当代の朝
潮の音で目が覚めた。
寝床の下で、板床が薄く冷えていた。耳の奥に残った波は、いつもの拍より少し遅い。外海の側で砕けた水が、岩に吸われて戻るまでに一呼吸余る。風はまだ動いていない。鳥も鳴かない。家の柱だけが、夜を含んだまま静かに湿っていた。
俺は半身を起こした。黒い短髪に指を入れて、寝癖を押さえる。掌に塩の匂いが移った。突端の家は海に近すぎる。戸を閉めて寝ても、潮は床板の隙間から上がってくる。
窓の方へ寄ると、外海は薄く光り始めていた。湾の内側はまだ暗い青で、空の色と別々に沈んでいる。初夏の朝だった。汗ばむほどではないが、肌の上に湿りが一枚乗る。
母さんは、もう起きていた。
台所で水を汲む音がする。桶に落ちる水は短く切られていた。ざあっと長く流さない。寝ている者を起こさないための癖だ。俺はもう起きている。母さんも、たぶん分かっている。それでも音は短いままだった。
俺は戦闘服に袖を通した。革は夜の湿気を吸って少し硬い。深い藍の肩を伸ばし、砂色の帯を締める。腰の革紐を巻く前に、指の腹で留め金を一つずつ確かめた。
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食卓には、椀が二つ並んでいた。
俺の分と、母さんの分。卓の端には何も置かれていない場所がある。そこだけ木目の色が少し違う。器が置かれないのに、拭かれる時は同じように拭かれる。空いているのではなく、空けてある余白だった。
「おはよう」
俺は短く言った。
「おはよう、ヒュウマ」
母さんは振り向かずに答えた。黒に近い濃い焦茶の髪を低くまとめ、襟元だけ直線の強い布を重ねている。袖口も同じ形だ。海沿いの家では少しだけ違う。けれどこの家では、それがずっと普通だった。
竈の前で、母さんは白湯の入った椀を温めていた。湯気が一筋立ち、すぐに消える。振り向かない背中から、起きてからの手順が全部分かる。火を入れる。水を汲む。椀を温める。草を選ぶ。茶葉を出す。窓を開ける。
俺は窓辺へ寄った。
小像には朝の光が届き始めていた。白い木彫りの白鯨。塗りは古く、腹のあたりが少し剥げている。何度も手で触れられたせいで、器の縁だけなめらかになっていた。
俺は食前に、指先を揃えて小像の前の器に触れた。器には水が張られている。水をすくわない。撫でない。縁に指を一度置く。それだけだった。
水は冷たかった。朝の冷えよりも、少しだけ深い冷たさだった。
母さんも、同じ所作をした。
俺の後ろから、器の縁にそっと指を置く。声はない。名も呼ばない。目を閉じることもしない。二人分の指先が離れれば、家の中の朝の所作は終わる。
「食べてから行きなさい」
母さんはそれだけ言って、椀を卓に置いた。
「ええ」
俺は答えた。
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食事は短い。
塩漬けの魚、雑穀の粥、煎じた茶。母さんは茶葉のほかに、乾いた草を一摘み加える癖がある。指先で砕く時、草は小さく鳴った。香りは強くない。鼻の奥で一度だけ立つ青い匂い。海藻でも香でもない。乾いた丘の匂いに近い。
母さんは食事の前に、小皿の上で乾いた草を少しだけ焚く。火は長く残さない。細い煙が立ったら、すぐ消す。煙を家の隅まで行かせるのではない。火が触れたという事実だけを置くような所作だった。
俺はその匂いを、子供の頃から知っている。母さんがどこで覚えたのかは訊いたことがない。訊いても、たぶん母さんは長く答えない。茶を淹れる手を止めずに、昔のことです、とだけ言う気がする。
「今日は外」
俺は粥を口に運んでから言った。
「いつもの巡回かい」
「ええ。あとは漁船から報告が一件入っている。寄り道する」
母さんは魚の骨を外し、小皿の端へ置いた。
「夕方には」
「戻ります」
「戻るなら、濡れたまま玄関に立たないでおくれ」
「気をつけます」
「前もそう言ったね」
「前も気をつけました」
母さんはそこで初めて少しだけ息を緩めた。笑ったというほどではない。茶を注ぐ手元が、ほんの少し柔らかくなっただけだ。
沈黙が戻った。嫌な沈黙ではない。椀の中で粥が冷める音まで聞こえそうな、薄い朝の沈黙だった。
俺は粥を残さず食べた。魚の塩が舌に残る。茶を飲むと、乾いた草の匂いが喉の奥で細くほどけた。母さんは俺の椀が空になるまで、次の支度を始めなかった。
