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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
3/11

海守りの一日

 蒼凪さんは、宿の階段を降りる手前で足を止めた。


 朝の薄い光が白と青のローブに乗っていた。前の開いた布の奥には鍛えた身体の線がある。胸元のプラチナの首飾りが小さく光り、それから影に沈んだ。


「夕方には戻る」


「分かりました」


 蒼凪さんは頷きもしなかった。必要なことはもう渡したという顔で、階段を降りていく。板が二度鳴り、少し間を置いて三度目が鳴った。最後に表の戸が閉まる音がして、宿の空気が一段静かになった。


 部屋に残ったのは、朝の潮の匂いと香草の乾いた匂いだった。


 俺は窓を開けた。海から来る風が入ってきて、窓辺に吊った香草の束をさらさら鳴らす。昨日結んだ紐が少し緩んでいた。指で引いた時、手の甲の擦り傷が薄く突っ張った。


 一昨日の市場の騒ぎで擦ったものだ。手当ては済んでいる。血ももう出ない。ただ、朝の冷たい風に当たると傷の端だけが自分のものではないみたいに硬くなる。


 紐を結び直す。強く締めすぎると茎が折れる。弱いと風に負ける。ちょうどいいところを探して、二度ほど結び目を作り替えた。


 こういう小さな乱れは、放っておいても誰も困らない。


 けれど直しておけば、帰ってきた蒼凪さんが一つ余計なことを考えずに済む。あの人は見ないふりもできる。気にしない顔もできる。けれど、気づかないわけではない。


 潮鎚は壁際に立ててある。深い藍と砂色の戦闘服を整えてから、俺は柄を持ち上げた。革の感触が手のひらに馴染む。金具は冷たい。海獣の腱で編んだ索具は昨夜より少し乾いていた。


 結び目を確かめる。異常はない。


 それでも一度ほどき、もう一度結んだ。


 父さんが残したものは、最初から俺の手に馴染んでいたわけじゃない。十二の俺には、潮鎚は重すぎた。肩に乗せるだけで息が乱れた。背負ったまま走ると、膝より先に胸が折れそうになった。


 それでも置けなかった。


 重さを測ることもできず、ただ背負った。七年近く経って、ようやく重いまま持てるようになった。海に入る時も、瓦礫を押す時も、人を引き上げる時も、この重さは消えない。


 軽くなったわけではない。


 俺の方が、少し変わっただけだ。


 左耳のプラチナのピアスに指が触れた。耳たぶの冷たさと金属の冷たさが、朝の眠気を最後に追い出す。短い黒髪を整え、胸当ての留め具を押さえる。手の甲の擦り傷がまた少し引いたが、動きに迷いはなかった。


 戸締まりを確かめて部屋を出る前に、卓を見た。何も置かない。蒼凪さんが帰ってきた時に本を置ける場所は空けてある。


 あの人は物の位置が整っていると、それだけで呼吸が少し深くなる。たぶん本人はそういうところを言葉にしない。だからこそ、こちらで用意しておく。


 階段を降りると、宿の女将が厨房から顔を出した。煮た豆の匂いと焼いた魚の匂いが、朝の床板に低く漂っている。


「ヒュウマさん、今日は早いね」


「詰所に顔を出してきます」


「朝飯、ちゃんと食べた?」


「食べました」


「ならいいよ。あんた、働く顔になると飯のこと忘れるから」


 笑って頭を下げた。忘れているつもりはない。けれど女将から見ると、俺はときどきそういう顔をしているらしい。


 厨房の奥で鍋が鳴った。女将はもうこちらを見ていない。けれど背中の向こうに、気をつけて行きなさいという気配だけが残っていた。


 外に出ると、カラヴェラ市の朝はもう動いていた。


 白壁には日の色が薄く乗り、石畳には水を撒いた跡が細い線になって光っている。市場へ向かう荷車が軋む。港へ急ぐ漁師の靴音が早い。眠そうな顔で桶を運ぶ子供が、俺を見て少し背筋を伸ばした。


