階堂! その看板はどうしたんだ!」
僕が二階堂の盛大な勘違いを訂正する直前、先程僕が渚さんを見つけた窓から笹部くんが身を乗り出して叫んだ。それを好機と見たのか二階堂は窓からこちらを見てくる生徒たちにとんでもないことをいい出した。
「おい聞いてくれよ! こいつがオレたちの看板を滅茶苦茶にしやがった!」
それから数分後、僕と二階堂、そして汚された看板を半円の形で囲むように一組や他の生徒たちが集まってきた。そして聴衆に対し、二階堂は僕が看板を台無しにした張本人だと声高に主張した。当然僕は二階堂のいい分を否定したし、月野さんたちも僕がそんなことをするわけがない、と味方してくれた。
しかし、二階堂は「オレが中庭に駆けつけた時、こいつは看板にハケを叩きつけていた」「こいつが逃げようとしたからオレが捕まえていた」と、さも自分で見て行動したかのように語り出したのだ。しかも二階堂は特に女子からの人望が厚いため、声の大きい女子を味方につけて場の雰囲気を掌握しつつあった。先程まで僕を庇ってくれていた生徒たちも「まさか……」「嘘でしょ……」と、今では僕に疑いの目を向け始めている。このままでは濡れ衣を着せられてしまうばかりか、今まで培ってきた信用も失われてしまう。
――本当のことを話した方がいいのかな。
しばらく思い悩んで、止めた。たとえ話したところでこの空気を変えられるとは思えない。それに、証拠もなく人を疑うのは、二階堂が僕にしていることと同じだ。
なら、どうにかして僕が無実である証拠が出せればいいんだけど、一体どうすれば……って、
「あ、安藤さん?」
僕がない知恵を必死に絞っていると、いつの間にやら安藤さんが看板の前に立っていた。
「ペンキの跡は低い位置……看板は急角度……」
何やらぶつぶつと呟いている。どうしたんだ、安藤さん。
「おニイさん、ちょっと失礼します」
安藤さんはくるりと僕に向き直ると、僕の頭の先からつま先まで視線を三往復させた。
「安藤さ――」
「ペンキの飛び散った痕跡からして、現場はこの場所で間違いなさそうですね……」
安藤さんは僕の言葉も聞かず、次は地面を見ながら独りごちている。もうわけがわからない。
「うーん……」
今度は目を閉じ、足を交差させ、右手で口元を隠した。またしても安藤さんは不可解な行動を――いや、この姿勢、僕は知っている。読んだことがある。これは和多河市シリーズの主人公の一人、貴奈子が出そろった証拠から推理を巡らせている時の姿勢だ。まさか、安藤さんは僕の疑いを晴らすために今まで推理していたとでもいうのか。
「だから、堂島くんはそんなことしないっていってるでしょ!」
「じゃああんたは鋭二くんを嘘吐き呼ばわりする気なのね! このアマっ!」
「おいてめえ、ひまに手を出すってんならあたしが容赦しねーぞ」
「あの冴えないおニイちゃんがこんなことするはずないじゃん!」
「だったらオジさんが無実だって証明してみなさいよ!」
寺井くんたちの静止も聞かず月野さんたちと取り巻きがヒートアップしている。しかし、多勢に無勢。月野さんたちが押され始めている。
「では、わたしが証明しましょう」
意外な一言に周囲が静まった。その言葉を発したのは、小柄でどこか頼りなげな安藤さんその人だ。だが、今の彼女からはそのような普段の印象がまったく感じられない。その理由が僕にはわかる。彼女は今や推理パートから解決編に移行した、名探偵になったのだ。
「わたしがおニイさんを無実だとする根拠は三つあります。ですが、その前に」
安藤さんが二階堂に顔を向けた。
「先程の二階堂さんの話は、間違いないですね?」
「ああそうだよ。オレが中庭にきた時、こいつは悪い顔して看板にハケでペンキをぶちまけてやがったんだ。で、こいつが逃げようとしたからオレが首根っこを捕まえてたってわけだ」
平然とした顔でよくもまあそんな嘘をいえるものだ。それにしても、臆病な安藤さんが高圧的な二階堂に物申せる程になるとは。ますます期待が持てる。
「わかりました。ではまず根拠の一つ目です。おニイさんには動機がありません」
安藤さんが人差し指を立てた。
「おニイさんは毎日文化祭の準備を率先して手伝っていました。今日看板の作業を行っていたのもおニイさんです。そんな人が自分からそれを台無しにするとは思えません」
「そうだそうだー! おニイちゃんはそんなことしなーい!」
滝口さんが加勢してくれた。このままこちらへ流れを引き寄せたい。
「何かと思えば感情論かよ。いいか、動機ならあるだろうが。見ろよ、こんなにペンキを塗りやがって。こいつはオレたち一組への嫌がらせのために看板を汚したんだよ。そうとしか考えられねえ」
二階堂がすかさず反論する。
「それならもう一度考えてみて下さい。本当に嫌がらせなら、もっと派手にペンキを塗ると思いませんか?」
この場にいる全員が看板を見た。ペンキの跡は看板の真ん中より少し上の、メイドさんのへそ周辺にあり、何度も力強く打ちつけた跡が一文字のようになっている。
「わたしたちを困らせたいのだとすれば、メイドさんの顔や身体全体などもっと広い範囲に塗った方が効果的だと思います。そっちの方が手直しも面倒ですし、ショックも大きいでしょう」
安藤さんのいう通りだ。嫌がらせにしてはその範囲が局所的で効果は薄く思える。
「いいたいことはわかるぜ。だけどよ、それだけでこいつが犯人じゃないっていうつもりか? 別に嫌がらせじゃなくたってついカッとなってやった可能性だってあるだろ」
嫌がらせの目的としか考えられない、と二階堂はいっていたはずなのだが早くも攻め方を変えてきた。
「はい。わたしもこのペンキの跡を見る限り嫌がらせではなく、その可能性の方が高いと思います。見て下さい、この荒々しいペンキの跡を。これは明確に意識して塗ったというよりは、怒りに身を任せて打ちつけたように見えます。跡が縦に狭い範囲にしかないのも、ただただ目の前の、ハケを叩きやすい場所ににひたすら感情をぶつけたからなのでしょう。これはあくまで推測ですけどね」
何ということだ。安藤さんが二階堂の意見に乗っかってしまった。
「つまりだ、結局お前もこのニートがやったっていいたいんだろ? 手間かけさせんじゃねえよ」
「いえ、わたしは犯人の動機を推測しただけでおニイさんが犯人だとはいってません」
一安心だ。僕は「やっぱりおニイさんが犯人です」といわれるのではないかとびくびくしていた。
「屁理屈だな。嫌がらせだろうが怒りだろうが、こいつが実際ペンキを塗ったんならこいつが犯人で間違いないだろうが」
「では、次は根拠その二です」
安藤さんは看板の前まで僕の手を引いた。
「おニイさん、このペンキの跡を塗る真似をしてみてくれませんか?」
「え? いいけど……」
僕は中腰になって手を振り、ペンキの跡をなぞった。
「このように、おニイさんの背丈だとこの跡はやや塗りにくくなってしまいます」
「安藤。お前は何がいいたいんだ?」
二階堂がイラつき気味に聞いた。僕も安藤さんが何をいっているのかさっぱり理解できない。
「少しおかしいと思いませんか? おニイさんが怒りで無我夢中にハケを叩きつけたのなら、わざわざ身をかがめたりするでしょうか」
「うーん、確かに自然じゃないよね。堂島くんの背の高さならメイドさんの胸辺りにペンキがついてるはずだよ」
月野さんのいう通り、立てかけてある約身長二百センチのメイドさんに僕が一番楽な姿勢で腕を振りペンキを塗る場合、胸辺りにハケが当たることになる。僕より背が高い二階堂なら首や顎だろうか。
「この看板は地面とはかなり垂直に立てかけてあるので、ペンキの高さとおニイさんの実演を考慮して身長を推測すると、犯人はわたしのように小柄な人間であると考えるのが自然でしょう」
確かに僕より背の低い安藤さんなら自然な形で件の部分にペンキを塗ることができるだろう。
「穴がありすぎるぜ、安藤。それだけじゃ、こいつがやってないって証明にはならねえんだよ。多少不自然でもかがめば犯行自体は行えたわけだし、その推理を見越してわざと低めに汚したとも考えられるだろ。そもそもペンキの高さから犯人の身長をはじき出すってのも無理があるな」
悔しいが二階堂のいうことはもっともだ。根拠が弱い。
僕は心配になって安藤さんを見た。だが彼女は今、余裕の笑みを浮かべていた。これは既に謎を看破した名探偵のそれだ。
「二階堂さんの意見はごもっともです。今までわたしが語ったことは推理ではなく推測ですからね。参考程度に頭に入れておいて下さい」
ここでとうとう二階堂が激昂した。
「安藤、てめえオレを舐めてんのか! 何が参考だ、さっさと決定的な証拠ってのを出してみろよ!」
中庭に響き渡る大音声で二階堂は安藤さんを挑発した。「決定的な証拠」というワードが登場人物から飛び出せば、それは事件がクライマックスに近づいていることを意味する。ここからが安藤さんの腕の見せどころだ。
挑発された安藤さんは至って冷静に、そしてとんでもないことを二階堂に宣言した。
「証拠は、ありません」
「は?」
「え?」
不覚にも二階堂と一緒に素っ頓狂な声を上げてしまった。周りからもどよめきが起きている。
「はははははは! こいつは傑作だ! ここまで引っ張っておいて証拠がない、か! お前も最後の最後で裏切られるなんて惨めだなぁおい!」
二階堂の高笑いがずしんと身体に重くのしかかった。僕は本当に安藤さんに裏切られてしまったのだろうか。
絶望の瞳を安藤さんに向けた。すると、気づいた彼女は僕に優しく微笑んだ。
「安心して下さい、おニイさん。わたしはおニイさんの味方ですから」
そういった安藤さんは二階堂に向き直った。その背中が僕にはいつもより大きく映った。
「二階堂さん、勘違いしないで下さいね。証拠がない、というのがおニイさんを無実に導く決定的な証拠なんです。さあみなさん、おニイさんをよく見て下さい。何か気づきませんか?」
無数の目が僕の身体の隅々を這っていく。かくいう僕も自分の身体に不自然なところがないか至るところを確認する。しかし、袖口のほつれが見つかっただけで他に変わった点はなさそうだ。
「おい安藤。お前いい加減に――」
「成程な!」
「そういうことか!」
二階堂の声を遮って、笹部くんと寺井くんが同時に声を出した。何か閃いた様子だ。
「よし、寺井。謎が解けたんなら一発かましてやれ!」
「お、俺がか?」
「寺井くん、謎が解けたの? すごーい! 聞かせて聞かせて!」
「う、……わかったよ」
