三章
「おっはよ、堂島くん。この前借りた本返すね。ラストのどんでん返しにはほんとびっくりしたよ」
「おはよう、月野さん。気に入ってもらえてよかったよ」
「よう、まーた朝からしけたツラしてんな、ニイさん」
「そ、そうかな。普通だと思うんだけど。それと、僕が座れないからどいてくれると嬉しいな」
「人の席占領するとか不良のすることだよね」
「あたしは不良じゃなくてちょいワルだ、ちょいワル」
「心の中は乙女の癖に――もがもがっ!」
あれから三週間が経ち、僕たちは一緒に昼食を食べたり本を貸し合ったり放課後に残って話し込んだりと、より親密になった。そうして彼女たちと毎日接しているうちに、心なしか会話の際にどもることが減ったように思う。ちなみに連絡のやり取りについては通信アプリの使用は好ましくないと香澄さんにいわれたので、普通にメールで行っている。
「おはよっス、ニイさん。今日の体育は体育祭の練習みたいっスよ」
「おはよう寺井くん。練習って個人競技とリレーのどっちだろう」
「多分リレーっス。二人三脚の方はまた今度しましょう」
寺井くんとも会話の数が増えた。今度の体育祭では彼に誘われ、二人三脚にペアとして出場することになった。僕の中で彼の足首フェチが疑惑から確信に変わった瞬間である。それと、彼も僕のことを「ニイさん」と呼んでくれるようになり、以前よりもいい関係が築けている。
「おっはよーみんな! おニイちゃんもおっはよー! 今日も冴えない顔だねー」
「お、おはよう滝口さん。その、やっぱり『おニイちゃん』っていうのは色々誤解されるから控えて欲しいんだけど」
「えー、でもウチは気に入ったしなー」
滝口さんは月野さんのつけてくれたあだ名に感銘を受けたらしく、もう僕を「オジさん」とは呼ばなくなった。彼女としても悪意を持ってオジさん呼ばわりしていたわけではなく、あくまで「気に入ったから」だったらしい。何にせよ、呼び方を変えてくれるのは喜ばしいことなんだけれども、どうして「おニイちゃん」になってしまったのか。学校で呼ばれる度に周りの視線を一身に浴びることになるので正直困る。
だが、今まで年上一辺倒だった僕には新風が吹き荒れていた。「おニイちゃん」……新たな扉を開けそうだ。
そんなわけで僕の高校生活はようやっと軌道に乗り始めたかのように見えたのだけど、甘かった。
あの日から僕と月野さんの間によからぬ噂が流れ始めたのだ。僕たちがつき合ってるだの、僕が女を漁るために高校にやってきただの、酷いものでは月野さんが援助交際に手を出しているといった根も葉もない誹謗中傷まで様々だった。誰が流布させたのかはいうまでもないだろう。
それらに対して僕や月野さんが冷静に対処したことや、若葉さんたちが庇ってくれたことで最近は落ちついてきたものの、他のの生徒たちとは更に壁を感じるようになった。
安藤さんはそのいい例で、昨日も廊下でばったり出くわした途端、すぐさま回れ右をして逃げ出してしまった。もちろん図書館であった日から会話など交わしたこともない。
まあこんな風に、僕の人間関係は今でも晴れ時々土砂降りなのである。
それともう一つ、僕には心配事がある。月野さんたちに対する不安感だ。
彼女たちと友達になってから、毎日が楽しくて仕方がないという気持ちが日に日に増している。しかし、その高揚に比例して一抹だった不安が徐々にざわめいていき、墨を落としたように広がっていった。
何故そのような感覚に陥るのかは、考えないようにしている。思い出したくないのだ。
「よーし、ホームルーム始めるぞー」
蒲生先生が教室にやってきた。もう八時半だ。
僕は気を紛らわすべくホームルームに集中した。
六限目の体育が終わり、僕は更衣室で着替えながら一日を振り返った。
「はあ、疲れた……」
体育のことではなく、常日頃僕に注がれる視線のことだ。廊下ではすれ違う生徒たちにひそひそと囁かれるし、昼休みには未だに僕を動物園のパンダと勘違いした生徒が一日に十人はやってくる。これらは今や恒例なのである程度耐性はできたとはいえ、毎日ともなると流石に辛い。
だが僕は月野さんを、友達を守ると決めたんだ。これくらいでへこたれるわけにはいかない。
「待ってオジさん」
「堂島くん、話があるの」
更衣室から出て教室に戻ろうとした時、クラスメイトの女子、榎本さんと葉山さんに突然呼び止められた。
「……えっと」
「オジさん、放課後屋上きて」
「……屋上?」
「そういうことだから、よろしくね堂島くん」
二人の表情は険しく、決して楽しい話題ではないことが窺えた。
「っ……わかった」
そして放課後、僕は月野さんからの帰りの誘いを断り、トイレに寄ってから二人の待つ屋上の踊り場へ重い足取りで向かった。
「オジさん遅い。待たせないでよ」
まだホームルームが終わってから五分も経っていない。榎本さん、相当イライラしているようだ。
「じゃあ、早速本題に入るけど」
葉山さんが一呼吸置いて話し始めた。
「堂島くん、もう月野さんたちに絡むのは止めてあげて欲しいの。堂島くんのせいで月野さんたちが色眼鏡で見られてるの、知ってるでしょ」
僕だって君たちに色眼鏡で見られているのに、と腹が立つ思いだったけど、口には出さなかった。
「私たち、月野さんたちと同じ中学で、まあ親密ってわけじゃないけど、根も葉もない噂を立てられてるのは許せないなって思うのよね」
「僕も、許せないと思ってるよ。……だから、誤解されないようにこれからも頑張るよ」
どんなことがあっても友達を守ると誓ったんだ。ここで曲げるわけにはいかない。僕は葉山さんの提案をやんわり蹴った。
だが、素直に従わなかった僕に業を煮やしたのか、ずんと榎本さんが高圧的に近づいてきた。
「それってオジさんの自分勝手じゃん! オジさんがわがままいってる間にも寺井くんたちが今もどこかでバカにされてるんだしさあ」
「で、でもそれは、バカにしてる人たちの方が悪いんじゃ――」
「あたしたち、オジサンのためにもいってあげてるんだけどわかんない? あたしらより大人なんだし、そこんとこわきまえてよ」
「でも、僕は――」
「今みたいにわがままいってたらこれまで以上に立場悪くなるだけだと思うんですけど。いいの? みんなにそっぽ向かれても」
ゾクッと背筋に悪寒が走った。
