にごり
【おとなの夏ホラー】エントリー追加作品です。
暑い……今年の夏は暑すぎる。
太陽の陽差が青空を真っ白に変えて、仰いでも見えるのは飛び散る光の粒子だけ。
誰もいないマンションの屋上。
休みの日の日光浴には最適だ。
わざわざ3時間も5時間もかけて海になんて行ってられないし、イモ洗いのような遊園地のプールもごめんだ。
ここでひとり、ビーチマットを敷いて寝転がるのが一番いい。
会社の連中は、僕が頻繁に海へ行っていると思っている。
どんな仕事もテキパキとこなして、見るからに活発そうな僕が、実は出無精で休みの日にはひとりで屋上三昧などとは思いもしないのだろう。
しかしこの古いマンションとも、もう直ぐオサラバだ。
9月になれば、ここは取り壊されて、新たに高級マンションを建造するらしい。
ほとんどの住民は既に引っ越してしまい、この六階建てのマンションに今住んでいるのは、六階の僕以外には確か、二階に二家族がいるだけと記憶している。
2DKと3LDKの間取りが2種類づつ、全部で4種類の部屋が存在するこのマンションも既に築年数が20年になる。バブル真っ只中に建てられた高級マンションだ。
今では老朽化も進み、もっときれいなマンションが意外と安く借りられる為、二〜三年ほど前からここは空き部屋が多くなって、全48戸のうち半分も埋まっていなかったと思う。
お陰で家賃も大幅に下がり、今年になって取り壊しが決まった為、新宿区の外れにある2DKの間取りを、僕は6万円で借りている。
気になる事といえば、水が異常に汚い事だ。
東京に住んで10年。水道水を飲み水にはほとんど使用していないが、自炊の時には使う。しかしそれすらも、最近は買って来た飲料水を使うようになった。
といっても、ほとんど自炊などしないのだが。
それにしても春頃から水の濁りは急激に増し、7月に入ってからはますます水が臭くなったような気がする。
その日、充分な日光浴を終えた僕は、火照った身体をクールダウンする為に自室に帰ってぬるいシャワーを浴びた。
シャワーはほとんど気にならないが、湯船にお湯を張ると、やはり水の濁りは目立ってあまり入る気にはなれない。
まあ、もともと湯船に浸かる事はほとんど無いのだが……
32度に設定したシャワーのぬるま湯が、程よく全身を潤してゆく。
目を閉じて顔にもお湯をふんだんに当てると、微かに鼻の頭と頬がヒリヒリした。
濡れた顔を手で拭いながら細く目を開くと、そこに女性の姿が見えた。
また来たか……僕はそう思うだけで特にビックリはしない。
彼女は少し前からこの浴室に現れる。
もちろん、湯気の中に浮かぶように現れる彼女は、生きた人間ではないだろう。
初めて現れたのは5月の終わり頃だったと思う。最初はさすがにビックリしたが、もう慣れてしまった。
と言うのも、彼女は特に害を及ぼす素振りがない。それに何より、透き通るような、いや実際透き通っているのだが……白い肌と整ったきれいなプロポーション。もちろんと言っては変だが、彼女も裸だ。
顔ははっきりとは見えないが、濡れた黒い髪が肩に乗って背中に掛かっている。
そう、彼女は何故か全身ずぶ濡れだ。
シャワーの中にいるから当たり前とも思うが、実体の無い彼女がはたして僕の浴びているシャワーの影響を受けるだろうか。
その証拠に、シャワーの線は全て彼女を突き抜けて、水滴が着く様子も無い。
しかし、彼女の肌の表面や髪の毛は明らかに濡れている。
少し顎の尖った卵型の顔に黒目がちな目が潤んでみえる。小鼻は小さく、唇は淡いピンクで縁取られ柔らかそうだが、実体が無いからとうぜん触れる事は出来ない。
少しピントがボケた感じなのは風呂場の湯気のせいかも知れないが、他の場所には彼女は現れない。
出てくるのは風呂場だけで、シャワーのお湯を出している時に限る。
だから、シャワーの湯を止めると彼女も消えるのだ。