若葉さんが促し、榎本さんが背中を押した形で寺井くんが謎解きの舞台にエントリーした。
「若葉、榎本、よく見てみろ。ニイさんの制服に何もついてないんだ」
「それが?」
「どうしたの?」
寺井くんの説明があまりにも短いせいで二人の頭にクエスチョンマークが浮かんでいる。僕も寺井くんのいわんとすることがわからない。
「僕が補足するとだな」
笹部くんも舞台に上がってきた。インテリ風の彼には説明キャラがよく似合う。
「君たち、看板の周りの地面を見てくれ。無数の赤いペンキの飛沫が辺りに飛び跳ねているだろう。これ程強くハケを打ちつけたのだとすれば、当然堂島の制服にも赤いペンキが付着しているはずだが、その痕跡はどこにもない」
もう一度全員の視線が僕に集中した。僕ももう一度制服を見たが、笹部くんが説明したようにペンキなど跳ねていない。
「笹部さんの説明の通りです。犯人は看板にペンキを塗る際、激しくハケを打ちつけました。それは看板の周囲の地面に飛び散ったペンキの飛沫を見れば明らかです。それならば当然、犯人の衣服には赤いペンキが付着しているはず。しかし、おニイさんの制服や上履きにはそのように目立つ赤い汚れはまったくありません。この事実こそが、おニイさんが犯人でないという何よりの証明なんです」
やっと僕にも理解できた。オーディエンスからも感嘆の声が上がっている。安藤さんが僕の身体をまじまじと見つめていたのはそういうことだったわけだ。
「く……そ……」
二階堂は怒りの表情で安藤さんを睨んだ。奴も自分が絶体絶命のピンチだということに気づいたようだ。
「……いや、待てよ安藤。お前はまだまだ詰めが甘いな」
二階堂は突如不敵な笑みをつくり始めた。まだ反論の余地があるとでもいうのだろうか。
「この地面のペンキは本当に今日ついたものだと証明できるか? もしかしたら昨日ついたペンキかもしれねえだろ。だったら、看板をハケで殴りつけた時にその勢いでペンキが地面に飛んだって因果関係は無効になるはずだ。つまりだ、実際はこういうことだったんだよ。こいつが六限目に看板をペンキで汚した時には周りにペンキが飛び跳ねなかった。まぎらわしいが、地面についたペンキは昨日以前についたもので、そこにたまたま看板が置かれていたってわけだ。そう考えればこいつは最重要容疑者のままってことだな」
二階堂のいったことは一理ある。安藤さんの推理は、「今日の六限目に看板を殴りつけた時、ペンキが辺りに散った。だから犯人にはその時のペンキがついている」というものなので、看板と地面のペンキが同じタイミングでついたと証明しないといけない。
「二階堂くんには残念な情報だろうけど、地面についたペンキは今日のものだよ」
そう二階堂に反論したのは安藤さんではなく、意外にも和泉さんだった。
「そのメイドちゃんを見てもらえればわかるんだけどさ、赤色使われてないでしょ。実はここ数日学校にあった赤色のペンキが足りなくなってさ、一組はまだ一度も使ってないんだ。確保できたのも全校集会前に偶然だしね。そのことについては寺井くんとニイさんがよく知ってるよね。あ、ついでにいっておくとここのスペースは一組専用だから他の組が汚したってこともないし、集会前にも地面は汚れてなかったよ。一度も手伝ってくれなかった二階堂くんには残念な情報だろうけど」
「チッ、余計なことを……」
人知れずご立腹だった和泉さんの援護射撃によって二階堂を今度こそ追いつめた。勝利は目前だ。
「二階堂さん、まだ何かありますか?」
「クソッ……」
二階堂は安藤さんから視線を逸らした。これで晴れて僕の無実が約束された……はずだった。
「……待て待て、そうだ、こいつはジャージを着てたんだ! それをどこかに脱ぎ捨てたから制服にはペンキがついてねえんだよ。考えてみりゃ簡単なことだったな」
路上にへばりついたガムのように二階堂はしぶとく粘る。だがその時、安藤さんの目が鋭く光って見えた。
「二階堂さん、墓穴を掘りましたね」
「な、何だと」
「あなたはさっきこういいましたね。『オレが中庭にきた時、こいつは悪い顔して看板にハケでペンキをぶちまけてやがった』って」
「そ、それがどうしたんだよ」
「あなたが目の前にいたのに、いつおニイさんはジャージを脱いだんでしょうか」
「いつってそりゃ……オレの目を盗んで……」
「あなたはこうもいいました。『こいつが逃げようとしたからオレが首根っこを捕まえてた』と。あなたの話が本当ならおニイさんは今、ジャージを着ているはずですよね」
「っ……!」
自ら矛盾点を提供してしまった二階堂は遂に押し黙った。嘘は吐き続ければいつかはぼろが出るものなのだ。
「二階堂さん。あなたの証言は矛盾点だらけでまるで信用できません。もちろん、おニイさんが犯人だという証言も、です」
「違う……お、オレは……こいつが……と、とにかく、こいつが犯人なんだよ! なあ、お前らも、お前らだってそう思うだろ!」
「いい加減にしなさぁい!」
ピシャリと安藤さんが二階堂を叱りつけた。ビクッと二階堂の身体が震える。
「正直に罪を認めなさい! わたしの推理はあんず飴のように甘くはありませんよ!」
「く、く……くそがああああああ!」
長かった舌戦も遂に終演を迎え、僕の逆転無罪で幕を閉じた。
「こんな茶番につき合ってられっか! 勝手にしやがれ!」
負け惜しみを吐きながら二階堂はドアを乱暴に開け、校舎の中に逃げ去っていった。取り巻きもがやがやと捨てゼリフを残して付随していった。
「凄い、凄いよゆめちゃん、名探偵!」
「やるじゃねえか、安藤」
「ゆめゆめ超格好よかったよー!」
「あ、ありがとうございます。えへへ」
安藤さんの元へ月野さんたちが駆け寄り称賛を送った。僕もその輪の中に入る。
「本当にありがとう、安藤さん。安藤さんのおかげで濡れ衣を着せられずに済んだよ」
「いえ、お友達を助けるのは当然のことです。それに、体育祭のお礼をしたいとずっと思ってましたから」
「そんなこと気にしなくてよかったのに。でも、本当に助かったよ。そういえば最後のセリフ、和多河市シリーズで杏子が犯人を追いつめる時の決めゼリフだよね」
「そうですそうです! 一度いってみたかったんですよねー。気持ちよかったですー」
安藤さんは相当ご満悦の様子。大好きなキャラクターを模して事件を解決したのだから喜びもひとしおだろう。
「それで、どうします? これから犯人を捜しますか? わたしの推測では、六限目までに何らかの理由で情緒不安定に陥った小柄な人物が怪しいと思います。そして、身体には赤いペンキが付着しているはずです。水で洗ってもそう簡単には落ちないでしょうし、見つけるのは難しくないですよ」
安藤さん、やる気満々だ。そんな彼女には申し訳ないけど、
「犯人を捜すのは止めよう」
「え、どうしてですか」
「看板を滅茶苦茶にされたことは凄く悔しいしそのせいで大変な目に遭ったけど、みんなで一人を追いつめるのは気が引けるというか。それより、今はもっと大事なことがあるよ」
「大事なことですか」
「うん。もう一度看板を描き直そう。また一から始めるのは時間がかかるけど、みんなで協力すれば何とかなるよ」
僕は周りを見渡しながらいった。
「そうだね、堂島くんのいう通りだよ。私たちが今やらなくちゃいけないのは文化祭までにこの看板を完成させること。だよね、ゆめちゃん」
「……そうですね、わたしちょっと調子に乗り過ぎちゃいました。わたしも看板作業、お手伝いします!」
月野さんの助力もあって、安藤さんも納得してくれたようだ。
「アニキ、俺らのことも忘れないでくれよな」
「僕たちも手を貸すよ」
「アタシも手伝ったげるー」
「疑ったりしてごめんね。私も手伝うよ」
「俺四組だけど協力するよ。こっちはあらかた終わってるしな」
藤丸くん、片桐くん、加賀美さんが手を上げてくれ、それと呼応するように他の生徒たちも続々と協力を申し出てくれた。こうしてみんなで手を取り合い気持ちを一つにすれば、きっと当日までには間に合うはずだ。
「ちょっとみんな、いいかな」
和泉さんが注目を集めるように手を振った。
「みんながやる気出してくれてるところ悪いんだけど、時間がないのは承知の上でメイドちゃんのデザインを思い切って変更しちゃいたんだ。それで、誰か一緒にそのデザインを考えてくれないかな?」
そういえば、和泉さんは今のデザインに不満を抱いていた。彼女にとって今回の事件はある意味で好機といえるかもしれない。
「ねえリオ、手伝ってあげたら?」
「あ、あたしが?」
月野さんが若葉さんに協力を持ちかけた。
「そうだよ。マンガ描いてるくらい絵が上手なんだからきっと力になれるよ」
「お前、大きな声で――」
「ちょ、それほんと! 若葉さん、是非我が漫研に入部……じゃなくて、デザイン手伝って! お願い!」
若葉さんを押し倒す勢いで和泉さんが猛ダッシュで駆け寄った。
「うっ、でもな……」
「いい機会じゃん。リオだって本当は看板デザインやってみたかったんでしょ?」
若葉さんは図星を指されたような顔つきになった。恥ずかしがってはいても、やはり彼女は絵を描くことが好きなのだ。
「ったく、お前って奴は。……わかった、あたしも手伝うとするかね」
「ありがと若葉さん! じゃあ早速部室でデザイン練ろっか。みんな、若葉さんと今日中には完成させるから、期待しててね! じゃ!」
いい終えないうちに和泉さんは若葉さんの腕を引っ張って校舎へと消えていった。恐らくこの後若葉さんはデザイン案を練りつつ漫研への入部をせがまれるのだろう。
「では、僕たちは教室に戻って作業の続きだ。放課後に時間がある者は残ってくれると助かる」
笹部くんがその場をまとめ、僕たちも教室へと戻った。これで一応の、一件落着だ。
六限目が終わり、四時半を過ぎる頃には装飾の作業が七割方終わったことで五時頃にはほとんどの生徒は帰宅していった。今教室に残っているのは僕と月野さん、そして安藤さんだけだ。そして他にも渚さんのバッグが残っている。彼女はあの騒動以降、姿を現さなかった。教室に誰もいなくなるのをどこか別の場所で待っているのかもしれない。
「ねえねえ、せっかくだし漫研の部室行ってみない? 意外とリオってば、うきうき顔でデザイン考えてるかも」
「そうだね、暇になったし行ってみようか」
「賛成です。わたし一度漫研覗いてみたかったんですよ」
満場一致だったので僕たちが教室のドアを開けようとした時だった。何か、物凄いスピードでこちらに向かってくる音がする。そう思った瞬間、目の前のドアが女の子に変わった。ドアの擬人化だ。いや違う、和泉さんだ。
