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四章

 雲一つない青空。照りつける太陽。本日は快晴、絶好の体育祭日和だ。この日を待ち侘びていた生徒はホームルーム前から早速身体を温め始め、抑え切れない昂ぶりを発散している。一方、まったく待ち侘びていなかった生徒はまさに死にかけた顔で登校し、「体育祭なんてなくなればいいのに」といった旨の呪詛を吐きながら机に突っ伏すことになる。


 前者の滝口さんは今日に限っては誰よりも早く登校していたようで、僕が学校についた頃には何故か教室のど真ん中でシャドーボクシングを披露していた。素人の僕が見ても圧倒されたアッパーカットに運悪く巻き込まれてしまった笹部くんには心から同情する。


 後者の安藤さんは席につくなり悲壮感たっぷりに手で顔を覆い、「ゲリラ豪雨……」と一言だけ呟いてからは微動だにしなくなった。今日はテレビのお天気お姉さんが晴れやかな顔で「降水確率ゼロパーセントです!」と豪語していたので、安藤さんの切なる願いは澄み渡る空に吸い込まれてしまう運命にある。


 どうして安藤さんが体育祭をを嫌っているかというと、一年生全員リレーに理由がある。


 一年生全員リレーはその名の通り、各組の一年生たちが校庭に引かれたトラックを走りバトンを繋いで順位を競うリレーのことだ。クラスは八組まであるので八人の生徒が同時に入り乱れることになるのだけど、安藤さんは練習でもその勢いに圧倒され萎縮してしまうため思い切り走れないばかりか、バトンの受け渡しでもミスを連発してしまうのだ。


「大丈夫だよゆめちゃん。たくさん練習したんだから、きっと上手くいくよ」


「ありがとうございます、ひまさん。でも、またみんなに迷惑をかけたりでもしたら、わたし……」


 月野さんと安藤さんはいつの間にやら愛称で呼び合う仲になっていたようだ。


「そんな心配しなくていいよ。もしゆめちゃんがミスしちゃっても次の堂島くんと私があっという間に挽回してみせるから。ね、堂島くん」


「え? あ、うん」


 月野さんのいうように、安藤さんの次の走者が僕と月野さんだから、彼女がミスした場合の巻き返しは僕たち二人の肩にかかっていることになる。しかし、


「でも、僕も足の速さはそんなに自信ないんだけどな……」


 僕がリレーの選手に選ばれるくらい運動能力があったのは小学生までで、今となってはただの凡人だ。昨日まで月野さんたちとスポーツセンターで地獄の特訓をして二人三脚やリレーに支障をきたさない程度には体力をつけたけど、それでも走力が大幅に改善されたわけではない。


「ちょっと堂島くん、昨日までのやる気はどうしたの! 『人生で最高の体育祭にしたい』って張り切ってたのに」


 確かにいった。だがしかし、いざ当日になると化けの皮が剥がされてしまった。もちろん頑張りたい気持ちはあるけど、今までの体育祭の苦い思い出が頭の中をぐるぐる走り回っている。吐きそうだ。もう帰りたい。


「僕、トイレ行ってくるよ」


 とりあえず心をすっきりさせるよりも先に身体をすっきりさせようと、僕はトイレに立った。




「あれ、香澄さん」


「あら、新くん」


 僕がトイレから出たところで、ばったり香澄さんに出会った。


「香澄さんが何で学校にいるんですか? 今日は休みですよね」


 香澄さんの仕事であるスクールカウンセラーは非常勤講師の扱いなので、学校行事に参加する義務はない。そのため、香澄さんは本来なら今日は休日のはずである。朝の電話でも学校に出勤するとは一言も話していなかった。


「実はね、新くんの応援をしにきたのよ」


「ぼ、僕の応援ですか?」


「ええ。本当は後でびっくりさせようと思ってたんだけど、失敗しちゃったわね」


 まさか香澄さんが、僕のために見にきてくれていたなんて。嬉しい反面、格好悪いところは見せられないと余計に気張ってしまう。


「ふふ、新くん緊張してるわね。顔が固くなってるわよ」


 早々に見抜かれた。つくづくこの人には敵わない。


「新くん、リラックスして。格好悪くても、泥臭くてもいいの。一生懸命頑張ることが一番大事なのよ。さ、一緒に深呼吸しましょうか」


 僕は香澄さんとゆっくり三回深呼吸をした。すると、まるで魔法にかけられたように気分が軽くなってきた。今までに何度も香澄さんに立ち直らせてもらった身からすると、彼女は本当に魔法使いなのではないかという錯覚さえ覚える。


「いい顔になったわね。もう心配いらないかしら」


「はい。おかげで調子が戻ってきました」


 やる気もみなぎってきた。僕はもう昔の僕じゃないと身体を張って香澄さんに証明したい。


「よかったわ。あ、そうそう。私、今日は保健室で九条(くじょう)先生のお手伝いをしてるから、もしケガをしたら手当てしてあげるわね」


 か、香澄さんの……手当て――




「おかえり堂島くん。って、どうしたの握り拳なんかつくって」


「月野さん、安藤さん。さっきは情けないところ見せたね。でももう大丈夫。今日は全身ズタズタのボロボロになる覚悟で頑張るよ」


「そ、それは流石に頑張り過ぎじゃないかな……」


「安藤さん、安心して。君の分まで僕が精一杯走るよ。それはもう関節から火花がほとばしるくらいにね」


「あ、ありがとうございます。あの、ちょっと目が怖いです……」


――体育祭、頑張ろう! 待ってて下さい、香澄さん!




 太陽がぐんぐん昇る午前八時半。校長と理事長による欠伸が出る程ありがたいお言葉ののち、体育祭が開始された。


「あーもう! また千佳(ちか)に負けたー! 悔しいー!」

「ならばその屈辱は是非リレーにぶつけてくれ」


 滝口さんと笹部くんの両者は、体育祭の第一競技であるニ百メートル走に出場した。笹部くんは序盤から清々しいまでのぶっちぎりで一着を獲得したのだが、滝口さんは同じ陸上部で五組の五十嵐千佳(いがらしちか)さんに僅かの差で敗れ二着となった。帰ってきてからも悔しさを抑え切れずにいた滝口さんは「ちょっと外走ってくる」といい残し何処へと走り去っていったのだが、「大人しく観戦してろ」と蒲生先生に首根っこを掴まれしょんぼりしながら強制送還されるのは少し後の話になる。


「食べられる競技って最高だよね。しかも二個!」


 月野さんはパン食い競争に出場し、堂々の一着。第一地点のパンを完食し第ニ地点のパンも完食して初めてゴールテープを切れる、一般的なそれより結構リッチでハードな競技だったのだけど、我らが食いしん坊クイーンは格が違った。他の生徒がパンを食べ切るために減速したり立ち止まる中、彼女だけが終始トップスピードで走り抜けたといえばその凄さが伝わるだろうか。


「お、お前らニヤついてんじゃねえよ! こっち見んな!」


 借り物競争でお題の書かれた紙を見た若葉さんは、やや逡巡したのち回れ右して観客席にいた月野さんの腕を取り、顔を赤らめながらゴールへと突っ走っていった。お題が何だったのか気になったので強制送還されたばかりの滝口さんと予想していると、「たった今ゴールした一組の生徒の借り物は、『最高の友達』でしたー」と大音量のアナウンスで正解を発表されることとなった。そして、帰ってきた若葉さんは僕たちによる冷やかしの洗礼を受け、口元が緩みっぱなしだった月野さんは若葉さんによるヘッドロックの餌食になった。


「……ぐすっ」


 安藤さんは何というか、悲惨だった。障害物競走に参加した彼女は、ネットと跳び箱は無事にクリアしたものの、次の「足だけでサッカーボールをバケツに入れる」関門を突破できず、結局タイムオーバーでゴールできずに最下位となってしまった。その後、べそをかいた安藤さんには会場から「よくやった」「頑張ったね」と温かい声援が注がれ、体育祭委員には「難易度考えろやボケー!」「女の子泣かすなんてサイテー!」と容赦ないブーイングが浴びせられた。来年の障害物競走にはバケツとサッカーボールは跡形もなく消え去っていることだろう。