「みんなに嫌われながら生きていくのって辛くない? 嫌われて、失望されて、迷惑がられて、みーんなオジさんから離れてくんだよ?」
彼女の言葉がいやに耳に残り、頭の中でガンガンとしきりに反響する。僕の記憶の扉が強引に叩き壊され、ひしゃげた扉の隙間から押し込めていた記憶が滲みだす。中学生時代の記憶――そっぽを向かれて――失望され――
「い、嫌だっ!」
彼女の言葉を振り払うように、激しく頭を振った。
「嫌なら、寺井くんたちにちょっかい出すのはもう終わりにしてよね。二人三脚も別の男子と組んで」
「…………」
「いい? わかった?」
「……わかった」
いいたいことはいい終えたらしく、二人は僕を残し早々に階段を下りていった。
残された僕はしばらくの間湧き上がる恐怖に怯え、……そして決めた。
――もう、月野さんたちと親しくするのは止めよう。友達は終わりだ。
「おはよー、堂島くん。今日の放課後って時間ある? 青梅屋寄って行こうよ」
「悪いけど、今日は用事があるんだ」
「そっか。じゃあ仕方ないね。……なんか顔が固いけどどうしたの? トイレならまだ時間あるから今のうちに行った方がいいよ」
「いや、何でもない」
「ニイさん、昨日と比べて雰囲気がガラッと変わったな。なんつーか、暗い。悩みがあるなら、あたしらでよければ相談に乗るぞ」
「だから、何でもないよ。席、どいて」
「ん、ああ……ほらよ」
「そうだ、寺井くん」
「なんスか?」
「二人三脚だけど、他の人と組んでくれないかな」
「急にどうしたんスか」
「ごめんね。でもそうして欲しいんだ」
「……わかりました。体育委員の奴に変えてもらえるか聞いてみるっス」
「――ぃよっし、ギリギリセーフっ! おっはよーみんな! あれ、おニイちゃんの顔、今日は一段と冴えないねー」
「滝口さん、その呼び方は止めて欲しいっていったはずだけど。あと、うるさい」
「うぇぇ、おニイちゃん怖い……」
「ほら、先生きたよ。席ついて」
「う、うん……」
僕から距離を置いていけば、彼女たちに火の粉がかかることはなくなっていくだろう。それに、僕にとってもこの方が気楽でいい。煩わしい誘いや面倒な会話がなくなる。加えて、他人を気遣う場面も減る上、何かと喧しい渦中に飛び込まずに済む。
その後も月野さんたちが話しかけてきたが、適当にあしらった。移動教室の時も一人でさっさと向かった。昼食はトイレで食べた。途中で月野さんや若葉さんの悪口を話していた生徒がいても無視した。僕には関係ないからだ。ホームルームが終わると一番に立ち上がり、足早に教室を後にした。学校なんかにだらだらといたところでしょうがない。
それから更に三日経つと、表情筋が強張っていることに気づいた。そういえば、口数もめっきり減った。あいさつを返す時もただ頷くだけだ。高校や大学にいた頃もこんな感じだった。別段楽しいこともない代わりに、これといって厄介事もない。これこそが平和ってやつなのかな、なんてこともあの頃は考えていた気がする。
悪くはない。今の僕の心情を一言で表すと、これに尽きる。可もなく不可もなし。山谷に乏しい日常。振幅の見られない平穏。色褪せた世界。
だんだんと昔の感覚が戻ってきた。
「新くん、今日の一日はどうだった?」
「どうもこうも、特に何ともないですよ」
体育祭を来週に控えた夜八時頃。香澄さんから電話がかかってきた。
「……まだ話してくれる気にはならないかしら」
「昨日も一昨日もいいましたけど、これといって話さないといけないことはないです」
入学式以降、電話自体は度々かけてきてくれるが、最近は同じようなやり取りしかしていない。
「ここ数日の新くんは昔の、心を塞いでしまっていた新くんに戻ったみたいで心配なのよ」
自覚はある。だが、自分で選んだ道だ。
「友達もきっと心配してるわ」
「僕に友達は必要ないですよ。プロジェクトにだって『友達をつくれ』なんて書いてなかったでしょう」
「またそんなこといって……毎日月野さんたちのことを楽しそうに話してくれたじゃない。この前はまた一緒にバイキングに行ったんでしょう?」
「めんどくさくなったんですよね。色々と。常に誰かといるのって窮屈ですし、一人の方が気楽でいいですよ」
「……ねえ、新くん。本当に――」
「じゃあ、明日も学校なのでもう寝ます。おやすみなさい」
「ちょ、ちょっと――」
ブツッと電話を切った。あの後の香澄さんの言葉は聞きたくなかった。今まで自分の中に押し込んでいたものが溢れ出てしまう気がして、怖くなって聞けなかった。
翌日、いつものように家を出て学校まで歩き、上履きを履き、教室に向かい、席につく。あいさつは頷いて返し、これ以上話しかけられないようにバッグから本を取り出して顔の高さまで上げながら読み始める。
ここのところ、僕への嘲笑は減った気がする。その代わりに、怯える目で僕を見る生徒が増えたように思う。今までは視線が合ってもニヤつきながら話を続けていた生徒が、今では蜘蛛の子を散らすかのごとく逃げていく。
だが、バカにされるより恐れられる方が何倍もましだ。
「君、話がある」
体育祭委員である笹部くんが僕の席の前で仁王立ちの姿勢。彼のいわんとすることはわかっている。
「今日はリレーの朝練だと予め伝えておいたはずだが、何故こなかった? 理由があるなら聞こう」
理由なんて決まっている。面倒だったからだ。だが、そのまま伝えるとさらに面倒になるので、
「体調が悪かったんだよ」
僕は本から目を離すことなくいった。騒がしくて文章が頭に入ってこない。早く嵐が過ぎ去らないものか。
「三日前も同じセリフだったな。本当は面倒なだけなんだろう。おい、話を聞いているのか」
目の前に腕が伸び、僕の手元からバッと本を取り上げた。これには流石に頭にきた。自分の世界に浸っている時に邪魔をされるのはひどく不愉快だ。僕は無言で彼を睨みつけた。
「何だ、その目は。そんなことだから君はニートなんだ。協調性に欠け、陰鬱な雰囲気で、目つきも悪い。友人に見放されるのも無理は――ぐぅっ!」
気づけば僕は立ち上がり、その腕は彼の胸元に喰らいついていた。
「お、落ちついてよ堂島くん!」
「ニイさん、何やってんスか!」
月野さんと寺井くんがが慌てて仲裁に入った。離れた席からは悲鳴やざわめきが聞こえる。眼前の彼は当惑と恐怖の表情で僕を見返した。
「おい、お前ら! 何やってんだ!」