「できた、できたよ! 会心作っ! 見て!」
和泉さんが手に持っていたスケッチブックをガバッと広げた。
「うわ、綺麗!」
「うん、見違えたよ」
「素敵です!」
そこに描かれていたのは、既に色鉛筆で着色が加えられた看板デザインのラフスケッチだった。メイドさんの髪型はオレンジ色のショートカットに変わり、メイド服もスカートが膝上まで短くなり、胸より上は肌が露出していて前回よりアクティブだ。そのメイドさんがお盆を両手で抱えこちらへ走って来ながら、注文をする客に応えるように斜め前方に笑顔を向けている、メイド喫茶の日常のワンシーンを切り取ったような構図だ。更に奥の窓から入ってくる陽光が温かく、そして柔らかい印象を与えることで、絵全体が明るく楽しげに映る。これが飾られればお客さんの目を引くことは間違いないだろう。しかし、
「でもこれ、上手く描けるかなあ」
僕は純粋な気持ちを口にした。素晴らしいイラストな分、今までよりも難易度が上がっている。技術面と、時間が足りるかの不安もある。
「それはまあ、気合いで何とかするしかねえな」
遅れて若葉さんがやってきた。心なしか顔がやつれて見える。きっと色々あったのだろう。しかし、どこかいきいきとしているようにも見えた。
「とにかくだ、前より書き込みも増えたから明日からお前らにもガンガン手伝ってもらうぜ」
「まっかせといて! 頑張ろうね堂島くん、ゆめちゃん」
「うん!」
「はい、頑張りましょう!」
翌日、朝のホームルームで若葉さんと和泉さんのイラストが正式採用され、放課後には二人の主導で何とか看板への下書きを終えることができた。その後の着色も多少は捗った。しかし文化祭まであと二日。イラスト通りの雰囲気を出すためには丁寧に作業を行わなければならないから、時間はいくらあっても足りない。
「堂島くん。暗くなってきたし、私たちももう帰ろっか」
「そうだね。これから雨降るみたいだし、急ごう」
最後まで残っていた僕と月野さんは後片づけを済ませ、校門へと向かった。
「明日はさおりんたちも部活が休みになるからきっと捗ると思うよ」
「滝口さん、僕以上に不器用というか危なっかしいからペンキ作業は任せられないけどね」
「堂島くん謙遜し過ぎ。どっこいどっこいだよ」
「えぇ、そうかなあ……。ペンキの缶を三度も蹴っ飛ばした滝口さんには敵わないと思うけどな。一度も零れなかったのは奇跡だけど」
「それなら、メイドさんの顔を青色に塗っちゃった堂島くんも負けてないよ。ふふ、あれじゃメイド喫茶じゃなくて幽霊喫茶だよね」
「確かに、どっこいかも。いや、実害が出た分僕の方がひどいか……ん? あれは」
僕たちが向かう薄暗い校門付近に、人影がぬっと現れた。
「あれ、渚さんだ。どうしたんだろ、っていうか明らかに私たちを待ってるよね」
校門にもたれかかっていた渚さんがこちらに顔を向けた。
「月野さん、オジさん借りるわね」
「堂島くんに何の用?」
月野さんは警戒の色を示している。僕も同じだ。もしかして二階堂のことで文句があるのだろうか。
「そんなに身構えなくもいいわよ。ただ聞きたいことがあって待ってただけ」
対する渚さんからは荒々しい雰囲気はない。逆恨みで殴られたり蹴っ飛ばされたり、ということはなさそうだ。
「堂島くん、ちょっときて」
月野さんに腕を引っ張られ、渚さんから離される。
「どうするの?」
月野さんが渚さんに聞こえないよう、ひそひそと喋る。
「うーん……とりあえず危ない雰囲気はないし、話くらいならしてみようかと思う。それに、僕も渚さんに聞きたいことがあるんだ」
「じゃあ、一応隠れて見張ってよっか? 二階堂くんたちが後からくるかもだし」
「ありがとう。でも、大丈夫だよ。今日はこれから雨だし、月野さんはもう帰った方がいい」
「んー、わかったよ。なら、一つ忠告させて。危ないと思ったら大声で助けを呼ぶこと。あと、女の子と二人きりだからって変な気を起こしちゃダメだよ?」
「それだけはないから安心して。……今、忠告二つなかった?」
「まだ終わらないの? 早くして」
渚さんが苛立ってきた。これ以上待たせたら殴る、蹴るが現実になってしまう。
「ごめんね、もう終わったから。それじゃあね、堂島くん、渚さん」
月野さんは手を振りながら黒ずんだ雲の下を走っていった。
「それで、僕に何の用?」
「……降ってきた」
「え?」
「雨」
「あ、本当だ」
遠くから月野さんの「うわー降ってきたー!」という声が聞こえる。
「渚さん、傘持ってる?」
「ないわ」
「じゃあ事務室行って傘借りに行こう」
「もう誰もいないわよ」
そうこういっているうちに雨は本降りへと変わっていった。突っ立ってばかりでは風邪を引いてしまう。
「それなら仕方ない、僕の家に行こう。走ればすぐだからついてきて」
走り出す僕の後ろから雨音と共にパタパタと渚さんの足音が耳に入る。ちゃんとついてきてくれているようだ。
五分もしないうちに自宅の前に到着し、渚さんを中に招き入れた。遠くから雷の鳴り響く音がする。これから土砂降りになるかもしれない。
「すぐタオル持ってくるからここで待ってて」
僕は渚さんを玄関に残し、急いで靴を脱いだ。
「待って」
廊下に上がったところで渚さんに呼び止められた。
「何でアタシのこと、誰にもいってないの? アタシがしたこと知ってる癖に」
「……やっぱり渚さんだったんだね。服についたペンキは取れた?」
「まあね。あの後急いで落としたから。流石に水だけじゃ全部は落ちなかったし、制服びしょびしょだったから教室には戻れなかったけど」
そういう渚さんの制服には赤い汚れはなかった。家に帰って必死に落としたのだろう。
「……教室には戻らなかったけど、あんたに何があったかは知ってる。二階で隠れて聞いてたから」
渚さんが僕をキッと睨んだ。
「何であの時アタシの名前出さなかったわけ? 借りでもつくった気でいるつもり?」
成程。確かに渚さんの立場からすれば大きな弱みを握られていながら何もアクションを起こされないのは気味が悪くて仕方ないだろう。今日はタイミングがなくて話しかけなかったが、逆効果だったようだ。
「どうせいかがわしいこと考えてたんでしょうけど、制服についた証拠はもう綺麗さっぱり洗い流したんだから脅そうったって無駄よ。それに、あんたが今アタシに襲いかかってきても勝つ自信だってあるんだから」
渚さんはカバンから大きなクワガタムシのような黒い物体を取り出した。よく見るとそれは護身用と思しきスタンガンだった。
「待って、そんなことしようなんて考えてないよ。だからそれしまって。怖いから」
僕の願いを聞き入れずに渚さんは質問をぶつけてくる。
「だったら何なのよ。正直に白状しなさい。でもまた『みんなで一人を追いつめるのは気が引ける』なんて偽善者みたいなセリフは吐かないでよね」
「悪いけど吐かせてもらうよ。渚さんをみんなで責め立てるのは嫌だったんだ」
渚さんは少し驚いた表情をした。
「渚さんも知っての通り、僕はニートだ。一年前までは根暗で地味で、人と接することが苦手なオタクだった」
「今も大して変わらないじゃない」
「ぐっ……と、とにかく、僕がそうなったのには理由があるんだ。決して他人のせいにするわけじゃないけど、周りから見放されたというか、興味を持たれなくなったことが辛くて辛くて、どうしようもなく怖くなったんだ。そうして怖がって自分の世界に引き籠っているうちに、友達もいなくなって家族からも白い目で見られて、独りぼっちになってた」
あの頃を思い出すと今でも冷や汗が出るけど、もう声が震えることはなくなった。
「そんな経験をしてきたからわかるんだ。孤独がどれだけ悲しくて寂しいことなのか。僕は、渚さんのしたことは許してない。けど、それでも渚さんに孤独を味わわせたくなかった。それだけのことだよ」
「……ふーん、そ」
それから数十秒程僕たちは無言のまま向かい合っていたが、渚さんの身体が濡れていることを思い出した。
「ああそうだ、タオル持ってくるね。すっかり忘れてた」
「必要ないわ。それよりシャワー貸しなさいよ。濡れっぱなしで気持ち悪いの」
「は? シャワー?……シャワーって!」
「キモい想像しないでくれる? オジさんに抱かれるなんてごめんよ」
渚さんは既に靴を脱ぎ終わっていた。
「でも、渚さんだって仮にもつき合ってる人がいるんだからそういう行動は――」
「関係ないわよ、……見てたでしょ。アタシはもう、鋭二にフラれたんだから」
話は終わりだとばかりに渚さんは洗面所のドアを勢いよく閉めた。
――まさか、本当に別れてたなんて。
荒々しくはあったけど、ただの痴話ゲンカだとばかり思っていた。僕はただ巻き込まれただけとはいえ、責任は感じてしまう。多少は。
――とりあえず紅茶でも淹れるかな。
僕は私服に着替えた後香澄さんからもらったアールグレイを二人分淹れ、テーブルに置いた。シャワーくらいならそこまで時間はかからないだろうし、渚さんが出てくるまでに丁度いい温度になっているだろう。
手持ち無沙汰になった僕は座布団に座ってテレビのリモコンを操作し、特に見たくもない芸能ニュースを眺めた。二十分程そうしているうちに、ニュースが特集とやらに切り替わった。
「さて、特集です。冷凍食品業界でヒット作を連発しトップを走り続けている『二階堂食品』。今日はその魅力と企業努力を社長の二階堂鋭太氏に直接お伺いしました。では、ご覧下さい」
二階堂食品とは、確か二階堂の父親が経営している大手食品会社だ。よもやこのタイミングでその名を聞くことになろうとは。
冒頭ではリポーターが二階堂食品の看板商品に舌鼓を打つ映像から始まり、次に食品工場の取材が続いた。その後、自宅にて社長である二階堂鋭太氏へのインタビューが流された。
社長は先代から引き継いだ赤字まみれの会社を数々のアイデアで立て直してきた過去などを自慢げに語り、そのうち家族の話題に移った。
「社長には大変優秀なお子さんたちがいらっしゃるそうですね。しかも社長に似てイケメンだとか」
――げ、これ絶対二階堂の奴が出てくるぞ。あの目立ちたがり屋が出てこないはずがないよな。
今まではちょっとした興味本位で見ていたけど潮時だ。僕はリモコンに手を伸ばした。
「ははは、イケメンかどうかはわかりませんがね。お前たち、入ってきなさい」
僕がリモコンを操作するよりも早く息子たちが登場してしまった。
――あれ?
