人間の猫
大江健三郎の手になる小品に、「人間の羊」というのがある。私はこの短編小説がたまらなく好きだ。バスから降りると、男が主人公をストークする。男が男を追っかけまわすのには、なにかよほど理由があるに相違ない。そうでなければ、ゲイか、はたまた心を病んだ人間か、どちらかだ。それ以外に、人間の男が生きる道はあるまい。
――いい齢をしたサラリーマンの中年男が会社帰りの途次での道草を、居酒屋ではなくペットカフェでコーヒー&サンドイッチをまったり食みながら過ごすというのも、ここらではすっかり浸透しつつあった。帰宅ラッシュを意図的に避けたり、妻や娘に煙たがられるのが厭さに、ここを当座しのぎの憩いに訪れる勤め人は、私ばかりではないのだから、私がここで犬の頭を撫でくり回しながらコーヒーブレイクしている姿を憐れと思ってくれるな。見よ、頭の禿げかかったあちらのオヤジを。先方なぞはまるで血のつながった子供でもあやすような甘ったるい声を出して、ゴールデンレトリバーのアカリちゃんとやらを溺愛している。つい今しがた、仕事であのような男と刺を通じ、商談をし終えたばかりだったものだから、私はたまらずノランちゃんに「イヤでちゅねぇ、いいトシしたおっさんがあんなみっともない声あげて! ノランちゅあん、中年男がペットカフェだなんて、全国規模で見ればまだ市民権を得ていないのにねぇ」だなどと、尻上がりに口走ってしまった。電車の中で聞きたくなくとも聞こえてくる女子高生の話しぶりが、耳の裏に瘡があるためにマスクを嫌厭していた私にもそのせいで感染したようだ。ノランちゃんは、いと利発な仔であったが、およそ名前からして日本語を解さぬものだろう、訝しんだようにクレバーそうに首を傾げた。店内の回転する照明を受けて、愛くるしい瞳が輝き、私の胸はスパンコール……サンドイッチに挟まれたピンクサーモンのように、河面に自慢の鱗を照り輝かせながらキュンと跳ねた。たまらない。これだから中年の仕事帰りのコーヒーは格別だ……。
「いつもご来店、ありがとうございます」
と、すっかり馴染みになってしまったせいか、あるいは会員カードの自動的にスタンプが押されるシステムが足しげく通う私への対応を善くするように店員に心懸けさせてか、はたまた規定数以上来店をした客にはそうするよう、マニュアルにあるものか、若い店員の男がノランちゃんとちゅっちゅラブラブしていた私の許へ、笑みを引っ提げながらやってきた。ノランちゃんはその男がお気に召さないのか、さっきから私にチャーミングなその一瞥をくれもせずに、匂いに誘われるのだろう、後背の女性にばかりうつつをぬかし、そっぽを向いていた……。
「ノランちゃん、お客さまに会うといっつもご機嫌になるんですよ。今だってほら」
と言って、眼がとろんとしてきているノランちゃんを指し示す……無理もない、私がいつ終わるともない仕事を早々と切り上げて、ここまで足を展ばす頃には、十時をすでに回っている。交代制でシフトを替えているのだとしても、動物の本能というやつはなかなかどうして遅滞なく針をすすめるようで、私が膝に乗せるやノランちゃんはたちまち眠たそうに舟を漕ぐのだ。私は愛くるしいその耳を撫ぜながら、今日の疲れをサンドイッチとコーヒーの香りと、店内をゆったりと流れる動物に優しいとされるクラシックに囲繞されながら取り除くのだ。疲れ切った後に浸かる風呂なんかよりも、私の身に張り付く都会の垢をすっきり落としてくれる……。
私は揉み手こそしないものの私に向かって「ほら、ノランちゃん、こんなにも……その、お客さんに安心しきって、すっかり眠っちゃってるではありませんか。はは、ははは」などとお愛想を振りまく店員を適当にやっつけながら、さて今宵は無防備にも私の前で眠りこけているノランちゃんをどうしてくれようか、しきりに思案していると、
「お客様、今夜はノランちゃん、すっかりお客さんに安心しきってしまったようですので、他の仔たちを抱いてみてはいかがでしょうか」
と擦り寄ってきた。
「ワンちゃんかね?」私は威厳たっぷりに取り繕う。
「ええ、もう。ワンちゃんもさることながら――」
店員はそこで声をひそめた……どうでもいいことだが、私はこの男のネームプレートを覗きこみ、この店のオーナーであることを知った。なるほど常連にしつこいのはこの肩書のためかと、お互いに仕事の労を犒い合いたくもなったが、耳打ちされたその言葉が私の琴線を揺すり、注意を惹きつけた。
「――今日は実は、新しいネコちゃんがお友達に増えたんですよ」
「猫か。あいにく私は、ここへはノランちゃんに会いにきているのだが……」
「ええ、そりゃぁもう、重々承知のうえですが……なにぶん、ノランちゃんね。今日は、そのぅ……どうも体調が優れないようで。身体に障る前に、このままゆっくり寝かせてあげたいのですよ。どうか一つ、ノランちゃんの健康のために、どうか……」
「なるほど、ノランちゃんのためとあらば、是非もない」
と、時代錯誤な言い回しでせいぜい威厳を保ちながら、私はここ毎夜、ほとんどルーチンのように経験する断腸の思いとやらでノランちゃんとの離れがたさにほろりと下りそうなものをぐっと抑える。
「それで? にゃんこちゃんというのは?」
「はい、仔ネコちゃ――にゃんこちゃんですが、なんと今夜はお客様だけに、特別に触れ合っていただきたいので、場所を移動することになります。ささ、どうぞこちらへ……」
と、いざなわれるままに私は、関係者以外の立ち入りを禁じている部屋へと通された。気分はVIPで、まんざらでもなかった。
「こちらがその、猫でございます」