俺は立ち上がり、腰の革紐を締め直した。潮位札を差す。救助短刀を差す。縄の輪を肩にかける。小さな油布、予備の針、濡れた手でも開く留め具。順番は身体に入っている。迷うと遅くなる。遅くなると誰かが水を飲む。
戸口まで行くと、母さんは卓の端を拭いていた。空いた場所も、二つの椀の跡と同じように拭く。
「行ってきます」
「気をつけて」
母さんはそれだけ言った。短い。けれどその短さの中に、朝の水音と同じ癖がある。長く言えば、家の中に残るものが増える。母さんは、それを増やさない。
俺は戸を開けた。
家を出る時、母さんは振り向かなかった。
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家を出て、坂を下りた。
岬の上の家は、内湾と外海の両方が届く細い地の上にある。朝は二つの潮の匂いが混じる。外海は荒い塩。内湾は魚と木材と人の火。坂は途中で内湾の側へ折れ、石畳の間に砂が溜まっている。
湿った風が背中を押した。まだ強くない。けれど初夏の風は、肌に触れると重さが分かる。俺は帯の位置を一つ直し、歩幅を変えずに下りた。
坂下の洗い場では、女たちが桶を並べていた。水の音が重なっている。泡、布、木桶の縁。誰かが俺に声をかけた。
「当代、朝から外かい」
「ええ。西へ出ます」
「ミナさんに、これ。夕方でいいよ」
女将の一人が、小さな布包みを籠の上に置いた。豆を甘く煮た菓子の匂いが、布越しでも分かる。今受け取れば濡らす。俺は足を止め、包みの位置だけ覚えた。
「戻りで寄ります」
「そうしな。痩せたら母親に怒られるよ」
「痩せてはいません」
「背が伸びた分、細く見えるんだよ」
別の女が笑った。からかいの声に角はない。俺が十二の時から、こういう声はずっとある。背が伸びた。肩が広くなった。顔が大人びた。飯は食っているのか。雨の日は帰ったのか。全部、潮の挨拶みたいに毎日違って同じだった。
市場へ向かう道では、荷役の男が樽を転がしていた。俺が近づく前に、樽の向きを少し変える。道の真ん中を空けてくれた。
「若様、足元」
「ありがとうございます」
「その呼び方やめろって顔だな」
「当代でお願いします」
「はいはい。当代」
男は笑い、樽を押した。俺はその横を抜ける。肩の縄が樽に触れないよう少し上げた。
魚市場の前では、まだ店が開ききっていなかった。干物を吊るす棒が組まれ、氷水の桶が並ぶ。年配の漁師が包丁を研ぎながら言った。
「今日も無事に戻れよ、当代」
「戻ります」
「戻ると言ったなら戻れ」
「はい」
返事をすると、砥石の音が少しだけ軽くなった。命令ではない。願いでもない。四年半かけて、この島の声は俺の背中にそういう形で乗るようになった。
坂の途中で、海守りの若手が待っていた。
「当代」
ラーゴだ。十八で当代の補佐に入って二年目。背が高く、腕が長い。縄を投げる時、肩ではなく背中で投げる癖がある。
「準備は」
「整っています。小舟は二艘出します。漁船の件は」
「西寄りの浅瀬だ」
「了解です。ニカが先に桟橋へ行っています」
「油布は」
「二枚。予備の杭も積みました」
「よし」
ラーゴは頷き、先に坂を下りた。俺は後ろから歩いた。先に行く者を急かさない。急ぐ時ほど、足音を乱さない。海守りは、走る前にまず整える。
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海守り本部は、家の坂とは別の方向にある。
外海と内湾を分ける水門状の突端。石組みの基礎の上に、木と石を組み合わせた三棟の建物が立っている。立派ではない。濡れたまま入れる。床は水が外へ流れるよう傾いていて、壁には縄と札と救助具がかかっている。
本部前の広場では、年長の海守りが救助槍の穂先を布で拭いていた。白髪の混じった男で、俺が当代になる前からここにいる。
「当代、朝の潮は少し粘る」
「外海ですか」
「戻る時が遅い。札にはまだ出していない」
「俺も家で聞きました」
「なら書くか」
「戻ってから判断します」
年長の海守りは短く頷いた。俺よりずっと長く海を知っている人間が、俺の判断を待つ。その重さは、今でも肩に来る。けれど肩に来るものは、落とさなければいい。支え方は、四年半で少し覚えた。