意外なことに二階堂の姿はなく、登場したのは奴と同じく甘いマスクをした二人の男だった。スーツ姿の成人男性は鋭人、幼さが残る顔立ちの少年は鋭輔と紹介された。
「鋭人は私と同じく緑晃大学の卒業生でしてね、今では我が社になくてはならない重要な人材です。鋭輔も来年度には緑晃大附属の高校に推薦入学を果たしました。二人共、私の自慢の息子ですよ。はっはっは」
その後もあの賞を獲っただのこんな実績があるだのと息子たちの自慢話が続いたものの、五分経った今でも二階堂は姿を現さないばかりか父親の口から名前すら出てきていない。単に奴だけ都合が悪く出演できなかったわけではないように感じる。
「何か違和感あるなあ」
「鋭二は出ないわよ」
「うひゃあ!」
突然後ろから声をかけられたものだから、とんでもなく情けない声を出してしまった。テレビに集中していたのと自宅にいる安心感で渚さんの存在がすっぽり頭から抜け落ちていた。
「渚さん、びっくりさせないでよ」
「あんたが勝手にびっくりしたんでしょ」
僕は落ちつきを取り戻しつつ、背後に立ったままの渚さんに先程の続きを促した。
「ところで、二階堂が出ないってどういうこと? こういうの好きそうなのに」
渚さんは少し悩んだ表情をした後、口を開いた。
「……誰にもいわないって約束できる?」
「え? う、うん」
「鋭二はね、さっきあんたがいってたような扱いなのよ」
「どういうこと?」
「家族に見放されたのよ、鋭二は。今テレビでいってたでしょ、緑晃、緑晃って。あそこが超有名な進学校なのは知ってるわよね?」
「話だけなら聞いたことはあるかな。緑晃大附属高校は一流大学への登竜門って呼ばれてるよね。緑晃大学も有名な大学だし」
「鋭二はそこに合格できなかったの。それで滑り止めの桜星に入学したのよ」
「桜星が滑り止めって……うちだって結構学力あるのに」
「でも鋭二の家族は許さなかったわ。落ちこぼれ、不出来、恥さらし。そうけなして、毎日のように鋭二を追いつめていった。あの家に鋭二の居場所はどこにもないの」
常に自信に満ち溢れている二階堂にそんな暗い過去があったなんて思いもしなかった。体育祭の時、結果にこだわっていたのはそういった理由だったのかもしれない。僕にはとても他人事とは思えなくなってきていた。
「それにしても渚さん、詳しいんだね。いくら渚さんが彼女でもプライドの高いあいつが自分の弱みをさらけ出すなんて信じられないよ」
二階堂は普段から人に弱みを見せず、鼻につく程に堂々としている。渚さんが近しい存在だったとはいえ、あの二階堂がそんなことを話すとは思えない。
「アタシたちは中学の頃からつき合ってたけど、あんたのいう通り鋭二は一度も弱みなんて見せなかったし弱音だって吐いたことなかったのよ。けど、受験に失敗した時に初めてアタシの前で涙を見せたの。それだけ……それだけ鋭二は辛かったんだと思う」
「辛かった、か」
「そう。きっと自分一人じゃどうしようもないくらい追いつめられてたのよ。だからアタシを心のよりどころに選んでくれたの。アタシを信頼してくれてたの。アタシにだけは、弱さをを見せてくれたのよ。……もうそんな姿は見られないでしょうけどね」
「僕のこと、恨んでる?」
僕が直接の原因ではないとはいえ、二人が破局した理由の遠因であることは確かだ。憎く思われても仕方ないことかもしれない。
渚さんは僕を見下ろしながらいった。
「そうね、恨んでるし、悔しいわ。あんたさえいなければアタシは今も鋭二のそばにいてあげられたのに。支えてあげられるのに……」
「…………」
「けど、もういいわ。あんたに恨みをぶつけたところで復縁できるわけじゃないしね。……テレビ消したら?」
既に二階堂食品の特集は終わり、丁度キャスターたちが締めのあいさつをしている場面だった。僕はテレビに向き直り、リモコンで画面を消した。
「ねえ、オジさん」
首に何か細いものが巻きついてきた。ほのかに温かいそれは、渚さんの両腕だった。続いて彼女の胸が背中に当たり、耳に温かい吐息がかかる。僕は渚さんに、後ろから抱きしめられた格好になっていた。暗くなったテレビの画面に僕と彼女が重なって映る。
「な、な、な、渚さんっ!」
「あんたってこっちの経験ないの丸わかりよね。かわいそうだからアタシが手ほどきしてあげよっか?」
「いや、ちょ、ちょっと待って!」
「実は期待してたんでしょ、こういう展開。アタシ傷心中だから、案外簡単に落ちるかもよ?」
「ま、待って! 待って待って!」
「ねえ、今まで自分をバカにしてきた女とするのって興奮する? 滅茶苦茶にしてみたい?」
「お、おち、落ちついて!」
「それともアタシには女としての魅力は感じない?」
「渚さん、自分に嘘吐いちゃダメだよ!」
渚さんは一瞬言葉に詰まった。
「嘘って何よ。アタシがいつ嘘吐いたっていうのよ」
「二階堂とのことだよ。さっきから仲直りを諦めたようなことばかりいってるけど、本当は今すぐにでもあいつに会いに行きたいんじゃないの?」
「…………」
「こんな、一時の迷いで他の男としようなんて、絶対ダメだよ。渚さんがもっと傷つくだけだ」
「……そんなの、いわれなくてもわかってるわよ。ただ、アンタをからかってみただけ」
渚さんから力が抜けた。首元にあった手が肩に置かれ、背中に額が当たっているのがわかる。
「鋭二以外の男となんて、するわけないでしょ。アタシが好きなのは鋭二だけなんだから。鋭二だけしか、考えられないんだから。うぅ、鋭二……鋭二ぃぃ……!」
渚さんは紅茶が冷めるまで叫び続けた。こんな時、どんな言葉をかけてあげればいいのか、僕にはわからなかった。
「で、で、本当に何もなかったの! ケガはしてないみたいだけど」
「うん。話した内容はいえないけど、月野さんが心配するようなことはなかったよ」
月野さんがぐいぐい迫って僕に異変がないか確認してくる。
あの後、渚さんは冷めた紅茶を「オジさんにしては上出来」と評価し、僕の傘を借りて帰っていった。「けじめはつける」といい残して。
「そっか、安心したよ。昨日は心配で心配で、全然ご飯が喉を通らなかったよ」
「何杯おかわりしたの?」
「三杯」
食べ過ぎだ。
「よーし、ホームルーム始めるぞー」
蒲生先生が教室に入ってきた。僕たちは会話を中断し、話を聞く姿勢をとる。
「みんなわかってると思うが、文化祭は明日だ。今日は午前授業で部活も休みになるから全員で作業を手伝ってくれ。特にクラスの看板がまだできてないみたいだからな、時間がないぞ」
先生のいう通り、時間がない。残りの装飾作業とその飾りつけはそこまで手間はかからないものの、やはり難関は看板だ。急ピッチで進めれば完成こそできるけど、そうした場合、出来の面で不安が残る。若葉さんと和泉さんの技量だけでは足りないかもしれない。
「あの先生、いいですか」
「どうした渚。トイレか?」
「……違います」
渚さんがおもむろに席を離れ、教壇にいる先生の隣に立った。彼女がこれから何をいうつもりなのか、僕にはわかった気がした。
「みんな聞いて。一昨日、看板をペンキで汚したのはアタシなの。あの時はイライラしてて、自分でもわけがわからなくなって、それであの看板に八つ当たりした。……みんなに迷惑かけて、本当にごめんなさい」
渚さんは深く頭を下げた。彼女がいっていたけじめとは、このことだったのだ。
「嘘でしょ」
「花凜ちゃん何で」
「信じらんねえ」
教室が騒がしくなってきた。
「渚さん、最低だね」
「全部お前のせいかよ」
「渚、土下座しろよ」
ムードが険悪になってきた。渚さんはくちびるを噛んで堪えている。かわいそうだけど、これは彼女の自業自得だ。全ての責任は彼女にある。だから彼女は独りで耐えなければならない。でも――
「どうした堂島」
場の空気に我慢できず、気づけば僕は音を立てて席を立っていた。当然教室中の視線が集まる。
「あの、えっと……」
気持ちが先行したせいで言葉が出てこない。張りつめた空気が一身に纏わりつき、身体が固くなっていくのを感じた。
――どうしよう。何かいわないと、何かを。
その時、僕は目の前の少女から温かな眼差しを受けた。
「そうだ! みんな、渚さんのことは堂島くんに決めてもらおうよ。何せ堂島くんが一番の被害者だからね。それでいいよね、堂島くん」
月野さんが絶好のタイミングで助け舟を出してくれた。親指を立て、ウインクも決めてくれた。
「うん、ありがとう月野さん」
この子は本当に頼りになる子だ。固くなっていた身体もいつの間にやら完全にほぐれたいた。
「……僕は渚さんに、看板の作業を手伝ってもらいたいんだ」
どよめきが起こった。みんな困惑しているようだ。
「そりゃ渚に責任は取らせたいけどさ」
「またイタズラされるかもしれないし」
「文化祭欠席って罰でいいんじゃね?」
僕は諦めずに話を続ける。
「ちょっと待って。みんなは知らないかもしれないけど、渚さんは美術センスがあるというか、色を塗るのが凄く上手いんだ。僕の目の前でメイドさんのエプロンドレスを塗った時は本当に上手で――」
「うっそ、それほんと!」
僕の言葉を遮って和泉さんが食いついてきた。
「通りでおかしいと思ったんだよね。すっごく綺麗に塗られてたんだもん。まさか私たちが帰ってくるまでにニイさんがあそこまで上達するはずないしなあ、ってずっと思ってたの。あの日に起きたもう一つの事件だったね、あれは。けどそっかそっか、渚さんがねえ」
和泉さんはうんうんとひとしきり頷くと、渚さんに顔を向け、両手を合わせた。
「お願い渚さん! 今までのことはチャラにするから、色塗り手伝ってよ。私たちのイメージを形にするには上手い人が一人でも多く必要なの!」
懇願された渚さんは驚きのあまり、目を白黒させている。責められる覚悟でこの場に臨んだのに、まさか自分が必要とされるなんて夢にも思わなかっただろう。
「あたしからも頼むよ。手伝ってくれ。いや、何が何でも手伝ってもらうぜ」
若葉さんも和泉さんと同じ気持ちのようだ。この二人の、絵にかける情熱は並々ならぬものがある。
「その……アタシでよければ」
交渉成立だ。他の生徒も若葉さんと和泉さんが許したのなら、といった雰囲気になりつつある。
「お前ら、いい青春してるじゃないか。俺は感動したぞ。よーし、一限目は体育だ! 早く着替えて校庭に集合だ!」
先生はキラキラした目で教室を飛び出していった。確かにこういう展開は好きそうな人だ。
上手く纏まったようなので僕はほっとしながら席についた。
「堂島くんグッジョブ。堂島くんなら悪いようにはしないと思ってたよ」
月野さんが再び親指を立てて労をねぎらってくれた。
「月野さんこそ、グッジョブだよ。あそこで声かけてくれなかったら棒立ちで終わってたかも」
「ふふ。あの時の堂島くん、『どうしよう、何かいわないと』って顔してたんだもん」
――だから、何でそこまで見抜けるんだ。
「見てよおニイちゃん、ウチらの看板超目立ってるよー!」
「うん、他と比べてもやっぱり映えるね。僕たちの努力の成果だよ」
「まあ、さおりんと堂島くんは今日何もしてないんだけどね」
「てか、台無しにされると困るからあたしらが何もさせなかったんだけどな」
「…………」
「…………」
僕たち一年一組は、校門付近に立てかけられた一組の看板を見ながら惚れ惚れしていた。携帯のカメラで記念写真を撮っている人もいる。
だが、ここに二階堂はいない。普段なら取り巻きを連れてどこかでサボっているところだけど、今日は様子が違った。寄ってくる取り巻きたちを冷たく突き放していたのだ。まるで何かを怖がっているかのように。
「お、まだ四時だったんだね。こんなに早く完成させることができたのは若葉さんと渚さん、そしてこの和泉さんのおかげってね」
若葉さんと和泉さん、そして渚さんが中心となって急ピッチで着色作業を開始したのが三時間前。よもやこんなにも早く、素晴らしい出来で完成するとは。和泉さんのラフスケッチがそのまま大きくプリントアウトされたかのようだ。