「おはよう」と言う声がどこかから飛ぶ。


 俺も手を上げた。


 街を歩くたび、自分が一人で歩いていないことを思う。肩には潮鎚がある。背中には父さんの名がある。道の左右には、俺を呼ぶ声がある。


 魚屋の軒先では、昨日より小ぶりな鯵が並んでいた。網元の男が俺を見るなり親指を立てる。角の水売りの娘は桶を下ろして会釈した。小さなことが、足元に積もっていく。


 それで足取りが重くなる日もある。


 期待は優しい顔をして肩に乗る。心配も同じ場所に乗る。名前を呼ばれることは嬉しい。けれど、呼ばれた時に間に合わなければならない。


 けれど今日は、海が穏やかだった。


 波の音が遠い。風はまっすぐで、潮の匂いも濁っていない。だから俺は、その穏やかさを胸に一つ入れて歩いた。


──────────────────────────────


 詰所に着いたのは、朝の七時を少し回った頃だった。


 表の階段で、徽章をつけた若い海守りが箒を動かしていた。箒の先が石段に当たるたび、乾いた音が跳ねる。俺を見ると、若者は箒を持ったまま背筋を伸ばした。


 一昨日、市場の騒ぎのあとで書類を走らせてくれた若者だ。真面目で足が速い。走ったあとに息が乱れても、返事だけはいつもはっきりしている。


「ヒュウマさん」


「おはよう。ヤコウさんは」


「奥です。今、記録を見ておられます」


「ありがとう」


 すれ違う時、若者の視線が俺の肩の潮鎚に落ちた。すぐに逸らしたが、隠しきれていなかった。憧れと緊張が混ざった目だ。そこに少しだけ怖さもある。


 俺も昔、同じ目で大人たちを見ていた。


 強く見えた。遠く見えた。海から帰ってくる人たちの背中が、ときどき人ではないものみたいに大きく見えた。けれど近づけば汗の匂いがしたし、靴に砂が詰まっていた。大人たちも疲れていた。


 詰所の奥は、紙と塩と古い木の匂いがした。


 壁には救援用の縄が掛かっている。濡れたままではないが、潮が残っていて白く粉を吹いたところがある。机には帳面が三冊、開かれたまま置かれていた。窓の向こうから港の鐘がかすかに聞こえる。


