二章
東京の高校といえば聞こえはいいが、どちらかというとむしろ埼玉の学生の方に馴染みのある、都立桜星学園高等学校。特に面白味のない白の校舎、その辺のアスファルトと同色の外壁、小・中学校で散々慣れ親しんだ砂の校庭。どれをとっても地味で平凡といえる。
そんな素朴な高校にも、他校にだって負けない強い個性がたった一つだけ存在する。その証明が、今年度から桜星学園の新一年生として学び舎の門をくぐる、僕こと堂島新だ。
何か一つでもいい、他校と差別化できる個性が欲しかったのだろう。全国でも非常に珍しい若年無職者再就学計画の参加校として名乗りを上げた桜星学園は、堂島新というニートを快く受け入れてくれた。
そんなわけでニートの僕は、特に面白味のない白の校舎を眺めながら、その辺のアスファルトと同色の外壁に沿って歩き、小・中学校で散々慣れ親しんだ砂の校庭を横目にやりつつ、学び舎の門をくぐった。現時刻は八時二十七分。予想以上に心の中の悪魔が抵抗したせいで、ホームルーム三分前になってしまった。
僕のクラスは一年一組。一年の中では玄関からは最も離れているけど、あと三分もあれば余裕だ。そう思いながらも、僕はせかせかと足早に廊下を歩く。
若い。いや、僕も世間一般からすれば十分若い世代だけど、すれ違う子たちはついこの前義務教育を終えたばかりの子供たちだ。否が応にも今年二十三になる自分が浮いた存在であることを実感してしまう。
なるべく存在感を消して歩き続けると、とうとう一組の前に辿りついてしまった。このドアの奥には、これから僕と一年間の学園生活を共にする生徒たちがいる。果たして上手くやっていけるだろうか。
――先にトイレに行っておこうかな。でももうそんな時間ないし……。
「あのー、ちょっといいかな?」
突然後ろから声をかけられ、背筋がビンと伸びる。顔を向けると、ポニーテールの女子生徒がこちらをまじまじと見つめていた。彼女は僕の顔をしっかり確認すると、何かに気づいたようにぱっちりとした目が一層大きく見開かれた。僕は気恥ずかしくなって視線を逸らす。
「えっと……君、一組の生徒? なら私と同じだね。じゃあ早速、夢と希望の学園生活へ、ゴー!」
彼女はポニーテールを揺らしながらドアをガララッと開け、僕の背中を押した。思わぬ形での入室となってしまった。
勢いよくドアが開けられたせいで、中にいたほとんどの生徒がこちらに振り向く。刺さる視線が痛い。
「おっせーよ、ひま。時間ギリギリじゃん」
さらりとしたロングヘアの女子生徒が、窓際の席から僕の後ろのポニテ生徒に声をかけた。
「や、ケータイ置き忘れちゃっててさ」
雰囲気から察するに、どうやら友達らしい。それにしても「ひま」とはこのポニテ生徒の名前だろうか。中々ユニークな名前だ。名づけ親は余程時間に余裕があったのだろう。
「えーと、私の席は中央の列の……前から六番目だ。君は?」
ひまさんとやらは黒板に書かれた座席表を見ながら僕に尋ねた。僕もそちらを見やる。
堂島…堂島…と探していると、三秒程で見つけることができた。そう、見つけることはできたのだけど、これは……。
「見つからない? 一緒に探してあげるから君の名前、教えて」
「いや、大丈夫……見つけた」
僕は自分の席を指で示した。縦六列、横六列からなる計三十六席の中央六列目……の、更にひとつ後ろの七列目……まるで天地を逆転させた「凸」の出っ張りの部分に、それはあった。しかも横列には僕の席しか存在しない。
「へー、堂島新くんっていうんだ。あ、私は月野ひまわりっていうの。『ひま』って呼んでくれていいよ。よろしくね」
彼女は僕の席の配置など気にせずに、呑気に自己紹介する。
「よ、よろしく……」
対して僕にそんな余裕なんてない。いきなり学校側からのコークスクリューを喰らい、ノックダウン寸前のボクサーのようにふらふらと座席にもたれ、そのまま真っ白な灰になった。
入学二日目にしてこの洗礼。果たして、僕のメンタルは一年後まで保っていられるだろうか……。
「今日からこの一年一組の担任になった、蒲生浩二だ。担当は体育。みんなよろしくな!」
グレーのスーツを着た肩幅の広い先生が手短なあいさつを終え、一時限目は教壇に上がっての自己紹介の時間となった。
自己紹介……新入生が挑む、最初の難関だ。これを上手く乗り越えれば良好な学園生活の大きな足がかりになるだろう。だがもし失敗したならば、足をかけるどころか崖の下へと真っ逆さまである。
「えと、あ、安藤結芽、です。出身中学は――」
しかし、僕だって入学までの準備期間をただ漫然と過ごしてきたわけじゃない。自己紹介の練習は既に幾度となく香澄さんと繰り返してきた。
「笹部壮太朗だ。部活は陸上部に――」
香澄さんによると、新一年生たちは自分たちの学年に再就学者がいることを事前に知らされているらしい。勘の鋭い子ならば、僕がそうだということに薄々気づいているかもしれない。
「さっきの笹なんとかくんと一緒で、ウチも陸上部に入部する予定でーす! 好きなボクサーは――」
だからわざわざ自分がニートです、と宣言するつもりはない。できる限り初々しい新入生として振る舞うつもりだ。
「寺井毅。部活は野球。よろしくっス」
僕のすぐ前に座る寺井君とやらは口下手なのだろうか。自己紹介がやけにあっさり終わってしまった。となると僕の前に座るもう一人の生徒が終われば、僕の出番だ。今まで平静を保っていたはずの心臓の鼓動が、ドクンドクンと急かすように暴れ始める。
「私は月野ひまわりっていいます。『ひま』って呼んでもらえると嬉しいです」
さっきのポニテの子だ。そういえば、席は中央の六列目といっていたから僕の目の前だったのか。緊張とショックで周りが全然見えていなかった。
「――それじゃみんな、不束者ですがこれから一年間よろしくお願いしますっ」
月野さんがニコッと笑みを浮かべ一礼した後の拍手は、ひときわ大きかった。彼女の自己紹介が特別上手かったわけでもなければ、出身校が特別秀でていたわけでもない。それでも、彼女は魅力的だった。上手いこと説明はできないけれど、彼女の明るい人柄は人を引きつけたり、安心させる力があるのだと思う。かくいう僕も、彼女のひまわりのようなはつらつとした姿を見ているうちに胸の鼓動が落ちついてきた。
席に戻ってきた月野さんが僕を見て一つ頷いた。エールのつもりだろう。明るいだけじゃなく、優しい心根の持ち主でもあるらしい。
さあ、今度は僕の番だ。月野さんが温めてくれた場の空気を大事にしなければ。そう意気込んで立ち上がりかけたその時――
「よし、次は二階堂な」
――ちょっと待って先生。次は僕じゃないの?