幸か不幸か、蒲生先生が教室に到着していた。僕の腕が彼から無理やり引き剥がされ、事の顛末を周りの生徒が話し始める。しまったな、と僕は後悔した。カッとなってしまったせいで逆に嵐を引き寄せてしまった。
「――よくわかった。とにかくもう授業の時間だから、お前ら全員席につけ。……堂島、お前は放課後になったら生徒指導室にこい」
どうやら咎められるのは僕一人らしい。まあ一般生徒と再就学者の僕なら後者により厳重な処罰が下されるのは当然か。
朝の騒動の影響もあってか、月野さんたちからの接触も今日はだいぶ減った。好都合だ。
放課後、僕は先生にいわれた通り二階にある職員室のすぐ横、生徒指導室の前までやってきた。
――めんどくさいし、適当に頷いてさっさと終わらせよう。早く帰ってパソコンでもいじってたいし。
扉を開けようと手を伸ばすと、中から蒲生先生の他にもう一人、女性の声が漏れてきた。聞いたことのある声音だったので僕は耳をそばだてて中の様子を窺った。
「――ですが、私にも担任としての責任がありますし、北条さん一人で、というのは……」
「勝手な申し出だということは重々承知しています。ですが、彼と一対一で話がしたいんです。お願いします」
声の主は、香澄さんだった。僕の素行が悪ければ、その情報は香澄さんに届く。少し考えればわかることだった。
「――わかりました。では北条さんにお任せします。後で職員室に報告しに来てください。それでは」
――今、香澄さんには会いたくない。
僕は学生バッグを背負い、先生が出てくる前に階段を駆け下りた。
僕は香澄さんから逃げた。逃げて、走って、スマートフォンの電源を切って、今は自宅のテーブルの上でパソコンを開き、カーテンの隙間から漏れる夕日を背にしてアニメの動画を眺めている。脱いだブレザーはベッドの上に放り投げたままだ。
何故逃げたのか、と自分に問うならそれは、怖かったからだ。何故怖かったのか、とは考えたくなかった。もうこれ以上は思い出したくなかった。
いつまでも逃げられないのはわかっている。香澄さんからの連絡を無視しても明日学校で直接顔を合わせることになるはずだ。それも嫌だと学校を休めば、香澄さんはこの家までやってくるだろう。粘って引き籠ろうが、香澄さんは僕が根負けするまで待ち続けるに違いない。あの人は熱心で辛抱強い人だ。我慢比べなら僕は到底敵わない。
それでも会いたくない。勇気が出せない。
僕はまた現実から目を背けてしまっている。香澄さんに会う前の、引き籠っていた自分に戻ってしまったのだ。
やっぱり僕には無理だったんだ。香澄さんには悪いけど、もう学園生活はリタイヤして――
ピンポーン
唐突の呼び鈴に驚き、ページダウンキーを押すつもりの指が電源ボタンに滑ってしまった。画面はカラフルな髪色の女の子たちが水着ではしゃぎまわっている夏アニメのプロモーション動画から、強張った顔をした情けない男を映した。
――まさか、もう香澄さんがきたのか。どうしよう、出るにしても出ないにしても、心の準備ができてないぞ。
ピンポーンピンポーン
呼び鈴が僕を急かす。とりあえずパソコンを棚に閉まった。
ピンポーンピンポーンピンポーンピンポーン
香澄さんは相当苛立っているようだ。僕が約束の場所に顔を出さず逃げ出したのだから当然か。
「堂島くーん」
香澄さんがドア越しに声をかけてきた。業を煮やしているのか、「新くん」と名前で呼んでくれなくなってしまった。
「堂島くーん、月野さんがきましたよー」
「は!?」
――月野さんがきた? 何で? 香澄さんじゃなくて?
「いるのはわかってるんだからね。開けてくれなきゃか弱い乙女が凍死しちゃうよー」
一体何時間いるつもりなんだ。
ピンポーンピンポーンピンポーン
四度目の呼び鈴攻撃。そろそろ隣室に迷惑がかかってしまう頃だ。
ガチャッ
噂をすれば、隣室のドアが開く音がした。
「あのー、お、お隣に何かご用でしょうか」
「あ、ごめんなさい。うるさかったですよね。でも、違うんです。決して借金取りとかではないんです」
女子高生の取り立て屋など、まず存在しないだろう。それにしてもこの声、この雰囲気。ドアの向こうにいるのは本当に月野さんで間違いないようだ。
無視するわけにもいかなくなったので、玄関に向かいサンダルを履いて、ドアの鍵を開けた。
「あ、堂島くん。やっと開けてくれたね。それでは、失礼します」
僕にいったのか、お隣さんにいったのか、はたまたどちらもか。月野さんは僕たちに微笑むと、するりと部屋の中に入ってしまった。
お隣さんはそれを見届けると、「では」と一言いい、そそくさと自室に引っ込んだ。
僕もドアを閉め後ろを振り返ると、そこにはすでに月野さんの姿はなく、綺麗に揃えてある靴だけが残っていた。
「あ、お邪魔してまーす」
月野さんはさっきまで僕が座っていた場所に正座していた。
「月野さん、勝手に入らないで欲しいんだけど」
僕はサンダルを脱ぎながらいった。
「ごめんね。強引にいかなきゃ入れてもらえないと思って」
鋭い。実際僕は彼女にその場で帰ってもらおうと思っていた。
「それにしても殺風景だね。まさに男の部屋って感じかな。でもあんまり散らかってないのは意外かも」
月野さんは部屋を見回しながら感想を述べた。
「僕に何の用?」
僕は彼女の向かい側に立ち、見下ろす姿勢でいった。
「まあまあ、まずは座って下さいよ」
部屋の住人と客の立場が入れ替わったような気がしないでもないが、僕はいわれるままにその場であぐらをかいた。それから「おほん」と月野さんが一つ咳払いをした。
「今日はね、堂島くんと二人きりで話したくてここにきたの。堂島くん最近元気ないでしょ。友達として放って置けないんだよ。悩みがあるなら何でも相談して」
「別に、悩みなんてないよ」
「ならどうして元気がないの?」
「これが普通の僕だよ」
「普通じゃないよ。だって一緒に遊んだ時みたいに笑わないじゃん。毎日暗い顔してるよ」
月野さんの質問攻めは続く。
「誰かに何かいわれた? また二階堂くんと渚さん? だったら今度も私が守ってあげるよ。次は腰抜かすくらい怒ってやるんだから。あのね、堂島くん。前にもいったけど、友達同士でつまんない気遣いはしなくていいんだよ。困った時はいつでも頼ってくれていいんだからね」
月野さんは温かな笑みを見せて僕を友達だといった。でも、