「でもさあ、渚さんがあんなに上手だったなんて思わなかったよ。ねえねえ、漫研入ってみなーい?」
「ま、漫研?」
「若葉さんも歓迎するってさ」
「ちょい待て。あたしは入部するなんて一言もいってねえぞ」
「あれれー? こんなところに若葉さんの名前が書かれた入部届が」
「勝手に偽造してんじゃねえっ!」
「騒がしい人たちね……」
「渚さんのもあるよ、ほら」
「何勝手なことしてるのよっ!」
今日のMVP三人は仲良くやっているようだ。渚さんとクラスメイトの間にわだかまりが残らなくて本当によかった。
「よしみんな、聞いてくれ。これにて僕たち一年一組の事前作業は全て終了した。ご苦労だった。だが、本番は明日からだ。くれぐれも遅刻はせず、忘れ物にも気をつけてくれ。以上だ、解散」
今や誰も疑問に思わなくなった笹部くんの仕切りによって一組の生徒はそれぞれ帰っていった。
「じゃーなーアニキー」
「堂島くん、また明日」
「うん、また明日。片桐くん、藤森くん」
「だから俺は藤丸だっての! へへへ」
図書室前での若葉さんとのやり取りの後、藤丸くんのあだ名は「藤森」となった。嫌がるかと思ったけど、意外にも本人は「おいしい」と密かに気に入っているようだ。
「それじゃニイさん、また明日っス」
「じゃあね、寺井くん」
「あ、いい忘れてたんスけど」
寺井くんが深刻な顔をして僕に近づいてきた。
「明日遅刻した男子は、メイド服着させられるらしいっス」
「ええ! どうしてまた……」
「何でも、生地があまったとかで蒲生先生が手早くつくってたんスよ」
あの先生にそんな余計な特技があったとは。
「え、寺井くん明日メイド服着るの! 見てみたいかもぉ」
「私も堂島くんのメイド服姿、期待してるわよ。それじゃ」
「じゃあね、寺井くん。また明日!」
榎本さんと葉山さんが唐突に現れ、僕たちに悪寒を残して去っていった。
「ニイさん。明日の朝七時に一応電話して欲しいんスけど」
「うん、約束するよ。これは僕たちの死活問題だ」
寺井くんは家中の目覚まし時計を総動員させるとも宣言し、保坂くんたち野球部の面々と学校を後にした。
「おニイさん、わたしたちもそろそろ帰りましょう。あ、そうだ。青梅屋寄って行きませんか?」
ひょこひょこと安藤さんがやってきた。今では彼女もすっかり青梅屋のリピーターになっている。
「そうだね。僕たちもそろそろ帰ろうか」
「青梅屋! 私も行くよ!」
「あたしらも連れてけよな」
「おニイちゃん奢ってー」
「奢ってくれるならこの和泉さんも参加しまーす」
遅れて月野さんたちもぞろぞろとやってきた。
帰り際に声をかけてくれる友達。こうして放課後を共にする友達。笑ったり、驚いたり、悲しんだりと目まぐるしくも色鮮やかに輝く日常。入学したばかりの僕からしたらとても信じられない光景だろう。
――僕もだいぶ変われたのかな。
変われたはずだ。僕だけでなく、周りのみんなも。まだ高校一年生でも彼らは一歩ずつ、確実に前へ進んでいる。大人に近づいていく。
「盛り上がってるところ悪いけど、しばらくオジさん借りるわね。ついてきて」
「え、また?」
有無をいわさず渚さんは校舎の中に戻っていった。
「何だかよくわからないけどそういうわけだから、みんな先にいってて。後から必ず行くから」
「だったら堂島くん、渚さんも一緒に連れてきてよ。みんな待ってるからって伝えておいて」
「わかった。それじゃまた後で」
「うん。先に行ってるね」
月野さんはもう渚さんに対して警戒はしていないようだ。僕も今日の渚さんの、誰よりも真剣に作業をしていた態度で彼女に対する見方は変わっていた。青梅屋で時間を共にすればもっと仲良くなれるかもしれない。
渚さんの後に続いて向かった先は一年一組の教室だった。文化祭用に装飾が施された暗い室内に入り、彼女が開けておいてくれたドアを閉める。椅子や机も文化祭専用の配置になっていて、見ているだけで胸が躍る。
「それで、一体どうしたの?」
「傘、返してなかったから」
渚さんの手には僕が昨日貸した傘が握られていた。
「ああ、そういえばすっかり忘れてたよ。ありがとう」
「それと……朝は、ありがと」
渚さんはしおらしくお礼を述べた。どうやらメインはこっちだったようだ。
「お礼なんていいよ。見直したよ、渚さんのこと。多分クラスのみんなもそう思ってる。全員の前で自分の過ちを告白するなんて、とんでもなく凄い度胸だと思うよ」
「……それ、褒めてる?」
「あ、うん。褒めてる褒めてる」
また言葉選びを微妙に間違えていた気がする。
「まあいいわ。はいこれ。ちゃんと返したからね」
「うん。どうも」
無事に傘が僕の手元に渡った。
「ところでさ、渚さんは二階堂とのこと、どうするの?」
今日は一度も口をきいたところを見ていないけど、このまま本当に別れてしまうのだろうか。
「……諦めないわよ。好きだもの、鋭二のこと。またアタシを必要としてくれるまで、いくらでも待つわ」
辛抱強いというか、健気な人だ。こんな一途な子を突き放すなんて、二階堂も中々罪深い。
ガララッ
突然、僕たちが入ってきたドアが開いた。
「おい、お前ら、こんなところで何してんだよ……」
噂をすれば、とはこのことか。教室に入ってきたのは、二階堂だった。
「何してんだって聞いてんだよ、答えろ!」
「待って鋭二! 違うの、誤解なの!」
「うるせえ尻軽が!」
二階堂は駆け寄る渚さんを突き飛ばし、一直線に僕の胸ぐらを掴んできた。
「てめえ、今まで花凜と何してやがったんだ」
「僕は傘を返してもらっただけだ。何もしてないよ」
「あ? 見え透いた嘘吐いてんじゃねえ!」
二階堂の態度は、一昨日僕にいった言葉と矛盾している。僕は二階堂の本心を探るべく、意地悪な質問を投げかけてみた。
「二階堂、君はこの前いったはずだ。『お前にそこのクソアマくれてやるよ』って。だったら僕たちが二人きりで何をしてても勝手だろ。君には関係ないはずだよ」
「ちょっとオジサン、何いって――」
バキッ
二階堂の振り上げた拳が見えたと思った次の瞬間、僕は床に倒れていた。頬にじんじんと痛みを感じる。
「落ちついてよ鋭二、やり過ぎよ!」
「邪魔すんじゃねえ花凜!」
首を上げると、渚さんが身体を張って二階堂を止めてくれていた。
僕は殴られた顔と打ちつけた頭の痛みを堪えながら何とか立ち上がった。
「二階堂。尻軽とか別れるとかいってたけど、本当はまだ渚さんのことが好きなんだろ。きちんと謝って仲直りしたらいいじゃないか」
「黙れ! お前に何がわかんだよ!」
「わかるよ」
僕は確信めいたことを口にした。
「僕は君のことがよくわかる。だって君は、僕に似てるからね」
「ハッ、何いってんだお前」
「渚さんから聞いたよ。……家族と不仲だって」
二階堂の視線が渚さんを貫いた。
「花凜てめえ、余計なこといいやがって!」
「きゃっ!」
二階堂は自分の身体を押さえつけていた渚さんを力任せに引き剥がし、机に叩きつけた。
「渚さん!」
「てめえもだ!」
「ぐあっ!」
僕は再び二階堂に顔を殴られ、壁に衝突した。その衝撃で壁に貼りつけられていた切り絵が破けて僕の頭上に覆い被さる。
「てめえら、二人して俺のことバカにしやがって……許さねえ!」
「バカになんてしてないよ。本当に君は僕に似てる。それも放って置けないくらいに」
僕は切り絵を払いながら立ち上がり、二階堂を正面に見据えた。
「君がどうして渚さんのことを好きなのにそんな態度をとるのか、僕にはよくわかる。君は僕と渚さんが一緒にいるのを見て、渚さんに裏切られたと思ったんだ。今まで一緒に僕を貶し蔑んでいたはずなのに、自分と同じ気持ちでいてくれたはずなのに、僕と二人きりで親しげに話しているように見えたから不安になったんだ。君は、彼女の関心が自分から離れていってしまうことを恐れていた。信じていた人に裏切られることが怖かったんだ。だからいっそのこと渚さんと距離を置くことで、これ以上辛い思いをしないように自分の心を守ろうとしたんだ」
「ちげえよ、そんなんじゃねえ」
「体育祭で諸橋さんと桑原さんが僕に話しかけた時も同じ気持ちだったんじゃないのかな。自分に夢中だったはずの二人が自分から離れていったことに、君は怯えたんだ。だから二人に冷たい態度をとって突き放した。自分がそれ以上傷つかないためにね」
「ちげえっつってんだろ!」
二階堂の威嚇に怯むことなく僕は続ける。
「今思えば、僕に目をつけたのもそういった恐怖からかもしれないね。僕はこの学校ではよくも悪くも目立つ存在だから、今まで自分に集まっていた注目の目が僕に向いてしまうのを避けるために早めに潰してしまおうと考えたわけだ」
「いわせておけばいい気になりやがって……!」
二階堂が再び胸ぐらを掴んできた。僕も負けじと睨み返す。
「君がそうなったきっかけは家族だったんだね。君は志望校に合格できず、そのせいで家族から迫害されるようになった。今まで君を温かい目で見てくれた人たちが突然牙を剥いたんだ。そうして人に見放されたことがトラウマになった。僕も似たような経験をしたからわかるんだよ、君の気持ちが。痛い程によくわかるんだ。このままじゃ、君も僕のようになる」
「クソニートのお前なんかと一緒にすんじゃねえよ!」
二階堂の握力が更に増し、僕を持ち上げ始めた。僕は二階堂の腕を押さえ、必死に抵抗する。
「そうだ、僕と君は違う。だって、君が似てるのは昔の僕だからね。今の僕は少なくとも、君よりは大人だよ」
「社会に馴染めずに脱落した腰抜け野郎の癖に生意気なんだよ!」
「確かに君のいう通りだ。でも僕は恥を忍んで高校生になった。僕は自分を変えるために、一歩進んだんだ。その一歩のおかげで僕には友達ができた。楽しい日々が過ごせるようになった。僕はもうあの頃の僕じゃない、今もまだトラウマを引きずっている君とは違う!」
両手で二階堂の腕を振り払い、今度は僕が二階堂の胸ぐらを掴み返した。
「他のみんなだってまだ高校一年生だけど、それでも確実に前に進んでるんだ。中学の頃から悔しい思いをしてきた滝口さんは、必死で頑張って目標だったライバルを追い抜いた。若葉さんはずっと持ち続けてたコンプレックスを乗り越えて、今はマンガ家の夢を追いかけてる。怯えてばかりだった安藤さんは、君の威圧にも恐れずに僕を守ってくれた。渚さんも、黙っていればばれなかったのに自分に嘘を吐かずに罪を告白したんだ。他のみんなだってそうだよ。もう僕をニートだからって見下す人はほとんどいなくなった。きっとみんな気づいたんだよ。寄ってたかって人をバカにするのも、先入観で人を判断するのも下らないってことに。でも君が、君だけが何も変わらないで立ち止まったまま、いつまでも子供のままなんだよ!」
「黙れ!」
二階堂が腕を振りほどき、僕の顔面にストレートを放った。が、今度こそ倒れない。倒れてやらない。僕は真正面から拳を受け止め切った。
「家族に見放されて辛いのはわかる。簡単には立ち直れないのも僕は知ってる。でも、そこで立ち止まっちゃいけないんだ。それでも逃げずに真正面から向き合うんだよ! まずは渚さんに君の気持ちを正直にぶつけるんだ! それが君の第一歩だ!」
「オレは花凜を信じてた、信頼してたんだ! けど花凜だってオレのことを裏切った! どうせみんなオレを裏切るんだ! だったらそんなことに意味はねえだろうが!」
二階堂はそばにあった机を豪快に蹴っ飛ばした。
「花凜だけじゃねえ。親父たちもオレが落ちこぼれた途端、手のひらを返してオレを切り捨てやがった。他の奴らもオレの上っ面しか見てねえか、おこぼれに預かろうとしてるだけだ。下らねえ。そんな奴らと一緒にいるくらいならな、一人でいた方がずっとましなんだよ!」
まるで鏡を見ている気分だ。このまま放って置いてしまえば、きっと二階堂は僕のように人を恐れ、自分の殻に塞ぎ込んでしまうだろう。心底嫌な奴だけど、自分と重ねて見てしまった以上、もう他人事ではない。見て見ぬ振りはできない。