 そしてとうとうやってきたプログラム九番「二人三脚」。僕と寺井くんの出番だ。


「ニイさん、緊張してないっスか?」


 どこかの誰かと違って顔だけでなく心もイケメンな寺井くんは僕への配慮を忘れない。


「いや、大丈夫だよ寺井くん。今日はゴールに顔から突っ込む気持ちで頑張るよ」


「それは頼もしいっスね。……それって俺も同じ運命辿りますよね?」


 僕と寺井くんは入場門近くの選手控え場所にて、僕の左足と彼の右足を紐で固定しているところだ。競技の最中に紐がほどけるとその場で結び直しになり膨大なタイムロスが発生してしまうので、準備は入念に行わなければならない。


 そう気をつけながら僕が紐を結び終えたところで、僕たちの前に三本の足、ではなく二人の女子が現れた。


「寺井くん、あたし応援してるから絶対一位取ってね!」

「どうも、堂島くん」


 榎本さんと葉山さんだ。彼女たちも僕たちと同じく二人三脚の出場者である。


 実は、月野さんたちと仲直りした後も僕は再び榎本さんと葉山さんに呼び出されていた。その時の二人は、前回よりも更に高圧的な態度で月野さんたちとの交際を断つよう僕に迫ってきた。でも、僕はもう怯まなかった。「友達は絶対に守る」「みんなに認めてもらえる人間になる」と、二人に納得してもらうまで何度も何度も説得すること一時間。遂に僕の熱意が伝わったのか、はたまた呆れ果てたのかはわからないけど、一応僕の主張を認めてもらえた……はずなんだけど、リアルタイムで僕に冷たい視線を浴びせているところから察するに、どうやら後者だったようだ。運動前に身体を温めないといけないのに芯まで冷えてしまいそうになる。


「ありがとな、榎本。お前らも頑張れよ」


 寺井くんがお礼をいうと、榎本さんの表情がパッと明るくなった。前から薄々感じていたけど、榎本さんは寺井くんに好意を寄せているみたいだ。彼女は中々、男を見る目はあるらしい。


「うん! 寺井くんの応援があれば百人力だよ。ね、(みどり)


「ね、っていわれても。私はさつきみたいに寺井くんのこと好きってわけじゃ――むぐぐっ!」


 目にも止まらぬ速さで榎本さんがアイアンクローにより葉山さんの口を強引に塞いだ。これと似たような光景、どこかで見たことあるぞ。


「そ、それじゃあ寺井くん、あたしたちもう行くね。ああ、それと……」


 榎本さんが鉄の爪を維持したまま僕の耳元まで近づいてきた。彼女の吐息がかかり、不覚にもドキリとしてしまう。


「寺井くんにケガさせたら殺す」


 そう囁かれ、別の意味でドキリとした。


 いいたいことはいい終えたらしい榎本さんは、葉山さんを率いて今度こそ去っていった。途中、榎本さんの後頭部が鞭のようにしなった拳により仕留められたのを僕は見逃さなかった。葉山さんも中々アグレッシブな女の子だったようだ。


「ニイさん、榎本たちと仲良かったんスね」


「えーと、うん。まあそれなりに」


 僕は適当に言葉を濁した。あの二人は僕と仲良しだなんてこれっぽっちも思ってなどいないだろう。


 でも、実をいうと僕は彼女たちと友達になりたいと思っていたりする。確かに性格はキツイし怖いけど、二人が僕に強く当たるのは友達の月野さんたちを案じた故の行動だ。それに、僕の身体に傷だのタトゥーだのとよからぬ噂が囁かれている時期に真正面から僕に物申したのだから、とても勇気のある子たちだとも思っている。できることなら仲良くしたい。


「続きまして、プログラム九番『二人三脚』です。選手入場」


 スピーカーから出番を知らせるアナウンスが流れた。音の波が肌をビリビリ震わせる。


「よし、行こう寺井くん」


「うっス」


 僕らは小さく頷き合い、絆で結ばれた足で雄々しく大地を踏み込んだ。




「だぁから、あんなに強く殴ることないじゃんっていってんの! 加減を知れアホ!」

「こっちは三途の川見せられたのよ! 一発で済ませてやったんだから感謝しなさいこのタコ!」


 などと、競技中にもかかわらず榎本さんと葉山さんは罵り合いながら仲良く(?)ゴールテープを切った。が、ゴールした後も二人は取っ組み合いのキャットファイトならぬ獅子と虎の激闘を繰り広げたため、蒲生先生に観客席まで引っ張られ、借りてきた猫のごとく大人しくなるまでこっぴどく叱られることになった。


「き、気を取り直して、えーと、えーと、あ、次は男子の二人三脚です。それではどうぞー」


 放送部の子もあの二人が放っていた殺気に取り乱している。かわいそうに。


 それはそうと、僕たちは男子の部の第一走者のため早速第一レーンに足を運んだ。腕を互いの背中に回し、がっちりと肩を組んで規定の姿勢をとった。紐がほどける心配はなさそうだ。


「ニイさん、準備はいいっスか」


「う、うん」


 先程までは何ともなかったのに、いざ出番となると緊張のせいで一言しか言葉が出なかった。更に応援や歓声、スピーカーから発せられるBGMによって否が応にも心拍数が高められてしまう。


――どうしよう。身体が固くなってきた。


 この二人三脚の行方は、僕がどれだけ寺井くんについて行けるかにかかっている。今日までに彼とは幾度となく練習を重ねてきたけどその運動能力は歴然で情けない話、僕が彼にスピードを合わせてもらっているのだ。だから二人の順位は僕の肩にかかっている。


「それじゃ位置について下さーい」


 スタート地点にいる体育委員の生徒がスターターピストルの銃口を天に向けた。


――まずい、まずいぞ。……ん? あれは……。


 僕が顔を上げ百メートル先のゴール地点の向こうに目をやると、何ということだろう、女神がいた。香澄さんだ。観客席の辺りにいて、僕と目が合うと控えめに手を振ってくれた。


『格好悪くても、泥臭くてもいいの。一生懸命頑張ることが一番大事なのよ』


 香澄さんの言葉を思い出す。すると身体から余計な力が抜けてきた。


 そうだ、一生懸命やるんだ。一生懸命走って、香澄さんの元へ――!


「位置についてー、よーい」


「寺井くん」


「何スか」


「僕についてきて」


「え」


 パァンッ


 破裂音が響き、選手が一斉に走り出した。頭一つ抜きん出たのは僕たちだ。


「いちにいちにいちにいちにいちにいちにぃ!」


 予め決めておいたかけ声でタイミングを合わせながら僕たちはコースを疾走する。


「うおぉっ! ニイさん飛ばし過ぎじゃないっスか!」


 こんなペースで走るのは練習でさえ皆無だったから寺井くんが戸惑っている。だが、彼はそれでもしっかり合わせてくれるのだから流石だ。僕はそんな彼を、そして自分を信じて更にペースを上げた。今現在視界には比肩する者はいない。暫定トップだ。


「いちにいちにいちにいちにいちにいちにぃ!」


 早々に三十メートル地点を通過し風を切りながら走る、走る。すると、僕たちの真横からぬっと頭が伸びてきた。二組だ。まさかこのスピードについてこれるなんて。


「ニイさん!」


 寺井くんの発した言葉はその一言だけだったけど、彼の言葉には「俺なら大丈夫っス」という意味が込められているのだと悟った。彼だって足首フェチだ、この競技には並々ならぬ思いを抱いているに違いない。あとは僕次第だ。転倒を避けてスピードを落とすか、それをも覚悟で勝利をもぎ取りにいくか。


 そんなことは決まってる。当然――


「いちにいちにいちにいちにいちにいちにいちにいちにいちにいちにぃ!」


 僕たちは更にもう一段階ギアを上げ、肉体の限界に挑戦した。肩を抱いた腕により一層の力が入る。


「バカな! まだ余力があるってのか!」

「だが、それ以上は自殺行為だぞ!」


 二組から発せられる驚嘆の叫びを背中で受けつつ、僕たちは尚も加速し、纏わりつく風を引き裂いていく。


「くっ!」


 段々宙を蹴っている感覚を覚え始めた。今のスピードに僕の足が後れを取り始めたのだ。だが、ここで恐れおののくわけにはいかない。


 残り二十メートル。身体が前のめりになっていくのを僕は必死で堪え、顔を振り上げる。その先には香澄さんが声を張り上げ声援を送ってくれている。


――もう少しだ!


