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一章

 都立桜星(おうせい)学園高等学校は、偏差値や部活動のレベルが都の平均をそれなりに大きく上回り、学生の素行もこれといって問題のない、総合的にはSに一歩及ばないAランク程度の実力を持つ優良高校である。しかし、これといった特色や強みがなく、同区内には全国でも有名な私立の進学校や数々の若手アイドル俳優を輩出してきた人気の都立高校が存在するため、いまいち目立たない。ただ一つ誇れるものがあるとするならば、


「見学したけど印象に残らなかった」

「そういやそんな高校もあったな」

「実力があるわりに印象薄いね」

「桜星のスレ全然伸びねえな」


 といった、影の薄さだろう。


 そんな没個性高校から歩いて五分の距離にあるアパートの1LDKにて、僕はベッドに腰かけながらあるイベントを心待ちにしていた。枕元の目覚まし時計は朝の六時五十七分を指している。あと三分弱だ。


 カチ、カチ、カチ……


 あと一分。


 カチ、カチ、カチ……


 残り十秒。


 カチ、カチ、カチ、カチ……カチ。


 七時ジャスト、待ちに待ったこの時がきた。スマートフォンに手を伸ばす。


 ピロリロリン、ピロリロリン、ピロリロリン、ピロ――


 ディスプレイには「北条香澄(ほうじょうかすみ)」の四文字。はやる気持ちを抑えつつ、喉の調子を確かめてから通話ボタンを押した。


「おはよう(あらた)くん。よく晴れてて気持ちのいい朝ね」


 大人の知性と艶を感じさせる、しっとりとした魅惑的な声。そこらの声優では到底太刀打ちできないこの美声の持ち主は僕の憧れの存在、北条香澄さんだ。


 だがしかし、彼女の魅力は美声だけに留まらない。華奢(きゃしゃ)な肩をくすぐる柔らかなミディアムヘア。銀色のメガネフレームがよく似合う理知的な眼差し。スーツを柔らかく膨らませる豊かな胸。すらりと伸びる長い手足。そしてぷるんとした桜色のくちびる。そう、あの艶めかしく形のいいくちびるが縦に横に、閉じたり開いたりする度に僕の脳内はバラ色に染まりめくるめくユートピアへとほとばし――


「新くん、聞こえてる?」


「ああ、はい。大丈夫です」


――もう少しで妄想の翼を広げて飛び立ってしまうところだった。危ない危ない。


「その様子だと、たった今起きたばかりみたいね」


「はい、そうです」


 嘘だ。しかし、「香澄さんのモーニングコールが楽しみで五時には目が覚めてしまいました」なんてことは恥ずかしくていえない。


「それならまずは顔を洗って、それから朝食と着替えを済ませること。八時頃にまた電話するわね」


「あの、香澄さん」


「何かしら」


「やっぱり学校行かなきゃだめですかね」


 無駄だと知りつつも、ささやかな抵抗を試みる。


「もちろんよ。あなたは立派な桜星学園高校の生徒なんだから。……そんなに心配しなくても大丈夫よ、きっと楽しい学園生活になるわ。じゃあ八時にまた、ね」


 プツッと香澄さんの声が断たれた。抵抗はむなしく一蹴されて、甘美な一時も一時間後までお預けとなってしまった。


 僕はベッドから立ち上がり、ハンガーにかけた桜星学園の地味な紺色の制服を見つめた。


「まさか二十二歳にもなってまた高校なんかに通わなきゃいけないなんて……」


―――憂鬱だなあ。




 その男は換気のために開けておいたリビングの窓を閉めると、ちらと時計を確認した。現在の時刻は七時五十五分。


「そろそろだな」


 男はそう呟くと、玄関に程近い洗面所へと向かった。


 洗面所の鏡の前に立った男は何度か体を反転させたり自分の顔を覗き込んだりと、身だしなみを整え始めた。


 二十代前半といったところだろうか。成人にしては若い顔立ちに不安の表情を浮かべながら、スーツについた糸くずを取り除いたり、手ぐしで髪を整えたりと、ややせわしい。


 その光景を食品会社に勤務して二十年になるベテラン営業マンの園部猛(そのべたける)氏(齢四十七)が見たならば、


「これから社会の荒波に揉まれていく新社会人ってとこだな。俺にもこんな初々しい時代があったなあ」


 と、若かりしあの頃を思い出し感慨にふけることだろう。


 だが、よく見て欲しい。その男の胸元には金の糸で「桜星」と刺繍された校章ワッペンが縫いつけられている。そう、男が身に(まと)っているのはスーツではなく、桜星学園高校の学生服なのだ。