僕の出番が飛ばされ、窓側最前席の二階堂くんが立ち上がる。
非難の目を蒲生先生に浴びせると、それに気づいた先生はあろうことかバチンとウインクをかましてきた。
――何か嫌な予感がする。
「――ま、そういうことで以後よろしく。以上」
先程月野さんと会話を交わしていた若葉リオさんの紹介が終わり、これで全員の自己紹介が終了した。……僕以外は。
「よし、では最後に彼の紹介だ」
みんなが口を閉じ、先生の方を向く。教室中が一瞬にして静まった。
――まずい。この流れは、非常にまずい。
「みんなも知っていると思うが、我が桜星学園は若年無職者再就学計画の参加校として、今年度から活動することになった」
――待て待て待て待て。やめろやめろやめろやめろやめろやめろ。
「その計画で国から選ばれた優秀な無職者が彼、堂島新だ。みんな拍手!」
――うわああああああああああぁ!余計なことをおおおおおおおおおおおお!
まばらで遠慮がちな拍手が鳴り止むと、教室がゾッとする程の静寂に包まれた。
「ほら、みんな待ってるぞ。早く教壇に上がれ」
先生は「お膳立てはしてやったぜ」といった風に満足げな顔で親指を立てていた。きっとこれは彼なりの応援なのだ。
ああ、なんて素晴らしい先生なのだろう。おかげで僕の手足は激しく打ち震え、腹の底から激情の雄叫びが込み上げてくるのを抑え切れない。……本当に何てことをしてくれやがったんだ。
コークスクリューに続いてジョルトブローまで浴びせられた僕だが、ここで倒れるわけにはいかない。こうなってしまった以上、一刻も早くこの試合を終わらせるのだ。
教壇に立った僕は、俯いたまま顔を上げなかった。見なくともわかる。ここにいる全員の視線が僕一点に集中している。
「え……えー、と、……ど、堂島新です。よ、っろしくお願いします」
ごめんなさい、香澄さん。せっかく練習につき合ってくれたのに、こんな情けない結果しか出せませんでした。でももう限界です。
席に戻ろうと体の向きを変えた時だった。
「ぼそぼそ喋ってっから何いってんのか全然わかんねえよ。もう一回最初から頼むわ」
僕に待ったをかけたのは月野さんの後に指名された、二階堂くんだった。口元には嘲るように歪んだ笑みを浮かべ、蔑んだ目で僕を見てくる。僕にとって彼はまだ名前しか知らない人間だが、その性格はおおよそ掴めた気がした。
「なあ、お前も聞こえなかったろ? 花凜」
二階堂くんの隣に座る花凜さんとやらは、やや小柄な身体を二階堂くんに向けて嬉しそうに頷いた。
「うん、アタシも全然聞こえなかった。ねえ、堂島くんだっけ。何だか如何にもニートみたいな雰囲気で面白いわね」
――何なんだ、こいつらは。何でそんな目で見られなきゃいけないんだ。僕が何をしたっていうんだ。そもそも、それが年上に対する態度なのか。
「おいお前ら、茶化すんじゃない。黙って聞いてろ」
先生の注意で二人は大人しくなったが、侮蔑の視線は変わらず送られた。
「よし。気を取り直して堂島、隣のクラスまで聞こえるくらい元気よく頼むぞ。あと、顔もちゃんと上げてな」
まだ終わらせてもらえないのか。
「……堂島です、よろしく」
俯いたまま呟いた声は、最前列の生徒にさえ聞き取れなかっただろう。僕は先生の制止も聞かず、脇目も振らないで自席に戻った。通り過ぎた際、二階堂が鼻で笑ったのを聞き逃さなかった。
恥ずかしさ、悔しさ、不甲斐なさ、情けなさが洪水のように激しくうねる思考に月野さんの励ましが届くのは、席についてしばらくしてからだった。
左手のじんじんとした感覚に気づいたのは、それからまた少し後で、開いた手は真っ白に染まっていた。
「やっぱり高校生活なんて無理です。最近の若者は礼儀ってものを知らないんですよ!」
地獄の一時限目終了のチャイムの後、教室の外ではわらわらと人だかりができていた。一体何事かと思ったら、興味本位で僕のことを覗きにきた生徒たちだった。
「おおっ、マジでいたー」
「ちょ、どけよ。見えねーから」
「それっぽい顔してるよね」
「わかるわかる。それっぽい!」
「あの、今いくつっすか?」
人生の大半は日陰を歩いてきた僕がこんなに人の目を集めるのは久々だ。でも、決して喜べるものではなかった。彼らの好奇の目には多かれ少なかれ、軽蔑の感情が見え隠れしていたからだ。僕はすぐさまトイレに駆け込んで何とかその場から逃れた。
「気にし過ぎよ、新くん」
ただいまの時刻、午後一時。今日は午前までの授業だったため、保健室に隣接するカウンセリングルームで香澄さんと昼食を共にしている。
「それだけじゃないですよ。さっきも話しましたけど、あの性格の捻じ曲がった二階堂鋭二が……」
これが特にひどい。二階堂は僕に「オジさん」なんてあだ名をつけやがった。「オジ」は「堂島」の読みからきているらしい。確かにだいぶ歳は離れているけど、オジさんなんて呼ばれる筋合いはない。
だが悔しいかな、奴には人望があった。耳をそばだてて得た情報によると中学時代から同世代の間では有名だったらしく、今時のアイドル風の顔立ちに加え、これまた今時の子にウケそうなすらっとしたルックスで女子を片っ端から虜にしていたらしい。勉強も小・中学校ではトップクラスで、おまけに大手食品会社の息子ときたもんだ。そんな男が高校でも女子にモテないはずはなく、休み時間ごとに黄色い歓声が奴を埋め尽くしていた。