「二階堂、それは君の本当の気持ちじゃないはずだ」
「……!」
二階堂が言葉につまった。今の二階堂ならば立ち直れる。僕に香澄さんがいてくれたように、彼にも大きな大きな支えとなる存在がそばにいるのだから。
「君はまだ渚さんを大切に想ってる。さっき僕を殴ったのがその証拠だ」
「今いったろ。花凜はオレを裏切ったんだ。そんな女に未練はねえ」
「そうやって渚さんを突き放せば、これ以上傷つくことはないだろうね。でも、彼女がどれだけ君を想っているかにだって気づくことはできなくなるよ」
「お前、何いってんのかわかんねえよ」
「渚さんは君のために涙を流す人なんだ。あんなに君に冷たく突き放されたって君の心配をしてた。君を支えてあげられないのを悔しがってた。君のことしか考えられない、って声を上げて泣きじゃくる人なんだよ」
「…………」
「さっきだって、君が自分を必要としてくれるまで待つ、って覚悟を見せた人なんだ。君を大切に想ってくれる人は、今だって君のすぐそばにいるんだ。……まったく羨ましいよ。リア充爆発しろ」
「花凜……」
そう一言だけ発した二階堂に、渚さんが真剣な面持ちで想いを訴える。
「鋭二、アタシは鋭二のこと裏切ったりしないよ。いつでも鋭二のそばにいたい。ううん、鋭二が嫌だっていっても、アタシは鋭二の隣で、ずっと鋭二のこと支えるから!」
「……花凜……オレは……」
女の子にここまでいわせておいて覚悟ができないとは、情けない奴だ。仕方ないから僕が助け舟を出してやるとしよう。
「そうだ、二階堂。体育祭の時の約束あったよね。あれを今、君に果たしてもらうよ」
僕は体育祭のリレーで二階堂との賭けに勝った。あの時の約束を叶えてもらう権利はあるはずだ。
「渚さんを家まで送ってあげて」
「……はあ?」
さっきまで鬼の形相で僕を殴ってきた癖に、何ともまあ間抜けな声を出すものだ。
「もう外が暗くなってきたから、女の子一人じゃ何かと危ないからね。君が責任を持って渚さんを送り届けるんだ」
「暗くなってきたってお前、まだ五時だぞ……」
「嫌なら僕が渚さんと一緒に帰るよ。じゃ、行こうか渚さん」
僕は渚さんの手を掴もうと彼女に近づいた。
「お、おい待て!」
僕が手を伸ばした瞬間、二階堂が素早く僕と渚さんの間に壁となって立ち塞がってきた。意地を張っていた癖に身体は正直な奴だ。
「その、だ。そういう約束だったな、仕方ねえ。……行くぞ花凜」
「あ……うんっ!」
照れくさそうな二階堂が渚さんの手をしっかりと掴み、僕に一瞥もくれることなく教室の外へと引っ張っていった。これでもう二人の仲は心配いらないだろう。
――ああ、損な役回りだったなあ。
数日に渡ってカップルのケンカに巻き込まれ顔を殴られたばかりか、その治療もしないといけないから青梅屋は諦めざるを得ない。とんだ災難だ。
――とりあえず、月野さんに連絡しなきゃな。
スマートフォンを取り出そうとして何となく周りを見回すと、そこには衝撃的な光景が広がっていた。僕や渚さんが吹っ飛んでぐちゃぐちゃにしてしまった装飾や、二階堂が荒々しく蹴っ飛ばした机が散乱していたのだ。
「これ、全部僕が直さなくちゃいけないのか……」
とことん損な役回りだ。僕は腫れた口元を手でさすりながら、沈んだ気持ちで月野さんに電話をかけた。
プルルルルルルッ
「うわわわっ!」
「な、何だ何だ!」
僕が電話をかけると、廊下から着信音と聞き覚えのある女の子の声が聞こえた。
「月野さん、そこにいるの……?」
僕がそう呼びかけると二階堂たちが開けっ放しにして出ていったドアから月野さんの姿がひょこっと現れた。
「や、ばれちゃったね。えへへ」
「どうして月野さんがここに? 青梅屋に行ったはずじゃ」
「うーん、その、やっぱり気になっちゃって。あ、でも盗み聞きするつもりはなかったの。私がきた時には入り辛かったというか、何というか」
「ああ、聞いてたんだね、あれ……」
今更ながら恥ずかしくなってきた。殴られたことによる怒りや二階堂を立ち直らせたいという使命感にも似た思いがない交ぜとなって、随分と熱く、説教臭く語ってしまった。しかもあろうことか、第三者の月野さんに聞かれてしまうとは、どこかに穴が掘れる場所はないものか。
「月野さんがいたなんて全然気づかな――あれっ」
突然頭がくらついて、床に尻餅をついてしまった。どうやら二階堂に殴られたダメージがだいぶ残っているみたいだ。
「ど、堂島くん大丈夫!」
月野さんがすぐさま駆け寄ってきて肩を抱いてくれた。
「よく見たら顔が腫れてるし、口も切れてるよ。ちょっと待ってて」
月野さんはポケットからピンク色のかわいらしいハンカチを取り出し、僕の口元に当てた。
「つ、月野さん。気持ちは嬉しいけどハンカチが汚れるよ。せめてティッシュで……」
「喋っちゃダメ。傷が広がっちゃうから」
僕の静止も聞かず、月野さんはハンカチでぽんぽんと優しく血を拭いてくれる。
「月野さんにはまた格好悪いところ見られちゃったなあ」
前にも嗚咽を漏らした情けない姿を見せてしまったのに、今回は腫れた顔を見せてしまっただけでなく尻餅をついた姿まで見られてしまった。その上、肩を抱かれて支えてもらうなんて格好悪いどころの話じゃない。
「はい、堂島くん。お口チャック」
母親にあやしてもらっている子供のようなこの姿勢は流石に格好がつかないな、なんて思っていたら子供の頃に聞いた懐かしいフレーズと共に口をハンカチで塞がれた。この子は僕を恥辱で殺す気なのだろうか。でも、ハンカチから月野さんの匂いがして何だか身体の力が抜けてきた。恥を忘れてこの安心感に浸ってしまいそうだ。
「堂島くんは格好悪くなんてないよ」
「え?」
僕が押さえられた口からくぐもった声を出して月野さんと目を合わせると、彼女は慈愛に満ちた表情で僕を見つめ返していた。
「さっきの堂島くん、とっても格好よかった。……素敵だったよ」
急に身体全体がのぼせたように熱くなった。月野さんの腕に伝わってしまうくらい、心臓の鼓動が豪快に脈打っている。そういえば、前にも似たようなことがあった。月野さんの目の前で大事な決めゼリフを噛んでしまった時だ。あの時も全身が沸騰しそうになった。しかし、今回はそれとは少し違う感覚だ。恥ずかしさではなく、もっと別の何か……そう、香澄さんと一緒にいる時に感じるような感覚の――
「ぶはぁっ!」
「うわわ、堂島くん鼻血鼻血!」
頭に血が上り過ぎたせいで、二階堂に殴られた鼻から鮮血が噴水のように吹き出してしまった。
「そ、そのまま動かないでね。今ティッシュ出すから」
僕は素直に従った。情けなさと申し訳なさで声を出す気力さえ湧かない。
――二階堂の奴め、覚えてろよ。
都立桜星学園高等学校は、特に輝かしい実績があるわけでもない上に同区内で他の人気校に囲まれている、立場としては地味で目立たない、さしずめメインヒロインを引き立たせるサブヒロインのようなポジションだ。
しかし、そんな日陰にたたずむ女の子だって時にはおめかしくらいしたくもなる。焼きそばやお好み焼きの香りを身に纏い、賑やかな演劇やお化け屋敷でおしゃれをしていつもと違う自分を演出する。この二日間だけは、他の誰よりも光り輝くメインヒロインなのだ。
そう、本日は待ちに待った文化祭当日、その記念すべき一日目である。
「んー、んまいっ。この時間のケーキづくりの当番って寺井くんと笹部くんだっけ? よくできてるよ、このいちごショート」
「あの二人は器用だからね。おっ、このコースターかわいいね。メイドさんが描かれてる。この絵柄は若葉さんのかな。月野さんの方は?」
「私のは和泉さんのだね。猫耳メイドさんだ。かわいいよ、ほら」
僕と月野さんは一年一組の催し物「ぷりてぃ☆メイド喫茶」にて僕はフルーツパフェ、月野さんはいちごショートを頬張って文化祭を満喫している。口を開くたびに切れた箇所が少し痛むけど、思っていたよりは悪化しなくてよかった。顔の腫れも予想以上に早く引いてくれたようだ。
「そ、それで、どうだったんだよ。図書室の方は」
フリフリのメイド服に身を包んだ若葉さんが、絶賛仕事中でありながら花柄のテーブルクロスが敷かれた僕たちの席に同席し、不安げに顔を覗き込んできた。よくよく見ると、目が血走っている。
それもそのはず、今図書室には若葉さんが描いた初のお披露目マンガ「水星のアクアリウム☆ウィッチ」が展示されているのだ。彼女にしてみれば、その評判が気になって仕方がないのだろう。
「図書室の前にはね、たっくさん人が並んでたよ! しかもリオのマンガ、結構好評みたい!」
「アンケート結果は期待してくれ、って図書委員の人もいってたよ」
「そ、そうか! はああぁ……そっかあ。よかったあ」
若葉さんは長い溜め息をついた。目の下のクマを見るに、昨日は心配でよく眠れなかったのかもしれない。
「ほっとしたら腹減っちまったよ。ひまのケーキ一口もらうぜ……ってもうねえ!」
「えへへ、残念でしたー。堂島くんのパフェならまだ残ってるよ」
「あ、食べたいならどうぞ」
「いや、お前、それはあれだろ。その、そういうのはほら、よくねーだろ」
突然若葉さんの歯切れが悪くなり、顔を伏せてもじもじし始めた。
「関節チューになっちゃうもんね。リオってば純情なんだから」
「うるせー!」
「若葉さん、メイド服似合ってるよ」
「ニイさん唐突にどうした! ああ、あれか。お前らはあたしを愧死させる気か! ええい、もうこの話は終わりだ! 終わり終わり!」
若葉さんは立ち上がり、手にしたお盆に月野さんの食器を乗せてさっさと立ち去ろうとした。が、何を思ったのか、くるりとこちらに向き直った。
「ああ、そうだ。ひまはここにいるからいいとして、滝口と安藤見なかったか? もうじき交代だからそろそろ帰ってきてもらいたいんだが」
僕たち一年一組は男子と女子がそれぞれ半分ずつに分かれ、午前と午後を担当している。そして現在の時刻は午前十一時半。あと三十分程度で若葉さんたちは休憩に入り、そのまま午後の担当と交代になる。
「安藤さんは図書室にいたよ。和多河市シリーズの同人小説を見つけたとかで夢中になってる」
「あいつも好きだな。で、滝口は?」
「図書室の前で若葉さんのマンガを宣伝してたよ。『ウチの友達が超面白いマンガ描いたからみんな見にきてねー!』って」
「あんの野郎、恥ずかしい真似しやがって! てか、それを先に報告しろおおおお!」
いうが早いか、若葉さんはお盆をテーブルに置くや否やメイド服のまま忍者のような俊敏さで廊下を駆け出していった。見事なスプリントだ。
「リオってば、仕事ほっぽり出して行っちゃったよ」
「でも、賑やかでいいよね。……こんな楽しい学園生活もあと半年で終わりか。案外短かったなあ」
「堂島くん……」
若年無職者再就学計画の期間は一年きっかりだ。あと半年もすれば僕はこの桜星学園を去り、就職活動に勤しむことになる。
初めは周りから奇異や軽蔑の目で見られ学校に通うことすら億劫だった。でも、月野さんたちと出会い、遊び、笑い合い、時には衝突して友情を育むうちに、僕は過去を乗り越え前を向くことができた。この半年で僕の人生は大きく変わった。人間として成長したように思う。昔のように引き籠ったままの生活を送っていたらこんなにも素晴らしい経験や友達を得ることはできなかっただろう。それだけに、ここを去るのが名残惜しくてたまらない。
「あ、あのね、堂島くん」
「どうしたの、月野さん」
月野さんが真剣な表情で僕を見つめてきた。普段の月野さんからは想像できない、ただならぬ雰囲気だ。
「実は今日、堂島くんに大事な話があるの。これから時間、ある?」
「え、あ、うん」
この流れはひょっとしてひょっとすると、あれではないだろうか。何だか胸が高鳴ってきた。
――もしかして、月野さんが僕に愛の告白を!