 ヤコウさんは机に向かっていた。白髪が増えたが、背中はまだ大きい。父さんの兄貴分だった人で、俺が父さんを失った夜、最初に家へ来てくれた人でもある。


 あの夜のことは、全部を覚えているわけじゃない。雨の音。灯りの揺れ。濡れた外套の匂い。ヤコウさんの手が俺の肩に置かれた重さ。


 それだけが、今も妙にはっきり残っている。


「ヒュウマ、来たか」


「はい。昨日の港の記録、持ってきました」


 書類を渡すと、ヤコウさんは目を通しながら頷いた。指の節が太い。紙を扱う手というより、縄と櫂を扱ってきた手だ。


「助かる。お前の字は読みやすい」


「父さんには、雑だって言われてました」


「お前の父親は、自分の字も大して綺麗じゃなかったくせにな」


 ヤコウさんが短く笑った。俺も少し笑った。


 父さんの字は、確かに綺麗ではなかった。急いで書くと波みたいに右へ流れた。けれど読めない字ではなかった。読む側が慣れていれば、言いたいことはすぐ分かった。


 書類を置いたあと、ヤコウさんの顔が仕事の顔に戻った。笑いが引くと、頬の線が深く見える。


「それと一つ頼みがある。塩屋の婆さんが、今朝、店先で転んだ」


「今朝ですか」


「ああ。腕を打っただけで済んでる。骨は折れてないと聞いたが、あの人は気にする。自分で平気な顔を作るからな」


「見てきます」


「頼む。お前が顔を出せば、それだけで落ち着く」


 俺は頷いた。


 知らなかったことが、胸の中で位置を取る。朝の街を通ってきた時、塩屋の路地は見ていない。知っていれば先に寄った。だが、知らないものは守れない。


 だから知らせを受けたら、そこから動く。


 ヤコウさんは帳面の端を指で押さえ、続けた。


「それから、漁師組合のグエンが午前中に港湾で待ってる。網の破れを見てほしいそうだ」


「網だけですか」


「もう一つ相談がある、と言っていた。中身は言わなかった」


「海のことですね」


「たぶんな。俺が出るほどじゃない。お前が見て、お前が決めろ」


「了解です」


 返事をした時、表の方で紙束が落ちる音がした。


 振り返ると、さっきの若い海守りが慌てて書類を拾っている。その背後の壁には救援記録の名簿が貼られていた。月ごとの件数。出動者。簡単な備考。


 俺の名前も、いくつか並んでいる。


 若者はその名簿を見ていたらしい。


 俺と目が合った瞬間、顔が赤くなった。叱られると思った顔だった。叱るほどのことではない。俺も同じことをした。


「気にすんな」


 声をかけると、若者は書類を胸に抱えたまま固まった。


「俺も昔、同じように見てました。誰がどれだけ走ったか、気になって」


「……はい」


「名前の数より、帰ってきた数を覚えろ。そっちの方が大事だ」


 若者は少し遅れて頷いた。真面目な顔だった。真面目すぎて、額に力が入っている。


 あの顔のまま海に出ると、肩から先に沈む。力を入れる場所を間違えると、水はすぐにそれを覚える。


「肩、抜け。箒持ってる時にそんな顔してたら、箒まで緊張する」


 ようやく若者が笑った。


 ヤコウさんが机の奥で、何も聞いていない顔をしていた。口元だけ少し動いている。あれは聞いている顔だ。


 詰所を出る前に、俺は壁の名簿をもう一度見た。


 父さんの名前はそこにはない。古い記録は別の棚にある。けれど場所が違うだけで、消えるわけではない。街のどこかに残るものは、紙だけではない。


──────────────────────────────


 詰所を出る前に、近くの露店で小さな包みを買った。


 焼きたての丸パンを二つ。薄い布に包んでもらうと、手のひらに温かさが残った。腕を打った人の家に手ぶらで行くのは、悪くないとしても、俺の気が済まなかった。


 塩屋の婆さんの家は、商業街の三本目の路地を曲がり、さらに奥へ入ったところにある。大通りから一歩入るだけで、港の音が少し遠くなる。代わりに塩の匂いが濃くなる。


 扉の前には塩袋が積まれていたが、今朝は片側に少し乱れていた。縄で結んだ口が一つ、地面に擦れて白い粉を落としている。転んだのはこのあたりだろう。


 戸を叩くと、中から元気な声がした。


「はいはい、今開けるよ」


 足音は思ったより軽かった。ただ、扉が開くまでに少し間があった。痛い方の腕をかばって、片手で掛け金を外している。


 扉が開く。


 婆さんは右腕を布で吊っていた。顔色は悪くない。ただ、笑い方が少し大きい。平気だと見せたい人の笑い方だった。


「あら、ヒュウマさん。早いねえ」


「詰所で聞きました。腕、見せてください」


「大したことないよ。ちょっと派手に転んだだけ」


「見せてください」


 もう一度言うと、婆さんは肩をすくめた。


「海守りには敵わないね」


 土間に上がらせてもらい、椅子に座ってもらう。俺は潮鎚を背から少しずらした。重いものを背負ったまま正面に立つと、相手の身体も心も少し固くなる。


 膝を曲げて目線を合わせる。肩を落とす。声だけを先に届ける。


 婆さんの右腕の布をほどくと、前腕に青く腫れたところがあった。熱は軽い。骨の通りを確かめ、指先を動かしてもらう。痛みはあるが、折れてはいない。