そして奴は僕の席まで歓声を引き連れ、こういった。
「お前ら、こいつがあの噂のニート高校生だから仲良くしてやってくれよ。あだ名は『オジさん』だからな」
僕は香澄さんに話しながらまた握り拳をつくっていた。
「それはちょっとひどいわねえ」
向かいのソファーに座っている香澄さんは頬に手を当てて思案顔。悩ましい表情も素敵だ。でも――
「ふぉっとどほろじゃふぁいれすよ!」
コンビニで買ったメロンパンにかぶりつきながら抗議した。喉につまったのでコーラで流し込む。
「ぷはぁ。あいつのせいで他の生徒も僕のこと『オジさん』って呼ぶようになったんですから」
「そのうちみんな飽きるわよ。それに、新くんの人となりをちゃんと分かってもらえれば悪評なんて誰も気にしなくなるわ」
「そんな簡単にいわれても困りますよ……」
「そうかしら? 昔の新くんのままなら私も無理はいわないけど、今のあなたならほんの少し勇気を出せばきっとできるわ」
確かに香澄さんと対人コミュニケーションの練習を重ねてきたから、かつてのように常に伏せ目がちでおどおどしていた頃よりは断然今の方がマシだ。けれど、その香澄さん相手でも今だってじっと目を合わせられずに口や首の辺りに目が向いてしまうし、たまにどもることもある。コミュ障が治ったとはまるでいい難い。
「ところで新くん、友達はできた?」
「友達ですか? いえ、全然。というか、あんなガキんちょたちと友達になるなんてこっちから願い下げです」
あんな礼儀知らずたちと交友を深めるなんてまっぴらだ。
「でも、一人くらい気のよさそうな子はいたんじゃない? 例えば、近くの席の子とか」
――ああ、そういえば一人いたな。
「前の席の月野さんって女子は色々と親切にしてくれましたね。明るくていい子でした」
おまけにかわいい子だった。好みのタイプではないけど、パッチリとした大きな目と明るい笑顔は魅力的だった。
「なら、もう友達つくれたじゃない。ふふ、新くんったら初めての友達が女の子なんて中々隅におけないわねえ」
香澄さんは安堵してくれたようだ。でも――
「でも、別に彼女とは友達ってわけではないです」
ツルッと香澄さんの箸がおかずのウインナーを掴み損ねた。ついでにメガネもずり落ちる。
「え……友達じゃないの? 親切にしてくれたんでしょ?」
香澄さんはクイッとメガネの位置を直しながら僕に尋ねる。
「だって親切にしてもらっただけで友達だなんて呼びませんよ、普通」
「そんなことないわ。その子は新くんのことを友達だと思ってるわよ、絶対」
グイッと香澄さんが顔を近づけてきた。あ! ほっぺにご飯粒がついてる! かわいいなあ……いや、香澄さんが真剣になってくれてるんだ、僕も真面目になろう。
「あの、そもそも友達なんて無理してつくらなくてもいいじゃないですか。疲れるし」
「でも、新くんはそういう自分を変えるために桜星に入学したんでしょ?」
「まあ、それは、そうですけど……」
あなたのために入学しました、とはいえずに黙りこくった僕を見て、香澄さんは口元に萌え記号をつけたまま一つの提案をした。
「なら、明日も月野さんと話してみたら? やっぱりいい子だなと思ったら、その子はもう友達。ね?」
「そ、そんな適当な感じでいいんですか?」
「ええ。友達になるのに契約書やサインなんていらないでしょ。お互いに好意があるならそれはもう立派な友達よ」
僕はまだ納得しかねる思いだったけど、香澄さんはこの後職員室に用事があるそうなので、これ以上の反論はせずに早めに昼食を済ませ、二人でカウンセリングルームを出た。
「それじゃあ明日もまた電話するわね」
「はい。さようなら」
香澄さんはニコリとひとつ微笑むと、階段を上がり職員室へと去っていった。
何か大事なことを忘れてる気がするんだけど、何だったか思い出せな――
「待って香澄さん! 口にご飯粒が、萌え記号がついたままです――!」
顔をリンゴのように真っ赤にした香澄さんを見ることができた次の日の朝、僕の心のリンゴは既にすり下ろされていた。
「おおっ、あれだあれ。うちの学校のニート」
「俺、ニートだけには絶対はなりたくねーわぁ」
「なあ、ジャンケンに負けた奴は話しかけてこいよ」
「止めときなよ。いきなりキレて殴られるかも」
「なんかさ、見てるこっちが恥ずかしくなってきちゃうよね」
家を出てから席につくまでにどれほどの視線を浴びたのだろう。登校するだけでこんなに疲弊したのは初めてだ。香澄さんはみんなそのうち飽きるといっていたけど、その前にこっちが参ってしまう。もしメディアに情報規制がされていなかったら僕は今頃一歩も外に出られなかっただろう。
――もう今日は仮病を使って帰ろうかな。
そう思い立ち鞄に手を伸ばすと、前の席の生徒が僕の顔を覗き込んできた。
「堂島くん、しなびたほうれん草みたいな顔してるけどどうしたの? お疲れみたいだね」
声をかけてくれたのは月野ひまわりさん。あの性悪二階堂とは比べ物にならない程に綺麗な性格の、香澄さん曰く筆頭友達候補だ。
「ああ……うん大丈夫だよ。気にしな――」
「やっほー、ひま! おっはよー!」
僕がいい終えないうちに、突然お団子頭の女子が月野さんに話しかけてきた。名前は確か――
「やほ、さおりん。中学の時から変わらず呆れるくらい元気だねー」
そうだ、滝口沙織さん。昨日の自己紹介で陸上部に入部する予定だとかいっていた気がする。