 残り十メートル。最早僕たちの前を走る者も、並走する者さえ存在しない、独壇場だ。しかし、


「うわっ!」

「ぐっ!」


 残り五メートルでとうとう僕の左足が追いつかずに空回りし、寺井くんの右足に引っ張られた。途端にバランスが崩れてしまう。その間にも背後から二組の砂を蹴る音が、もうすぐそこまで迫ってきている。


 迷ってなどいられない。僕たちは体勢を立て直す選択肢を蹴り飛ばし、不安定な姿勢のままゴールを目指して最後の力を振り絞った。あと一メートルだ。ここにきて二組が視界の隅に映ってきた。


「届けえぇ!」


 栄光を勝ち取ったのは――


「只今の結果、一着でゴールしたのは一組です! おめでとうございまーす!」


――やった。逃げ切った。僕たちの、勝利だ!


「やったね寺井くん!」


「うっス!」


 僕たち二人は身体を砂まみれにしたまま勝利の余韻に浸った。最後の最後に倒れ込んでしまったけど、それが功を奏したようだ。すりむいた膝も勲章に感じられる。


「へっ、お前らには負けたぜ」

「見事だった。おめでとう」


 二組の二人が手を差し伸べてきた。僕たちは紐をほどいて彼らの手を掴み立ち上がった。そして互いに健闘を称え合う。今ここに、男の友情が生まれた。


――そうだ、香澄さんはちゃんと見ててくれたかな。


 僕は香澄さんがいた方へ顔を向けると、香澄さんが満面の笑みでガッツポーズをしてくれた。離れていて聞き取れないけど「よく頑張ったわね」といってくれているようだ。感無量である。


「オジさん」


 興奮で温まった身体が一瞬にして凍った。恐る恐る振り向くと、そこには荒ぶる獅子、榎本さんが退場門を今にも潜り抜け襲いかかってくるかのような迫力で仁王立ちしていた。


 僕は思い出した。寺井くんにケガをさせたら、榎本さんに殺されることを。


「て、寺井くん。もしかしてさっき転んだ時にケガとか、した?」


「腕を少しすりむいたぐらいなんで平気っス」


 終わった。さようなら、生まれ変わった僕。さようなら、香澄さん。最後にあなたに手当てをしてもらいたかった……。




「……幸せだ」


 あの後、僕は榎本さんの魔の手から何とか逃げ延びることができた。というのも、退場門で待ち伏せていた榎本さんが寺井くんに気を取られている隙を見計らって、命からがら保健室に逃げ込むことに成功したのだ。そして今僕は香澄さんの手厚い看護を受けている最中である。


「堂島くん、一位おめでとう。格好よかったわよ」


「へへ、ありがとうございます、か……北条さん」


 香澄さんが僕のカウンセラー役を担っていることは隠しているわけではないけど周知されているわけでもない。知っているのは蒲生先生や九条先生といった教師くらいだろう。だから変に誤解されないように、周りに人がいる時は苗字で呼び合うことにしている。


「これでよし、っと」


 僕の膝に絆創膏を張り終え、香澄さんは立ち上がった。手当て終了の合図だ。


「えー、もう終わりですか北条さん。まだ少し痛むんですけど」


「男の子ならそれくらいへっちゃらでしょ。さあ、立って立って。この後二年生の騎馬戦があるから忙しくなりそうなのよ」


 駄々をこねたものの通用しなかったので、僕は渋々席を立った。それと同時に、ケガをした生徒の手当てを終えた九条先生もコーヒーの湯気が漂うマグカップを机に置き、椅子から立ち上がる。


「それでは北条さん、私は見回りに行ってくるのでしばらく離れます。堂島くん、他に誰もいないからって早まってはいけないよ。それでは」


 九条先生は上履きからハイヒールに履き替え、グラウンド側のドアから外へ出ていった。


 九条先生は僕が不埒な過ちでも起こすと思ったのだろうか。心外だ。女性と手すら繋いだことのない僕のピュアハートを舐めないでもらいたい。


「九条先生ったら、ああいう冗談好きなのよ。ところで新くん、気分はどう?」


 保健室には僕と香澄さんのみとなったので、「堂島くん」からいつもの「新くん」に変わった。やはりこっちの方がしっくりくる。


「気分ですか? 特に具合は悪くないですけど」


「そうじゃなくて、一生懸命走ってみてどうだった? 気持ちよかったんじゃない?」


「そういわれてみれば、そうですね。清々しいって感じでした。砂まみれになりましたけど何だか気分がいいです」


 ゴールテープを切り勝利を告げられた瞬間、口では説明できないくらいの達成感と高揚感を味わった。今まで一緒に練習してきた寺井くんと勝てたことが本当に嬉しかったし、胸の中が満たされる思いだった。こんな感情は何年振りだろう。


「うふふ。変わったわね、新くん。とってもいい顔するようになった」


 香澄さんが眩しそうに目を細めて僕を見た。こんな表情をされるのは初めてなので思わず見とれてしまう。


「こうしてしっかり目を合わせられるようになったのも成長の証よね。よしよし」


 香澄さんは満足そうに僕の肩をぽんぽんと叩いた。どうやら香澄さんに僕の進歩を証明することができたようだ。これで今朝、心に誓った目標は達せられた。でも、


「僕なんてまだまだですよ。だから、この後のリレーも応援してもらえると嬉しいです」


 桜星に入学してから二ヶ月も経っていない。ということは卒業まで十ヶ月以上もあるのだ。だから僕の成長はまだまだ発展途上だし、まだまだ香澄さんには見守っていてもらいたい。


「ええ、もちろんちゃんと見届けるわ。頑張ってね新くん!」


 香澄さんの笑顔を全身にチャージして僕は保健室を後にした。身体中がやる気に満ち溢れているのをひしひしと感じる。今の僕に恐れるものなどありはしない。


「待ってたよ、オジさぁん」


 香澄さんのぬくもりが残っていた肩に、後ろから獰猛な野獣の手が添えられた。


 果たして、僕は無事に全員リレーに出場することができるのだろうか。




「…………」


 体育館裏でこってり絞られた。女の子が怒るとああも恐ろしいものだとは。僕は今日、恐怖という牙を心臓に埋め込まれた。


「堂島くん」


「ひぃっ!」


「ど、どうしたの。怯えた声出して」


「つ、月野さんか。脅かさないでよ」


「いやいや、全然脅かしてないよ。むしろ控えめだったよ」


 僕たちが今いるのは一年一組の観客席。ここで僕は二年生の騎馬戦を観戦しながら先程受けた傷を癒していた。


「あーいたいた。ひーまー。おニイちゃーん」


 滝口さんがふうふうと息をしながらこちらへやってきた。


「どうしたの滝口さん。息が荒いけど」


「うん。学校の周り三周してた。リレーまでに身体あっためとかないとねー」


 本当に、底抜けに元気な子だ。あと三十分もしないうちに出番だというのに。僕が真似したら一時間はぜん息のような症状が発症するだろう。


「さおりん、今度は絶対五十嵐さんに勝ってね。私、全力で応援するから」


「ありがとひまー! ウチ、ぜーったいあいつを負かしてやる!」


 五十嵐さん……二百メートル走で滝口さんを破った五組の生徒だ。ボーイッシュな髪型にすらっとした高身長で、陸上のユニフォームがよく似合いそうな印象だった。


「おニイちゃんもひまと一緒にウチのこと応援してね。校舎が崩れるくらい声出してね」


「えぇ……そこまではちょっとなあ」


「お願い! ウチ、絶対に絶対にあいつに勝ちたいの!」


 滝口さんは手を合わせて頭まで下げてきた。


「さおりんと五十嵐さんはね、中学は違うんだけど陸上の大会では何度も顔を合わせてきたんだって。でも、毎回僅差で負けちゃうらしいの」


「ウチ、中学までずっとあいつに負けっぱなしだったしさっきも負けちゃったけど、次こそは負けたくないの! 高校ではあいつを追い越したいんだよ。あいつに、ウチの背中を見せつけてやりたい。だからお願い、おニイちゃんの力を貸して!」


 滝口さんの目は真剣そのものだった。瞳の奥からは断固たる決意が感じられる。


 彼女はついこの前までの僕と同じだ。僕が過去と向き合い、それを乗り越えたように、彼女もまた過去の悔しさをバネに、前に進もうとしている。自分を変えようと必死にもがいている。