「打撲です。二日、無理しなければ動きます」


「ほらね、大したことない」


「無理しなければ、です」


 婆さんは目を逸らした。棚の上の塩壺を見る。あれを動かす気だ。顔に書いてある。


「塩袋、今日は動かさないでください」


「店があるからねえ」


「動かすなら、誰か呼んでください」


「みんな忙しいよ」


「俺に言ってください」


「ヒュウマさんだって忙しいでしょう」


「忙しくても来ます」


 婆さんは困ったように笑った。その笑いの奥が、少し柔らかくなった。


 俺は持ってきた新しい布で腕を吊り直した。首にかかる重さを分け、肩が固まらないように結びを置く。布の幅は指二本分ずらす。結び目は骨に当てない。


 救援で何度も使った結び方だ。海で引き上げた人も、港で足を挟んだ人も、こうして一時しのぎをする。身体の痛みは、結び方一つで息のしやすさが変わる。


「痛くないですか」


「前より楽だよ。やっぱりヒュウマさんの手は違うねえ」


「布の通し方です」


「そういうところだよ」


 何が、とは聞かなかった。


 婆さんは立ち上がり、奥から籠を持ってきた。動きは早い。止める間もない。中には温かいパンが入っていた。片手で焼いたにしては、よく膨らんでいる。


「これ、持ってお行き」


「腕を打った日に焼いたんですか」


「左手があるからね」


「すごいな」


 思わず素直に言うと、婆さんは得意げに鼻を鳴らした。


「ヒュウマさんが来る気がしたんだよ。来るなら、何か持たせないと」


「俺は見に来ただけです」


「そういう人にこそ、持たせるんだよ」


 俺は露店の丸パンを差し出した。


「これ、途中で買いました。食べやすいと思って」


「あんたは本当に、そういう子だねえ」


 婆さんは丸パンを受け取り、代わりに自分の焼いたパンを包んだ。布の結び目を左手だけで作る。指の動きが速い。長く店をやってきた手だ。


「じゃあ、これは蒼凪さんの分にしなさい」


 その名前を出す時、婆さんの声が少しだけ丸くなった。


 会ったことはないはずだ。けれど俺が話したことを覚えている。街の人はそういうふうに、人の大事なものを覚える。姿を知らなくても、名前の置き場所を作っておく。


「ありがとうございます」


「ちゃんと食べさせるんだよ。細そうな人なんだろう?」


「見た目ほど細くないです」


「へえ」


 婆さんは楽しそうに笑った。


 家を出る時、婆さんは扉のところまで見送ってくれた。右腕は吊っているから、左手で手を振る。俺も振り返した。路地の奥に曲がるまで、扉は閉まらなかった。


 大通りに出る手前で、塩屋の女に呼び止められた。婆さんの家の者で、店先の細かい勘定をよく引き受けている人だ。俺は頼まれていた小さな麻袋を二つ抱え直した。塩と干した豆が入っている。


 女は早口だった。婆さんがどこで足を取られたか。どれだけ痛がったか。痛がったくせに怒ったこと。明日には店に出ると言ったこと。


 俺は一度だけ首を横に振った。


 明日は早い。せめて荷は動かさない方がいい。そう言うと、女は眉を寄せながらも頷いた。納得した顔ではないが、誰かに言われるのを待っていた顔だった。


 麻袋の縄が手の甲に触れた。擦り傷が少しだけ熱を持つ。俺は袋を持ち直し、女に渡してから市場へ向かった。


──────────────────────────────


 港湾へ向かう道は、昼に近づくにつれて人が増えていた。


 魚箱の匂い。濡れた縄。干した網。荷を押す車輪の音。港はいつも、街の中で一番うるさい。けれどそのうるささは嫌いじゃない。


 人が働いている音は、海の荒れた音よりずっといい。


 埠頭では、グエンさんたちがすでに網を広げていた。


「ヒュウマ、こっちだ!」


 五十を過ぎた漁師組合の男は、片手を大きく振った。日に焼けた顔。傷の多い手。声の通り方。海守りではないが、海で長く生きてきた人間の身体をしている。


「待たせました」


「いや、早いくらいだ。見てくれ」


 網は埠頭いっぱいに広げられていた。濡れた繊維が光を受けて鈍く光る。破れは一箇所ではない。中心から外へ、硬いものが押し広げたように裂けている。


 刃物なら繊維の切れ方がもっと揃う。岩なら擦れが残る。これは、内側から逃げた跡だ。


「何か入った」


 俺が言うと、グエンさんは頷いた。


「そう見えるか」


「はい。引っかけたんじゃない。網の中にいた何かが、出た」


 若い漁師が喉を鳴らした。


「魚じゃねえのか」


「普通の魚なら、ここまで押しません」


 網の繊維を指で撫でる。海水は乾ききっていない。匂いに、いつもの魚臭さとは違う薄い金気が混ざっていた。ごく薄い。言葉にするほどではない。


 けれど、ないとは言えない。


「漁場は」


「南西寄り。例の航路の手前だ」


 グエンさんの声が少し低くなった。周りの漁師たちも、無意識に口を閉じる。


 南西という方角には、最近、皆が言わずに避けているものがあった。まだ形にはなっていない。ただ、避ける時の沈黙だけが増えている。船を出す時の声が少し短くなる。酒場で話題を変える手つきが早くなる。