「……僕はもう月野さんのことを友達とは思ってないよ」
一瞬、時間が止まったかのように彼女が硬直した。
「えっ……と、ど、どうして? あ、私の食べ方が汚かったとか? それとも、堂島くんを傷つけるようなこといっちゃってた? ご、ごめんなさい! 私、全然気づかなくて――」
「そうじゃなくて、もう僕には友達なんて必要ないんだよ」
俯き加減にそう呟くと、テーブルに映る彼女の瞳が揺れたように見えた。
「それは、どういうこと?」
「面倒なんだよ、毎日話しかけられるのも、気を遣うのも。一人なら気楽でいいし、自分の時間を邪魔されずに済むからね」
「でも、……でも一緒にいたときはさ、あんなに楽しそうだったじゃん。私がつくったお弁当のタコさんウインナー見て『特撮アニメの怪獣みたいだ』って笑ってたし、放課後にリオが唐突にやった『酔っぱらったエチゼンクラゲ』のものまね見ておなか抱えて涙流してたのも覚えてるよ。それに、この前堂島くんから私を青梅屋に誘ってくれたでしょ。堂島くんから誘ってもらえたの初めてだったから嬉しかったよ。今までの堂島くんの姿見てたら、一人の方がいいなんて言葉、私は――」
「もううんざりなんだ、そういうのは!」
僕は彼女の言葉を遮った。
「僕は昼食だって静かに食べたいし、放課後は早く帰って宿題終わらせて、パソコンやゲームで遊んでいたいんだ。友達がいたって肉体的にも精神的にも疲れるし、自分の時間がなくなるだけじゃないか。僕は一人が好きなんだ。ずっと一人でいたいんだよ!」
ハッと我に返った。僕はいつの間にか肩で息をして、語気も荒げてしまっていた。
「堂島くん」
対する月野さんは落ちつき払った調子で僕の名前を呼んだ。そして一呼吸置き、言葉を続けた。
「それが堂島くんの本当の気持ちなの?」
今度は僕の時間が止まった。目の前の彼女と香澄さんが重なって見えた。
「……本当の気持ちって、……そうだよ、これが僕の本音だよ」
「だったら、そんなに辛そうな顔しないよ」
いわれてテーブルに目を落とすと、そこには苦痛に歪んだ僕の顔があった。
『それが新くんの本当の気持ちなの?』
不意に、いつかの香澄さんの言葉が再び蘇った。
――本当の気持ち、か。もしかして香澄さんには、僕が隠してきたものも含めて全部お見通しだったのかな。
『私はどんな時だって、新くんの味方よ』
――やっぱりあの人には敵わないな。
僕はようやく気づいた。僕がどんなに情けなくても格好悪くても、いつも見守ってくれている大切な存在がいることに。僕は最初から、何も恐れる必要などなかったのだ。
何だか自然と心が落ちついてきた。開き直りにも似た気分だ。僕はまた香澄さんに勇気をもらったのだと実感した。
――もう逃げるのは止めよう。目を背けて生きていくのは終わりだ。自分と向き合う時がきたんだ。
僕は姿勢を正し、覚悟を決めた。
「月野さん、僕の話を聞いて欲しいんだ」
彼女は「うん」と首を縦に振った。口元は僕に優しく微笑みかけてくれている。
僕は小さく深呼吸をして、ゆっくりと口を開いた。
「僕は、あの頃……小学生の頃は今より、もっと元気で明るい子供だったんだ」
どこから話すべきかは考えていなかったので、勢いに任せて記憶の扉を開き始めた。
「クラスの中心的存在で友達も多かったし、勉強もできて運動も得意だったんだ。徒競走も学年でトップクラスに速かったから女子にもよくモテたっけ。友達のお母さんたちにも『あの子は神童だ』なんて呼ばれてたんだよ。当時は意味がよくわからなかったけど褒められてるのは理解できたから、誇らしかった」
僕の人生で最も輝いていた時代だ。何をしても大概のことは上手くいっていた、黄金の日々。
「父さんと母さんも僕のことを自慢の息子だっていってくれた。妹も僕にべったりでさ、『大人になったらお兄ちゃんと結婚するの』が口癖だったよ」
月野さんは黙って聞いてくれている。
「でも中学に上がって、現実を突きつけられて、世界が一転して、気づいたんだ。僕は神童でもなければ才子でもない、ただの凡人だったんだ、って」
ここからは思い出したくない。けれど、覚悟を決めなくてはならない。ゴクリと唾を飲み込む。
「中学に入って最初に驚いたのは、僕より背の高い同級生がたくさんいたことだった。小学校で僕は同学年と比べても大きい方だったから、初めは上級生に見下ろされてると思って怖かったよ。次にびっくりしたのは五月の運動会。僕より足の速い生徒なんて、片手じゃ数え切れなかった。リレーの選手の補欠にさえ選ばれなかったよ」
新生活というものは誰しもが驚きの連続だろうけど、僕にとってはその全てが苦痛だった。
「授業も段々わからない箇所が増えていって、それに比例してテストも次第に点数が落ちていった。冬を迎える頃には、学年の丁度真ん中辺りの成績しか取れなくなってたと思う。そうして月日が流れれば流れる程自分の無力さを思い知って、小学生時代に培ったプライドは一年も経たずしてズタズタになったんだ。……でも、それはまだ耐えられた。もちろん悔しかったけど、テレビを見てれば僕よりずっと凄い子供なんてこの世にいくらでもいるって知ってたし、それにいつかこういう日がくるんだなってことも薄々わかってたから」
悔しさや無力感を味わい、時には諦めるということを覚える。それらの経験が人を大人にするのだと僕はおぼろげにでも感じていた。それを学べたという意味では中学生時代はとても意義がある三年間だと今でも思っている。
「でも、僕の周りの環境は、三年間で確実に変わっていった」
あの三年の間に、僕は大きな大きなトラウマを埋め込まれた。
「家族や小学生時代の友達が僕のことを、し、失望が混じった目で見るようになったんだ」
あの頃の記憶が呼び起され、声が震え出してしまう。
「みんな『期待を裏切られた』って表情だった。実際にそんな意味の言葉もたくさんいわれた。……それが辛くて辛くて堪らなかった」
『長男として期待してたんだけどなあ』『どこで育て方を間違えたのかしら』『最近のお兄ちゃん超ダサい』『あの頃の新くんは凄かったのにねえ』『もう堂島は大したことねーな』『小学生の頃の新くんは僕の憧れだったんだけどな』『昔は堂島くんのこと好きだったんだけど今はねー』『新はどうしてこんなことになっちまったんだかな』『堂島は期待外れだったね』