湯気の中にゆらゆらと立ったまま、彼女はほとんど動かない。
ほとんどと言うのは、極稀に首が微かに動く……ような気がするのだ。
視線は虚ろで何処を見ているか判らないが、何処か遠くを見ているようで僕を見ているわけではないらしい。
逆に自分の裸をじろじろ見られたら、いくら彼女の出現に慣れたとはいえ、落ち着いてシャワーを浴びていられないだろう。
最初の頃は話しかけても見た。が、彼女はいっこうに虚ろな目で遠くを見ているだけで、何も語ろうとはしない。
いったい何が目的でここへ現れるのかは知らないが、今では風呂場に出現する、よく出来た立体フォログラムくらいにしか思っていない。
あの『ホーンテッドマンション』で観られる奴だ。
しかし、一度だけ彼女を屋上で見かけたような気がする。
あれは、今年最初の日光浴をしに屋上へ上がった時だったと思う。
はっきりとは判らないが、屋上にある給水塔の下に人影が見えたのだ。何か気配がして振り返ると、紅いワンピースを着た女性の姿が一瞬見えた気がした。
それは、初夏の陽差が注ぐ給水塔の黒い影の中にぼんやりと浮かんでいて、それもほんの一瞬で消えてしまったので、彼女が僕の部屋の浴室に現れる女性と同一人物と思ったのは、ただのカンに過ぎない。
彼女はこのマンションで自殺でもしたのかもしれない。
僕はそう思って、鉄柵で縁取られた屋上の縁から思わず下を見下ろしてみた。
しかし僕がここに住みだして5年が経つが、その間ここで自殺や殺人事件の話は聞いた事がない。
もし、そう言う事があったとしたら、きっともっと昔の話かもしれないが、二階に住む主人に一度聞いてみたことがある。
二階に住んでいる家族のうち、田中さんというお宅はここが新築の当初から住んでいるのだという。
しかし、このマンションでそういった事件は起きた事はないそうだ。
他にこの近辺で何か事件と言えば、ひとつ向こうの通りにあるマンションに住んでいた女子大生が今年の初めに行方不明になっているが、このマンションとは関係ないだろう。
もしかしたら、ここが建つ前からいる自縛霊というやつかもしれない。
とにかく弊害は無いのだから、たいして心配もしていないが、やっぱり彼女の事は気になる。
そういえば、田中さんと話したついでに水の濁りの事を訊いてみたが、二階の連中や、以前家族で住んでいた世帯は、みな浄水器を取り付けていたらしく、気にはならないそうだ。
僕としては、今更買うのも面倒くさい。
* * *
「キミは、他の部屋にも現れるのかい?」
その夜、シャワーの湯けむりの中に再び現れた彼女に僕は問いかけた。
声を掛けたのは久しぶりだった。
他の部屋に……と言っても、僕の住むこの六階にはもう半年も前から他には誰も住んでいない。
他に現れるとしたら二階に住む家族の所だが、もしそこに現れていればもっと騒がれているだろうから、やっぱり出るのは僕の所だけなのだろう。
しかし、もちろん彼女は僕の問いかけには何も応えたりしない。
虚ろな瞳でどこかを見ているだけ。
僕は何時ものように、彼女の白く濡れそぼるきれいな身体を眺めながら髪の毛にシャンプーを泡立てる。
彼女の身体は顔が一番ぼやけている。胸の辺りが一番はっきりと輪郭を整え、下腹部から脚に向って再び透明感を増して足の先はほとんど見えない。
これが、「幽霊は足が無い」と言われるゆえんなのだろうかと、少しだけ納得したりもする。
あまりに鮮明な胸に何度か触れてみようと試みたが、当然のように触れる事はできない。
幽霊相手にそんな事を試みる自分を思わず自嘲する。男の性とは言え、慣れとは恐ろしいものだ。
身体の芯まで融けてしまいそうな、茹だる様な暑さは続いていた。
8月に入り何処にも行かないお盆が過ぎ、この月の最後の日曜日に僕は風呂場に現れる彼女に別れを告げる。