 俺はそれを知っている。


 知っているが、まだ名前をつけない。


「もう一つの相談は」


「ああ」


 グエンさんは俺を埠頭の端へ連れて行った。海面は穏やかだった。光を細かく砕いて、いつもの春の海みたいな顔をしている。


 こういう時ほど、海は厄介だ。荒れていれば誰でも身構える。静かな時は、静かだという理由で人が近づく。


「夜の引き潮の時だ。岩場の下から、変な音がする」


「風ではなく」


「違う。波でもない。低いんだ。腹の底に来る。岩の奥で何かが鳴ってるみたいにな」


「いつからですか」


「先週あたりから。最初は一人が聞いたと言った。今は三人だ。夜の漁を控える奴も出てる」


 俺は海を見た。


 海守りの感覚は、魔法というより、長く見続けたものの癖に近い。波の角度。風の重さ。潮の返り。匂いの濃さ。言葉になる前のものを拾う。


 今日の海は静かだ。


 静かすぎるほどに。


 袖を捲り、埠頭の縁に片膝をついた。指先を海へ沈める。水が爪の間に入ってくる。春の海の冷たさが皮膚を締める。


 冷たい。


 その冷たさの下に、別の冷たさがある。春のこの時期にしては、層がはっきりしすぎていた。表の水と下の水が、混ざるのを拒んでいるみたいだった。


 指を引き上げると、水滴が手首を伝った。光の中でただの水に見える。けれど指先は、まだ少し違う冷たさを覚えている。


「グエンさん」


「ああ」


「今夜、若いのは出さないでください。出すなら年配だけで、岸から離れすぎないように」


「分かった」


 答えは早かった。海の上で生きてきた人は、危ない時の返事が早い。理由を全部聞く前に、まず人を離す。それができる人の声だった。


「俺が夜、岩場を見ます」


「一人でか」


「一人で行きます。何かあれば知らせます」


 グエンさんは俺の顔を見た。止めたい気持ちと、止めても無駄だと知っている顔だった。


「無理はするなよ」


「無理をする前に戻ります」


「信用ならんな」


「そこは信用してください」


 グエンさんは苦く笑い、それから俺の肩を一度叩いた。手のひらが重い。力加減は乱暴だが、そこに心配があった。


「お前の父親も、そういう顔をして海を見てた」


 胸の奥が、少しだけ重くなった。


 父さんが最後に見ていた海を、俺は知らない。何を見つけて、何を追って、どこで足を取られたのか。記録には残っている。言葉も残っている。けれど、残った言葉ほど肝心なところに手が届かない。


「そうですか」


 それだけ返した。


 グエンさんは、それ以上言わなかった。


 埠頭の端で波が一度だけ高く寄せた。木杭に当たって白く砕け、すぐに戻る。俺はその音を聞きながら、夜の岩場までの道を頭の中でなぞった。


 昼の海と夜の海は違う。見えるものが減るのではない。見え方が変わる。音が前に出る。匂いが近くなる。足元の石が、昼よりもずっと正直になる。


──────────────────────────────


 港を出る頃には、昼の光が石畳を白くしていた。


 商業街へ戻る途中、背後から子供の声が飛んだ。


「ヒュウマにいちゃーん!」


 振り向くと、五人の子供がこちらへ走ってきた。一番小さい女の子は、走るというより跳ねている。先頭の男の子は息を切らしながら、俺の前で止まった。


「今日、海の練習ある?」


「今日は仕事だ」


「えー」


「明日なら少し見られるかもしれない」


「ほんと?」


「約束は、明日になってからだ。海の機嫌次第」


 子供たちは不満そうに声を上げた。頬を膨らませる子。肩を落とす子。もう別の遊びを考えている子。五人いると、がっかりの形も五つある。


 俺はしゃがんで目線を合わせる。


 小さい女の子が、俺の背中を指した。


「潮鎚、持ちたい」


「重いぞ」


「持つ」


「落とすなよ。足に落ちたら痛いじゃ済まない」


 潮鎚を外し、柄の低いところを支えて持たせた。女の子は両手で掴み、すぐに膝を曲げた。周りの子供たちが笑う。女の子も、歯を見せて笑った。


「重い!」


「言っただろ」


「もう一回!」


「順番」


 一人ずつ持たせる。誰もまともには持てない。けれど、みんな真剣な顔をする。重さに負けながら、それでも手を離さない。


 一番年上の男の子は、持つ前に手のひらを服で拭いた。二番目の子は息を止めた。小さい女の子は二度目も同じところで膝を曲げた。潮鎚はほとんど俺が支えている。それでも子供たちは、自分の力で持った顔をした。