僕を憐れむ眼差し。無神経に心を引き裂く言葉。何年経っても脳裏からこびりついて離れない。
「僕はみんなに見放された気持ちになって、独りぼっちになった気がして、怖くて怖くて仕方がなかった。だから二年生になってからは、かつての自分を、何でもできた堂島新を取り戻すために必死になって努力した。勉強も毎日予習と復習を欠かさずしたし、リレーの選手に選ばれるために陸上部に入った。けど、どれも望んだ成果は得られなかった。僕にみんなを振り向かせる力なんてなかったんだ」
僕の進歩、成長よりも周りの人たちのそれの方が上回っていた。追いつこうともがいても、距離は離されるばかりだった。眩しい日向を歩いていたはずの人生が、気づけばじめじめした日陰のぬかるみに足を取られていた。
「そのうち僕を遊びに誘ってくれる友達も少なくなって、僕に好意を寄せる女子もいなくなって、……いつも僕と一緒にペアを組んでた、親友だと思ってた友達も他の子と組むようになった。その日、僕は体育の授業で初めてあまりものになった」
バスケットボールを持ってぽつんと佇む自分が脳裏にフラッシュバックされた。みんながそれぞれペアを組んで騒いでいる中に、僕はいない。僕は独りで、俯いて溢れ出る涙を見られまいと懸命に堪えていた。
「僕は、怖くなった。好きな人たちに失望されるのが。みんなの期待を裏切るのが。そっぽを向かれてしまうのが。どうしようもなく、こ、怖くなったんだ」
嗚咽が漏れ始めた。情けない。恥ずかしい。だが、それでも前に進まなければならない。
「だから僕は、逃げた、んだ。みんなから、逃げて、独りになろうとした。最初から独りで、努力もしないで、誰とも仲良くしなければ、誰からも期待されることはないし、失望されることも、ない。親しくない人にそっぽを向かれたって、全然き、傷つかない。辛い思いをしなくて済む、から」
嗚咽がひどくなってきたので、何度か深呼吸をして、息を整える。少し落ちついてきた。
「高校では、その独りきりの生活が楽だった。常に自分のペースで行動できたし、バカな連中の悪ふざけにつき合わされることもなかったからね。でも、やっぱり段々と寂しくなってきた。みんな、バカ騒ぎして先生に怒られながらもたくさんの友達とたくさんの思い出をつくってることに気づいたから。僕にはそんなものなかった。それが劣等感になった。そんな思いを引きずったまま大学に進学したら、自由にのびのび生活してる人たちを見てるうちに、誰とも関わり合おうとしないで殻に閉じこもったままの自分がもうどうしようもなく惨めに思えて、耐えられなかった」
そして、二年の半ばで中退してしまった。
「それからはずっと引き籠って昼間には外に出なくなった。知り合いに惨めな僕の姿を見られてまたあの目にさらされるのが怖かったんだ。家の中でもなるべく家族と鉢合わせないように、昼夜逆転の生活をするようになった。人の目に怯えて誰ともロクに会話せずに過ごしてきた二年半はずっと息苦しかったよ」
そんな苦しい生活を送っていた僕の前に、彼女は現れた。
「でも、香澄さん……カウンセラーの北条香澄さんと出会って、僕は少しずつ殻を破ることができた。香澄さんはいつも優しく見守ってくれていて、不思議と心を安心させてくれる人だった。人嫌いで誰とも触れ合おうとせずに塞ぎ込んでた僕に、この人のためなら頑張れるかもしれない、と思わせてくれたんだ。そうして勇気を出してプロジェクトに参加した僕は、月野さんたちと友達になれた」
僕はちらと月野さんの方を見る。彼女には謝らなければならない。
「あの、さっきはあんなひどいこといって、ごめん。本当は月野さんたちと友達になれて凄く嬉しかったし、楽しかった。面倒だなんて思ったことは一度だってないよ」
「うん。わかってるよ」
彼女が発した言葉はそれだけだったけど、僕は救われた気がした。
「月野さんたちと一緒に遊んだりふざけたりした時間は、本当に幸せだった。寝る前に、明日はどんなことして遊ぼう、ってわくわくしながら考えてたくらいだよ。モノクロだった毎日が鮮やかに彩られていくのを感じたんだ。……でも、僕はトラウマを乗り越えたわけじゃなかった。月野さんたちと距離が縮まる度に、嫌われたらどうしよう、見限られたらどうしよう、って思いが無意識のうちに積もっていって、どんどん不安に駆られるようになったんだ」
周りの生徒たちから軽蔑の視線で見られたり、バスケで二人組をつくった時は何とか記憶を押し込めてやり過ごしてきた。しかし、僕といることで月野さんたちの悪評が広まってからは不安が加速度的に膨張していき、結果として榎本さんの言葉が止めの一撃になった。
「それでまた恐怖に支配されて、僕からみんなと距離を置いて、背中を向けて逃げ出したんだ。そうすれば、自分が傷つけられずに済むと思ったから。でも、そのせいでみんなに心配をかけて、逆に傷つけてしまった。本当に、ごめん。それと、最後まで聞いてくれて、ありがとう」
僕は月野さんに向かって頭を下げた。
「……こっちこそ、たくさん話してくれてありがとう、堂島くん。辛いこと思い出させちゃって、ごめんね」
「謝らないでよ月野さん。全部話せて、何だかすっきりした気分なんだ」
言葉の通り、今は身体も心も軽い。話を聞いてもらえただけでこんなに晴れ晴れとした気分になるとは思ってもみなかった。本当は誰かに聞いてもらいたいと、話して楽になりたいと、心の奥底ではずっと願っていたのかもしれない。
――僕はようやく過去の呪縛から解放されたんだ。
「えへへ、何だかやっと本当の堂島くんに会えた感じがするよ。あ、他にいっておきたいこと、ない? この際いいたいこと全部いっちゃおうよ。なんだったら、私への愚痴でもいいよ?」
いいたいことは、ある。過去を乗り越えた僕が、これから前を向いて歩んでいくための言葉が。
「じゃあ、一つだけ、いわせて」
月野さんが居住まいを正した。きっと本当に愚痴をいわれると思っているのだろう。
――僕が伝えたいのは、望むのはただこれだけなんだ。
月野さんの大きな瞳をしっかりと見据え、僕の本当の気持ちを伝えた。
「月野さん。僕と改めて、と、友達になってくれないかにゃ」
――にゃ。……噛んだ。一番大事な場面で。
「ぷっ」
月野さんの瞳が揺れた。表情筋もぷるぷると震えている。