――応援してあげたい。勝たせてあげたい。


「わかった。僕も声が枯れるくらい応援するよ! 頑張って、滝口さん!」


 滝口さんの顔がぱあっと華やいだ。


「ありがとーおニイちゃん! 大好きー! 愛してるー!」


 無駄に声が大きいせいで周りの生徒たちが一斉にこちらを見た。そんな目で見ないで欲しい。これは決してそういうプレイとかじゃないぞ。


「プログラム十五番『一年生全員リレー』に出場する生徒は入場門に集まって下さい」


 僕たちの出番を告げるアナウンスが聞こえてきた。僕の出場競技はこれで最後となる。自然と気が引き締まってきた。


「じゃ、ウチは第一走者だから先に行ってるよー」


「あ、待ってよさおりーん」


 駆けていく滝口さんを追うように僕と月野さんも入場門へと走った。




 一年生全員リレーは、一組から八組までのクラスがそれぞれチームとなり、男子と女子がそれぞれトラックの反対側に分かれ、半周ずつを走りバトンを繋いで順位を競う競技である。ただし、第一走者はトラックから少し離れた入場門辺りからのクラウチングスタート、そしてアンカーはトラックを半周ではなく一周してのゴールとなる。


 只今第一走者の滝口さんはスタート地点にて準備体操中。入念に行っているところを見るに、この一戦に賭ける思いがひしひしと伝わってくる。


 一方、滝口さんのライバルである五十嵐さんはリラックスした様子で屈伸運動を行っている。体格は滝口さんよりやや大きいか。競り合うのは若干不利かもしれないが、今のやる気に満ち溢れた滝口さんには取るに足らない要素だろう。


 第一走者のスタート地点は、一組の滝口さんが最も内側だ。その代わりに他のスタート地点より直線が長めに取られている。対して八組の生徒は最も外側を走る代わりにコーナーには最も近い位置からスタートする。こうして長さを調節し、どのレーンも同じ距離になるよう調整されている……ということは頭で理解しているけど、これが昔から納得できない。どう見ても内側のレーンが他より長く見えてしまう。


「よおオジさん」


 男子の待機場所でもやもやしていると、突然強い力で肩を叩かれた。二階堂だ。


「……何か用?」


 走る前だというのに無駄に身体に力が入ってしまう。一体こんな時に何の用事なんだ。


「オジさん、わかってるだろうがそのどんくさい足でアンカーであるオレの足を引っ張るなよな。オレは一位でゴールする予定なんだからよ」


 嫌味だろうな、とは感づいていたけどいざその通りになると呆れて溜め息が出てしまう。


 本来なら笹部くんがアンカーとしてふさわしい人選のはずなんだけど、二階堂は当然のようにアンカーとして名乗りを上げ、笹部くんも特にこだわりを見せなかったのでこんな結果になってしまった。もう決まってしまったこととはいえ、こいつに僕たちの最後を託すのはやはり不服だ。


「ま、そういうことだからよ、精々安藤みたいな足手纏いにはなるなよ。じゃあな……あ? 何だよこの手は」


 僕は二階堂の腕をギッと強く掴んでいた。頭で怒るより先に身体が反応していた。


「訂正してよ。安藤さんは足手纏いなんかじゃない」


「はあ? 事実だろうが。あいつのせいで練習でも順位がガタ落ちしたのをお前だって見てただろ。安藤は一組のお荷物なんだよ」


「それでも彼女が一生懸命走ってたのを僕は知ってるよ」


「あのな、一生懸命やったところで結果が出なきゃ意味ねえんだよ。大事なのは過程じゃねえ、結果だ。……いい加減離しやがれ!」


 そういいながら僕の手を振り払った二階堂は、何故か少し寂しげに見えた。


「なら、僕が取り戻す」


「何の話だよ」


 僕は二階堂に宣戦布告した。


「安藤さんが遅れた分は僕が必ず取り戻す。彼女を足手纏いなんかにはさせない。そんなことはいわせない。僕が巻き返してみせる!」


 宣言してしまった以上逃げることは許されない。けれど、逃げるつもりはない。友達をバカにされたままおめおめと引き下がるなんてことは、絶対にできない。


「ほう、いうじゃねえか。それでもし無様な走りしかできなかったなら走り終わってすぐ、俺の前で土下座でもしてもらおうか」


「いいよ。その代わり僕が巻き返せたら――」


 僕が提案を話し終える前に、リレー開始のアナウンスが流れた。


「巻き返せたら、なんてありえねえんだよ。クソニートの分際で。じゃあな、期待してるぜ。お前の土下座をな」


 捨てゼリフを吐いた二階堂は鼻歌を歌いながら去っていった。どこまでも腹が立つ奴だ。


 しかし、今大事なのは滝口さんの応援だ。気持ちを切り替えなくては。


「位置について」


 遂に始まる。僕は喉の調子を整えた。


「よーい」


 スターターピストルの銃身が上に向く。合わせて僕はすうっと大きく息を吸い込む。


 パァンッ


 弾かれたピンボール玉のごとく、第一走者が一斉にスタート地点から飛び出した。いち早く反応したのは滝口さんと五十嵐さんだ。


――ここだ。


「頑張れえぇー!滝口さーんっ!」


 場内で湧き上がりかけた歓声が一瞬にして静まり返った。今までの人生で一番の、怒声にも似た大声を出したのだ。それくらい驚いてもらわなくては困る。正直注目を浴びて恥ずかしいのだけど、この隙はチャンスだ。今のうちにできるだけ多くの声援を滝口さんに届けるんだ。


「滝口さーん! 行けー! 走れえー!」


 僕に触発されたのか、呆気にとられていた場内がふつふつと熱を帯び始め、今日一番の大歓声が巻き起こった。


「さおりさんファイトー! みんな応援してるよー!」

「お前ならやれる! 根性出せー!」

「負けんな小森ぃ! 練習の成果見せろー!」

「一位なら焼肉奢ってやる! アイスもつけるぞお!」

「よしいいぞ、その調子だ! 行け行けぇ!」

「五十嵐さん頑張ってー! 素敵ー!」

「俺たちの友情パワーを見せつけてやろうぜー!」

「凛子ーこれが終わったら俺とつき合ってくれー!」


 その頃、八組の生徒はスタート地点が最もコーナーに近かったため、既にカーブに差しかかっていた。逆に、コーナーに最も遠い滝口さんはまだ直線を走っているものの、既に二組を追い抜いていた。練習の時より遥かに速いペースだ。


「滝口さん飛ばせー! 行けー!」


 僕も周りに負けじと滝口さんに声援を送る。その間にも滝口さんはカーブを曲がり始め、三組と並走し、即座に抜き去った。そしてコーナーを越えた頃には彼女の前を走る者はいなくなった。


 しかし、肩を並べる強者がいる。五十嵐さんだ。ラストスパートの直線でセパレートコースからオープンコースに変わったため、二人は真一文字に並んで女の意地とプライドを激しくぶつけながら火花を散らし激走している。


 と同時に、第二走者の並び順も目まぐるしく変わり始めた。一組、五組、六組と順にインコースに並んでいく。


「頑張れ、滝口さん!」


 二者がぐんぐんこちらへ迫ってくる。どちらも必死の形相だ。


 だが、僅かに五十嵐さんが前に出てきた。もう半身が滝口さんを越してきている。このままではバトンを渡す前に追い抜かれてしまう。


 まずい、と思い滝口さんを見ると、一瞬彼女と目が合った。


『絶対に絶対にあいつに勝ちたいの!』

『あいつに、ウチの背中を見せつけてやりたい』

『おニイちゃんの力を貸して!』


 滝口さんの思いが、願いが、決意が、僕の頭の中で駆け巡った。


――滝口さん、負けるな!


「勝てぇ! 勝つんだ滝口さぁん!」


 校舎を粉砕するどころか、粉微塵に消し飛ばす勢いで滝口さんを力の限り鼓舞した。


 すると、離されていたはずの距離が段々と縮まり始めた。そして再び並んだかと思うと滝口さんのまっすぐ前を向いた頭が、激しく前後する腕が、地面を蹴り飛ばす足が、徐々に徐々に五十嵐さんを追い抜き始めたのだ。


「滝口さん! 行けー!」


 そして遂に、テークオーバーゾーンで滝口さんが五十嵐さんを追い越した。彼女は今まで越えることができなかった壁を打ち破り、背中を見せつけてやったのだ。


 バトンも第二走者の保坂君に無事引き継がれ、第一走者の激闘は、滝口さんの完全勝利で幕を閉じた。


「ありがとーおニイちゃあああん!」


 テークオーバーゾーンからトラックの内側へ入ってきた滝口さんがくるっと向きを変えこちらに走ってきた。と思ったのも束の間、そのまま押し倒さんばかりの勢いで抱きついてきた。全速力で走ってきたばかりだから彼女の身体がホクホク熱い。その上、色々柔らかいのと汗とシャンプーが混じった何ともいえない匂いが鼻腔をくすぐるのとで理性が吹っ飛びそうになる。


「おニイちゃんたちの応援のおかげであいつに勝てたよー! ほんとにありがとー! おニイちゃん大好き! 愛してるぅー!」


 滝口さんの細い両腕がぎゅっと締まり、更に身体が密着した。彼女のふくよかな胸が僕の胸板に一層押しつけられ、鍛えられた健康的な足が僕の足の間に入り込む。


――滝口さんって、結構あるんだなあ。いい匂いもするし、これが天国……違う、そうじゃない! 今はそれどころじゃなかった!