本部の傾斜を上り、潮位板の前で足を止めた。
潮位、二寸下がり。外海、戻り潮なし。内湾、平静。
朝の番が札を返したばかりだった。墨はまだ乾ききっていない。文字の縁がわずかに光っている。俺は札の数字を確かめ、それから外海の音を聞いた。
数字は普通だった。
ただ、外海の波の戻りが一筋だけ遅かった。普段なら五拍で帰る波が、六拍。木板に残る水の引き方も一呼吸遅い。気のせいか、潮の癖か、判じない。札にはまだ書かない。けれど頭の片隅には置く。
「当代、出航準備整いました」
ラーゴが桟橋の方から呼んだ。
「ええ。出る」
俺は答え、桟橋へ向かった。
途中で、若い見習いが救助輪を抱えて道を譲った。まだ十五にも届かない。輪が大きすぎて、胸の前で半分浮いている。
「当代、これで合ってますか」
「結び目が逆だ。ほどける」
「はい」
俺は手を出さず、結び目の腹を指で示した。見習いは慌てて直す。ラーゴが後ろで小さく笑ったので、俺は首だけで制した。
「笑うな。お前も去年やった」
「やりました」
「覚えているなら教えろ」
「はい、当代」
見習いが赤くなって、結び目を締め直した。輪は今度は落ちない。俺は頷き、桟橋へ下りた。
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小舟は二艘だった。
俺と若手二人が一艘目。ラーゴと若手三人が二艘目。櫂は四つずつ。帆は半張り。風は弱い。帆に頼るより、櫂で水を掴む方が早い。
俺は艇尾に立った。潮鎚は舟底の留め具に固定してある。今日は使う予定はない。重さがそこにあるだけで、舟の底が少し落ち着く。
「西寄り、浅瀬、岩礁から半町手前。漁船からの報せだ」
若手たちが頷いた。返事は少ない。朝の出動では、それでいい。
「ニカ、左は浅く入れるな。潮が粘る」
「はい、当代」
「ラーゴ、二艘目は半舟身後ろ。近づきすぎるな」
「了解です」
「漁船に着いたら、先に船底。網は後だ」
「はい」
櫂が水に入った。
四つの櫂は、一つの音にならなければ舟が曲がる。水を切る音、引く音、雫が落ちる音。揃った身体から、揃った音が出る。俺の役目は艇尾でそれを聞くことだった。
ニカの左が半拍浅い。手首だけで示す。次の掻きで音が合う。別の若手の右肩が上がっている。肩で櫂を引くと、帰りに腕が死ぬ。俺は自分の肩を少し下げて示した。若手は黙って直した。
舟は内湾を抜け、水門状の突端の足元を通った。
岩の影で、外海の流れと内湾の流れが擦れている。水面の皺が一度ほどけて、また巻かれる。いつもの朝の景色だった。だがほどける皺の端が、今日は少し遅い。
「当代」
ニカが小さく呼んだ。
「感じたか」
「はい。戻りが変です」
「覚えておけ。言葉にするのは後でいい」
「はい」
水門を出ると、外海だった。
光は朝なのに鋭い。水の色は濃い青。波は穏やかだったが、舟の腹の下で潮の重みが一段深く触れた。水が舟底を押し返す力に、短い迷いがある。進ませたいのか戻したいのか、まだ決めていないような重さだった。
俺は頭の片隅にもう一つ印を置いた。
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西寄りの浅瀬には、漁船が一艘、傾いて停まっていた。
帆は降りていた。網は半分引き上げられたまま、舷側に絡んでいる。漁師が船底を覗き込み、別の一人が網を解こうとしていた。風がないせいで、濡れた網の匂いが強い。魚、泥、錆びた金具、古い海藻。
俺たちの小舟が寄ると、漁師が顔を上げた。
「ああ、当代、来てくれましたか」
「船底か、網か」
「両方です」
「怪我人は」
「いません」
「なら船底から」
俺は小舟を漁船の横につけ、舷を掴んで身を移した。濡れた木が手の中で滑る。膝を使って重さを逃がし、足裏を板に置く。櫂が水を打つ音が止まった。
漁船の船底を確かめた。岩礁に擦れた跡が二箇所。傷は浅い。ただ、擦れた向きが妙だった。普通は前方から後方へ擦れる。船は前へ進むからだ。この傷は、後方から前方へ擦れている。
「戻り潮で押された」
俺は短く言った。
「そうなんですよ」漁師は首筋を掻いた。「網を引き上げかけてた時に、急に潮が反対へ向きまして。気がついたら岩へ寄せられてました」
「どのくらい押された」
「櫂二掻き分くらいです。けど速かった」
