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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
6/10

答えない

 情報屋の机を離れた時、夕方の光はもう街の屋根の半分まで降りていた。


 昼の熱はまだ石畳に残っている。靴底から上がる温度が、足の裏を薄く焦がす。港から吹く風だけが冷たく、汗ではなく塩の匂いを運んできた。情報屋の店は路地の陰に半分沈み、机だけが通りへ少し出ている。前に来た時と同じ位置だ。


 老人は今日は煙管に火を点けていた。細い煙が机の上で折れ、低い天井へ上がる。答えが薄い時の所作だ。俺はそれを何度か見ている。


 煙は真っ直ぐには上がらない。紙束の端に触れ、欠けた秤の皿をなぞり、天井の梁の黒ずみへ吸われていく。老人はその流れを見ていない。片目は俺を見て、もう片方の目は通りの帆柱の動きを数えている。人と話しながら、別のものを読む目だった。


 鍛冶場の島の話は聞いた。ヤコウから聞いた筋を越えるものは出なかった。職人の妻が移った島の名まで、老人は淀みなく言った。船便、荷の種類、同行した親族の数まで添えた。だが、それは詰所の名簿にも残る情報だ。金を払えば出る。払わなくても、詰所の人間に酒を飲ませれば出る。


 老人の声は低い。床板の下を這い、机の脚を伝って、こちらの足元から聞こえるような声だ。情報というものは高い声で売らない。高い声は人を呼ぶ。低い声は客を選ぶ。


 俺は問いを細くした。職人が持ち出した道具。妻が預けた荷。島へ渡った時刻。船頭の名前。老人はそれらに答えた。答えたが、どれも表面を撫でるだけだった。


 紙に書けば箱に入る。箱に入れば、並べることはできる。だが箱は軽かった。中で何かが鳴る手応えがない。


 老人は煙管の吸い口を歯で軽く鳴らした。かつ、と小さい音がした。指先の爪は厚く、縁に煤が残っている。煤の黒と爪の黄ばみが古い貝殻のように見えた。


 それから老人は煙管の火を灰の中で転がした。


「それ以上は、今は底が見えませんな」


「底がないのか、濁っているのか」


 老人の口元が少しだけ曲がった。笑いではない。値を付ける前に魚の腹を押す商人の顔だ。


「どちらにも値は付きます」


 悪くない返しだ。だが答えではない。


 俺は銅貨を一枚、先に置いた分の横へ足した。机に触れた時、乾いた音がした。銅貨は古く、縁が少し削れている。手汗で温まっていた金属が、陰に沈んだ机へ置かれた瞬間に冷えた。


 老人の指は節くれ立っていて、銅貨を摘む動きだけが妙に若い。受け取る瞬間に迷いはなかった。値に見合う沈黙を売る手だ。


「火は消える前が一番明るい。見えるものが増えたら、また来る」


 俺はそうは言わなかった。口に出せば余計な手形になる。老人もそれを望んでいない。銅貨が一枚増えた。今日はそれで十分だった。


 次の便で鍛冶場の島へ渡るかどうかは、宿に戻ってからヒュウマと決める。今ここで老人を押しても、出るのは煙だけだ。


 ヒュウマを宿に置いてきたのは、休ませるためだった。情報屋を一人で訪ねるのは、危険な場へ行くのとは違う。だが扉を開けて出た時、あの夜のヒュウマの言葉が一度だけ頭をよぎった。


 次は、一人で行きません。


 声ではなく、手の感触で思い出した。俺の腕を掴んだ指の強さ。若さに似合わない静かな怒り。あれを置いてきたことになる。


 それでも置いてきた。応急処置の小袋と潮鎚の手入れと、塩屋のパンがある部屋に。


 情報屋の戸を出ると、表の通りに夕方の熱が残っていた。白壁は金色に寄り、屋根の影は路地の口へ長く落ちている。干した網の匂いが薄くなり、焼いた粉と油の匂いが強くなっていた。


 店じまいの声が通りの奥で重なる。値を下げる声。荷を畳む声。子供を呼ぶ声。昼の市場とは違う声の密度だった。疲れた街が眠る前に、最後の銅貨を拾いに動いている。


 商業街の三本目の路地に入った時、まだ歌が聞こえていた。


 ヒュウマが部屋からは分からないと言っていた答えが、街の角を曲がった先に残っていた。


 歌は風に乗るというより、壁に当たって薄く剥がれていた。石壁の角で音が折れ、布屋の軒を潜り、干した香草の束に触れてこちらへ届く。午前に聞いた陽気な節ではない。もっと短い。もっと軽い。だが軽さの底に、冷えたものが沈んでいる。