「た、滝口さん。喜ぶのは後にして、今は保坂君を応援しようよ!」


「あ、そうだった。頑張ってー保坂っちー!」


 滝口さんはパッと身体を離し、何事もなかったかのように保坂くんに手を振りながら大声で声援を送った。


 危なかった。香澄さん的な意味でも、プロジェクト的な意味でも、男の本能的な意味でも、色々と本当に危なかった。


 僕も気を取り直し、走っている保坂君を見た。その顔は真剣であり、また強張っているように見えた。きっと相当のプレッシャーを感じているのだろう。


――そうだ、滝口さんだけじゃない。みんな緊張したり不安に思いながら懸命に頑張ってるんだ。


 声を張り上げて応援するのは滝口さんだけにしようと思っていたけれど、予定変更だ。一組のみんなを応援しよう。僕はそう心に決めた。


「頑張れ保坂くーん!」


 僕の声に気づいた保坂君は驚いた様子で僕に顔を向けた後、ニッとはにかんだ。緊張は幾分か解けたようだ。


 保坂君はそのまま一位をキープし、バトンは第三走者の葉山さんに引き継がれた。


「葉山さんファイトー!」


 葉山さんは僕に応援されて迷惑に思うかもしれないけど、それでも僕はクラスのために力走する彼女を勇気づけてあげたかった。


「君たち、応援しているところすまないが、いいか?」


 葉山さんに声援を送っていると、第四走者の笹部くんが話しかけてきた。彼は普段通りの佇まいだ。こういったプレッシャーはもう慣れっこなのだろう。


「どったの笹ちん。心配しなくてもちゃーんとウチらが鼓膜破れるくらい声出してあげるって」


「いや、僕に声援は必要ない。恥ずかしいから止めてくれ。嫌な予感しかしないからな。おっと、もう出番だ。では、頼んだからな」


 そういって笹部くんはレーンに入っていった。


「どうする? おニイちゃん」


「やっぱり応援したいな」


「だよねだよねー」


 葉山さんがテークオーバーゾーンに侵入した。笹部くんはそのラインのギリギリでバトンを受け取りあっという間に二位以下を引き離した。流石だ。


 彼の背中を見送る僕たちは仲良く同時に息を吸い、そして吐いた。


「頑張れ笹ちーん!」


 早くもコーナーを通過した笹部くんにキッと睨まれた。頬がやや紅潮している。リレーが終わったらきっとどやされるに違いない。


 その後、声を張り上げて応援しているうちにリレーは中盤戦に差しかかり、そろそろ僕の出番が到来する頃となった。ここまでで各組の順位は目まぐるしく入れ替わり、現在の一組の順位は八、二組に続く三位だ。トップ争いの圏内である。しかし、四位以下がすぐそこまで迫っているので油断はできない。


 そして僕の一つ前、安藤さんにバトンが回った。


「安藤さん、頑張って!」


 安藤さんの必死さが、引きつった表情から伝わってくる。


「ゆめゆめ行け行けー! さあさあ、おニイちゃんは急いで準備して!」


「うん、わかった」


 もう少し見守っていたかったけど、滝口さんに促されるまま僕は素直にレーンに入った。


 暫定三位だから内側から三番目の位置に入ろうとすると、体育委員に待ったをかけられた。


「一組はもっと外になりそうよ」


「え……」


 砂が巻き上げられる音がする方へ顔を向けると、安藤さんがコーナーの中間で四位以下の集団に襲いかかられていた。インコースの彼女をアウトコースから五人もの走者が抜きにかかっている。


 全走者がコーナーポストを越えた時には、安藤さんは最下位に転落していた。それにより、僕はレーンの最も外側に追いやられた。


 悔しさの涙を一杯に湛えながら安藤さんが走ってくる。既に八、ニ組はスタートを切っていた。他の走者も続々と僕の前を過ぎ去っていく。


『精々安藤みたいな足手纏いにはなるなよ』


――させない。


『安藤は一組のお荷物なんだよ』


――僕がそんなこと、いわせない!


「安藤さん!」


 僕はテークオーバーゾーンをスタートしつつ、安藤さんに宣言した。


「僕に任せて!」


 安藤さんは涙を雫しながら頷き、しっかりとバトンを繋いでくれた。僕はそれを決して離さないように、力の限り握りしめた。


『巻き返せたら、なんてありえねえんだよ。クソニートの分際で』


――僕が絶対に巻き返す!


 僕はカッと目を見開き、腕と足の関節が燃え上がる勢いで駆け出した。そしてすぐ前方の七、六、五位を捉える。最下位とはいえ、彼らとは若干の距離が開いているだけの団子状態だ。三人がくすぶっているうちに抜きにかかる。


「堂島くん頑張れー!」

「かませぇ、ニイさん!」

「おニイちゃんぶっ飛ばせぇー!」


 月野さんたちの声援が僕の心臓を揺さぶる。ここで応えなければ、男じゃない。


――うおおおおおおお!


 ギシギシと奥歯が粉々に砕ける程の気持ちで歯を食いしばり、彼らに迫る。七、六位がアウトコースに出ようとほんの少しだけ頭の角度を変えた。そうはさせまいと僕は外側から一気に二人を牽制し、そのまま抑え込むことに成功した。おかげで余計なロスをせずに済んだ。僕はそのままぐんぐんと五位に並んでいき、相手のペースが一瞬落ちた隙を見計らって身体をインコースに突き刺した。これで暫定五位だ。


「ニイさん、その調子っス!」

「僕に恥をかかせたことをその走りで償え!」


 寺井くんと笹部くんの太い応援も僕の背中を押してくれる。


――そうだ、まだまだこんな結果じゃ終われないんだ。


 僕は身体をただひたすら走ることだけに専念させ、コーナーを曲がり始める四位に襲いかかった。体内にどんどん熱が蓄積されていくのを実感する。視界の隅には無数の星が瞬くかのようにチカチカ明滅している。


 四位に続いて僕もコーナーに到達し、カーブでの足の負担など気にも留めずに前方の背中に喰らいついていく。


――抜く! 必ず抜く!


 じりじり、じりじりと距離は確実に縮んでいる。しかし、あと一歩、外から抜き去ることができない。


――諦めてたまるか!


 僕は敢えてアウトコースに外れていき、無理を承知で抜きにかかった。


 すると突然、前の背中が若干ふらついた。カーブにバランスを崩したようだ。


 絶好の好機を逃すまいと、僕は身体と心ををグイグイ前に突き出し一気に急角度でその身をインコースに捻じ込みにいく。そして、コーナーを曲がり終える前に辛くも抜き去ることに成功。これで四位に浮上した。


――あと一人、あと一人だ!


 安藤さんの後れを取り戻すには、彼女が抜かれる前の順位である三位に躍り出なければならない。腕三本分の先を走る三位を、追い抜かなければならない。足に疲れが溜まってきたが、バトンを渡し終えるまでに全速力は保てるはずだ。月野さんたちとスポーツセンターで特訓した地獄の走り込みの成果がここにきて発揮してきた。


――やるんだ、やってみせる! 絶対に!


 コーナーを曲がり切った僕は、最後の直線に挑む。向こうでは月野さんがこちらに手を振って僕を待っていてくれている。他に目に入るのは眼前の背中だけだ。後は何も見えない。今や歓声さえも聞こえない。聞こえるのは己が発する歯軋りと心臓の鼓動だけだ。先程感じていた疲れや痛みなどまるで皆無といっていい。


――届け届け届け届けぇ!


 千切れ飛ぶのではないかと思うくらい腕を振り上げ、振り下ろし、足を前に出し、地面を蹴り飛ばす。そうしてとうとう三位の横顔が見えてきた。月野さんまでは残り約五十メートル。ここが正念場となる。


――おおおおおおおおおおおおおお!