「おっと、高校生だったのか。それにしちゃ老けたツラしてるな」


 それもそのはず、その男はとっくに某高校を卒業したのち某大学を二年生の前期終了と共に中退、その後は求職活動もせずに昼夜逆転の引き(こも)り生活を二年半近く続けてきた、いわゆるニートなのである。その名も、堂島新(どうじまあらた)。つまり、僕だ。


「待て待て待て、ニートが学生服? いってる意味がよくわか――」


 ピロリロリン、ピロリロリン――


 ポケットに入れておいたスマートフォンが香澄さんからの着信を告げる。今さっき脳内で産声を上げたばかりの園部氏を速やかに消去し、キャリアスーツに身を包んだ香澄さんの麗しい姿を夢想しつつ電話に出た。


「新くん、そろそろ八時になるけど支度は済ませたかしら」


「はい。あとは靴を履くだけです」


 僕はそういいながら洗面所の電気を消し、玄関に向かう。身だしなみは特に問題ない。


「偉い偉い。そしたらまだ時間もあるし、学園生活を送るに当たっての注意事項をおさらいしましょうか」


「注意事項……『若年(じゃくねん)無職者(むしょくしゃ)再就学(さいしゅうがく)計画(けいかく)』の、ですよね。選出された僕がいうのもあれですけど、よくもまあこんな案が通りましたよね」


「それだけこの国にとって深刻な問題であり重要な課題である、ということよ」


 若年無職者再就学計画とは、三年前から我が国が発足した「二十五歳以下の無職者を高等学校の再就学者として一年間就学させることで生活習慣の改善や人間関係の重要性を学ばせ、社会進出を促す」一大プロジェクトである。


 具体的な流れとしては、まず国がランダムに二十五歳以下の無職者を選出し、希望者に適性試験を行う。それを通過した者には二次試験として面接が半年近く何度も行われる。それを経て「問題なし」の評価を与えられた一握りのエリートニート(?)が晴れて、このプロジェクトの参加加盟高校に新一年生として通うことになるのである。ちなみに、実施は今年度からなので再就学者全員が一期生ということになるが、みんな別々の高校に入学することになっているので、基本的に顔を合わせることはない。


 もちろん当初は否定的な意見も多く出たが、税金が納められないことによる経済悪化や労働人口の減少による国際競争力の低下などが懸念されたことで、晴れてこのプロジェクトが採用に至った。


 その画期的とも無謀ともいえるプロジェクトに僕は半年前、正式採用された。そう、採用されたのだけど、まさか選ばれるとは思わなかったし、そもそも参加する予定だって更々なかった。


 きっかけになったのは家族だった。今から約一年と少し前、僕宛に(くだん)の参加希望者を募る通知が届いたことを知った父さん、母さん、そして妹の理沙(りさ)は、それはそれは喜んだ。


「新、国がお前を必要としているんだ! 男として本望だろう!」

「脱ニートのいいきっかけになるわ。今! すぐ! 申し込んできなさいよね」

「バカ兄貴にもようやく転機が訪れたね」


 確かに僕自身、このままニートとして一生を終えるつもりはないし、家族に対しての引け目や負い目は日々痛い程に感じている。しかし、もう一度高校なんぞに通う気は毛頭なかった。その理由は、目立って恥ずかしい気持ちは当然あるとして、そもそも高校が嫌いだからだ。