 俺は足を止めなかった。


 書物商の手前の広場へ向かう道は、朝とは別の顔をしていた。本を抱えた徒弟が戸板を運び、香辛料屋の女が赤い布を畳んでいる。猫が一匹、魚の骨を咥えて排水溝へ消えた。物売りの卓には売れ残った果実が三つだけ残り、どれも夕方の光を浴びて柔らかく見えた。


 角を曲がる前に、歌詞の一部がはっきりした。


 海の底。青い灯。銀貨。


 俺はその三つを頭の中で別々の箱に入れた。まだ繋げない。急いで繋げると、余白が死ぬ。


──────────────────────────────


 書物商の手前の広場には、夕方の薄い光が斜めに差していた。昼の喧噪は抜けている。観客は五、六人。仕事帰りの男、子供を連れた女、銅貨を握ったまま立っている老人、荷を置いて聞いている若い運び手。中央の吟遊詩人は、朝市の歌とは違う節を歌っていた。


 書物商の看板は風で微かに揺れている。古い紙の匂いと革表紙の油の匂いが、店の隙間から漏れていた。広場の石畳は昼の足跡を残したまま乾き、ところどころ白い粉を吹いている。水を撒いた跡が端だけ黒く残り、そこに夕方の光が薄く溜まっていた。


 吟遊詩人は広場の中心から少し外れた位置に立っていた。背後に壁を置かない。逃げ道を二つ持つ立ち方だ。観客から見ればただの広さに見える。俺から見れば、計算の結果だった。


「海の底に、青い灯が一つ

 漁師が落とした銀貨が、海神の手のひらに

 海神は微笑んで、銀貨を月にしました」


 短い、童謡めいた節だった。言葉は軽い。だが銀貨という音だけが、夕方の空気の中で冷えていた。


 歌い手の指が弦を撫でる。音は派手ではない。水面に小石を落とすような小さな輪が、広場に広がって消える。子供は口を少し開けて見ていた。母親は疲れた顔をしていたが、その顔の端だけが緩んでいる。


 子供を連れた女が銅貨を籠に投げた。子供は少し遅れてそれを真似た。小さな手から離れた銅貨は、籠の縁に当たり、跳ねて、中へ落ちた。


 銅貨の音は軽い。だが子供には十分に大きかったらしく、肩が小さく跳ねた。歌い手は微笑み、子供に向けて深く頭を下げた。舞台の上の礼ではない。子供の背丈に合わせて、少し低いところへ届く礼だった。


 子供は母親の袖を掴んだまま、照れたように半歩隠れた。


「月になった」


 子供が小さく言った。母親が口元に指を当てて笑う。歌い手は聞こえなかったふりをした。だが指先が一度だけ弦の上で止まった。受け取った証拠だ。


 俺は人混みの外側に立った。柱の影。歌い手の視野の端には入る位置だ。近すぎず、遠すぎない。見られるための距離でもあり、見返すための距離でもある。


 柱は昼の熱をまだ持っていた。背を近づけると、石の温度がローブ越しに伝わる。白と青のローブの裾が風で揺れ、革ベルトに触れて小さく鳴った。胸元のプラチナの首飾りが一瞬だけ冷たくなる。


 俺は広場全体を見る。観客。籠。弦楽器。逃げ道。影。音の届く範囲。歌い手が一番見たいものは何か。


 淡い金茶の髪が、夕方の風に一度だけ撫でられた。肩より少し長い髪は紐でまとめられている。深い緑と灰褐色の旅装。小さな弦楽器は肩から斜めに掛かっていた。フードは肩に降りている。顔は整っていた。整いすぎていて、逆に街に紛れるための衣装がよく働いている。


 深い緑は森の色ではなく、旅で煤けた布の色だ。灰褐色は石壁の陰に近い。革のベルトには飾りが少ない。旅装としてよく練られている。目立たないために手間をかけた衣装だった。