「舵は」
「効きました。効いたんですが、間に合わんで」
俺は舷側を叩いた。音は鈍くない。水は入っていない。
「油布で足りる。杭は打たない」
「助かります」
「網の破れは」
「あちこちです。けど」
漁師はそこで言葉を切った。濡れた指で網の端を持ち上げる。網目の一部が不自然に広がっていた。魚や岩ではない。硬い円い物が暴れたような広がり方だった。
「網に、変な物がかかってましてね」
「変な物」
「古い羅針盤。黒い金属の、円いやつ。方角を指さない」
俺はその言葉を聞いた。
風がないのに、舷側の濡れた縄だけが小さく揺れた。
「どこを指していた」
「分からんのです。針が、動くんですよ。同じ場所を指さない。外海の方を指したかと思うと、内湾の方を指して、それから、岬の足元の方を指した。試したら毎回違いました」
「壊れていたのか」
「そう言われりゃそうなんでしょうが、ただの壊れ方じゃない気がして」
漁師は声を落とした。周りの若手も手を止めかけたので、俺は指で作業を続けるよう示した。止まると網が絡む。
「実物は」
「もう手放しました。古物商が買ってくれて。なんでも、巡礼の安全祈願に使うとかで」
「古物商の名は」
「中通りのカルダ商店です。よくある店ですよ」
「誰が持ち込んだ」
「うちの甥です。港に戻る前に見せたら、ちょうど商いの人がいて」
「触った者は」
「俺と甥と、カルダの若いのくらいです」
俺は短く頷いた。それ以上は訊かなかった。水の上で長く怪談にすると、手が鈍る。手が鈍れば本当に危ない。
「ラーゴ、油布」
「はい」
「ニカ、網は切るな。絡みだけ外せ」
「了解です」
若手たちが動き出した。漁師はまだ何か言いたそうだったが、俺が船底に膝をつくと黙った。仕事の音が戻る。布を当てる音。縄を引く音。水が舷に当たる音。どれも普通の音だった。
ただ、網目に残った黒い金属の跡だけが、頭に引っかかった。
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船底の擦れは、若手が修繕用の油布を当てて応急処置した。網は持ち帰って繕う。漁船はそれで内湾へ戻れる。漁師は何度も礼を言いかけたので、俺は船の向きを先に直すよう促した。
「礼は港でいい。今は舵を持ってください」
「はい、当代」
「戻る時は水門の手前で待て。こちらが先に潮を見る」
「分かりました」
俺は艇尾に戻り、櫂の若手たちに頷いた。出発。
舟は浅瀬を離れた。潮鎚の留め具が舟底で小さく鳴る。櫂は行きより重い。水が返す向きを探っている。
帰路で、俺は艇尾から外海の音を聞いた。
戻り潮の裂け目が、一筋だけ普段とずれていた。普段は岩の足元へ向かって一直線に走る筋が、水門の手前で一度折れて、別の方角へ短く逸れている。外洋へ向かう逸れ方ではない。岩陰で消えていく。
「半拍待て」
俺は言った。
櫂が一斉に止まる。舟は惰性で進み、裂け目の手前で揺れた。水面が一枚だけ違う厚さでめくれる。そこを越えると、舟の腹が軽くなる。
「今」
櫂が戻った。
四つの音が揃う。若手たちの息も揃った。俺は縄の先を足で押さえ、漁船が後ろから来る角度を計る。水門に近づくまで、潮は二度小さく揺り返した。強くはない。だが弱い異常ほど、後から大きくなることがある。
ラーゴが横の小舟から呼んだ。
「当代、戻りの潮が、ずれてますね」
「ええ」
「気のせいですか」
「分からない」
「そうですか」
ラーゴは少し笑った。当代がそう言うのは珍しいと言いたげだった。俺は笑わなかった。分からないと言える方が正しい時がある。分からないものを急いで名づけると、次の音を聞き落とす。
「帳面に書いておく」
俺は短く言った。
ラーゴは頷いた。
漁船は水門の手前で一度止まり、俺たちの合図で内湾へ入った。舵は効いている。船底の音も悪くない。港までは戻れる。
内湾に入ると、匂いが変わった。魚市場の火、干した網、朝より温まった石。島の匂いだ。外海から戻るたびに、その匂いで肩の力が少し抜ける。
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埠頭に戻る頃には、昼が近かった。
風は内湾から外海へ抜けていた。光は強くなっていた。岸壁の石が朝より乾いている。市場の声も太くなっていた。魚の値を呼ぶ声、荷役の掛け声、子供が走って叱られる声。全部が港の上で重なっている。