 あの三年間で僕の記憶に残っている事柄は、特にない。友人も煩わしくてつくらなかったし、当然彼女もいなかった。部活やアルバイトも避けてきた。だから、楽しい思い出なんてものは頭を絞ったところでカスほども出てこない。ただ毎日あくびをかみ殺しては学校に向かい、誰とも会話せずに黙々と授業を受け、一人で母さんのつくってくれた弁当を食べて、帰りのホームルームが終われば誰よりも早く帰宅する。当時の僕は、「学校に通学する」ことだけをインプットされた二足歩行ロボットといっても過言ではなかった。


 再びあんなモノクロの青春を送るなんてまっぴらだ。その旨を家族に伝えると、


「父さんはな、犯罪とは無縁に生きていたいんだ」

「お願いよ、新。母さんたちを前科持ちにしないでちょうだい」

「あたしたちそろそろ何するかわかんないからね」


 一体どんな悪行に手を染めるつもりなのか。僕はこの時、幼少の頃にイカの刺身を喉に引っかけて窒息死してしまいそうになった時以来の命の危機を感じた。


「よし、腹は決まったな」

「それじゃ、さっさと行ってきなさい」

「尻込みして何もせずに帰ってきたら、もう後はないよ」


 アニメとネット漬けの昼夜逆転生活は、周りの人々が思っている程気楽なものではない。それらは惨めな自分から目を逸らすための手段だからだ。一時は楽しいと感じても、ふとした時に現実へ目が向いてしまう。そしてまた現実から目を背けるために電子画面にのめり込む。こんな自分が嫌になって自殺を考えた回数は、両手では数え切れない。


 とはいえ、殺される気はないし家族を犯罪者にするのもごめんなので、僕は渋々役所に書類を提出したのだった。


 だが、この時の僕にはまだ余裕があった。エントリーしてしまったとはいえ、これだけでハイ決定、というわけではない。まだまだこれから適性検査と面接があるのだ。仮に本気で取り組んだところで、僕なんかが採用されるはずがない。


 そう楽観していたのが(たた)ったのか、業を煮やした神様は思い切り僕の尻を蹴っ飛ばした。僕は全ての関門を突破し、見事合格してしまったのだ。


 適性検査は中学レベルの試験問題と常識力のテストだった。難易度はそれなりだったものの、これをパスした人は少なくなかっただろう。


 納得がいかなかったのは面接だ。まったく自慢にならないが高校、大学と人と関わるのを避けてきたせいで「はい」と「ちょっとごめん」しか話さない日などざらにあった僕が、何故面接をパスできたのだろうか。更にいえば、人とまともに視線を合わせられないし、突然話しかけられたらとっさに言葉が出てこない。ニートの更生が目的だとしても待望の一期生なのだからもっと慎重に、僕よりマシな人間を選んだ方がプロジェクトのためになったと思う。


 そして月日は流れ、九月頃に合格通知が届いた時の家族はそれはそれは、もうそれはそれは喜んだ。


「新、立派な人間になって帰ってこい。そうでなければ帰ってくるなよ。みんな期待してるからな」

「母さん、肩の荷が下りたわぁ。あら、何だか家が広くなったみたい! ペットでも飼おうかしら」

「確か一人暮らし用にアパート貸してもらえるんだよね。じゃ、兄貴の部屋空くじゃん。ラッキー」


 一方、僕は絶望の淵に立たされていた。再びあの色味のない世界に身を投じなければならないなんて考えただけで暗澹(あんたん)たる気分になった。けれど、こうなってしまった以上もはや引き返せず、それから数日間の僕は食事も喉を通らず、イカの刺身でまた生死をさまよう羽目になった。


 しかし、塞翁が馬。僕のどんよりと黒く重い曇天模様の心に、一筋の光が差し込んだ。スーツを身に纏いメガネをかけた、モダンな女神様が現れたのだ。


 その人こそ、北条香澄さん。四月からの僕の高校生活をサポートするために国から派遣された、スクールカウンセラーさんだった。彼女も僕と同様に四月から桜星学園に通い、生徒たちの心のケアをしつつ僕の面倒も見てくれる特別講師として働く予定だ。


