第1章 はじまりの宴
辺りはすっかり夕暮れ時になっていた。
木々の葉が風に擦れる音が静かに耳に触れる。
さらさらした土の感触を踏みしめながら、黒いローブを纏った青年が小石や草を蹴り進んでいた。
金色に近い長い髪に、鋭い目付き、高い鼻。2メートルはあろうかというその体が威圧感を放つ。
彼は気付けば山に上っていた。軟らかだった土はいつのまにか刺々しい岩肌に変わっている。
「…完全に迷ったな、マジ」
雲をかすめる山の上を見上げ、彼はひとり呟いた。
見上げれば見上げるほど、岩肌は鋭く急斜面が続いている。
「……戦闘中あいつらとはぐれるなんて初めてだな……くそ」
長く延びた爪で彼は自分の頭をかきむしった。
靴を履かない足はすっかり土にまみれ汚れていた。
「……………仕方ねえ」
足首をこきっと回し、彼は一気に加速した。
やがて見えてきた山の頂きに、歯を食い縛り飛び乗った。
そこは開けた台地だった。前方に痩せた木が一本立っている以外何もない、殺風景な場所。
彼は砂煙にまみれた頬を黒衣の長い袖で荒く拭った。
ふと、何かの気配がする。
「…………何処だ?」
嫌に禍々しく、邪悪な気配。
単なる魔人の持つそれとは明らかに違う雰囲気に、彼は神経を尖らせ辺りを窺った。
ふいに、風に紛れて何かが着地する音がした。
正面の細い木の根元、薄紫色の空を背景にして誰かが立っている。
女だった。
それもまだ、年端もゆかぬ少女。
高く束ねた金色の髪に、ところどころ解れた麻を胸と腰に纏っている。
女は彼を見るなり笑顔を浮かべた。
「君がー…アイザワハヤ?」
「……俺を知ってんのか」「知ってるよ」
女の言葉が聞こえたかと思うと、刹那にその姿は彼の前から消えた。
次の瞬間、彼の首もとを可愛らしい声が掠めた。
「君、鈍いんだね。この山を登ってきたからには機動力はそれなりにありそうだけど」
涼しい顔をした女が、彼の真後ろ、山肌ギリギリの位置にその露出した華奢な脚を留めていた。
「…お前何者だ?何で俺を知ってる」
彼は睨むように女を見た。その視線には少なからず少女に対する動揺が潜んでいる。
「……ふ、はは、……あっはっはっはっはっ!いやー、嫌だねえ、兄さんにそんな顔されちゃあなんだか拍子抜けじゃないか!」
女は実に愉快そうに細い体躯をくねらせて笑う。
「こんな年下のガキに威圧感でも覚えたー?あははははっ」
膝に掌を打ち付けながら笑い続ける彼女に、彼はぎゅっと唇を噛み締めた。
「怖がらなくていいよ、今は何もしないから、今は」
「……お前、人間か?それとも魔人か?」
「残念だけどそのどっちでもないよ」
足元の小石を裸足で転がしながら、女は軽やかな口調で言う。
「…私は、…そうだな、その魔人共を統制している管理者の1人といっておこうか」
「…まさかお前…」
思わず彼の体が一歩後ろに退いた。
反面、右の拳には力が入り青い血管が植物の枝のように浮き出ている。
それを見て女は鼻で笑う。
「正義感が強いんだかチキンなんだか……やれやれ。…あ、ねえこれ知ってる?」
女が口元を嫌らしく緩ませ、麻で包んだ胸元からおもむろに何かを取り出した。
彼は目を凝らす。
細い銀の鎖に通された、滴型の赤い宝石のようなものだった。
「何だそれ、玩具か?」
「これの価値がわからないうちは君を不憫に思うしかないね」
今にも千切れそうな繊細な鎖を摘まんで、女は彼の前でゆらゆら動かす。
濁った血のような色をした振り子が彼の眼球に鋭く輝く。
目眩すら感じるような心地の悪い色合いだった。
「…まだ君が知らないしくみってやつがこの世界にはたくさんあるってことだ。……まあいずれ君たちは、これが喉から手が出るほど欲しくなるよ」
彼が瞳を擦っていると、女はゆっくりと宝石を自分の胸の中に戻した。
「ー…君たちと、私たちがこれらを奪い合う」
「…何だと?」
「あー、…少し話しすぎたかな。それじゃ、近いうちにまた会えることを楽しみにしてるよ」
女は年相応のあどけない笑みを浮かべて、そのまま真上に高く飛び上がった。
白く小さな閃光に包まれ、瞬時でその姿を消した。
「…何なんだよ、君たち、私たちって…誰なんだよ、あいつ……」
彼は少女の溶けた闇空を見つめ、しばらく立ち尽くしていた。
目の奥に赤い残像が写る。疑問だけが思考の中を駆け巡る。
「…とにかくあいつらを探さねえと」
身を裂くような凍てつく風が勢いを増して彼に吹き付けた。