 肌は白い。だが長旅の日焼けが頬と首筋に乗っている。腕は細く見えるが、弦を押さえる指と肩の位置に余裕がある。楽器だけで鍛えた腕ではない。何かを引き続けた腕だ。


 緑がかった灰色の瞳は、歌の間だけ観客を広く撫でていた。母親。子供。老人。運び手。俺。その順番は自然に見える。だが俺を通過する時だけ、ほんの少し遅い。


 耳の上の毛束が浮いて、すぐ落ちた。耳の先が、ほんの一瞬だけ見えた。


 エルフか。


 俺は柱の影でローブの裾を払った。確認は一つ済んだ。だが答えではない。長命種であることは、観察者である理由にはなる。証拠にはならない。


 長く生きる者は、出来事を違う幅で見る。人の一日は、彼らには一節かもしれない。人の十年は、旅路の曲がり角かもしれない。だからといって、全員が物語を集めるわけではない。時間は理由になる。意思は別の場所にある。


 歌が終わる。最後の音は石畳の上で薄く伸びた。女と子供が去った。運び手も荷を担ぎ直して広場を出た。観客は四人になり、それから三人になった。


 仕事帰りの男は小さく拍手した。片手だけの雑な拍手だが、顔は悪くない。銅貨を握っていた老人は投げるかどうか迷い、結局籠の近くまで歩いて一枚落とした。落とすというより、置く動きだった。


 歌い手は籠の中の銅貨を見て、満足とも不足ともつかない顔をした。それから、残った観客へ頭を下げた。


「皆様、今日はこれでお仕舞いにいたします。明日もまた、この場所で」


 声は柔らかい。だが締め方に迷いがない。もう一曲を求められる前に終わらせる。客が帰り時を失わないようにする。歌い手は銅貨を集めているだけではない。場を閉じる技術を持っている。


 観客は緩やかに散っていった。銅貨を握っていた老人だけが少し遅れ、何か言いたげに口を開きかけて、やめた。歌い手はその気配にも浅く頭を下げた。老人はそれで納得したように去った。


 老いた背が広場の端で小さくなる。言えなかった言葉は、たぶん自分の若い頃の話だ。歌い手はそれを聞かない。聞かないことで、老人の帰り道を軽くした。


 歌い手は弦楽器を布で包み、肩から斜めに掛け直した。籠の銅貨を布袋へ移す手つきは慣れていた。数え方に無駄がない。客を見る顔と、稼ぎを見る顔と、広場全体を見る顔が順に切り替わる。切り替わりが速い。


 銅貨は音で数えている。大きさではない。重さでもない。籠から袋へ移る時の響きで、だいたいの枚数を取っている。手慣れた芸人の指だ。商人の指でもある。


 俺は柱の影から出た。三歩近づく。


 一歩目で広場の音が遠くなった。二歩目で歌い手の目がこちらへ上がる。三歩目で、互いの距離が会話の長さになった。


 歌い手が顔を上げた。緑がかった灰色の瞳が、夕方の光を薄く受けた。


「貴方ほどの方が、わたくしのような流浪の歌い手の歌を、最後までお聞きになるとは。光栄です」


 頭を下げた。慇懃な笑みだった。慇懃の中に薄い棘がある。刺すためではない。距離を測るための棘だ。俺が予想した通りの距離感だった。


 棘は言葉の先ではなく、置く場所にあった。貴方ほどの方が。流浪の歌い手。最後まで。光栄です。どれも礼の形をしている。だが全部が、こちらの立ち位置を測る小さな針になっていた。


 俺は針を抜かない。刺さったままにして、深さを見る。


「少し話せるか」


「もちろんです」


 歌い手は弦楽器を抱え直して、俺へ体を向けた。表情は変えない。慇懃の作法のまま。だが目の奥で、何かが俺を読んでいた。


 賢者の肩書きを見る目ではない。ローブの刺繍でも、露出した身体でも、首飾りでもない。整えたものの下にある重さを見ようとする目だ。


 俺は白と青のローブの前を開いたままにしている。戦闘服としても、文化としても、その形が身体の運用に合っている。鍛えた胸と腹は隠すものではない。素材として使うものだ。歌い手の目はそこを過ぎて、使う側の癖を読もうとしていた。