俺たちの小舟は桟橋に近づいた。櫂を上げ、舳先で別の海守りが舫い綱を投げる。俺は桟橋へ先に上がり、濡れた縄を肩で受けた。片手で重さを逃がし、次の手へ渡す。
縄は、濡れていた。
外海の塩が染みている。重い。だが重さの分布は均しい。受ける時に肩で支え、片手で次の人へ流す。腰で受けると遅い。腕で受けると痛める。四年半で身体が覚えた所作だった。
縄を受けたのが若手のニカだった。十六。背は高くないが、潜るのは速い。息を止める時に肩が動かない。
「お疲れ様です」
ニカはそう言って、縄を別の船員へ流した。
「左、帰りは良かった」
「ありがとうございます」
「行きもあれで入れろ」
「はい、当代」
ラーゴが漁船の方を手伝っている。年長の海守りが油布の当たりを確かめ、漁師に港内での動きを指示していた。島の仕事は、戻って終わりではない。戻った後に、次に出る時の事故を減らす。
桟橋の端で、干物屋の店主が俺を呼んだ。
「当代、今日も無事に戻ったか」
「戻りました」
「ならこれ。昼に食え」
紙に包んだ小魚の干物を投げてきた。俺は濡れた手を布で拭いてから受けた。
「代金は」
「いらん。塩が強いから茶を飲め」
「ありがとうございます。後で母さんに払わせます」
「やめろ。ミナさんに睨まれる」
店主は大きく笑った。周りの荷役もつられて笑う。俺は包みを腰袋に入れた。笑いの中に、今日も帰ったかという確認が混じっていた。毎日同じ確認をされる。毎日同じように返す。それで港は少し落ち着く。
潮位札の鐘が、短く二度鳴った。
人の動きが、一拍止まった。市場の方角でも、埠頭の荷役の方角でも、商人と海守りと島民の動きが揃って止まる。子供の手を引く女も、魚箱を担ぐ男も、口の途中で黙る。
鐘の後で、潮位を読み上げる声が来た。
潮位、二寸下がり継続。外海、戻り潮の裂け目あり、要注意。
ラーゴが俺の方へ顎を引いた。俺も短く頷いた。札に書く前に、声が出た。朝の俺の判断が、別の判じる耳で同じ形になった。
「当代、昼は本部で」
ニカが訊いた。
「先に報告を書く。飯はその後だ」
「また後回しですか」
「お前が言うな。昨日も飯を抜いて潜っていただろう」
ニカは黙った。ラーゴが横で肩を震わせる。
「当代、よく覚えていますね」
「お前の腹の鳴る音は、桟橋でも聞こえる」
「次から気をつけます」
「食べろ」
ニカは素直に頷いた。俺は腰袋の干物包みを一つ取り出し、ニカへ投げた。
「半分食え」
「当代の分では」
「塩が強い。二人でちょうどいい」
ニカは干物を受け、少し笑った。若手の笑いはすぐ仕事の顔に戻る。桟橋の縄がまだ片付いていないからだ。
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埠頭を歩く人の中に、ひとり、藍と砂色の服でない者がいた。
白と青のローブ。
外から来た男だった。
俺はその姿を、視線の端で捉えた。男は埠頭の中ほどを歩いている。歩幅は変えていない。荷を持つ手は片方だけ。革の鞄が一つ。靴の踏み方は、湿った板でも滑らない置き方だった。
旅慣れている。
俺の頭の中で、最初の判定が出た。
身体は、ローブを着る者の体ではなかった。
燃えるような赤の短髪。白と青のローブ。刺繍は入っているが、足しすぎていない。前は閉じきっていない。胸から腹までの線が、布の間にある。鍛えた身体だった。塔の奥で書物だけを相手にしてきた者の身体ではない。よく動き、よく耐える身体に近い。
旅装の者にしては、足が浮いていない。
俺はそう判じた。判じたというより、先に身体が決めていた。港で危ない者か、邪魔になる者か、助けが要る者か。それを分ける時、足はよく喋る。
その時、男の視線がこちらへ流れた。
短い視線だった。
俺の肩の縄を一拍、見た。次にニカの動き、それから桟橋の端の俺へ。留まったのは、たぶん足の置き方だった。男の眼は、滑らないことを測る眼だった。海守りの仕事に出る者の眼とは違うが、測り方に近いものがある。
俺は縄を流し終え、姿勢を直した。
男の視線が、もう一度こちらへ流れた。
刺繍の縁を見るような目だった。ローブの前の開きへ、視線が一拍だけ遅れた。気づいたらしい。男は目を上げ、そのまま前へ進んだ。歩幅は変えなかった。