「……これが、ネコ……?」
ところで私は、ネコというものをいままで一度も見たことがなかった。恥ずかしながらネコを見たことがないと告げると、家人はいうに及ばず、近所の小学生にさえ笑われてしまうからけっして口外しないのだが、しかし、これがネコといわれても、ピンとこない……たしかに、なるほど、世間で言われているように、可愛くはあるのだろうが……。
「この仔は、いったいメスですか?」
「この仔ですか? いいえ、メスにも見えましょうが、これで意外とオスなんですよ」
「オス! これが、オス?」
私はもう一度、その猫を覗いてみた……なるほど、よくよく観察してみると、なかなかどうして中性的な顔立ちをしていて、メスのようにもオスのようにも見えてくる……昔中国の政治の場で重用されていた宦官は、ラストエンペラーの頃の写真で見ても、キツネ眼のように、顔立ちが中性的に整っていたが、あれは我々が勝手にそうだと思い込むから先入観でそう見えるだけなのか、それとも人体のメカニズム的に、去勢した男子はそのようなかんばせになっていくものなのか……論より証拠、私は目前の猫を見て、首を傾げていた。
「最近は、よく見られるんですよ。中性的な顔立ちをした、可愛らしいオス猫が……」
「なるほど、それは寡聞にして知らなかった……」
「あの猫も、お客様と同じように、前までは働いていたんですよ?」
「働いていた? するとこのネコは、今日入荷されたわけではないのか?」
「いえ、違います。当店で働いていたわけではなくて……驚くなかれ、実はこのネコ、元は人間だったのです!」
「人間だった? 人間だったとは、どういうことだ? ネコが人間だったなんて話があるのか?」
「ええ、キツネやタヌキばかりじゃありません。ネコも猫又、人間を化かしたり、人間に化けたりもできます。あのネコはつい最近、人間であることをやめたんですよ。その結果、うちが仕入れ――お友達として、誘ったんです」
「そうか……」
私はオス猫を見ていた。オスの三毛猫だった。これは珍しい、たしか数百万はくだらない貴重種ではなかったか? 遺伝的な要因で、そもそも三毛猫にオスなど生まれてこないという専らの風説だったが……。
私はあのネコがスリーピースを新調に及んで、私のように東京のアスファルトを靴底でさらに硬く踏み固めてゆく姿を想像してみたが、うまく思い浮かべることができなかった。長靴は想像できても、スーツに革靴となると……。無理もない。なにせ、ネコという人外を見たのは、これが初めてのことだったので。
「いったいこのネコは、なぜ人間であることを辞めたんですか?」
「さぁ、ネコの気持ちなんて、人間にはわかりませんからね。ほら、一時期ありませんでした? そういう名前の機械。猫の言葉を翻訳してくれるんですよね。どっか玩具メーカーがそういうのをまた生産してくれるのを、待ちましょう」
「玩具、か。いかさまネコらしいが……肌に合わなかったのかな、人間界が」
「猫は元来、思想家ですから。好奇心で死ぬってよく言うじゃないですか。この仔もその類いで、いろいろ学んできた結果、これが一番だと悟ったんじゃないでしょうか」
「いつまでも続くものかね? 今はまだ可愛いが、私ほどの年齢になると、愛くるしさがなくなるだろうに」
「その時は減価償却ですよ」
と、私はネコについて訊いたのに、男はネコの扱いについて答えた。
「ちなみにこの仔、奥さんがいるんですよ」
「ええ、ネコにも奥さんがいるんですか?」
「おかしな言い方ですね、そりゃネコでもいる人はいますよ……こちらの、この仔です。身体が大きいでしょ? ネコなのにノミの夫婦って奴で、人間だった頃は結構、尻に敷かれていたんですよ」
「今では虚心坦懐に、じゃれつき合っているのか……なんだか人間は、猫の方が幸せなのかもしれん」
「それはないでしょう、猫には金を稼げません……まぁ、生き易さでいったら、慥かにそうかもしれませんね。ほら、あちらにブタがいるでしょ?」
「ほんとだ。家畜までいるのか」
「幅広く取り扱っております……あのブタなんか、肉とするにも買い手がつかず、屠殺場へドナることもかなわない。あ、ドナるっていうのは、ドナドナの唄のことですよ、うだつのあがらないやつです。ずっと働かせてやっているんですが、あんななりをしているもんですから、客もつかない……」
「叱るか、あのブタには?」
私が意地悪くそう訊くと、オーナーは不意の労基署査察にかなわないという顔をして、
「そりゃぁもう、こっぴどくどやしつけますよ」
「ネコには?」
と言って、さきほどのツガイを見遣る……オスもメスも、端正な顔立ちをしていたが、その寵愛は、いつまで続くものやら……。猫可愛がりにも、いつかは飽きが来よう。人間の勝手だ。
「ネコにはどなりませんよ、叱れるわけないじゃあありませんか、あんなに可愛いのに……」
「フェアではありませんね」
「世の中とは、そういうものです」
……すっかり時間が過ぎてしまっていた。いつもより遅くに帰宅すると、家内は目くじら立ててヒステリックになりもしたが、ペットカフェでノランちゃんと和んでいたことを告げると、
「ぷっ。まったく、いいトシした男がなに小娘みたいなことしてんだか……」
「いいじゃないか、家に俺の居場所はないんだから……どこで時間を潰していたって、俺の勝手じゃないか。なぜお前がとやかく言う必要がある? ……」
今日の夫婦喧嘩は、誰もが遅滞なくすすめていく人生において、愉しい愉しい道草を興味本位にとって食らおうとするあまり、暗い闇に墜ちていく猫だって、好んで食おうとはしなかった。