「広場では何だ。場所を変えよう」


「お任せします」


 歌い手はすぐに答えた。迷う素振りはない。広場に残る音を惜しむ顔もない。観客の前で成立する顔から、路地で成立する顔へ切り替わる。薄い布を一枚外すような変化だった。


 俺は書物商の裏手へ歩いた。歌い手は半歩遅れてついてくる。背後を取らせすぎず、横に並びすぎない距離だ。こちらを警戒していないように見せながら、いつでも進路を変えられる。


 二人の足音が石畳に重なった。俺の靴は重い。歌い手の靴音は浅い。長く歩く者の足だ。音を立てないためではなく、疲れないための軽さだった。


──────────────────────────────


 路地の入口の壁際に立った。書物商の店の裏手。夕方の光は建物の角で削られ、細い帯になって石畳へ落ちていた。人通りはほぼない。古い石壁は昼の熱を失い始めていて、背に近いところで冷たく沈んでいる。


 通りの喧騒は布一枚隔てたように弱まった。紙を束ねる音。戸板を閉める音。遠くの港の号令。それらがここではすべて端の音になる。会話の邪魔にはならないが、完全な密室でもない。声を荒げれば聞かれる。声を落とせば沈む。


 歌い手は弦楽器を脇に抱えたまま、両手を空けていた。逃げる素振りも、警戒する素振りもない。足の置き方だけは、いつでも動ける形だった。ただ、俺の言葉を待っていた。


 壁を背負わない。肩を開きすぎない。膝に力を残している。戦うための構えではないが、逃げるためだけの構えでもない。動作の選択肢を潰さない立ち方だ。


 俺はそれを見てから、口を開いた。


「今朝の歌に、混ざっていた一行があったな」


「ええ」


「『四人目は、音もなく崩れた』」


 歌い手は微笑みを保ったまま、頭を一度だけ傾けた。髪が肩でわずかに滑った。紐でまとめた淡い金茶が、夕方の細い光を受けて鈍く光る。


「ああ、あの一行ですか。即興詩は、その場の流れで生まれます。出所、と言われましても、わたくしの中の言葉の池から、たまたま浮かんできた一句です」


「池から浮いてきた、か」


「ええ」


 答えの形をしている。中身はない。


 俺は歌い手の顔を見た。慇懃な微笑み。即興、という言葉を置く時のわずかな間。出所、とこちらの語をそのまま受け、たまたま、で沈めた時の目の奥の動き。


 一つずつ箱に入れる。間。借りた語。沈めた語。浮かべた池。


 即興ではない。


 あの一行は、構造の中で選ばれた。朝市の借金取りの歌は、観客の笑いを取るために組まれていた。そこに四人目という数が立った瞬間、歌い手は昨夜の入り江の一句を差し込んだ。観客には借金取りの末路として聞こえる。当事者には別の場面として届く。


 二重にしている。片側は広場へ。片側は俺たちへ。


 歌は便利だ。表面に笑いを置ける。底に針を沈められる。聞いた者の立場で、別の意味が立ち上がる。広場の客は銅貨を投げる。俺は足を止める。両方を同時に起こせる。


「四人目」という数は偶然でも使える。音もなく崩れた、も借金取りの滑稽な末路として成立する。だが偶然にしては収まりが良すぎた。昨夜の出来事を見た者へ向けて、あまりに正確な角度で置かれていた。


「あの一行は、どこで聞いた」


「貴方ほどの方が、お気に留めてくださるとは」


 歌い手は同じ慇懃を繰り返した。答えではない。持ち上げて、問いを横へ流す。慣れたやり方だ。


 貴方ほどの方が、という言葉は盾にもなる。相手を上げれば、問いの角度がわずかに緩む。礼を返せば一拍遅れる。怒ればこちらの幅が狭く見える。よくできた言葉だ。


 俺は礼を返さない。怒りもしない。言葉が流された場所を見る。


 歌い手の瞳は緑がかった灰色だ。森の苔と影を混ぜたような色。だが今は森よりも水面に近い。映すが、底は見せない。揺れているようで、揺れの中心は動かない。


 俺は次の問いに移った。


「俺たちを、いつから見ていた」


 歌い手は微笑みの位置を、ほんの一拍だけ動かさなかった。止まった、というほどではない。だが流れは切れた。それから、傾けた頭をもう一度動かした。


「『俺たち』というのは、貴方とあの海守りの方のことですか?」


「そうだ」


「あの方は、海守りでいらっしゃる。立ち方で分かります。人を退かすためではなく、人を支えるために前へ出る足でございました」


 俺は答えなかった。


 ヒュウマの立ち方を、あの距離でそこまで読んだのか。読める者はいる。港町で人をよく見る者なら、海守りの足は分かる。だが言葉の選び方が違う。人を支えるために前へ出る足。職能だけでなく、癖の奥まで触っている。