俺は会釈未満に、顎を一度引いた。
それだけだった。
男は埠頭を抜けて、街の方へ歩いていった。赤い髪が藍と砂色の中で短く揺れて、港の声に紛れた。
俺は縄の汚れを布で拭った。
「当代、知り合いですか」
ラーゴが近くで訊いた。
「いや」
「外洋の役人ですかね」
「分からない」
「赤い髪は珍しいですね」
「珍しいな」
「学者っぽくはありました」
「足は学者っぽくなかった」
ラーゴが首を傾げた。
「足ですか」
「滑らない歩き方だった」
「なるほど」
分かったような、分からないような返事だった。俺はそれ以上説明しなかった。言葉にすると、まだ薄い判断が固くなる。
頭の片隅に、もう一つ印が増えた。
朝、戻り潮の裂け目。漁師の羅針盤の噂。それと、赤い髪の外の男。三つの印は、まだ繋がらない。同じ帳面の別の頁に置かれているだけだった。それでいい。三つを無理に繋ぐと、繋ぎ目の方を信じてしまう。
俺は桟橋を離れた。
──────────────────────────────
午後は本部に戻った。
帳面を開いて、午前の潮位記録を書いた。墨は薄めに溶く。乾いた時の濃さで読みやすくするためだ。筆の先に水を含ませすぎると、紙が波打つ。帳面は長く残るものだから、急いで汚すわけにはいかない。
書く順番は決まっている。潮位。風向き。出動内容。特記事項。順番を変えると、後から読む者が迷う。
俺はまず潮位を書いた。二寸下がり継続。外海の戻り、遅れあり。内湾、平静。
次に出動内容。西寄り浅瀬。漁船一艘。船底擦過二箇所。油布応急。網破れ。怪我人なし。戻りは水門手前で待機を指示。
それから特記事項の欄に、二つだけ書いた。
「戻り潮の裂け目、水門の手前で短く逸れる。原因不明」
「漁師(西寄り浅瀬)から、黒い羅針盤の伝聞。針が定まらず、岬の足元・外海・内湾を順に指したと言う。古物商カルダへ譲渡済。要観察」
書いた後、俺はその二行を一度読み直した。
二行は、別の話だった。潮の癖と、漁師の伝聞。一つは観測の話。もう一つは噂の話。並べる必要はなかった。並べたくなかった、と言った方が近い。
だが俺は、同じ頁に二行を並べて書いた。
理由はなかった。
ただ、別の頁に書く気にならなかった。
帳面の端に、昼の男のことは書かなかった。書く理由がない。港を歩く旅人は毎日いる。赤い髪が珍しいだけで、帳面に入れることではない。そう自分に言って、筆を置いた。
それでも、赤い髪は消えなかった。
俺は帳面を閉じた。
──────────────────────────────
午後の業務は、いつもの通りに進んだ。
救助具の点検。若手の訓練の見回り。商人の小さな揉め事の処理。濡れた縄の干し直し。油布の補充。潮位板の札替え。どれも大きな仕事ではない。だが一つ抜けると、次に海が荒れた時に人が死ぬ。
救助具置き場では、年長の海守りが槍の柄を並べていた。俺が近づくと、一本を黙って渡す。俺は柄を握り、重心を確かめた。少し先が重い。
「削りましたか」
「割れがあった」
「代わりの柄は」
「夕方に届く」
「それまで予備扱いで」
「了解です、当代」
年長者にそう返されると、胸の奥がまだ少し硬くなる。俺が言う。相手が従う。その形は、四年半経っても軽くはならない。
商人の揉め事は、荷役の順番だった。南の塩樽と、北の布荷。どちらも先に通せと言う。俺は潮位札を指した。
「水門前は半刻後に締めます。塩樽が濡れると港に匂いが残る。先に塩。布は屋根の下へ」
「こちらは急ぎで」
「潮の方が急ぎです」
商人は口を閉じた。島では、潮位札の前で長く言い争う者は少ない。外から来た商人でも、二度やれば覚える。
市場の端を通ると、朝の洗い場の女将が包みを持って待っていた。
「当代、忘れるところだったろ」
「覚えていました」
「顔が仕事の顔だよ。ほら、ミナさんに」
布包みを受け取る。甘い豆の菓子。まだ少し温かい。
「ありがとうございます」
「自分でも食べな。若いんだから」
「母さんに怒られない分だけ」
「じゃあ一つも残らないね」
女将が笑った。隣の魚屋が、小さな干物を二枚追加で押し込んできた。
「これも。ミナさんの茶に合う」
「増えています」
「持てるだろ」
「持てます」
「なら持っていけ」
包みが腰袋を少し重くした。重いと言っても、縄や潮鎚に比べれば何でもない。けれどそういう重さは、別の場所に残る。家へ帰る理由が一つ増える。