思えば、月野さんは初めて会った時から異端の僕にも好意的に接してくれた。それが彼女の性格といえばそれまでだけど、もし一人の男としても好意を抱いていたとすればどうだろうか。もうじき僕はこの学校を去り、僕と月野さんはもう毎日顔を合わせることがなくなってしまう。月野さんはその現実に胸を引き裂かれる思いをして、とうとう募らせた気持ちを僕に伝えようと勇気を出したのかもしれない。そう、フラグは立っていたのだ。昨日も僕のことを気にかけてきてくれたし、その後も鼻血がなければいい雰囲気だったし!
――まさかね。
いや、月野さんにとっては僕が最も仲のいい男子生徒であることは間違いないからまったくあり得ないとはいい切れないけど、流石にそんな上手い話にはならないだろう。
――でももし、月野さんが本当に僕のことを好きだったら?
僕の本命は香澄さんだ。それは揺るがない。けど、今や月野さんも僕にとって大切な存在だ。そんな月野さんにいざ好きだと迫られたら、僕は断るだろうか。それとも……。
『さっきの堂島くん、とっても格好よかった。……素敵だったよ』
僕は昨日自宅に帰ってからずっと月野さんの言葉を思い返しては、身体が熱くなりいても立ってもいられない気持ちになる。一体僕はどうしてしまったのだろうか。
「堂島くん、食欲ないならそのパフェ食べてあげよっか?」
「え! あ、食べるよ。食べる食べる」
我に返った僕は急いで残ったパフェを胃袋に収め、月野さんと席を立った。その際、うちのクラスのかわいいかわいいメイドさんが目に入ったのでせっかくだからあいさつすることにした。
「そこのぷりてぃなメイドさん。パフェおいしかったよ。またくるね」
「……てめえ、オレにケンカ売ってんのか? ああ?」
「ご主人様に向かってその口の利き方はないんじゃないかなあ、二階堂」
そう、出口付近でご主人様のお見送りを担っているメイドさんこそ、昨日僕を散々な目に遭わせてくれた二階堂鋭二だ。とはいっても、二階堂が実は女装癖があったとかそういうわけではない。これは僕が与えた罰なのだ。
というのも、昨日僕と月野さんが荒らされた教室を頑張って元に戻そうと試みたものの、破けた切り絵やテーブルクロスは直るはずもなかったので、今朝僕がみんなの前で二階堂に全責任を押しつけて罪を償ってもらったのだ。それが、蒲生先生がこしらえたメイド服での接客というわけである。まあ、本当にメイド服を着て接客している辺り、二階堂自身にも罪の意識はあるのだろう。
「それにしても、中々似合ってるよ。君の女装見たさに女子もたくさん来店してくれてるみたいだし、これはもう看板娘といっても差し支えないね」
「てんめえ、いい加減に――!」
「ちょっと鋭二! お見送りはいいからこっち手伝って!」
お盆を持ってせわしなく店内を動き回る渚さんが二階堂に救援を要請した。
「ぐっ……おいクソニート、後で覚えてろよ」
「そこは『いってらっしゃいませ、ご主人様』だよ。さ、行こうか月野さん」
「堂島くん、案外ドSだね」
ぎゃあぎゃあと騒がしく見送ってくれる女装メイドさんのお見送りに笑顔で手を振りつつ、僕は月野さんと店を出た。
「それで月野さん、これからどこに行くの?」
「うん、すぐにわかるよ」
僕たちは階段を上ることも校舎の外に出ることもなく、お化け屋敷や宝探しといった賑やかな教室の前を通り過ぎていく。文化祭真っ最中だけあって多くの生徒や一般客が廊下を歩いているので、それなりに気を遣って歩かないとぶつかってしまう程の混雑振りだ。
「ついた。ここだよ」
押し寄せる人波をかわしながら辿りついた先は保健室の一歩手前、香澄さんが日々生徒たちの心をケアする癒しの部屋……カウンセリングルームだった。
「と、いうことはまさか!」
――僕に告白するのは月野さんじゃなくて香澄さんだったのか!
思えば、香澄さんは初めて会った時から陰鬱だった僕に好意的に接してくれた。それが彼女の仕事といえばそれまでだけど、もし一人の男としても好意を抱いていたとすればどうだろうか。もうじき僕はこの学校を去り、香澄さんはお役御免になってしまう。香澄さんはその現実に胸を引き裂かれる思いをして、非番にもかかわらず同じクラスの月野さんに頼んで僕を呼び出し、とうとう募らせた気持ちを伝えようと勇気を出したのかもしれない。そう、フラグは立っていたのだ。体育祭では格好いいところ見せられたし、その後も保健室ではいい雰囲気だったし!
――なくはない!