 ヒュウマが前へ出る時、肩に力が入りすぎない。相手を押し退けるためではなく、背後の重さを受けるために足を置く。俺も見ている。だから分かる。歌い手も見ている。


 そこまで見ている。


「貴方は、わたくしに見られていた、と思っているのですね」


 それにも答えなかった。


 答えれば認める。認めなくても、沈黙が別の形で答えになる。どちらも歌い手に渡す情報だ。ならば渡す形を選ぶ。


 歌い手は微笑みを維持した。維持したまま、目の奥で観察を続けていた。俺が答えないことを受け取った。受け取ったことを、隠した。隠したことを、こちらに見せた。


 面倒だな。


 夕方の光が、路地の石壁を金色に染め始めていた。金色は薄い。少しすれば灰色に戻る。壁の凹みに溜まった影だけが、先に夜へ近づいていた。


 俺は歌い手の輪郭を、もう一度なぞるように見た。


 淡い金茶の髪。紐。深い緑と灰褐色。革のベルト。布に包まれた弦楽器。細身の身体。旅で焼けた肌。隠れ切らない耳。射る者の肩。歩く者の脚。客に笑う口。問いを流す瞳。


 歌い手は害意を持っていない。《断絶境界》で見ても、敵意の境界線が立たない。いつもなら、もっと細い差が見える。警戒、欲、値踏み、恐れ。そういうものは境界に影を作る。だがこの歌い手の周囲では、影が浅い。ないのではない。浅い。意図して浅くしているように見える。


 水底を覗いた時に似ている。光は入っている。形もある。だが手を伸ばすと、距離が一枚ずれる。石だと思ったものが影になり、影だと思ったものが流れになる。


 こちらの眼が曇っているわけではない。相手の側に、読ませる場所と読ませない場所の切り分けがある。顔の筋肉ではない。呼吸だけでもない。もっと深い癖だ。表に出す自分を丁寧に選んでいる。


 観察者として、記録者として、中立の側にいる。ただし無関心ではない。俺とヒュウマを、強い興味の対象として既に位置づけている。


 中立は安全ではない。手を出さないことと、傷つけないことは同じではない。見ているだけの者が、一番遠くまで運ぶことがある。歌になれば、出来事は口から口へ移る。誰が最初に見たかは薄れ、節だけが残る。


 歌い手は、知っていることをすべては言わない。嘘ではない。省略の作法を持っている。俺と同じ種類の情報統制の人間だ。渡す言葉を選び、渡さない沈黙にも形を与える。


 それは仕事の癖に似ていた。机に本を並べる時、俺は余白を残す。結論だけで本を閉じると、後から入るはずの情報が死ぬ。余白のある本は息をする。歌い手の言葉にも余白がある。ただしこちらに都合のいい余白ではない。


 入り江の現場を直接見たとは限らない。見ていない方が自然だ。だが現場にいた誰かから話を聞いたか、痕跡を読んだか、別の道で拾った。確証はない。だが慇懃な応答の隙間に、構造の手応えがある。


 南西の航路。漂流物。消えた商人。伝承の本。そこへ歌の縫い目が加わった。まだ線にはしない。線にした瞬間、見落とす点が出る。だが点が増えたことは確かだ。


 歌い手は、俺たちを以前から観察していた。「貴方ほどの方が」と即座に言える距離。「あの海守りの方」とヒュウマを迷わず置く速さ。今日初めて気づいた相手への言葉ではない。


 エルフ。長命。流浪。観察者。歌い手。


 五つ並べても、まだ箱は閉じない。閉じるには足りない。だが開けたまま置くには、存在感が強い。


 俺は風の中で、歌い手の髪が動くのをもう一度見た。耳の先は、もう髪の中に隠れていた。


 歌い手は俺の視線に気づいている。気づいた上で、隠し直さない。見せたことを偶然に残すつもりだ。こちらが気づいたなら、それも材料。気づかなかったなら、それも材料。そういう顔だった。