訓練場では、ニカが縄を投げる角度を直していた。ラーゴは年下の手首を取らず、縄の影を指で示している。俺が横を通ると、二人とも背筋を伸ばした。
「続けろ」
俺は足を止めずに言った。
結び目だけを確かめる。悪くない。だが投げる前に息を吸いすぎる。
「ニカ、吸うな。吐いて投げろ」
「はい」
縄が飛んだ。さっきより低い。標的の杭に掛かる。
「今のですか」
「今のだ」
「当代、もう一回」
「自分でやれ」
ラーゴが年下の肩を叩いた。ニカは嬉しそうに縄を回収した。若手が慕ってくれるのはありがたい。けれど慕うだけでは水は助けてくれない。自分の手で結べるようにしなければならない。
港の隅では、子供が二人、古い紐で潮位札の真似をしていた。片方が板切れを掲げ、もう片方が鐘の代わりに貝殻を打つ。
「潮位、三寸上がり!」
「違うよ。下がりだよ」
「上がりって言いたい」
俺が近づくと、二人は急に静かになった。叱られると思ったのだろう。俺は板切れの高さだけ指で示した。
「読む人の胸より上。低いと後ろに届かない」
「はい、当代」
「鐘は二回まで。鳴らしすぎると本物と混じる」
「はい」
貝殻を持った子が、真剣に頷いた。もう一人が小さく訊いた。
「当代になったら、本物の鐘を鳴らせますか」
「鳴らす役は当代だけじゃない」
「でも当代がいい」
「なら飯を残すな。櫂も重い」
「食べます」
子供たちは急に元気になって走っていった。貝殻の音が、少し離れてからまた鳴った。一回だけだった。
本部へ戻る途中、酒場の店主が戸口に出ていた。昼の仕込みの匂いがする。魚の骨を煮た湯気、焼いた玉葱、濃い塩。
「当代」
「まだ開く時間では」
「開けてないよ。今日も無事に戻ったかって訊くだけだ」
「戻りました」
「ならいい。夕方、腹が空いたら寄れ」
「仕事が終われば」
「仕事が終わらない顔だな」
「終わらせます」
「その顔、お父さんも同じだった」
店主はそれだけ言って、すぐに鍋の方へ戻った。言葉は港の湯気に溶けた。俺は返事をしなかった。返事をしなくてもいい種類の言葉だった。胸の奥で、一度だけ潮が重くなった。
午後の光は、朝より柔らかかった。
本部の壁にかかる光の角度が、少しだけ変わっている。夕方が近い合図だった。
俺は本部の廊下を歩き、待合の前を通った。
待合の長椅子は空いていた。朝のうちに来た客の応対は、もう終わったのだろう。受付の卓の向こうで、ヴェラという中年の女が書類の束を整理していた。背筋が伸びている。袖口の湿りは朝より少ない。
「ヴェラさん」
俺は声をかけた。
「当代」
ヴェラさんは手を止めた。
「今日、何か」
「お一つ、お預かりがあります」
ヴェラさんは机の上の木箱から、書類を一枚取り出した。書面は二つに折られていた。封はされていない。海守り本部の様式だった。紙の角が濡れないよう、薄い油紙で包まれている。
「賢者殿から、案内のお願いです。今朝、お持ちになりました」
俺は書類を受け取り、開いた。
書かれていたのは、四行だった。
カラヴェラから来た。 マリヴェル家の蒼凪と申す。 環礁奥の古い祭祀跡を、確認したい。 海守り当代の案内が頂ければ、と願う。
俺は四行を、二度読んだ。
紙の上の字は整っていた。飾りすぎていない。必要な情報だけが置かれている。挨拶を削りすぎてもいない。港に来る商人の願書とは違った。自分の用件を重くしすぎない書き方だった。
それから、ヴェラさんを確かめた。
「赤い髪の方ですか」
「ええ。前は閉じきらないローブの方でした。胸を見せて歩く方は珍しいので、覚えております」
ヴェラさんはそう言って、少しだけ笑った。笑いは崩れない。受付で人をさばく者の笑いだ。
俺はもう一度、四行を読んだ。
昼の男だった。
埠頭で一拍だけ引っかかった、赤い髪の外の男。あの男が賢者だった。書面の家名には聞き覚えがある。海の向こうの古い家。十年ほど前に大きく傾いた家。詳しくは知らない。俺が知っているのは、島へ流れてくる噂の端だけだ。
「宿は」
「中通りの灯籠亭です。古物商の向かいですね」
カルダ商店の向かい。
俺の指が、書類の折り目を一度だけ押した。
「返答は」
ヴェラさんが訊いた。
「明朝、本部へ。とお伝えしてください」
「許可、ではなく」
「面会の返答だけです」