「ふふっふ……あはははははは! ま、真面目な顔してに、にゃって! ぷっくく、は、反則だよぉ。ま、参った、降参、あははは!」
僕の顔は、今まさに真っ赤に燃え上がっている夕焼けにも比肩するだろう。サウナに入っているかのように何もかもが熱い。マンガだったら沸騰して頭から湯気が出ているところだ。
「そ、それで返事はどうなの月野さん!」
オーバーヒートした僕には話を逸らすだけで精一杯だった。
「ふ、ふふ……へ、返事はね、……もっちろんオーケーだよ!いや、もう私たちは友達どころかマブダチといっても過言じゃないね。……そういえば堂島くん、気づいてる?」
「へ? 何が?」
喜びに浸る間もなくいきなり謎をかけられて素っ頓狂な声を上げてしまった。鼻水でも出ているのかと鼻の下に手を当てた。濡れた感覚はない。
「さっきね、初めて堂島くんと、ちゃんと目が合ったんだよ」
そういえば、そうだ。今までは首や口元しか見られなかったのに、思いを告白した時の僕は月野さんの目をまっすぐに見つめていた。
僕は再び月野さんと視線を交わしてみた。見つめ返してきた彼女の瞳は、とても優しくて温かかった。
「堂島くん、もう怖がらないでいいんだよ。堂島くんが辛い時は私がそばにいるよ。だから、安心して。だって、私たちはマブダチなんだからね」
月野さんがにこっと微笑んだ。彼女なりに僕を励ましてくれたのだろう。気づけば僕もつられて微笑んでいた。
これで何度目だろう、彼女に救われたのは。彼女に感謝したのは。彼女が友達であることに誇りを持ったのは。
「ありがとう、月野さん」
こんな短い言葉では到底伝え切れないけど、それでも僕の思いの丈を「ありがとう」の言葉につぎ込んだ。
「そうだ、明日は若葉さんたちにも謝らないと。みんなにも心配かけたよね」
そう、僕には月野さんの他にも大切な友達がいる。若葉さん、滝口さん、寺井くん。彼らにもきちんと謝罪しないといけない。それが友達としての務めだ。それと、笹部くんにも非礼を詫びるべきだろう。どんな理由があったにせよ、彼に手を出してしまったのだから。
そして、香澄さん。彼女には本当に心配をかけてしまった。今も僕からの連絡を待っているだろう。
「それならスポーツセンターに行こうよ」
「スポーツセンター?」
何故突然スポーツセンターの話題になるのか。
「あれ、堂島くん聞いてなかったの? 今日の放課後はスポーツセンターのグラウンドに集まって体育祭のリレーの練習だ、って笹部くんがいってたでしょ。もしかして聞いてなかった?」
「あー、聞いてなかったかも」
どうせ放課後は説教を受けるのだから関係ないと思って聞き流していた。
「丁度いい機会だから今からジャージに着替えて一緒に行こ。洗面所借りるね」
いうが早いか、スカートを翻しながら立ち上がった月野さんは学生バッグを持って洗面所へとダッシュした。
僕はそれを見届けると、ベッドの上のブレザーからスマートフォンを取り出し電源を入れ直した。留守番電話には香澄さんからの着信が十件近く入っている。僕は急いで彼女にかけ直した。
「香澄さん」
胸の奥がきりきりと痛む。今も香澄さんは僕からの連絡を待ち侘びているに違いない。一刻も早く彼女の不安をなくしてあげたい。安心させてあげたい。
プルルルル、プルル――
二度目のコールで繋がった。
「あ、新くん、今どこ――」
「香澄さん、すみませんでした! でももう僕は大丈夫なので心配しないでください!」
勢いあまってとりあえずいいたいことをぶちまけてしまった。香澄さんの声を遮ってしまうとは、何たる失態。
「えっと……」
電話の向こうからでも香澄さんの困惑振りが伝わってくる。ついこの前まで辛気臭かった人間が突然元気を取り戻したのだからそうなるのは無理もないだろう。
「あの、僕、やっぱり友達つくりたいです。たくさん思い出も、みんなとつくっていきたいんです。そうだ、これから月野さんとスポーツセンターに行って体育祭の練習をするんですよ」
「あの子が……新くんは月野さんと一緒にいるの?」
「はい。今洗面所で着替えてます」
「……そう。ならもう心配はいらないみたいね」
「香澄さんには本当に迷惑と心配をおかけしました。昨日もあんな冷たい態度とって……」
「それはもういいのよ。全然気にしてないから。……ねえ新くん、私からも謝らせて」
香澄さんが一体何を謝る必要があるのだろう。
「ごめんなさい、新くん。私、新くんが苦しんでたのに何も力になってあげられなかったわ。本当に、ごめんなさい」
香澄さんは自分の知らないところで僕が立ち直っていたことに責任を感じているんだ。自分の力不足を悔やんで。でもそれは香澄さんの見当違いだ。
「香澄さんが謝る必要なんてまったくないですよ。だって僕は、香澄さんのおかげで前を向けるようになったんですから。……香澄さんは僕の、自慢のカウンセラーさんですよ」
香澄さんは僕がどんな醜態を晒しても僕のことを見限らないでくれた。支えてくれていた。そして、信じてくれていた。自分が決して独りではないのだと気づけたからこそ、僕は過去に向き合う勇気を持てた。恐怖を乗り越えることができたのだ。
「新くん……そういってくれるのね、ありがとう。新くんも、私の自慢の生徒よ」
ふふ、と香澄さんが笑った。やっぱり香澄さんには笑顔が一番だ。
「それじゃ、そろそろ切るわね。練習頑張って」
「はい。頑張ります」
電話を切った僕は急いで学生バッグから体操着とジャージを取り出し着替え始める。香澄さんとの会話に集中していたせいで月野さんがいたことをすっかり忘れていた。
「あ、そうだ!」
僕がシャツを脱ぎ終わったところで、一年生用の赤いジャージに身を包んだ月野さんが洗面所から飛び出してきた。と思ったらまっすぐ僕に向かってくる。その視線は僕の露わになった肉体に釘づけだ。
――な、何だ何だ?
「後ろも向いてもらっていい?」
「ど、どうして?」
「いいからいいから」
僕は戸惑いながらも彼女の気迫に押されて素直に背を向けた。肩から腰までちりちりと視線を感じる。
月野さんもお年頃だから男の身体に興味津々なのはわかる。けど、僕には香澄さんという心に決めた人が――
「じゃあ先に外で待ってるから、早く着替え済ませちゃってね」
遠くから背中に声をかけられた。違和感に振り向くと、既に月野さんは玄関で靴を履いているところだった。
――結局、何だったんだ?