二階の家族は二組とも先週のうちに引っ越して行ったので、誰にも挨拶をする必要は無かった。
彼女以外には。
僕は最後にシャワーを浴びてから部屋を出たが、彼女は現れなかった。
誰もいないマンションは閑散として、管理人さえも昨日でいなくなったようだ。
エレベーターで一階まで降りてマンションの出口のエントランスまで来た時、もう彼女には逢う事も無いのだろうと思い、名残惜しそうに六階を見上げる。
窓ガラスに映る熱い太陽光が、ギラギラとただ輝いていて、マンションの建物は陽炎に揺れていた。
* * *
九月に入っても残暑は収まらず暑さは続いて、その陽差は真夏以上に素肌を刺激する。
僕は同じ新宿区の外れに位置する場所に、2DKのアパートを借りた。
あのマンションは北の外れだったが、今度は西の外れになる。
給水塔を使用しないアパートの水は、あのマンションに比べるとかなりマシなものだった。
引っ越した翌週末、僕はダンボールを開けて荷物の整理をする。当分使いそうも無いものは、箱に入れたまま押入れの中へ突っ込んでしまおう。
ここへ越して1週間。風呂でシャワーを浴びる度に、彼女を思い出す。
誰もいなくなったあのマンションで、彼女はひとり、今どうしているのだろうか。
幽霊の近況を気にするなんて、僕はどうかしてしまったのだろうか。
そんな事を考えてしまうのも、遠くを見つめる彼女の朧気な瞳が、何処か愁いに輝いていたからかもしれない。
点けっ放しのテレビから昼のニュースが流れた。
映し出されたのは、僕が先週まで住んでいたあのマンション。あっという間に取り壊し工事が始まったらしく、もう半分は瓦礫と化している。
……これで彼女の居場所は無くなるのだろうか。
そう思ったのも束の間
『給水塔の貯水タンクから女性の遺体を発見!』という衝撃的ニュースが報じられた。
それは、今年の初めにあの近所で行方不明になっていた女性だった。おそらく他のどこかで殺害されて、あの給水塔へ投げ込まれたらしいという。
彼女は既に腐敗して白骨化していたようだ。
彼女だ……僕の部屋の浴室に現れた彼女は、給水塔にいたのだ。あの暗闇にひっそりと一人で淋しく、水の中に沈んで誰にも発見されず……
映し出された生前の写真は、僕があの屋上で前に見た紅いワンピースを着ていた。
窓から入り込む残暑の熱を浴びながら、僕は凍りついた。
彼女は水の経路を辿って、シャワーから出るお湯に乗って僕の浴室に現れていたのだ。
彼女は何を見つめていたのだろうか……
そして僕は重要な事に気付いて、再び身体を震わせた。
あの水の濁り……
そうだ。彼女が給水塔の中に半年以上も入っていたという事は、そう言う事だ。
あれは、彼女の腐敗した身体から出た肉や骨の組織が腐敗して水に染み出たもの……
貯水タンクにどれだけのフィルターが装備されているだろう。
飲料水を買い忘れた時には、水道水でコーヒーも沸かしているしカップラーメンも作っている。頭痛薬を飲んだりもしている。
そして、僕は毎日彼女を浴びていたのだ。
二階の連中も確かにその湯船には浸かっているだろうが、浄水器を利用していたという事は、直接体内には入っていないだろう。
僕の体内に蓄積された彼女の屍の養分が、その魂を呼び寄せていたのだろうか。
僕は既に彼女に囚われていたのだ。
急に激しい吐き気に襲われた。
僕の身体には、彼女の組織が充分なほどに滲み込んでいる。彼女の骨と肉と脂肪と体液が腐敗して作り出した天然の屍エキスが。
彼女の融けた身体は、僕の胃から吸収されて血液に混ざり全身に行き渡って肉となる。彼女の内臓の一部は、僕の内臓の一部……彼女の脳の一部は僕の脳の一部。
彼女の居場所を案ずる事などなかった。
彼女の今の居場所は、おそらく僕自身なのだから。
了
読んでいただき有難う御座いました。夏ホラーイベント内には沢山のホラー作品がありますので、いろいろお楽しみください。