「じゃあ堂島くん、入って」
「うん。ありがとう月野さん。大人の階段を上ってくるよ」
「ん?」
僕は喉の調子を整え、香澄さんの待つ部屋へと堂々入室した。
「あら、いらっしゃい新くん。時間通りね」
アールグレイの香りが漂う部屋で、香澄さんはソファーに座りながらカップを片手に僕を迎え入れてくれた。
「顔のケガ、聞いたわ。大丈夫なの?」
「はい! こんなのただのかすり傷ですよ。どうってことないです」
「そう。見たところ、思ってたよりひどくないみたいで安心したわ。それじゃ、紅茶淹れるから座って待っててね」
「は、はい」
僕は若干緊張しながらも香澄さんが座っていた場所の対面に腰かけた。ソファーから香澄さんの匂いがしてほっと息が漏れる。
「堂島くん、そんなに緊張しなくていいよ。怖い話はしないから」
「うん……って、何で月野さんも座ってるの?」
いつの間にやら、香澄さんがいた二人がけソファーに月野さんもちょこんと座っていた。
「さっきいったでしょ。大事な話があるって」
「いってたけど、月野さんにも関係あるの?」
「うん。それなりに」
どんな話なのかは見当がつかないけど、この時点で香澄さんの愛の告白うんぬんの夢は儚く散ったわけだ。
「お待たせ。新くんはアールグレイ、ひまちゃんはレモンティーね」
香澄さんが両手に湯気を湛えたカップを持ち、優雅にテーブルに置いた。
「ありがとおねえちゃん」
「お、おねえちゃん?」
今確かに耳に届いた「おねえちゃん」というワード。そのまま受け取れば二人は姉妹ということになる。しかし、「北条香澄」と「月野ひまわり」では苗字が異なるのだけどこれは一体どういうからくりか。
「新くんの頭にクエスチョンマークが浮かんでるみたいだから、そろそろ本題に入りましょうか」
香澄さんも月野さんの隣についたことで、僕は香澄さんと月野さんの二人と顔を合わせる形になった。何だかむずむずして非常に落ちつかない。
「今から新くんに二つ、大事な話をするわね」
「は、はあ。……いや、はい」
香澄さんの綺麗な瞳に吸い込まれそうになるのを何とか堪え、僕は真面目に話を聞く姿勢をとった。
「実は私とこの子は、親戚同士なのよ」
「親戚……ですか」
いわれてみれば似てるような似てないような、微妙なところだ。ただ、二人共美人であることは共通している。
「そうそう。でね、私は四月からおねえちゃんの家に住まわせてもらってるの」
月野さんのいう「おねえちゃん」とは「義理の姉」のことだったのか。
「てことは、月野さんは入学した時にはもう僕のことを知ってたってこと?」
「うん、そういうこと。実をいうとね、入学前からおねえちゃんに堂島くんのことをよろしく、って頼まれてたの」
「そうなんですか」
僕は香澄さんに尋ねた。
「ええ。新くんの学園生活のことを報告してもらおうと思って、ひまちゃんに新くんと友達になってもらうように頼んだの。ひまちゃんは人と仲良くなるのが得意な子だから。それと、新くんを桜星学園に推薦したのも私なの。新くんの就学先を決める時期にはひまちゃんが桜星学園に合格していたから、何かと都合がいいと思ったのよ。二人が同じクラスなのも私の口利きなの」
「そうだったんですか……」
「新くん、今まで黙っていて本当にごめんなさい」
「私も、ごめんなさい」
香澄さんと月野さんは揃って頭を下げた。
「ふ、二人共謝らないで。別に傷ついたりとかはしてないから」
「でも、理由はどうあれ自分の都合で新くんを振り回して、今までこんな大切なことを隠してしまっていたことに変わりはないわ」
香澄さんは本当に申し訳なさそうに目を伏せている。そんな彼女の姿は、僕は見たくない。
「僕は全然気にしてませんよ。香澄さんが僕のことを思ってしてくれたのはわかってますから」
「新くん……」
「それに、香澄さんのおかげで僕には大切な友達ができたんですよ」
僕は月野さんを見た。気づいた彼女は少し照れくさそうに、そしてどこか嬉しそうに頬をかいた。
「月野さんはこの学校でできた初めての、そして一番の友達なんです。月野さんが僕を支えてくれたからこそたくさんの友達ができたし、自分を変える勇気を持つことができたんです。香澄さんが僕と月野さんの間に接点をつくってくれたことは、いくら感謝しても足りませんよ。僕はこの桜星学園に入学できたこと、本当に幸せだと思ってます。ありがとうございます、香澄さん」
僕は曇りなき思いの丈を香澄さんに伝えた。僕はこの二人には足を向けて寝れない程、幾度となく助けられてきた。香澄さんには謝られるどころか、こちらが香澄さんに頭を下げたいくらいだ。
「新くんは優しいわね。少しくらい怒ってくれてもいいのに」
「僕が香澄さんを怒るだなんてそんな。逆に僕が毎日怒ってもらいたいですよ」
「うふふ。もう、新くんったら」
香澄さんに笑顔が戻った。やはり彼女には笑顔こそがふさわしい。そして彼女の恋人は僕こそがふさわしい……と堂々といえる男になりたい。
「それにしても堂島くんってば反応薄かったよね、私たちが親戚同士ってところに。あ、もしかして私がおねえちゃんに似てべっぴんだからすんなり納得しちゃったとか? や、参ったねこりゃ」
月野さんがおどけた調子で笑った。
「うん。それも理由の一つではあるけどね」
「え、そ、そうなの?」
「初めて会った時からかわいい子だと思ってたよ」
ぼんっ! という音が聞こえそうな程、月野さんの顔が急激に真っ赤になった。数秒前まではにこにこしていたのに今ではゆでだこだ。表情がころころ変化するから見ていて飽きないのは四月に感じた印象と変わらない。
「こらこら新くん。あまりひまちゃんをからかっちゃダメよ」
「すみません。ごめんね月野さん」
「い、いえ……おふこーすです……」
ああ、いつか香澄さんにもこんな軽口をいえるようになりたい。香澄さんをからかうのは今の僕にはハードルが高い。
「それで新くん、まだ理由があるんでしょ。私たちの関係に驚かなかったわけが」
「はい。月野さんとの会話を振り返ってみたら、結構思い当たる節があるんです。月野さんに話したことがないのに僕の食べ物の好みとか愛読書も知ってましたからね。そういえば体育祭の時に僕が保健室に同伴するのを断られたのも、保健室に香澄さんがいるからやり辛いと思ったのかな。ようやく合点がいきましたよ」
「うっ、私ってかなりボロ出してたんだね……」
月野さんは飼い主に叱られた子犬のようにしょんぼりしてしまった。
「うふふふ」
「もう、おねえちゃん。そんなに笑わなくたっていいのに」
「違うわよ。私も昔のことを思い出してたの。ほら、四月に自己紹介の日があったでしょ」
「はい。あの日に初めて月野さんと話したんだよね。懐かしいなあ」
あの日のことは今でも鮮明に記憶している。香澄さんのモーニングコールに始まり、よどんだ気持ちで登校し、そして月野さんに出会った。教室では僕の席の配置に心が折れそうになり、自己紹介では二階堂と渚さんによる洗礼を受けた。あ、何だかムカムカしてきた。
「放課後にひまちゃんから『堂島くんと友達になったよ』ってメールが届いたと思ったら、お昼には新くんが『別に彼女とは友達ってわけではないです』なんていうんだもの。今では笑い話になるけど、あの時はちょっと焦ったわね」
「ああ、いったような気がしますねそんなこと」
あの日に限って香澄さんがウインナーを掴み損ねたり口にご飯粒をつけたまま気づかなかったりとお茶目な姿を披露したのは、そんな背景があったわけだ。こちらも合点がいった。
「そういえば香澄さん、もう一つの大事な話っていうのは何なんでしょうか」
話が一段落したので、僕はずっと気になっていた質問を香澄さんに聞いてみた。
「そ、そうね、そろそろ話さないといけないわね……」
和やかだった部屋の空気が一瞬にして気まずい雰囲気に変貌した。
もしや、僕は何かとんでもないことをしでかしたのではないだろうか。しかし、思い当たる節はこれといってない。酒やタバコなど校則に引っかかるような振る舞いはしていないし、二階堂と対峙した時だって僕から手は出さなかった。男女の触れ合いだって過度と評される程のことは何一つしていない。滝口さんと渚さんにに抱きつかれたのは流石に刺激的な体験だったけど、前者は数秒にも満たない程度であり後者は僕と渚さんしか知らないことだ。もちろん試験でも赤点をとることなく、毎期の試験は五十位以内をキープしている。僕に何ら非はないはずだ。多分。
「実はね、新くん」
「は、はい……」
香澄さんに見つめられたことによる高揚感に不安と緊張も混じり合い、身体が小刻みに震える程に胸の高鳴りが大きく、強く増してしていく。
「一昨日の雨の日、雷が鳴ってたでしょ」
「な、鳴ってましたね」
渚さんと僕の部屋で二人きりになった日だ。だが、やましいことはしていない。シャワーを貸したり抱きつかれたりしたけれども、やらしいことはしていない。何十分も男と女が同じ部屋で触れ合っていたとはいえ、いかがわしいことは一切していないのだ。
「僕は何もしてません! 信じて下さい!」
「え? ええ、新くんは何もしてないわ。安心して」
どうやら誤爆してしまったようだ。しかし、僕自身の不手際でないとするなら一体何が待ち受けているというのか。
「あの日、本部に雷が直撃したのよ」
「はあ、雷が……それで?」
「それでね……新くんの若年無職者再就学計画に関するデータの大部分が消えてしまったのよ」
「へ?」
まだ事態が飲み込めない。
「雷の影響で本部のパソコンに負荷がかかって故障してしまったの。その際に新くんのデータだけ消滅してしまったらしくて……。本当にごめんなさいっ!」
「あ、つけ加えておくとね」
月野さんが身を乗り出してきた。
「おねえちゃんはちゃんと堂島くんのこれまでのデータをバックアップしてたんだけど、本部の偉い人がずぼらだったみたいでもっと根本的なデータをバックアップしてなかったんだって。だからおねえちゃんは責めないであげてね」
「うん、それはいいんだけど……僕はこれからどうなるんですか?」
まったく予想がつかない。ただ、三月を待たずにこの学校を去る、なんてことにだけはなって欲しくない。
「うーん……まだ未定なんだけど、上の人は素直に失敗を認めたくないみたいでいっそのこと新くんをもう一年就学させよう、って流れになってるのよね」
はあっと香澄さんは大きな溜め息を吐いた。如何に優秀な人間でも上司が無能だと苦労させられる。これが社会の厳しい現実か。
「でも、私は嬉しいよ。もう一年堂島くんと一緒にいられるんだからね」
香澄さんとは打って変わって月野さんはにこにこ顔だ。
「そうなったら僕も嬉しいことは嬉しいんだけど……これって素直に喜んでいいのかなあ」
「よくないでしょうねえ……」
はあっとまた香澄さんは脱力した。僕の知らないところで香澄さんは日々相当苦労してそうだ。
キーンコーンカーンコーン
「あら、もう十二時ね」
時計の針は真上に重なり合い、正午の訪れを告げていた。
「この話はまた改めてしましょうか。二人共、文化祭の途中なのにわざわざありがとね」
「いえいえ、とんでもないです」
話の終わりを察し、僕は残ったアールグレイを飲み干した。
「おねえちゃん、後で一組にきてよね。わたしが接客しちゃうから」
月野さんが腰を上げた。当然カップに淹れてあったレモンティーはとっくに月野さんの胃袋の中だ。
「ええ。楽しみにしてるわね、ひまちゃん。あら、スカートに糸くずがついてるわよ」
香澄さんは穏やかに微笑みながらゴミを取り除いた。その光景から普段の二人の仲のよさが伝わってくる。
「ありがとおねえちゃん。じゃ、行こっか堂島くん」
「うん」
僕も月野さんに続いて立ち上がる。
「そういえば、新くんはまだひまちゃんのことを名前で呼んであげてないのね」
香澄さんは立ち上がりながらいった。
「そうそう。そろそろ呼んでくれてもいいよね、堂島くん?」
月野さんがじりじりとすり足で歩み寄ってきた。それに合わせて僕もじりじりとすり足で後ずさる。はたから見れば、犯人に追いつめられる被害者の構図だ。
「ほらほら、もう逃げられないよ。私たちはマブダチなんだからこれからは名前で呼び合うこと! ノーは受けつけないよ!」
とうとう壁際まで追い込まれてしまった。しかし、これもいい機会だろう。いつまでも恥ずかしいからと意地を張るのも大人げない。
「わかったよ。じゃあ、これからもマブダチとしてよろしくね……ひまわりさん」
「へっ!?」
月野さん改めひまわりさんは急に素っ頓狂な声を上げたと思ったら、見る見るうちに顔を紅潮させていった。
「やっ、ダメだよそういうのは、ほら、もっと特別な、その、えっと、だから、ね?」
ひまわりさんはポニーテールを揺らし、広げた両手を胸の前でぶんぶんと激しく振る。
「ね? っていわれても」
僕は視線で香澄さんに説明を求めた。
「ふふ。ひまちゃんは昔からひまわりって名前で呼ばれると照れちゃうのよ。そんなに赤くなったのは初めて見たけどね」
「おねえちゃんは余計なこといわなくていいの!」
「ごめん、知らなかったよひまわりさん」
「も、もうっ! 堂島くんまでー!」
ひまわりさんの意外な弱点を発見した。でもまだまだこれからもひまわりさんの色々なことを知りたい。教えてもらいたい。
「じゃ、じゃあ、わた、私だって堂島くんのこと、ニイさんじゃなくて、新くんって呼んじゃうんだからね!」
「うん。……これからもよろしく、ひまわりさん」
「っ! ほ、ほら、もう行こ! リオたちが待ってるんだから!」
ひまわりさんはぶつかり気味にドアを開け、廊下を突っ走っていった。
「新くん」
僕も部屋を出ようとしたところで香澄さんに呼び止められた。
「あの子のこと、よろしくね」
「はい! もちろんです!」
僕は香澄さんに一礼し、ひまわりさんに追いつくべく廊下を駆け出した。
「待ってよ、ひまわりさーん!」
「早くこないとメイド服着させちゃうんだからね、あ……新くん!」
僕たちは立ちはだかる人の波をかわし、時には立ち止まりながらも、前へ前へと走っていった。