「いやいや、ひまには敵わないってば」
「いやいやいや、さおりんの騒がしさには平伏するよ」
「あ、いったなこのー!」
目の前で二人の女子がじゃれ合っている。何だか、やたら滝口さんの声が大きい。騒がしいというか、喧しいというか。でも、月野さんの友達ならきっと悪い子ではないだろう。
「あ、オジさんもおはよー!」
――オジさん。滝口さん、君も僕のことをそう呼ぶのか。
「ちょっと、さおりん。その呼び方は失礼だよ」
「えー、でも結構よくない? ウチは気に入ったけどなー」
「ひまと滝口、一限目体育だから更衣室行くぞー」
僕の背後から二人に声をかけたのは同じく月野さんの友達、若葉リオさんだった。
「あんたも急がないとペケ喰らうよ」
あんた……。まあ、オジさんよりはよっぽどましだ。
僕は三人を追うように更衣室に向かった。気づけばすっかりサボるタイミングを失ってしまった。
一時限目の体育は一組と二組の合同授業で女子が校庭でサッカー、男子が体育館でバスケをすることになった。ちなみに僕がどれくらいバスケについて詳しいかというと、中学三年まで「ダブドリ」のことを「ダブルドリフト」だと勘違いしていた程だ。おかげで授業では反則屋「ドリフター堂島」と呼ばれ、敵も味方も問わず恐れさせた輝かしい実績がある。シングルドリフトなら問題ないと思っていた。つまるところ、バスケにいい思い出はない。
「おーいみんな、集まれ」
大声で生徒を集めるのは僕の担任であり体育教師である、蒲生浩二先生。彼にもいい思い出はない。それどころか、また嫌な予感がするのは気のせいだろうか。どうか気のせいであって欲しい。僕だって――ありがた迷惑だけど――僕のことを支えようとしてくれている先生を、これ以上悪く思いたくない。お願いだから余計なことだけは慎んでもらいたい。
「それでは、みんなの親交を深める目的で今日はバスケの試合をしようと思う」
――昨日と同じ胸騒ぎがする。
「だが、その前にバスケットボールを使って軽く準備運動を行う」
――まずいまずいまずい、まずいぞ。この流れはひょっとして……もしや……まさか……!
「今から出席表を取ってくるから、その間に二人組をつくっといてくれ」
――うわああああああああああぁ!また余計なことをおおおおおおおおおおおお!
先生が廊下に消え、僕が心中で禍々しい怨声を叫んでいる間にも、着々とペアが組まれていく。
「寺井ー、一緒にやろうぜー」
「保坂なんかより俺とやろうよ毅」
「なんかって何だこのやろー」
寺井くんを囲んだ二人がワイワイやっている。自己紹介の時は口下手な印象を抱いていたけど、彼は中々人望があるらしい。
いや、見ている場合ではなかった。僕も誰か相手がいない人を探さないと。でも、見つけたとして僕は声をかけられるだろうか。声をかけたところで、相手は僕なんかとペアを組んでくれるだろうか。そう思いながら辺りを見回していると――
「おいおい、オジさん残ってんじゃねえか。かわいそうだから誰か組んでやれよ」
あの二階堂鋭二が体育館中に響く声でみんなの注意を僕に集めさせた。本当に嫌な奴だ。かわいそうだなんてこれっぽっちも思っていないだろうに。
その頃他の生徒たちは既にほとんどペアになっており、まだ相方の決まっていない生徒も僕を避けてペアをつくり始めた。二階堂の一言が僕を避けさせる要因になったのは事実だろうけど、考えてみれば僕みたいなニートと組みたい生徒なんて元々いなかったのだ。
見つめていた床板の木目がぐにゃりと曲がり始めた。前にも似た経験をしたことがある。中学の頃、僕といつもペアを組んでくれていた子が他の子と組むようになって、僕は一人あまって――
「あの、俺と一緒にやらないっスか?」
ハッとして顔を上げると、寺井くんが僕の前に立っていた。
「……いいの?」
「いいっスよ」
彼の後ろでは、先程彼の周りにいた二人がボールを投げ合いながらワイワイやっていた。
「じゃ、ボール取ってきますんで」
僕は情けなさを感じつつもほっとした思いで彼の逞しい背中を見送った。
バスケの試合は僕のチームが四人しかいなかったので大変苦戦した。いや、正確にはしっかり五人いたのだけど、チームメイトは誰も僕にパスしてくれず、そんな状況で僕もわざわざ走り回る気力なんて湧かなかったため実質四人チームといって差し支えなかった。結局「ドリフター堂島」の爆走音を轟かせることはなかった。
それにしても、寺井くんには救われた。誰もが僕を空気のように無視していた中で、彼だけが僕に手を差し伸べてくれた。口数は少なかったけれど、優しい人柄だというのは伝わってきた。友達に慕われているのも頷ける。
僕が女子だったならば、きっと彼に惚れていたことだろう。うちの学校の女子は二階堂みたいなゲス野郎しか見えていない辺り、男を見る目がまったくないといえる。やはりまだまだガキんちょといったところ――
「堂島くん。寺井くんの首筋をじっと見つめてるけど、もしかしてうなじフェチ?」
今は六限目の数学が終わったばかり。にもかかわらず一限目のバスケを思い出しては寺井くんの男気溢れる人格に敬意の眼差しを送っていたら月野さんに見られてしまった。
「っ……! ……っと」
さすが僕だ、突然話しかけられてもとっさに声が出ない! このままだとあらぬ方向へ誤解されてしまうぞ、僕は香澄さん一筋なのに!