 僕は心中で全細胞を奮い立たせる雄叫びを上げ、死に物狂いで全身全霊をたった数秒の、このラストスパートに賭けた。


――うおおおおおお! 勝つ! 勝つ! 勝つんだ!


 全身が熱を纏い炎の塊と化した僕はテークオーバーゾーン突入と同時に、遂に並んだ。そして、助走をつけて駆け出した月野さんにバトンを渡す直前――抜いた。僕の半身が、確かに前を走っていた。単独の三位となっていたのだ。


「月野さん!」


「まっかせといて!」


 僕たちの思いを乗せたバトンを今、確実に月野さんが受け取った。彼女はすぐさまその腕をブンと振り上げ、見る見るうちにその背中を小さくしていった。


「ハア、ハア、ハア、ハア、ゴホッゴホッ」


 トラックの内側に入った僕は、肩で息をしながら両手を膝の上に乗せた。ここで全身に疲労がどっと出てきた。まるで長距離を走ったかのように、呼吸をする度に肺がじんじん痛む。足もあと一歩動いたら途端につってしまいそうだ。熱湯に浸かっていたのかと思うくらい頭も顔も胴も手も足も何もかもが熱い。


――でも、やった。勝ったんだ。


 三位だ。五人を抜いて、安藤さんが遅れた分をきっちりカバーすることができた。


――もう倒れそうなくらいへとへとなのに、どうしてこんなに気持ちいいんだろう。


 この達成感と高揚感は二人三脚の時を超えるかもしれない。友達の名誉を守れたこと、クラスの思いがつまったバトンを繋げたこと、自分の限界以上の力を出せたこと、その全てが幸せだった。


「ニイさんやるじゃねえか! 大金星だよあんた!」

「ああ。見事なごぼう抜きだったぞ。よくやったな」


 若葉さんと笹部くんが僕に駆け寄って健闘を称えてくれた。


「ニイさん、ナイスっス!」

「おニイちゃーん! 超、超格好よかったよー!」


 トラックの反対側で寺井くんと滝口さんが手を振ってくれている。隣には安藤さんもいて、しきりにぺこぺこ頭を下げていた。僕はへろへろになりながらも彼らに手を上げて応えた。


 その視界に、二階堂が映った。僕は二階堂に目を向けると、奴はバツが悪そうに顔を背けた。僕が勝利した何よりの証拠だ。僕は心の中でガッツポーズした。


 しかし、いつまでも喜びに浸ってはいられない。


「頑張れ月野さーん!」


 呼吸をできるだけ整え、今も尚懸命に走っている月野さんに精一杯のエールを送った。


「おいおい、しばらく休んでなって。死にそうな顔してるぞ」


「ありがとう、若葉さん。でも、みんな頑張ってるから応援してあげたいんだ」


「ニイさん、何だかひまみたいなこといってんなあ」


 そういわれればそうかもしれない。月野さんはいつも明るい笑顔で周りの人を励ましていた。かくいう僕も、彼女の励ましと支えに何度も助けられてきた。


 だから今度は僕の番だ。


「月野さん頑張れー!」


 僕たちの応援もあってか、ラストの直線で月野さんはぐんぐん、ぐんぐんと二位に迫り、一気に追い抜いた。そしてそのままバトンが次の走者に託された。


 帰還した月野さんはこちらへ向かって息も乱さず、笑顔でピースサイン。


「へっ、流石だなひまは」


「うん。本当に凄い子だよ、月野さんは」


 心の底からそう思う。月野さんは凄い子だ。と感心していたその時――


「ぐああっ!」


 不意に僕に鈍い激痛が襲いかかってきた。この痛みはまさか……。


「お、おいどうしたニイさん!」


「つ……」


「つ?」


「つった……足。いだだだだだ!」


「……笹部、面倒見てやってくれ」


「仕方ないな」


「ニイさんさあ、ほんっとに冴えねえよなあ」


――面目ない。


 その後、僕は座って笹部くんに足をほぐしてもらいながら応援するという、何とも間抜けな姿を晒している間にも各組の順位は入れ代わり立ち代わり、我が一組が五位に甘んじたままいよいよリレーは終盤戦に突入した。


 寺井くんの出番になると、彼と同じ部活の仲間たちが野太い声を響かせ辺りに男臭いムードを漂わせた中、意外にも榎本さんとは違う女子からもちらほらと黄色い歓声が湧き上がった。この学校にも男を見る目のある女子がいたのだと僕は安堵した。


 当の寺井くんは目にも止まらぬ快速列車のごとく遥か前方で走っていた四、三位を追い抜き、一組を再びトップ争いの射程圏内に送り届けてくれた。


 続く若葉さんも月野さんに負けず劣らずの力走振りを発揮した。が、出走直前に月野さんのように髪を結った若葉さんに周囲の男子が見とれてしまったようで、彼女は名も知らぬ男子たちから太ましい声援をかけられることとなった。


 それに負けじと月野さんも「リオー! 『最高の友達』が見守ってるよー!」とエールを送れば、「うるせー! 黙って見てろー!」と阿吽の呼吸でツッコミが入り、場内に笑いが湧いた。


「さあいよいよレースも大詰め! 一、六、八組がほぼ同時にバトンを渡し、三人が一斉にアンカーに向かって走り出しましたー!」


 アナウンスの通り、遂に終わりが近づいてきた。現在の走者は榎本さん。暫定トップだ。


「榎本さんその調子ー!」


 僕はとっくに枯らしただみ声で榎本さんに力の限り声援を送る。周りの生徒や観客席からも、僕の声をかき消す程の熱を帯びた大声援が響き渡っている。盛り上がりは最高潮だ。


 榎本さんはコーナーに突入。その後を六、八組がピタリとくっつくように追いすがる。と思った矢先、六組がグイグイとアウトコースから榎本さんを追随し始めた。かなり速いペースだ。ほんの僅かな間に榎本さんは並ばれてしまった。


「頑張れ榎本さーん!」


 僕も必死になって声を張り上げる。


 ドンッ


 そうした音が聞こえたわけではないけど、そのような光景を僕は見た。突然榎本さんの身体がふらついたのだ。偶然か故意かは定かではないが、六組が榎本さんを抜き去ると同時に接触し、その衝撃でカーブを走っていた榎本さんがバランスを崩してしまった。


 トラックの内側に倒れていく榎本さんの姿が、僕の瞳にはスローモーションに映った。とっさに手をついたことで転倒は免れたものの、彼女の瞳は覇気を失っているように見えた。その間にも、八組が榎本さんをここぞとばかりに追い抜こうとしている。


――踏ん張ってくれ、榎本さん!


「立て! 榎本さん! 立てえ!」


 僕は無意識のうちに腹の底から声を出していた。


 すると、僕の願いが通じたのか榎本さんはバッと顔を上げ即座に体勢を立て直し、何とか八組にインコースを譲ることなくレースに復帰した。


――よし、やった!


 そして榎本さんは二位の座を明け渡すことなくバトンをアンカーの二階堂に手渡した。


――とうとう二階堂か。どうしようかなあ。正直あんな奴に声なんてかけたくないんだけど、途中の渚さんはしっかり応援しちゃったしなあ。しょうがない、もうこれで最後だし、応援してやろう。


 渋々決心し、二階堂の「にか」まで声を出したところで――


「鋭二くん頑張ってえええええええー!」

「鋭ニさーん! 素敵ィーーーーーー!」

「キャァー! 鋭二くぅぅぅぅぅぅん!」

「ああん、もう失神しちゃううううう!」

「鋭二くんの汗舐めさせてぇぇぇぇぇ!」

「はあはあ、鋭二様素敵ぃ。もうダメぇ」


 黄色どころかピンクと紫の欲望が混じり合った、毒々しさと恐怖を覚える轟音に僕の干からびた声は一瞬にして霧散してしまった。怖い。ただひたすらに怖い。


 彼女たちのターゲットである二階堂はといえば、涼しい顔をして早々に六組を抜き去り、途中で女子やカメラに向かって手を振る余裕を見せてゴールテープを切った。


 こうして、我らが一組は堂々頂点の栄光を勝ち取ったのである。


「堂島くーん!」


 二階堂が走り終えた後も続々とアンカーがゴールに辿りつく中、月野さんがにこやかな笑顔でこちらへ走ってきた。


「堂島く……ってぶわー!」


 何ということだ、月野さんが忽然と目の前から消えてしまった。しかしこれはマジックでも超常現象でもない。二階堂に向かって全力で疾駆する女子の大群に巻き込まれたのだ。


「一位おめでとー鋭二くん!」

「鋭二さん超格好よかったですー!」

「ゴールの瞬間をカメラで撮ったの! 見て見て!」

「体ほぐしてあげよっか? ううん、ほぐしてあげるぅ!」

「あたしのタオルで汗拭いてあげるね、鋭二くぅん」

「ちょっと、それは私の役目よ! どきなさい!」


「おう、ありがとなお前ら。この勝利はお前ら全員に捧げるぜ」


「きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 改めて順位を発表するから静粛に、とのアナウンスもそっちのけでトラック内から、そして観客席から次々と二階堂を中心に女子が集まっていく光景はまるで角砂糖に群がるアリの軍勢。もしくは磁石に吸い寄せられる砂鉄。はたまた同人誌即売会の人気サークルに殺到するオタクのごとし。


