プロローグ
1.
雨が降っていた。
青空は遠い。富士山は見えないだろう。
黒いレインコートに、黒い傘。できるだけ目立たないようにしていることが、こちらからも手に取るようにわかる。だが、それでも目立つ。特にその筋の人間には。
男の目線が尋常ではないからだ。あの目は義眼だろう。もちろん、センサー入りの。街灯の下、その眼だけが、何かを反射しているように見えてくる。本能的に……正確には違うが……何か意図を持ってそこに立っているのは明白だった。
——仕掛けてくるつもりだろうか……。
本能的に、佐橋帯刀は身体を身構えた。奥歯を噛めば、体内のナノボットが強力に活性化し、一時的に筋力は上昇する。相手の首をへし折るぐらいのことは簡単だが、相手も同じぐらいの用意はしていると考えるべきだろう。
果たして、男は佐橋に向かって顔を上げた。
その顔は意外なほどに歳を取っていた。顔は長い年輪が刻まれており、口は筋力が落ちているのか、半開きにさえなっていた。
「……長年の約束を果たしに来た。君を元の世界に連れて戻らなければならない……」
佐橋はその言葉をどこかで聞いたような気がしていた。しかし、どこだったのかを思い出すことはできない。ただ、耳元で知らない音楽が遠くで残響のように、流れているような気がした。よく知っているような曲でもあるのだが、まったく知らない外国語の曲のようにも思えた。
「……元の世界」
「そう、生きて二人で、あそこに戻るんだ」
老人は、レインコートから拳銃を取り出した。佐橋は、一瞬自分に発砲されると警戒し、ナノボットのスイッチを入れかけた。
しかし、そうではなかった。男はおずおずと、手のひらに乗せ、片手で拳銃を佐橋の方につきだした。佐橋にその拳銃を取ってほしいと望んでいるかのように。拳銃は雨に濡れた。
「………」
佐橋は不思議とその拳銃には見覚えがあった。どこにでもある、ブローニングだ。
手に取ると、過去に自分が握ったことがあると感じるようなしっくりする感じがあった。
老人は、その姿を見て、「戻ろう」と再び言った。
佐橋は、「……あのときの約束を果たしてほしいということなのか」と、口走っていた。
東京行きの新幹線は大雨のために、ダイヤが乱れていた。
箱根あたりで記録的な雨が降っているのだという。名古屋から静岡の間で、佐橋が乗った車両は足止めを食っていた。もう、車両が停止してから2時間近くになる。夕方のダイヤだったために、大阪方面から戻る会社員でいっぱいで、社内にはいらついた雰囲気が漂っていた。
佐橋は、幸い無線LANは生きていたために、タブレットPCを使って、東京のサーバの遠隔操作を続けていた。
むしろ、時間が稼げるのは、佐橋にとってはありがたいことだった。名古屋から東京までは2時間もかからない。そのため、勝負ができる時間は短いとみていたからだ。それが、雨のために時間を稼げる。
すでに、新幹線車内のターゲットとなる人物、草加甚三郎が座っている個室は把握している。彼もまた、この雨で、スケジュールが狂ってしまった人物の1人で、遠隔会議をしているようだ。
佐橋が予想していたとおり、その会議のために、ナノボットの電波が出ていることが、仲間のリンによって把握できていた。老人は、長年の飲酒壁から、肝臓をわずらっており、その治療のためにナノボットを利用していた。もちろん、保険が効かない、庶民には手が出ない高額の先端高度治療だ。
秘書もナノボットを利用しているのは確認済みだ。彼の場合は、外部記憶との連絡のために使っている。彼が電波塔のような役割だ。
リンは、何となく誰かを待っているかのような顔をして、個室の外側に鞄を両手に抱えて待機をしているはずだ。鞄の中には、ナノボットへの通信機が仕込まれている。両手で支えなければならない結構な重さだ。彼女のか細い腕では、少し心配だったが、まあ、初めてではない。
ターゲットの2人の情報は、佐橋のタブレットPCに転送され、それを東京のアジトにあるサーバへと転送する。そこでは、ヤリイカが待機しており、暗号が掛けられたナノボットの周波数の解析を進めている。
佐橋には自信があった。
すでに草加の会社で一般的に使われている暗号は手に入れていた。使っている病院からデータを抜き出したのだ。案外と医療機関は、個人情報をしっかりと管理しているようで、隙が様々なところにある。ヤリイカにしてみれば、病院のサーバは業者に委託したっきりで、どうなっているのかセキュリティチェックをやる人間はろくろくいないために、穴だらけだという。
果たしてヤリイカから、解析された暗号の結果が送られてきた。
佐橋は、クリックして、リンの通信機に命令を出して、発信を開始させた。
「さて、うまくいってくれよ」