「俺の首に何かついてるっスか?」
寺井くんが振り向きながら尋ねてきた。
「え……と、そうじゃないよ。ただぼんやりしてただけ」
これで一応否定はできた。もう少しどもっていたら危なかったかもしれない。
「あ、もしかして堂島くんってこっち系だったりして」
月野さんは伸ばした手を口の近くまで持っていき、俗にいう「おカマのポーズ」をとった。ばっちり誤解された模様。
「だから、そういうわけじゃ――」
「ところで寺井くんは何フェチ?」
刹那のスピードで月野さんの興味の矛先が寺井くんに向かった。
「俺は、別に……」
「じゃあ当ててあげようか。うーん、そうだね……寺井くんは足首フェチと見た!」
ビクッと寺井くんの身体が強張った。この反応、まさかの図星と見える。
「え、当たった? へへん、どうよ。私の千里眼は!」
千里眼はやや意味が異なる気がするけど、僕のおカマ疑惑がうやむやになったのだからまあいいか。
「俺は、その、足首フェチとかじゃ――!」
「あ、帰りのホームルーム始まるから静かにしてね」
いつの間にか蒲生先生が教壇に立っていた。
「ぐぅっ……!」
恥ずかしさで顔を赤らめたままの寺井くんは、何かいいたげに口を鯉みたいにパクパクさせていたが、
「ち、違うっスよ、俺は」
と、僕に一言いって渋々前に向き直った。一方の月野さんはニヤついた顔を僕に向けた。
「ふふ、あんなに恥ずかしがらなくたっていいのにね」
「おい、月野! ちゃんと前を向け!」
先生に怒られた。
「うぅ、すみません……」
月野さんはしゅんと縮こまって前を向いた。
――この二人が前の席で本当によかった。
僕は心から、そう思った。
帰りのホームルームも終わり、帰宅しようか香澄さんに会いに行こうかと迷いながら廊下に出たところで、
「堂島くーん、今日一緒に帰ろうよ」
月野さんに声をかけられた。
「……何で?」
振り絞って出した言葉がそれだった。僕を誘ってくれたことは嬉しかったし、女子と並んで帰宅するなんて前の高校生活でも皆無だったから少しドキッとした。ただ、「何で僕なんかと?」という気持ちが先行して言葉に出てしまった。
「何でってそれは――」
「君たち、そこをどいてくれないか」
突如インテリメガネが月野さんの言葉を遮った。インテリメガネは失礼か。同じクラスの笹部壮太郎くんだ。
「廊下のど真ん中で話し込まれたら迷惑だ」
「わわっ、ごめんね」
月野さんがサッと廊下の端に寄った。
「それと君」
笹部くんが僕を指さした。
「こんなところで暇を持てあましているのなら、一年後の就職活動に向けて今から情報収集でもしたらどうだ」
彼は表情を変えるそぶりもなくいい放つと、そのままスタスタと歩き去っていった。
「むぅ。なんかヤな感じ」
まったくだ。あんな奴はインテリメガネで十分だ。
「ま、気にしないで帰ろ帰ろ」
同じ高校一年生でどうしてここまで違うものなのか。月野さんや寺井くんと、二階堂やインテリメガネを対比させながら僕は月野さんと玄関へ向かった。
「ところで、堂島くんはこの辺りには詳しいの?」
「うー……ん、コンビニとかスーパーなら、それなりに」
「じゃあさ、今日は私がこの町を案内してあげるよ。時間ある?」
そういえば、僕は香澄さんと「月野さんと会話して友達になる」というミッションを与えられていたんだった。昨日は友達の定義がうやむやになってしまっていたから、すっかり頭の中から抜け落ちていた。ということは、これは香澄さんとの約束を果たす絶好のチャンスということになる。
「うん、大丈夫だよ。……あ」
そうだ、思い出した。僕には「注意事項」があったんだ。
「どうしたの? 予定入ってた?」
「えっと、再就学者の僕には色々と制約があって……」
そう、「その二、生徒との過度の交際は禁止」というルールが存在する。女子生徒と二人で放課後に行動を共にするくらいなら「過度」の範疇には含まれないとは思うけど、もしものことで月野さんには迷惑をかけたくない。仕方ないけど、断ろう。そもそも、僕自身友達をつくることには気分が進まないのだ。
「注意事項のことでしょ? 大丈夫大丈夫。一緒に歩き回るくらいなら誰も文句いわないって」
「え、月野さん、注意事項のこと知ってるの?」
「ん? まあね。……よし、そうと決まればまずは私の行きつけ、青梅堂にレッツゴー!」
やや強引に腕を引っ張られ、青梅堂とやらにレッツゴーすることになった。……何事もなければいいけど。
桜星学園と駅を結ぶ一本道。その途中に、今年創業百二十年を迎える老舗和菓子店「青梅堂」はあった。まず目に入ったのは二階部分に取りつけられた「青梅屋」と書かれたケヤキの看板と、緩やかな三角の瓦屋根。この二つの要素が、コンビニと精肉店に挟まれた青梅堂により一層老舗っぽい風格を漂わせている。その老舗感を感じさせる店先にあるシミ一つない白いのれんをくぐると、そこにはもみじまんじゅうや人形焼、きんつばなどの和菓子がショーケースに勢ぞろいしていた。
僕たちはその奥にある食事スペースで間食の時間にした。僕はもみじまんじゅう、月野さんはようかんとくりまんじゅうを頼んだ。
「どう? ここの和菓子おいしいでしょ」
「うん」
ほのかにしっとりとした生地の中に程よい甘さのこしあんが入っている。これならいくらでも食べられそうだ。まんじゅう好きの僕も唸る逸品である。
「堂島くんっておまんじゅう好きなんだよね」
「好きだけど……何で知ってるの?」
「ん? そんな顔してたから」
そんな嬉しそうな顔でもしていたのだろうか。もしそうなら至極恥ずかしい。
「ところで、何で『青梅屋』っていうかわかる?」
「それは……青梅さんが始めた店だから?」
「ふふん、残念。正解はね、昔ペリーが来航した時にこのお店のおまんじゅうを食べて『オー、ウメー』っていったのがそのままお店の名前に使われたんだよ」
どうよ、といった風に月野さんは胸を張っている。誇らしげにしている彼女には申し訳ないけど、たった一つだけ訂正を加えるならばそれは――
「あのね、月野さん。ペリーは一八五八年に死去したから創業百二十年のこの店のまんじゅうは食べられないよ」