 しかしそんな中、人気サークルよりも新人を発掘することに心血を注ぐオタクもいるように、二階堂のことはそこそこに僕へ近づいてきた二人の女子がいた。同じ一組の諸橋(もろはし)さんと桑原(くわはら)さんだった。


「堂島くん、さっきは応援してくれてありがとね」


「オジさんのこと見直したよ。サンキュ」


「え? あ、どうも」


 少し驚いた。僕としてはただ頑張っているみんなを応援したかっただけで、まさか感謝されるとは思いもしなかったからだ。だけど、こうしてお礼をいわれると彼女たちとの距離が縮まった気がして嬉しかった。


「おーい堂島」


 彼女たちとは別の方向から僕を呼ぶ声がした。


「さっきはありがとな。お前の声、よく響いてたぜ」

「オジさんも結構いいとこあるよねー。何かイメージと全然ちがーう」

「君が僕の名前を叫んでくれたから踏ん張れたよ、ありがとう」

「ほとんど会話したことなかったけど私の名前覚えててくれたんだね。嬉しかったよ」

「堂島くんの力走見ててあたし感動しちゃった。ほんとよく頑張ってたよね」

「お前がいればうちのクラスが勝てたかもしれねえな」


 諸橋さんと桑原さんの他にも僕の周りに一組の生徒や他のクラスの生徒が集ってきた。僕にお礼をいう生徒、僕を称賛する生徒、何故かただただ背中を叩いてくる生徒。様々ではあるが、みんな温かい目で僕を見てくれた。この学校で初めての経験だった。


「ほら、さつき。あなたも堂島くんにいいたいことがあるんでしょ」


 葉山さんが榎本さんを引き連れてやってきた。葉山さんの傍らにいる榎本さんはどこか様子がおかしい。


「あの、えっと、そのー」


「何もじもじしてるのよ。堂島くん困ってるわよ」


「うるさいなあ! 今いうところじゃん!」


 榎本さんは僕から目を逸らしながら、照れた表情でいった。


「あの時はその、声かけてくれて、ありがと。あれのおかげであたし、踏ん張れた、かな」


 榎本さんは右手で体操服の裾を摘まみ、消え入りそうな声でそういった。


「榎本さんもいい走りだったよ。鬼気迫るというか何というか」


「っ! ふーん。鬼気迫る、ねえ。まだ体育館裏のこと根に持ってんだ?」


「あ、いやそういうわけじゃ」


 しまった。根に持ってないといえば嘘になるけど、言葉選びを間違えた。


「あのさあ、いっとくけど寺井くんをキズモノにしたこと、まだ許したわけじゃないんだからね! それじゃ!」


 プイッとそっぽを向き、榎本さんはそのまま去っていった。


 僕としては、彼女にも言葉選びに気をつけて欲しいと心から思う。「キズモノ」発言で周囲に不穏な空気が漂い始め、後ずさりする生徒まで現れた。特に男同士でその誤解は非常にまずい。


「ごめんなさいね、堂島くん。あの子って昔から照れ屋なのよ」


 葉山さんは嘆息混じりにいった。


「そろそろ私も行くわね。あ、そうそう。私の応援もしてくれてありがとうね。それと、あなたの走ってた姿、中々素敵だったわ」


 葉山さんは微笑を湛えながら榎本さんの後を追っていった。周りの生徒たちも僕に一声かけてから去っていった。


「おいお前ら」


 心が満たされていく思いでみんなを見送っていた僕の後ろから、怒気を含んだ声が放たれたのが聞こえた。驚いて振り向くと、大群のアリ……ではなく女子を率いた二階堂が、僕……ではなく諸橋さんと桑原さんにつめ寄っていた。


「お前らはオレよりあんなニートのがいいってことか? そうかよ。ならもうお前らとは遊ぶ必要ねえか。じゃあな。行こうぜ花凜」


「あ、待ってよ鋭二」


 二階堂は二人を冷たく突き放し僕に一瞥くれた後、正妻の余裕なのか一歩身を引いて二階堂を見守っていた渚さんと、その後ろに多数の女子を引き連れて合図を待たずに退場門へ歩いていった。それに遅れまいと諸橋さんと桑原さんも慌てて大行進についていった。


「ど、堂島くん……」


 喧騒が退場したのを見送っていたら、すぐ近くで僕を呼ぶ声がする。しかし、辺りを見回しても手を伸ばして届く距離には誰もいない。


「下、下だよ……」


 いわれるまま下を向くと、そこにはぼろ雑巾のようにくたくたになった月野さんが四つん這いになっていた。


「ど、どうしたの月野さん! 何だか凄く汚れてるけど」


「さ、さっきの人の波に襲われてもう大変だったんだから。初めてスクランブル交差点に行った時以上の恐ろしさを味わったよ……」


 月野さんは膝をパンパンと叩いて砂を払いつつ立ち上がった。


「でね、私がいいたいのはそんなことじゃなくって……堂島くん凄かった!」


 彼女の目に活気が戻った。


「前の人たちをガンガン追い抜きながらこっちに向かってくる堂島くん、すっごく格好よかったよ! 私、見てて興奮しちゃったもん! 今日のMVPは堂島くんに決まりだね!」


「そんな大袈裟な。でも、僕も朝の約束を守れてほっとしたよ。それに、気持ちがいいんだ。死ぬ気で走って、全力で応援してさ。喉はガラガラだし身体もへとへとだけど、頑張ってよかったなって思うよ。もうあのハードな練習だけはごめんだけどね」


「スポーツセンターで練習してた時の堂島くんってば、鬼コーチのリオとさおりんのせいで死にそうな顔してたもんね」


「……僕にタイヤ巻きつけて走らせようって提案したのはどこの誰だっけ?」


「えー誰だったっけー?」


「僕の上に乗って腕立て伏せをさせたのはどちら様でしたっけ?」


「えーどちら様でしたっけー?」


 棒読みだ。完全にとぼけている。まあ、腕立て伏せの方はご褒美感があったけど。


「ところで、保健室は行かなくていいの? ケガはしてなさそうだけど、身体はタオルで拭いた方がいいよ。僕も一緒に行こうか? いや、一緒に行こう」


――そして香澄さんに会いに行こう! 僕の走りをどこかで見ていてくれたはずだ。褒めてもらえるに違いない。


「え、えーと、一人でいいよ。大丈夫」


「そんな水臭いこといわないでさ。さあ、もう退場の合図だ。何なら肩を貸してあげようか」


「や、ほんとに大丈夫だよ! というか堂島くんが一緒に行くと都合が……」


「都合?」


「まあ、とにかく早く一組の列並ぼうよ。みんなに置いてかれちゃうよ」


 月野さんはさっさと列に戻っていってしまった。あの拒否反応はどこか違和感がある。僕の目が血走っていたせいだけではないだろう。


「堂島くーん。早く早くー」


 僕は感じた違和感をとりあえず置いておき、月野さんの後を追った。




 白熱した一年生全員リレーの後も月野さんが待ち望んだ昼休みを挟んで様々な競技が行われた。


 圧倒的質量で観客席を縦横無尽に踏み潰していった大玉転がし。逃げ惑う観客をその名のごとく這うように襲いかかったムカデ競争。手榴弾のように観客へ降りかかり、来年喜寿を迎える戦争体験者の桜星学園理事長を戦慄させた紅白玉入れ。午後の部は何かと観客に被害が及ぶ地獄絵図だった。おかげで保健室は満杯。香澄さんに会えなくなってしまった。