ヴェラさんは頷いた。
「畏まりました」
「案内を求める場所について、他に何か」
「いいえ。書面の通りです。言葉も多くありませんでした」
「分かりました」
俺は書類を畳んだ。畳む時に、紙の音が少し強く鳴った。急いでいるわけではない。けれど手が先に反応していた。
俺は待合を離れ、海図のある廊下へ歩いた。
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待合の壁には、環礁の海図が貼られている。
外海と内湾を分ける突端。環状の浅瀬と岩礁。赤い線が網のように覆っている。外部の船が避けるべき航路。岩礁の影、急な水深変化、潮流の逆転点。海守りだけが通る細い線は、赤い線の間を縫うように薄く引かれている。
俺はその海図の前で足を止めた。
朝の戻り潮の裂け目が、海図の上で水門の手前のどこに位置するか。指で辿った。水門の手前、外海側、岩陰に逸れていた筋。海図の上の赤線とは少しずれている。海守りの細い線とも、ずれていた。
指先に紙のざらつきが当たる。乾いた紙なのに、そこだけ濡れているような気がした。
漁師の羅針盤が、岬の足元を指していた。
俺は指をそこへ移した。海図の上で、その場所は外部の船にとって赤線の集中する場所だった。海守りの細い線も、その下を通っていない。誰も通らない場所だった。
それと、外海と内湾の方角。
三方を指す針は、定まらないのか。三方の何かが定まらないのか。俺には分からない。分からないものが、海図の上で指先だけを止める。
それと、環礁の奥。
賢者が確認したいと言っている古い祭祀跡。環礁の奥は、海図の上で空白に近い。赤線も細い線もそこまで伸びていない。海守りも普段は行かない場所だった。行けないわけではない。行く理由がないから、線が薄い。
俺は書面の四行を頭の中で戻した。
カラヴェラ。古い家名。環礁奥。案内。昼の赤い髪。カルダ商店の向かいの宿。黒い羅針盤。戻り潮の裂け目。
息が一拍遅れた。
眉の間に力が入る。俺は空いた手を握り、指の関節を軽く鳴らした。急ぐな。急ぐ形にしてはいけない。朝の異常と昼の男と夕方の書面を、一本の縄にして引けば楽だ。けれど楽な縄は、濡れるとよく切れる。
もう一度、海図を辿った。
水門。裂け目。岬の足元。内湾。外海。環礁の奥。
指は最後に、赤線の薄い切れ目で止まった。海守りだけが知る細い通り道の手前だ。そこから先は、札にはならない。人に説明する時も、短くは言えない。
朝、戻り潮の裂け目。 漁師の羅針盤の噂。 賢者の祭祀跡の依頼。 赤い髪の外の男。
四つの印が、頭の中で並んでいた。
繋がってはいない。同じ帳面に入っただけだ。
俺はそれを認めて、海図の前を離れた。
廊下の端で、ヴェラさんが別の書類に印を押している音がした。港の外では、夕方の鐘の準備が始まっている。俺は畳んだ書面を帳面の間へ挟んだ。紙の厚みが、午前の記録の上に一枚増えた。
同じ帳面に入った。
それ以上のことは、まだ言わない。
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帰り際、海守り本部の風を一度だけ読んだ。
外海の側で、戻り潮がもう一度返した。
内湾の側は、平静だった。
本部を出ると、夕方の港は少し赤くなっていた。市場の店は片付けに入り、荷役の男たちは空の樽を転がしている。朝の女将から受け取った包みが腰袋に当たり、干物の塩の匂いが布越しに上がった。
坂を上る前に、子供たちの貝殻の鐘が一回だけ鳴った。誰かがすぐに叱ったらしく、笑い声が続いた。酒場の店主は鍋をかき混ぜながら片手を上げた。年長の海守りは救助槍を壁に戻し、ラーゴは若手に縄を干す角度を教えていた。
俺は一つずつ返事をした。長くは返さない。明日も同じ声が聞けるように、今日の返事を置いていく。
坂の途中で、外海の音が少しだけ近くなった。朝と同じようで、朝とは違う。知らないものが一つ混じると、いつもの音は少し形を変える。
家の窓には、もう灯が入っていた。母さんはたぶん振り向かずに茶を淹れている。乾いた草を一摘み入れて、小皿で少しだけ焚いて、包みを見れば何も言わずに皿を出す。
俺の一日は、いつもの通りに始まった。
いつもの潮に、知らない噂が混じっていた。
夕方、赤い髪の男の名が同じ帳面に入った。