狐につままれた気分のまま、僕はいそいそと着替えるしかなかった。
辺りを夕闇が覆い始め、街灯の光が眩しく感じられるようになってきた。僕と月野さんはスポーツセンターのグラウンドへ向かって一緒に走っている。いや、正確には僕が月野さんの背中を追いかけているといった方が正しいか。
僕は自分の体力が学生だった頃より――今も学生であることには違いないが――相当落ちていることを身に染みて思い知った。喉の奥がひいひいと情けない音を上げている。前を走る月野さんの背中が徐々に小さくなっていく。
「ほら、堂島くん。急いで急いで。あと少しで到着だよ」
ポニーテールを元気に振りながら月野さんは僕に発破をかける余裕っぷり。十五、六の女の子にここまで後れを取るとは、いかに引き籠り生活が体に毒だったかを物語っている。
「ぜえ、はあ。す、少し休まない? せめてペースを落として、ぜえ、はあ」
「あ、みんないるよ。おーい、リオー!」
どうやら体力が切れる前にグラウンドに辿りつくことができたらしい。あと三十秒走っていたらアスファルトをベッド代わりにしていたかもしれない。
僕たちは階段を下り、ナイターの点灯していないグラウンドの中へと入った。テニスコート側に十人程、僕たちと同じような服装の人影が確認できる。と、そのうちの三人がこちらに近づいてきた。
「お、ちゃんと連れてこれたみたいだな。やるじゃなえか、ひま」
「ひまーおっかえりー! ずいぶん時間かかったねー」
「うっス、ニイさん」
若葉さんに滝口さん、そして寺井くんだった。
「あのね、みんな。堂島くんからみんなにいいたいことがあるんだって。ね、堂島くん」
僕は膝に手を置いて息を整えながらこくこくと頷いた。まだ喋る余裕がない。
「いいたいことね。おい二人共、ニイさんがこれから啖呵切るらしいからよっく聞いとけよ」
若葉さん。滝口さん。寺井くん。みんな月野さんと同じく、僕の大事な友達だ。三人にも誠意をこめて謝らないといけない。そしてみんなと、心から友達になりたいと伝えたい。僕は背筋を伸ばし、三人を見つめた。
「みんな、今まで冷たく当たって傷つけてごめゴホッ。でも、もう一度みんなとゲホッゲホッ。ぜえ、ぜえ……みんなと友達になりたオエェッ」
やはり走ってすぐ、は無理があった。呼吸をする度にひゅうひゅうと音がする。加えて酸素不足のせいか、頭がくらくらと揺れる。
「ニイさんのいいたいことは何となくわかったけどさあ、ここ大事なトコだろうに。ぜんっぜんしまらねえな」
「でも、いつもの冴えないおニイちゃんに戻ってくれたんだね。ウチ嬉しいよー」
「ニ、ニイさん大丈夫っスか? やけにふらついてますけど」
寺井くんが僕に駆け寄って背中をさすってくれた。そういえば、彼には頼みたいことがあったんだ。
「寺井くん、二人三脚のことなんだけどさ、はあはあ。やっぱり僕は寺井くんと走りたいんだ。だから、ゴホゴホッ」
「ああ、そのことなら心配いらないっス。俺とニイさんで申請したままなんで」
「そ、そうなの?」
「申請の変更はとっくに打ち切られてたんスよ」
「あ、そうだったんだ」
「そういうわけなんで、よろしく頼むっス」
「うん。よろしく」
また彼と走れることになってよかった。呼吸も落ちついてきて二倍気分がいい。
「笹ちーん。笹ちんもこっちきなよー。おニイちゃんにちゃんと謝らないとウチ怒るからねー」
滝口さんが少し離れた位置にいる「笹ちん」とやらに呼びかけている。まあ、誰なのかは大体見当がつく。彼にも一言謝罪しなければならない。
「『笹ちん』とは呼ぶなといつもいっているだろう! 君はどうして理解できないんだ!」
「えー、でもウチは気に入ってるんだけどなー」
「君が気に入ればいいという問題ではなぁい!」
「でも可愛いっしょ、笹ちんって。さっさちーんちーん」
「人の名前で遊ぶなぁ!」
三メートル程の距離で滝口さんと「笹ちん」こと、笹部くんがいい合っている。どうやら笹部くんには分が悪い様子だ。
このまま見ていても埒が明かないので、僕は二人の間に割って入った。笹部くんと正面で向き合う。
「な、何だ? 僕に用か?」
今朝あんなことをしてしまったせいで、笹部くんの顔に警戒の色がありありと浮かんだ。
笹部くんにまったく非がないとは思っていないけど、先に手を出したのは僕の方だ。だからこちらから謝るのが筋というものだろう。
「笹部くん、今朝は手を上げたりしてごめん。ついカッとなって自分を抑えられなかたんだ。本当にごめん」
僕はぺこりと身体を曲げた。
「そ、そうか。……まあ、僕も少々いい過ぎた面もあるわけでだな、その、何だ……すま――」
「笹ちん男らしくなーい! そういう時はビシッとごめんなさいっていうんだよ!」
滝口さんが僕の横から乱入してきた。今いいかけてたような気がするんだけど。
「今いいかけていただろ! 君は静かに口をつぐむということができんのかぁ!」
やはりいいかけていたようだ。笹部くん、不憫。
「あ、そだ。おニイちゃん、笹ちんのこと怒ってくれてありがとねー」
「え?」
急にお礼をいわれてしまった。
「笹ちんって無神経にいいたいことズバズバいっちゃうタイプみたいでさー、陸上部でも煙たがられてんだよねー。でも朝のアレでおニイちゃんにビビってからは反省してるみたい」
「べ、別にビビってなどいないぞ!」
「メガネをクイッてする時、手震えてたじゃーん」
「君の見間違いだ!」
また二人でぎゃあぎゃあ騒ぎ始めた。案外仲がいいのかもしれない。
「堂島くん、こっちきて」
「え、どうしたの」
いきなり月野さんに手首を掴まれ一人の女子の前まで引っ張られた。華奢なシルエットに加え、僕を前にした時の引け腰。安藤さんだった。
「え、えと……」
笹部くんの時以上に警戒されている。薄暗くて正確にはわからないけど、目には涙が溜まっているように見える。
「堂島くん、急で悪いんだけどジャージ脱いでくれない?」
「えっと、意味がよくわからないんだけど」
「いいからいいから」
いいながら月野さんは僕のジャージを手早く脱がした。僕一人だけ上半身が半袖の体操着になる。
「リオ、これ持ってて」
ポイと僕の脱ぎたてほやほやジャージが若葉さんに投げられてしまった。
「堂島くん、次はばんざいして。ばんざい」
「あの、月野さん強引――」
「いいからいいから。それと、私が何をしてもばんざいしたままでいてね」
すこぶる嫌な予感がするのだが、月野さんから真剣さが伝わってくるので渋々両腕を上げた。
「あのぅ、月野さん。何が始まるんでしょうか」
安藤さんが怪訝そうに僕たちを見て問いかけた。
「今から安藤さんの疑惑を解消するからよーく見ててね。いくよっ。さん、にい、いち、はいっ!」
月野さんはマジシャンのようなかけ声と共に、あろうことか僕の体操着を鎖骨辺りまで捲り上げた。
「うわあっ!」
「きゃあっ!」
僕と安藤さんの悲鳴はほぼ同時だった。
「よく見て、安藤さん」
もちろんいったのは僕じゃない。月野さんだ。僕の発言なら公然わいせつ罪だ。
「月野さん、安藤さんが困ってるよ、ほら!」
僕は安藤さんを見た。彼女は恥ずかしげに両手で顔を隠し、迷惑とばかりに顔を背け――ないで指の間からバッチリ見ている。この熱視線、さっきの月野さんのものと同類だ。
――な、何だ何だ何だ? 二人共、そんなに僕の身体に興味津々なのか?