 初めて会った時の感想は、月並みだけど「綺麗な女性」だった。そして、何度も面談をしていくうちに僕は彼女の内面も「美しい」と思うようになった。


 香澄さんはいつも優しげな微笑みを(たた)え、僕に話しかけてくれた。僕が返答に困って中々言葉を紡げないでいると、急かさずにじっと待ってくれた。気が緩んで家族や社会に対して愚痴を放ってしまった時は、僕を非難するのではなくさり気なく諭してくれた。プロジェクトに弱気になり家に籠城(ろうじょう)した時は、毎日自宅を訪問してくれた。


 カウンセラーなら当然、といわれればそれまでだけど、家族との仲も芳しくなく友人もいなかった僕にとっては彼女こそが最も気を許せる存在になっていった。彼女と接点ができるなら高校に通う辱めも何とか耐えられるというものだ。


「まずは、注意事項その一……」


 いけないいけない。またトリップしかけていた。


「その一、高等学校の一生徒としてふさわしい振る舞いをするように努めること」


 その一からいきなり抽象的である。が、僕たち再就学者はよくも悪くも目立つ存在なので普通の高校生以上に気をつけなければいけない。酒やタバコ、暴力なんてご法度中のご法度だ。


「その二、生徒との過度の交際は禁止」


 つまるところ、男女交際だ。高校生と色恋に(うつつ)を抜かしていると世間に思われたら、プロジェクトに対する心象は悪化してしまう。でも香澄さんは社会人だから僕が香澄さんと交際しても問題ないはずだ。できるか否かは置いといて。


「その三、部活動は原則可。ただし、大会の参加は不可」


 これは当然。特にスポーツ系で成人と学生を同じ土俵で競わせるのは不公平だ。


「その四、アルバイトは禁止」


 これも当然。働く気が湧くのなら最初から応募するなという話だ。


「その五、好成績を維持すること。試験の総合点数は毎期五十位以内が望ましい」


 赤点を取ったら毎月支給される生活費が減額されるらしい。桜星学園はそれなりのレベルだとはいえ、僕がかつて通っていた高校のワンランク上程度なので、その五に関してはそこまで気を揉む必要はないだろう。多分。


「と、まあこんなところかしら。朝のホームルームは八時半からだけど、余裕を持ってそろそろ登校したほうがいいわ」


 入学式は昨日行われた。そこで一応は学校の雰囲気を肌に感じたものの、本格的に学園生活が始まるのは今日これからだ。そう考えていたらじわじわと不安感が腹の底からせり出し、香澄さんに相槌を打とうとした口から意図せず溜め息が漏れてしまう。


「大丈夫よ、新くん。緊張してるのはクラスの子たちも一緒。明るく話しかければ案外すぐ仲良くなれるものよ。そうすれば不安なんてすぐに吹き飛ぶわ」


「けど、僕ニートですし……」


「新くん、あなたは自分を変えようとしている立派な人間よ。私はそのことをよく知ってるわ。だから自信を持って。辛いことがあったらいつでも相談しにきて頂戴。一人で抱え込まないでね。……私はどんな時だって、新くんの味方よ」


 本当に優しい人だ。この人が僕の担当であることを神様に感謝したのは、これで何百回目だろうか。蹴り飛ばされたお尻はまだ痛むけど。


 もし僕がここで躊躇(ためら)ったら香澄さんを悲しませるばかりか、彼女の成績にも傷をつけてしまうだろう。そんなことはあってはならない。


「香澄さん……僕、行っていきます!」


 僕は香澄さんのために、勇気の一歩を踏み出した。


「いってらっしゃい、新くん!」


 僕は自ら通信を切り、勢いよくドアを開けた。春の陽気を存分に吸い込み、階段を駆け下りる。そして僕を鼓舞するかのようにさんさんと輝く太陽の光を一身に浴びると――


「ま、眩しい……」


 生活リズムを治したとはいえ、二年半もお月様の下で活動してきたのだ。まだまだお天道様に顔向けできる身体ではない。


――やっぱりサボろうかなあ。

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