「え……」
「もっというなら、ペリーが寄港したのは神奈川県だし、そもそもアメリカ人が『ウメー』なんていわないよ」
「た、確かに、アメリカ人なら『オー、デリシャース』っていうよね……」
納得したのはそこだけなのか。
「てことは私、騙されたってこと! あー、リオが物知り顔で教えてくれたからすっかり信じちゃってたよ」
目の端で捉えていても月野さんの表情がころころと変わるのがわかる。その様子を見ていると、何だか自然と笑みがこぼれてしまう。
「でも堂島くん、ペリーのこと詳しいみたいだね」
「中学の頃に歴史上の人物を調べる課題があって、それで人となりとか経歴は覚えてるんだ」
「じゃあ堂島くんはペリーフェチだったんだね」
「違うよ!」
「なら逆にザビエルフェチとか?」
「ザビエルフェチでもないし、別にペリーの逆はザビエルじゃないよ!」
冗談だよ冗談、と月野さんは手をひらひらさせた。彼女とのやり取りが楽しい。香澄さん以外でこんなにも会話が弾んだのは久し振りだ。月野さんもニコニコしながらくりまんじゅうを口に運んでいる。
――そういえば友達ってこんな感じだったかもしれないな。
僕たちは緑茶で喉を潤した後、青梅堂から一番近い信号を左へ曲がり、しばらく歩いて区のスポーツセンターへ向かった。
白い建物の中には大小の体育室に柔剣道場や弓道場といった比較的メジャーな施設に加え、エアライフル場やアーチェリー場なんてものもあって見ているだけで飽きない程のバリエーションに富んでいた。
道路を挟んで向かい側には、ナイターが設置された多目的グラウンドと四面のテニスコート。そして緑に囲まれたウォーキングコースなど、とにかく広い。
「ここのウォーキングコースで毎朝さおりんは走ってるんだって」
ここを走りたくなる気持ちはよくわかる。とても清々しい場所だ。陸上部に入りたがっている滝口さんなら尚更だろう。
一通り施設を見て回った後、スポーツセンターと同じ通りにある都営図書館にも連れて行ってもらった。僕は小説をよく読む方なので期待しつつ中に入ろうとすると、入り口の前に胸の丈ほどの看板が立ててあった。
「あれ、今日は休館日だってさ。ここのトイレは綺麗だから一度紹介しておきたかったんだけどなー。残念」
図書館まできてトイレの紹介をする女子高生は全国でもレアだろう。しかし、中に入れないのは確かに残念だ。
諦めて踵を返すと、見覚えのあるおかっぱの少女がこちらへ向かって歩いてきた。
「あれって同じクラスの安藤さんじゃない? おーい、安藤さーん!」
月野さんがおかっぱ少女もとい安藤さんに呼びかけると、月野さんに気づいた彼女の表情はパッと明るくなり、隣の僕を見てヒッと息を呑んだ。失礼な。
「月野さんに……堂島さん。ど、どうしたんですか、こんなところで」
安藤さんは小さな体を更に縮ませながら月野さんに問いかけた。
「あのね、堂島くんと図書館のトイレについて語り合おうと思ってきたんだけど、今日は休館日なの知らなくってさ。や、お恥ずかしい」
僕はトイレについて語り合うつもりはないしトイレに用もない、と心の中で反論した。
「え、今日って休館日なんですか」
安堵さんは少し驚いた顔をした。どうやら彼女も図書館に用があったようだ。
「うん、そうなの。ほら」
月野さんは看板を指さした。「本日は休館致します」と簡素に書かれている。
「そうだったんですかぁ。わたしも知りませんでした」
安藤さんは小さな肩をがっくりと落とした。
「じゃあ安藤さんも恥ずかしい私たちの仲間入りだね」
「うふふ、そうですね」
笑顔を湛えた月野さんに呼応するように、安藤さんも微笑んだ。
「あっ、そうだ。安藤さんこの後って用事ある? ないなら私たちと一緒にぶらぶらしない?」
「はい、いいで――」
いいかけて、ちらと僕を見た。
「――い、いえ、今日は急用があるのでこれで失礼しますっ」
安藤さんはまさに脱兎のごとく走り去り、美容室の店先に立てかけてある黒板に足をぶつけ、通行人に正面から衝突しつつ、曲がり角の向こうへ消えていった。と思ったらひょこっと出てきて僕たちに一礼した後、今度こそ角の向こうに姿を消した。
「えっと、あんまり気にしちゃだめだよ。ほら、これから仲良くなればいいわけだし、ね? だからそんなに落ち込まないでよ」
「……落ち込んでないよ。大丈夫」
仲良くなるだなんて無理だろう。初めから好意的に接してくれた月野さんや寺井くんならともかく、僕のことをあんなに避けるような子と親しくなれるはずがない。
もう帰ってしまおうか。元々友達をつくる気などなかったわけだし、大体友達なんていたところで面倒で窮屈なだけ――
『それが新くんの本当の気持ちなの?』
不意に、いつだったかの香澄さんの言葉が脳裏によぎった。確か、僕には友達なんて必要ないと香澄さんの前でいった時だった。僕の胸にその時感じた焦りが呼び起こされる。
「堂島くん、もしかして体調悪い? トイレならさっきのスポーツセンターが一番近いよ」
ハッとして顔を上げると、月野さんが僕の顔を心配そうに見上げていた。
「っ……いや、トイレじゃないよ、少し考え事してただけだから」
「そう? じゃあ、次は駅前のアイスクリーム屋さんに行こうよ。すっごくおいしいんだから」
僕は今感じた焦りを払拭するように、せかせかと駅へと歩んでいった。
「堂島くん、やっぱりトイレ我慢してるんじゃないの?」
断じて違う。
そろそろ夕日を拝めそうだ。僕は月野さんおすすめのアイスクリーム屋で窓外の景色を眺めつつ、カップに入ったストロベリーアイスをすくって食べていた。店内に流れるまったりとしたメロディも相まって、これでもかというくらい甘く感じる。
「今日は堂島くんとたくさん話せて楽しかったよ。また一緒にぶらぶらしようね。んー、んまいっ」
向かいに座る月野さんは、ワッフルコーンの中にある春季限定の桜アイスに舌鼓を打っている。僕といて楽しかったのなら本望だ。正直、つまらなさそうな顔をされたらどうしようかと内心ひやひやしていた。
「そうだ、今度はリオも誘って遊びに行こうよ。ちょっと遠いんだけど、テレビでも紹介されたことのある有名なケーキ屋さんがあるの」