「背中も見て」
月野さんはくるっと僕を回転させ、再び体操着を捲った。
「うわあっ!」
「きゃあっ!」
僕らは仲良く先程と同じ悲鳴を上げた。
「どう? 安藤さん。十文字の傷や骸骨のタトゥーなんてどこにもないでしょ」
――十文字の傷? 骸骨のタトゥー? 月野さんは何をいってるんだ?
「た、確かにないですね。じゃ、じゃあ月野さんのいってた通りあれは嘘だったんですね」
まったく話についていけない。
「当たり前でしょ。堂島くんはそんなにファンキーじゃないよ」
「あのさ、月野さん。そろそろわけを話して欲しいんだけど」
「あ、ごめんごめん。置いてきぼりだったね。実はね、堂島くんにまた変な噂が立ってたみたい」
「変な噂?」
それが十文字の傷や骸骨のタトゥーと関係があるようだ。
「なんでも、昔の堂島くんは暴力団の一員だったとかで胸に十文字の傷、背中に大きな骸骨のタトゥーがある危ない男だって広まってたみたいなの」
「なんだそりゃ」
どう思考が飛躍したらニートが暴力団になるのだろうか。しかも簡単にばれる嘘だろうに。いや、噂を流した人間からすれば、どんな形であれ僕を貶めることができればそれでいいのだろう。
ともかく、これで安藤さんが僕をやたら恐れる理由が判明したわけだ。
「これでわかったでしょ、安藤さん。堂島くんは全然危ない人じゃないんだよ。むしろとっても愉快な人なんだよ」
愉快な人……。まあ確かに、女の子に服を捲られたままばんざいしている僕ははた目から見れば確かに愉快な人だ。反論の余地がない。
「うぅ、わたし、堂島さんのこと勘違いしてました。ごめんなさいっ」
「いや、僕は気にしてないよ。それより安藤さんの誤解が解けてよかったよ」
僕は安藤さんに背中を向けてのばんざい姿勢で応えた。
「堂島くん。もう腕下ろしていいよ。お疲れ様」
月野さんが体操着から手を放し、若葉さんからジャージを取ってきてくれた。僕はいそいそと着替える。
「そういえば堂島くんって『和多河市シリーズ』好きだったよね」
「え? うん、好きだけど」
和多河市シリーズとは、姉妹探偵である杏子と貴奈子が和多河市とその周辺で起こる事件を持ち前の行動力と推理力で華麗に解決する本格推理小説である。シリーズは今年の四月で記念すべき第十巻が刊行され、既にアニメ化が決定している。斬新かつ無理のないトリックと至るところに散りばめられた伏線、そしてラストにはほろりとさせられる秀逸なストーリーが魅力で、本屋のポップでもおすすめとして紹介されているのを度々見かける。今、僕が最も熱を上げている小説だ。
最近香澄さんも僕の影響でファンになったらしく、現在は四巻まで買い揃えている模様。「三巻はトリックが解けたの!」と香澄さんが子供のようにはしゃぐ姿を見ることができて、作者様には感謝してもしきれない。
――でも、月野さんに話したことあったっけ? この前貸した本も別の作者のものだったしなあ。
「堂島さん、和多河市シリーズ好きなんですか!」
僕の疑問をかき消すように、安藤さんがハキハキとした声で問いかけてきた。
「ああ、うん。もしかして安藤さんも?」
「はい! 全巻揃えてますし、サイン本も持ってます! アニメ化楽しみですよねー。堂島さんはどんなところが好きなんですか?」
普段の安藤さんからは想像できないくらいはつらつとしている。よっぽど好きなのだろう。鼻息が荒い。
「僕はトリックが特に好きかな。七巻は度肝を抜かれたよ。まさかねずみ花火があんな恐ろしい罠になってたなんて。二度読みすると貴奈子の水風船が割れるシーンでゾクッとくるよね」
「わかりますわかります! あれは屈指の名作だと思います。杏子と貴奈子のかけ合いも絶妙でしたよね」
「そうそう。普段はケンカばかりの二人が伯母さんのために最初から協力体制で臨むんだよね。あのエピローグは切なかったなあ」
「わたしなんて号泣しちゃいましたよ。ああ、こんなに話が合う人を証拠もないのに疑ってたなんて。自分が情けないです」
「もう気にしないで。それより十巻の巻末トリックの謎解けた? 僕一人じゃお手上げだから安藤さんの知恵を拝借したいんだけど」
「わたしは校長先生の買い置きしていたかりんとうが怪しいと思うんですよね。あれって実はかりんとうじゃなくて――」
「私、蚊帳の外……」
しまった。話題に花を咲かせたせいで月野さんを取り残してしまった。足でミステリーサークルらしきものを描いていじけている。
「ご、ごめん月野さん。つい夢中になっちゃって。あ、今度和多河市シリーズ貸してあげるよ」
「ううん、大丈夫。もう家に何巻かあるの。こうなったらすぐに全巻読破してトリックも全部解いてやるんだから!」
目がやる気に燃えている。立ち直ってくれたようだ。
「き、君たち。ぜえぜえ、盛り上がるのは結構だが、今はリレーの練習を優先してくれ。はあはあ」
笹部くん、相当お疲れに見える。僕たちが話している間にも滝口さんといい合う声が聞こえていたから、声が枯れ気味なのも納得だ。
「はーいみんなー、ウチのとこに集まってー。バトン渡す練習するよー」
一方の滝口さんはいつも通りだ。舌戦は滝口さんに軍配が上がったらしい。
「よーし、やる気出てきた。堂島くん、体育祭頑張ろうね!」
「うん!」
みんなと仲直りができて本当によかった。それに新しい友達もできた。香澄さんと月野さんのおかげだ。
何だか僕もやる気が湧いてきた。来週の体育祭、頑張ろう。そしてみんなと素晴らしい思い出をつくって、人生第二の青春を謳歌するんだ。
「ま、ニイさんは体力づくりも頑張れよな」
――そうだった。先行き不安だ。