 俺は息を一つ落とした。喉の奥に残っていた港の塩が、少しだけ苦い。


──────────────────────────────


「俺たちを歌に編むな」


 短く、断定で言った。


 路地の空気がそこで止まった。遠くの戸板の音だけが、遅れて聞こえた。言葉は壁に当たり、石の冷たさを帯びて戻ってくる。俺の声は低くなかった。だが余分な熱は載せなかった。


 歌い手は慇懃な微笑みを変えなかった。だが目の奥の動きが、ほんの一拍だけ止まった。それから、ゆっくり動いた。止まった時間の分だけ、問いの位置が深くなる。


「歌に編まれることが、貴方の何を脅かすのですか?」


 慇懃な口調だった。責めてはいない。問い返しの形を取っている。だが中心を突いていた。


 俺は答えなかった。


 答えるべき言葉はあった。調査が、と言いかけて止めた。神殿が、と言いかけて止めた。家が、とも言わなかった。ヒュウマの名も、父のことも、昨夜の入り江も、今は渡さない。


 言葉は鍵になる。鍵は扉を開けるだけではない。鍵穴の形を教える。歌い手に一つ渡せば、こちらが隠した部屋の輪郭まで読まれる。


 調査と言えば、調べている先があると知られる。神殿と言えば、海の底へ視線が向く。家と言えば、過去の戸棚を開けられる。ヒュウマの名を置けば、俺の守る線が見える。父のことを出せば、もっと深く踏まれる。入り江を出せば、昨夜の血と水音が歌の中へ落ちる。


 すべて、歌い手に渡してはならない言葉だった。歌い手はその一言から物語の核を読む。読んだものは、世界に流れる。銅貨を投げた子供の耳へ入り、酒場の卓へ転がり、船乗りの喉で別の節になる。一度流れたものは、こちらの手に戻らない。


 歌になった出来事は軽くなる。重いものも、口ずさめる形になれば持ち運ばれる。持ち運ばれたものは、いつか誰かの冗談になる。別の誰かの祈りになる。さらに別の誰かの商売になる。


 俺はそれを許さない。


 少なくとも、今は。


 俺の沈黙が、歌い手に何かを示している自覚はあった。隠した場所の形は、隠す動作だけで浮く。


 それでも、俺は答えなかった。


 歌い手は微笑みを維持した。維持したまま、頭を一度深く下げた。


「分かりました」


「分かったか」


「分かりません」


 歌い手は微笑んだ。今日初めて、棘のない微笑みだった。作法のためではなく、少しだけ素に近い笑みだ。


「ですが、貴方が答えないことを、わたくしは受け取りました。それで十分です。今宵は、これにて」


 俺は歌い手から目を離さなかった。


 十分、か。歌い手にとっては十分なのだろう。答えないことも、答えの一部になる。言葉がない場所ほど、歌い手は耳を澄ませる。厄介な性質だ。


「歌うな、とは言わない。ただ、俺たちを編むな」


「肝に銘じます」


 肝に銘じる、と歌い手は言った。それが約束ではないことを俺は知っていた。歌い手も、俺がそう受け取ることを知っていた。両者の間で、約束のふりだけが交わされた。


 言葉は形だけなら美しい。だが形の底に穴がある。肝に銘じる。忘れないという意味であって、従うという意味ではない。歌い手はそこを選んだ。俺はそこを聞いた。


 これ以上詰めれば、互いに持っている刃の位置を見せることになる。


 歌い手がどこまで知っているか。俺が何を隠しているか。今はどちらも見せ切らない方がいい。切れば血が出る。だが血が出れば、また歌になる。


 歌い手は弦楽器を抱え直した。布に包まれた小さな胴を胸元へ寄せ、肩の紐を直す。動きは静かだった。逃げる者の速さではない。去る者の作法だ。


 指先が布の端を整える。結び目を一度だけ押さえる。革紐の位置を肩の骨の上に収める。すべてが小さい動きだった。だが一つも雑ではない。人前で終えることに慣れた者の所作だ。