「月野さんって食べるの好きなんだね」
「うっ……! ち、違うよ。私は食い意地が張ってるんじゃなくて、お年頃なだけなの。花も恥じらう女子高生だっていつか大輪を咲かせるためのエネルギーを蓄えとかなきゃならないんだよ」
「別に食い意地が張ってるなんて思ってないよ。ただ、僕よりよく食べるなあと思っただけで」
「ほぼ同じ意味だよ! 堂島くんひどいよぅ、うら若き乙女をいじめるなんてぇ……」
月野さんはめそめそと泣き真似を始めたが、その間にもアイスを口に運ぶのは忘れない。何という説得力のなさだ。
それからしばらくして、そろそろ席を立とうかと話していた時に、奴らは僕たちの前へ威圧的に現れた。
「よう、オジさん。いい年こいて女子高生とアイス食べてんのかよ。これって犯罪じゃねえの?」
「月野さんってもしかしてオジさんとつき合ってるの?止めた方がいいわよ、そんなニート」
二階堂鋭二と渚花凜。僕に対して特に攻撃的な二人だ。
「別にいいでしょ。私たちが一緒にアイス食べたって。あと、つき合ってるわけじゃないからね。……行こ、堂島くん」
そういって立ち上がろうとした月野さんの邪魔をするように二階堂が立ち塞がった。
「月野だっけか。お前こんな底辺ニートのどこがいいんだよ。案外男を見る目がねえんだな。残念極まりねえぜ」
「もしかして母性本能を刺激されちゃったとか? でも、そんな奴といると月野さんの評判まで下がるわよ」
――許せない。僕だけならまだしも、月野さんまでバカにするなんて。
「ほら、月野に迷惑かけんじゃねえよ。お前は早く帰れよ」
二階堂が僕の腕を強引に掴んで立ち上がらせようとする。もう限界だ。腕っぷしに自信はないけど、このまま黙ってなんか――
「――いい加減にしてよ!」
バンッと両手でテーブルを叩きながら月野さんが立ち上がった。店内が水を打ったようにしんと静まり返る。
「さっきから聞いてれば堂島くんのこと好き放題にいって……二人は堂島くんの何を知ってるの! こうして高校生やってるのだって、自分を変えたくて一生懸命だからなんだよ! 堂島くんみたいな頑張ってる人をバカにするのは、私が許さない!」
まさか怒鳴られるとは思ってもみなかったのだろう。二階堂たちは鳩が豆鉄砲を食ったようにポカンと口を開けている。それを見ていた僕も、月野さんのあまりの迫力に絶句していた。
「ほら、もう行こ、堂島くん」
月野さんは二階堂を押し退け、僕の制服の袖を引っ張った。立ち上がった僕と月野さんは、そのまま後ろを振り返ることなく、ポップ調に変わったメロディだけが響く店を後にした。
高台の公園まで連れてこられた僕は、月野さんと共にオレンジ色に輝く街並みを眺めていた。
「あの、ごめんね。大声出しちゃって。もっとこう、スマートにいきたかったんだけど、頭に血が上っちゃって。……ほんとにごめんなさい」
彼女は申し訳なさそうに僕に頭を下げた。でも、その必要はない。月野さんは何も悪くないのだから。
「その、謝らないで、月野さん。……嬉しかった、僕のために怒ってくれて。むしろ、謝りたいのは僕の方だよ。僕と一緒にいたせいで月野さんに迷惑かけたから……」
「迷惑なんて止めてよ。そんなことはこれっぽっちも思ってないんだから」
月野さんはポニーテールをブンブンと振り回した。
「でも、これ以上月野さんがあいつらに標的にされるのは僕も嫌だから。……だから、もうこれからは関わり合うのは止めにしよう」
それが、月野さんにとっても僕にとっても、最善の選択だ。僕がいたところで彼女には何のプラスにもならないし、僕だって昔のように一人の方がいいんだ。今までだってそうやって――
「それはダメ」
月野さんは僕をまっすぐ見つめ、毅然とした態度でそういった。
「ダメって、何で……」
「だって私たちは、友達だから」
月野さんは優しく微笑んだ。人を安心させるあの笑顔だ。
「友達……?」
「そうだよ。私たちはもうとっくに友達でしょ」
香澄さんのいった通りだった。月野さんは僕のことを友達だと思ってくれていた。
「私はこれからも堂島くんと一緒に学校で話したり、放課後遊んだり、おいしいもの食べたりしたいよ。もちろん堂島くんがさっきみたいに悪くいわれたら、私が守ってあげる。自分の悪口より友達の悪口の方がずっと許せないもん。……だから、もう友達同士で迷惑なんて水臭いことはいいっこなしだよ」
夕日に照らされた彼女は、香澄さんにも負けないくらい眩しく映った。
僕のことを友達だと月野さんがいってくれた時、心が躍るのを確かに感じた。この人と友達になりたいと心から思った。そして今、否定的だった「友達」を受け入れ始めている自分がいる。不思議だ。この子といると肩肘を張らずに自然なままの自分でいられる気がする。
――僕は、やっぱり友達が欲しい。月野さんと友達になりたい。
「ありがとう、月野さん。……でも、今度は僕が月野さんのことを守るよ。……僕も、その……月野さんの友達、だから」
月野さんの顔に笑顔が咲いた。夕焼け空に咲くひまわりも綺麗だ。
「えへへ、じゃあ今日は堂島くんとの友達記念日だね」
「その言葉、小学生の時に流行った気がする」
「あ、それって暗に私の語彙力が小学生並だと思ってるんでしょ!」
「思ってないよ。ただ、少しだけ子供っぽいなと」
「やっぱり思ってるじゃん!」
数年振りにできた友達は、明るくて優しく友達思いの、ちょっと食いしん坊な女の子だった。彼女のおかげで僕は今、身体中ににじんわりと温かいものを感じている。彼女は、僕が煩わしいからと過去に置いてきてしまった「友達」の感情を思い出させてくれたのだ。僕は心から感謝した。
それなのに僕の胸には今、不安感が芽生え始めていた。
「おーい、ひーまー」
僕たちが歩いてきた方角からクロスバイクに乗った少女が長い髪をなびかせながらやってきた。
「あ、リオだ。おーい、リオー」
キキーッと急ブレーキをかけ、学生バッグを背負った若葉さんが僕たちの目の前で止まった。
「よう、お二人さん。数時間振りだな」
「リオったら、約束の時間はまだ先なのにもう私に会いたくなっちゃったんだね。かわいい奴め」