 そんな中、取りを飾った組別対抗リレーはこれといったハプニングが起きることなく無事に一組がダントツの最下位で終了。選抜された滝口さんとついでに二階堂が力走したものの、組全体で見ると一組だけ圧倒的にパワー不足だったとしかいいようがない。


 結果発表で、最終的に一組は全体の八位に輝いた。どべである。しかし、みんな頑張ったのだ。輝いたと評しても罰は当たらないだろう。一位は五十嵐さんの属する五組。閉会式の後、五十嵐さんは滝口さんに向かって「最後には私が勝ったんだからね!」と捨てゼリフを残し、鼻をすすりながら駆け去っていった。滝口さんに土をつけられたことが相当悔しかったようだ。当の滝口さんはふふんと鼻を鳴らし満足げに胸を張っていた。あれ以来滝口さんの胸ばかり目がいってしまうのは男の(さが)か。


 その後は蒲生先生を含めた一年一組全員が校庭の真ん中で記念写真を撮ることになった。先生は「リレーで大活躍した堂島と二階堂を中心に撮ろう!」と三度(みたび)余計な気を利かせたことで、僕と二階堂が肩を寄せ合って写真を撮る羽目になってしまった。保存された写真には周りが笑顔でいる中で、僕たち二人だけが苦虫を噛み潰したような顔をしている姿が映っていることだろう。


 撮影が終了し、着替えた後クラスに戻ってホームルームも終えた時に、誰かが飲食店での打ち上げを提案した。それにクラスの三分の二が賛同し、少し前にみんなが集合場所に向かっていった。


 しかし、僕はそれを断って学校に残っている。大事な大事な大事な約束があるからだ。


『ホームルームが終わったらカウンセリングルームにきて』


 香澄さんからのメールが届いた時、僕の心はバラ色に染まった。夕焼けが眩しい一室で香澄さんと二人きりだなんて、頑張ったご褒美でももらえたりするのだろうか。もしかしたら僕たちの距離がさらに縮まるビッグイベントかもしれない。何せ今日の僕はMVPなのだから。


 カウンセリングルームの前に到着すると、僕の心臓が胸を突き破りそうな程に激しく鼓動している。今の僕は汗と砂まみれだけど大丈夫だろうか。顔をしかめられたらどうしよう。いやしかし、そのくらい香澄さんは承知のはずだ。嫌な顔一つせずに僕を温かく包んでくれるに違いない。


 ドアに手をかける。この先に僕の桃源郷が待っている。頭が熱い。身体も熱い。ハートも煮えたぎっている。


――今行きます、香澄さん!


 豪快な音を立てドアを開けた僕を迎え入れてくれたのはもちろん――


「よう、新。しばらくだな。元気だったか?」

「新ったら、豆が鳩鉄砲を食ったって顔をしてるわねぇ」

「お母さん、逆、逆。バカ兄貴もボーっとしてないで入りなよ」


 僕を迎え入れたのは香澄さん……と一緒にソファーに座って紅茶を(たしな)む父さん、母さん、そして妹の理沙だった。


「うふふ、びっくりした? 実はね、新くんのご家族をこっそり――」


 僕はそっとドアを閉じた。


「え、ちょっと新くん!」


「な、何で三人を呼んだんですか」


 僕は香澄さんに向かってドア越しに話しかけた。不測の事態に、熱暴走を起こしていた僕の頭が追いついていない。


「ご家族の方に新くんの頑張ってる姿を見て頂きたかったのよ。みなさん、二つ返事で駆けつけて下さったわ。まずは中に入って。ね?」


 僕は香澄さんに促され、止むを得ず足を踏み入れた。再び三人と相まみえる。


 見慣れたスーツを着ている父さん。手にビデオカメラを持っている母さん。バッチリメイクを決めた理沙。僕が一人暮らしを始めてから一ヶ月と少ししか経っていないので当然顔立ちや雰囲気にこれといった変化はない。そういう意味では安心感こそあるものの、今の僕の心は不安だらけだ。一体何をいわれるのだろうか。


 父さんたちが立ち上がり、いった。


「新、お前の走り見てたぞ。よく根性出して頑張ったじゃないか」


「父さん、ズボンのチャック開いてるよ」


「ほら見て新。あんたの雄姿はちゃーんとこのカメラに収めたわよ」


「母さん、カメラの向き逆だよ」


「兄貴と二人三脚してた人、結構イケメンだったよね。今度紹介してよ」


「理沙、お前に化粧はまだ早いな」


「「「真面目に聞けっ!」」」


 三人同時に怒られた。そんなこといったって、気になったのだからしょうがない。


「それとな、新。今日はお前に謝ろうと思ってな」


「謝る?」


「ああ。実をいうと、この前香澄さんに叱られてな。それでお前がどんな気持ちで今まで生きてきたのかようやく知ったんだ。……親として失格だな」


 父さんが真剣な口調でいった。


「すまなかったな、新。父さんな、お前が長男で子供の頃は何でもできたもんだから、お前にたくさんのプレッシャーを与えてしまった。思い起こせば、お前が勉強やスポーツで他の子に追い抜かれる度に無神経な言葉を口にしてしまっていたな。反省している」


「父さん……」


「母さんからも謝らせて頂戴」


 母さんは少し俯きがちだった。


「母さんも、働かずに家にいるあんたと顔を合わせる度にひどいこといったり、これ見よがしに溜め息を吐いたりしてたわね。本当ならあんたに自信をつけてあげなきゃいけなかったのに、逆にあんたを追いつめてただなんて母親失格よね。ごめんなさい」


 母さんがハンカチを目元に当てた。


「あたしもいい?」


 理沙はじっと僕の目を見つめてきた。


「あたしもごめん、兄貴。実はこの前友達とケンカして、何日か無視されたり冷たくされたりの毎日でさ……あ、今はもう仲直りしたんだけどね。でも、それでやっと兄貴の気持ちがわかったの。ずっと独りぼっちで家族からも冷たくされてた兄貴の気持ちが。あたしくらい兄貴の味方になってやればよかったのにな、って今は思ってるよ。ごめんね、兄貴」


 三人の謝罪の気持ちがひしひしと伝わってきた。まさか今そんなことをいわれるとは思ってもみなかったけど、そのためにこうしてわざわざきてくれたことが嬉しい。それだけで十分だ。それに、僕だって謝らないといけない。


「僕の方こそ、ごめん。毎日父さんたちに心配や迷惑かけてたのに、勇気が出なくて何もできなかったんだ。けど、この学校にきてから僕は変われた……いや、変わったんだ。たくさんの友達ができたし、楽しい学園生活を満喫してる。もう昔の僕じゃないんだ。だから、安心して」


 僕は自信を持ってそう応えた。


「ああ、安心してるとも。父さんたちはここからお前の姿をしっかり目に焼きつけたんだからな」


「大きな声出してクラスの子を応援してる新を見てたら、母さん涙が止まらなかったわ」


「リレーは兄貴が一番格好よかったよ。五人抜きなんて初めて見たかも」


「ありがとう、みんな」


 僕は数年振りに家族と笑顔を交わした。温かくて懐かしい。僕たちはようやく本当の家族になれたのかもしれない。


「新くん、今晩はみなさんと過ごしたらどうかしら? 今日はたくさん頑張ったからもうお腹空いてるでしょ」


 香澄さんが家族の団らんを促してくれた。何と気が利く女性なのだ。僕は彼女の厚意に甘えることにした。


「香澄さんもそういってるし、みんなで一緒に外食しようよ。おいしい店知ってるんだ」


 僕は笑顔で三人を誘った。


「すまん、新。父さんな、急な出張があってこれからすぐに新幹線に乗らなきゃならんのだ」


「それなら仕方ないね。じゃあ母さんは?」


「私もミャーちゃんの世話をしに帰らないといけないのよ。あ、ミャーちゃんっていうのはね、ついこの前拾った子猫のことよ。もうとってもかわいいんだから」


「……理沙は?」


「ごめん、あたしもパス。さっき話した友達とライブ観に行くから」


 僕はすがる思いで香澄さんを見た。三人とも予定があるなら仕方ない。ならば大本命にアタックだ。


「ごめんなさい。私も今日は本部に戻って報告書を片づけないといけないのよ」


 先程までの温かな雰囲気はどこへ行ってしまったのか。


 僕は沈んだ気持ちでスマートフォンに手を伸ばした。


 プルルルップルルルッ


「あ、月野さん? 悪いんだけど、僕の席空けといてくれないかな。うん、そう。何だか急に寂しくなっちゃってさ……」

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