 最後にもう一度、俺の方に頭を下げた。


「また、お会いするでしょう」


「そうだろうな」


 歌い手は路地を抜けていった。


 背中は細い。だが細さの中に、長い距離を歩く芯があった。夕方の光が、歌い手の影を石畳の上に長く伸ばした。影は本人より少し長く、生きているように見えた。


 角を曲がるまで、その影だけが先に歩いているようだった。


 俺はしばらく、その場に立っていた。


 路地の壁から熱が抜けていく。指先が冷える。広場の方では、もう別の商人が夜の灯を吊るしていた。歌は消えた。だが歌のあった場所だけが、まだ薄く震えている。


 俺は自分の掌を一度開いた。何も掴んでいない。だが掴まされていないわけでもない。


 名前を聞かなかった。名乗らなかった。必要なかったからだ。今名前を持てば、箱に入れたくなる。箱に入れるにはまだ早い。


 歌い手。吟遊詩人。エルフかもしれない者。俺たちを見ていた者。


 それで今は足りる。


──────────────────────────────


 商業街を抜けて宿に戻る道で、夕方の光は街の屋根を完全に金色に染めていた。店じまいの声が下の通りを急かし、港の方では帆を畳む号令が短く響いた。人の流れは昼より細い。だが街はまだ眠らない。夜の商いへ形を変える途中だ。


 灯油を売る少年が小瓶を並べている。焼き魚の屋台は炭を起こし直し、昼とは違う客を待っていた。酒場の戸が開き、発酵した麦と濡れた木の匂いが流れ出す。どの匂いも生活の匂いだ。どれも今の俺には少し遠い。


 得たものは、ない。確証は何一つ持ち帰れない。


 老人からも、歌い手からも、手に持てるものは出てこなかった。銅貨は減った。問いは増えた。情報としては負けに近い。


 だが得られなかった、というその手応えだけがはっきりしていた。歌い手は俺と同じ種類の人間だった。整理する側、境界を引く側、相手の核を見る側。違いは、歌い手は歌う。俺は歌わない。それだけだ。


 それだけ、で済むなら苦労はないな。


 問題が、一つ増えた。


 南西の航路の話。漂流物。消えた商人。伝承の本。鍛冶場の島。ヤコウから聞いた筋。そこへ歌い手が乗る。まだ板の上に並べただけだ。だが並べただけで、物は語り始める。


 語り始めるのが早すぎる時は、手を止めた方がいい。結論を急ぐ者の本は余白が死ぬ。余白が死ねば、後から来る真実の置き場がなくなる。


 俺は一度、足を緩めた。港の方を見る。帆が畳まれていく。白い布が夕方の光を飲み、灰色へ沈む。船員の声は短い。船は夜を迎える準備をしている。


 宿へ戻る。ヒュウマが待っている。


 その事実だけが、道の形をまっすぐにした。


 宿の入口には、昼より濃い香草の匂いがあった。女将が虫除けの束を替えたらしい。青い葉と乾いた茎の匂いが、古い木の階段に染みている。階段の一段目は少し軋む。二段目は沈む。三段目からは音が軽くなる。何度か上がれば覚える。


 宿の階段を上がる。踊り場で一度だけ立ち止まった。二階の角部屋の扉の前。中から香草の匂いが漏れていた。火は落としている。窓は半分閉まっている。


 ヒュウマが窓辺で待っているのが、扉の向こうの空気の動きで分かった。人がいる部屋の空気は、少しだけ重い。


 待っている者の空気はさらに違う。動かずにいる時間が、部屋の中で静かに積もる。焦りではない。眠気でもない。戻る者のために場所を空けている重さだ。


 扉を開けた。


「お帰りなさい」


「ただいま」


 言葉は短かった。だが部屋の温度がそこで少し変わった。


 ヒュウマは窓辺の椅子に座っていた。深い藍と砂色の戦闘服は緩められているが、だらしなくはない。左耳のプラチナのピアスが夕方の残り光を拾っている。短い黒髪はきっちり整っていて、茶色の瞳だけが少し疲れて見えた。


 潮鎚は壁際に立ててある。柄の罅には布が巻き直されていた。手を入れた跡がある。布の巻き目は均等で、結び目は邪魔にならない位置へ逃がしてある。あいつらしい処置だ。


 卓の上には、塩屋の婆さんのパンが布を被せたまま置いてある。応急処置の小袋は閉じられ、椅子の脚元に寄せてあった。小袋の紐は一度解かれたあとで結び直されている。中身を確認したのだろう。手の甲の擦り傷にも、薄く薬の匂いがした。