「ちげーよ。コンビニ行った帰りに偶然お前らが歩いてんのを見かけたから、気になって後を追いかけたんだよ。それにしても、今日は用事があるからって先に帰ったと思ったら、まさかあんたと一緒だったとはな」
若葉さんはサドルに跨ったまま、しげしげと値踏みするように僕を見つめる。女の子にじっと見られ続けるのは初めての経験なので、何だかこそばゆい。
「今日はね、堂島くんと青梅屋に行ってきたんだよ。他にもスポーツセンターとか、図書館とか、あとアイスクリーム屋さんにも行ったの。あ! 青梅屋といえば、リオってば私に嘘吐いたでしょ。堂島くんの前で大恥かいたんだから。まったくもう!」
「青梅屋の名前の由来のことか? あのな、そもそもペリーはアメリカ人なんだから『ウメー』なんていわねーだろ、アホか」
この二人、着眼点が同じだ。
「にしても、何であんたとひまが一緒にいるんだ?」
「へへん、よくぞ聞いてくれました。私たちはね、ついさっきまで友達として親交を深め合ってたんだよ」
月野さんが僕の肩にぽんと手を置き、もう片方の手の親指を立てた。どうやら彼女なりの友情のポーズらしい。
「ほーん、友達ねえ」
「リオも堂島くんの友達だよね」
「何だよ、藪から棒に。……まあ、ひまが気に入った奴ならあたしのダチだな。よろしくな、あんた」
あっという間に二人目の友達ができてしまった。これが月野さんの力か。
「ちょっとちょっと、友達なら『あんた』は止めようよ。中年夫婦じゃあるまいし」
「妙な言い回しすんな。けど年上相手に呼び捨てってのはな。かといって同学年に敬称つけんのも気が進まねーし。あんた、いいニックネームとかねーの? オジさんじゃ嫌だろ?」
「あ、うん。それだけは本当に勘弁してもらいたいかな」
オジさんと呼ばれる度に、二階堂による呪いをかけられているようでとても気持ちが悪い。できることなら一日でも早くその呪縛から解放されたい。
「ニックネームか。うーん」
月野さんは口に手を当て、まるで探偵が推理を巡らせているかのようなポーズ。普段より若干知的に見える。
「堂島、新、どうじま、あらた、あらた、にい……ニイ……む!」
妙案を閃いたのか、月野さんはバッと顔を上げると僕と若葉さんを交互に見て声高に叫んだ。
「『ニイさん』っていうのはどうかな。新ってニイとも読むでしょ。だからニイさん。これなら年上のお兄さんとして敬いながらも、あまり敬称をつけた感じにならなくていいんじゃないかな」
「お、ひまにしては上出来じゃん。あんたはどうよ。あたしは結構気に入ったけど」
僕も、即興で考えたにしては僕の名前と立ち位置がよく考慮されていてとてもよくできていると思う。何より、オジさんから若返ったことが嬉しい。
「うん。僕も気に入ったよ。ありがとう月野さん。いいセンスだと思う」
「いやぁ、まさか二人にここまで褒められるなんて思わなかったよ」
えへへ、と月野さんがにやける。相当ご満悦の様子だ。
「そんじゃま、改めてよろしくな、ニイさん」
「うん。よろしくね、若葉さん」
あだ名が「ニイさん」、か。僕は今まで年上にしか興味はなかったけれど、年下も中々いいかもしれない。妹萌えに情熱を注ぐ男たちの気持ちがようやく理解できた気がする。
「堂島くん、リオは口が悪いから誤解されやすいんだけど、心の中は底まで見える湖みたいに綺麗な子だから安心してね。中学の時なんて――もがもがっ!」
「余計なことはいわんでいい」
若葉さんは目にも止まらぬ速さでクロスバイクから降り、月野さんの口に腕を回し強制的に黙らせた。
「てか、ひま。お前は『ニイさん』って呼ばねーのかよ」
ぺしぺしっ。若葉さんの腕がタップされる。悪い悪い、と若葉さんが力を緩めると解放された月野さんが膝から崩れ落ちかかった。結構危ないところだったみたいだ。
「ぜぇ、はぁ。……うーん、そうだなあ。堂島くんが私のことを『ひま』って呼んでくれたら私も『ニイさん』って呼ぶよ」
月野さんがキラキラとした目で僕を見ている。けど、その期待には応えられない。
「ごめん、それはちょっと」
「えー、『ひまちゃん』でも『ひまさん』でも何でもいいのにぃ」
「だって恥ずかしいし」
小学生くらいの女の子ならまだしも、年頃の女の子の名前を――愛称だとしても――呼ぶのは恥ずかしい。女性経験のなさが如実に表れてしまった。
「だってよ、ひま。諦めな。ニイさんはどうやら純真らしい」
一瞬で見抜かれてしまった。
「まあ、無理にとはいわないけどね。でも、いつか必ず『ひま』って呼んでもらうから覚悟しておくように」
――今のうちに女の子を名前で呼ぶ練習しておこう。あ、そういえば気になることがあったんだ。
「そういえば、さっき月野さんが約束とかいってたけど」
「ああ、あれな。実はこの後ひまとバイキング行く約束してんだ。ニイさんもどうよ」
「バイキング……」
甘味は別腹とはいえ、月野さんは更にバイキングの予定まであったとは。一体どれだけ食べる気なんだ。
「今、『どんだけ食べるんだこの女は』って思ってたでしょ!」
またしても見抜かれてしまった。この子たちはエスパーか。
「んで、どうすんのよ。ニイさん」
特に断る理由はない。これといって用事はないし、どうせ夕食はスーパーの弁当で済ませるつもりだったから丁度いい。
「その、お邪魔でなければ」
「いよっし、決まりだな。日も暮れてきたし、飯にはまだ早いけど食いに行くか」
若葉さんは再びクロスバイクに跨った。
「さんせーい。バイキングっバイキングっ。ハッ!……き、今日は少なめにしようかな……」
「何いってんだ、いつもあたしの三倍は食べる癖に」
「今それをいうなぁー!」
クロスバイクをグイグイ漕いで彼方へと消えていく若葉さんを月野さんは走って追いかけていった。僕はそれを微笑ましく見ていた。
――あれ? 僕は店までの道順が分からないんだから、見失ったらまずいんじゃないか。
「ち、ちょっと待ってー!」
僕の胸には迷子になるかもしれない焦りと、早くも息が上がってきた絶望と、二人の素敵な友達ができた充足感と――得もいわれぬ不安があった。