 パンの布は端だけ少しめくれていた。触った跡がある。だが割っていない。待っていたのだ。


 俺はその跡を見てから、ヒュウマを見る。ヒュウマは俺の顔を一度だけ見た。何かを読んだ顔をしたが、すぐ視線を窓の外に戻した。


 問いが喉元まで来て、そこで止まった顔だった。聞かない選択をしたのが分かる。聞かれれば、俺は答えるかもしれない。答えないかもしれない。ヒュウマはそれを知っている。


「面倒なのが、増えたな」


 俺は卓の傍らの椅子に腰を下ろした。


 椅子の木は温かかった。さっきまでヒュウマがこちらに座っていたのかもしれない。窓辺の椅子と卓の椅子を行き来して、外と扉を見ていたのだろう。待つという行為は、案外忙しい。


「そうですか」


「そうだ」


 ヒュウマはそれ以上聞かなかった。聞けば答えるときもある。答えないときもある。それをもう分かっている。窓辺から立ち上がり、塩屋の婆さんのパンの布をめくった。


 パンは冷めていたが、焼いた香りはまだ残っていた。塩気を含んだ粉の匂いが、部屋の香草と混ざる。外皮は硬そうで、指で押すと小さく戻る。腹に残るパンだ。


 ヒュウマはパンを二つに割った。外皮が小さく鳴った。半分を俺の皿に置き、残りを自分の皿へ置く。


 割る時の手は大きい。だが力の入れ方が細かい。海で人を引き上げる手と、パンを割る手が同じ形をしている。支えるために使われる手だ。


「冷めてますけど、まだ食べられます」


「悪くないな」


「俺の見立てですよ」


「見立てがいい時は、安い時だ」


 ヒュウマは短く笑った。笑った、というより息が漏れた。いつもの型だ。何度か繰り返した型は、食卓の脚のように場を支える。


 朝市で麦菓子を見た時の、あの軽い言葉がここまで来ている。宿で手を見られた後にも使った。今日も使った。安いからいいのではない。互いに知っている型だからいい。そこに入れば、少しだけ呼吸が整う。


 俺はパンを一口齧った。塩屋の婆さんは、片手で焼いたとは思えない出来のパンを焼く。外は硬く、中はまだわずかに柔らかい。塩が強い。だが今はそれがいい。その出来の良さが、今日はわずかに心の重さを支える側に回っていた。


 噛むと粉の甘さが遅れて出る。塩が舌の端に残り、喉を通る時に水が欲しくなる。ヒュウマは何も言わずに水差しを寄せた。俺が手を伸ばすより少し早い。


「ん」


 礼の代わりに短く返す。ヒュウマはそれで十分という顔をした。


 窓の外、夕方の光は街の屋根を撫でながら沈んでいった。金色は赤に寄り、赤はゆっくり灰色へ沈む。海の匂いが少し濃くなる。


 下の通りで誰かが笑った。酒場へ向かう声だ。別の部屋では水桶を置く音がした。宿は夜の形へ移る。俺たちの部屋だけが、少し遅れて夕方を残していた。


 ヒュウマは自分のパンを齧りながら、潮鎚の方へ一度だけ目をやった。柄の罅に巻いた布を確認する目だ。手入れは終わっている。だが完全には戻らない。罅は罅として残る。


 俺はその視線を追わなかった。追えば、そこから別の話になる。今は食う方が先だ。


 歌い手の話をどこまで渡すか。情報屋の話をどこまで置くか。鍛冶場の島へ渡る判断。明日の船便。ヒュウマの疲労。潮鎚の状態。パンの残り。全部が同じ卓に乗っている。


 食事は箱を作る。先に食う。話はその後でいい。


 ヒュウマは窓辺に戻って、海風を一度だけ受けた。それから、振り返った。


「明日は」


 俺はパンの残りを皿に置き、卓の木目を指の腹で読んだ。細い筋が、島へ渡る航路のように曲がっている。


 木目は真っ直ぐには走らない。節を避け、古い傷を抱え、細い線をいくつも分けながら先へ行く。指の腹に小さな凹凸が触れる。海図ではない。だが今の俺には、そこに潮の向きが見えた。


「鍛冶場の島に、渡る」


「分かりました」


 それきりだった。


 ヒュウマは理由を聞かない。俺も説明を足さない。必要になれば話す。明日になれば、島が答えを持っているかもしれない。持っていないかもしれない。どちらにしても、渡らなければ箱は増えない。


 俺はパンの残りを齧りながら、卓の木目を指の腹で読んでいた。

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