 俺は笑っていた。


 海守りの顔ではなく、十八の俺の顔だったと思う。こういう時、自分がまだ若いことを思い出す。背負うものがあっても、子供たちの前で笑うくらいの余地はある。


「ヒュウマにいちゃん、また来週もいる?」


「いる」


「絶対?」


「絶対、とは言わない。でも、戻る」


 子供たちはそれで納得したらしい。走って行き、途中で何度も振り返った。小さい女の子だけが最後まで手を振っていた。


 絶対とは言わない。


 言えないから言わない。


 けれど戻ると言う時は、本当に戻るつもりで言う。子供相手でも、そこは軽くできない。約束は重い。潮鎚より軽く見えるだけだ。


 潮鎚を背負い直した時、近くの天幕の下にいた若い女が二人、こちらを見ていた。一人が俺と目を合わせ、すぐに隣の女の肩を叩く。二人で小さく笑った。


 悪意ではない。からかいとも少し違う。


 俺は気づかなかったことにして歩き出した。そういう視線に正面から応えるには、俺はまだ少し不器用だ。


 耳のピアスが熱を持った気がした。実際には日差しのせいだろう。たぶん。


──────────────────────────────


 市場の通りに入ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。


 塩屋の婆さんから預かったパンを宿へ戻すついでに、夕食の材料を買う。魚は今朝の残りがある。香草は足りている。豆と根菜を少し買えば、汁にできる。


 通りには声が重なっていた。魚の値を呼ぶ声。布を広げる音。籠を持つ手の擦れる音。香辛料の乾いた匂いと、熟した果物の甘い匂いが同じ風に乗ってくる。


 俺は麻袋を両腕に抱え、露店の値段を見ていた。塩屋の女に頼まれたものを届けたあと、自分の分を買い足した。袋の中で豆が小さく鳴る。


 人の流れの向こうに、白と青が見えた。


 蒼凪さんだった。


 赤い髪が、昼の光の中でよく目立つ。蒼凪さんは市場の雑音に紛れても、歩く速度が変わらない。人を避ける動きが静かで、無駄がない。白と青のローブの前は開いていて、鍛えた身体が布の中で一つの線を作っている。


 書物商の方へ向かっているのが分かった。


 俺は天幕の影に半歩入った。隠れたわけじゃない。ただ、邪魔をしたくなかった。蒼凪さんが一人で街を歩く時間には、その人だけの考えがある。


 それでも、目で追ってしまう。


 あの人が何を見たのかは分からない。詰所に寄ったのか。市場のどこで足を止めたのか。朝に別れてからの時間が、あの人の周りに薄く積もっている。


 蒼凪さんがこちらを見た。


 ほんの一拍。


 目が合った。何かを言うほどではない。近づくほどでもない。ただ、見た。見て、分かった。それだけで十分だった。


 あの一瞬で、いくつか渡した気がした。


 俺は今ここで立っている。蒼凪さんは今ひとりで歩いている。どちらも戻る場所を知っている。言葉にすると多すぎるものが、目の間を静かに渡った。


 蒼凪さんは通りを抜けていった。


 俺はしばらく、同じ場所に立っていた。胸の中で何かが大きく動いたのを、知らないふりをする。こういう時の自分は、海より読みにくい。


 十六歳の差は、いつも俺の中にある。重石みたいに沈んでいるわけじゃない。ただ、椅子に座って、時々こちらを見る。


 蒼凪さんが踏み出さないなら、俺は待つ。


 待つことは、何もしないことじゃない。側にいる準備を続けることだ。


 豆を買い、根菜を選んだ。泥のついた細いものは避ける。煮るなら太い方が甘い。魚に合わせるなら塩は控える。蒼凪さんは濃すぎる味を好まない。


 袋を抱え直すと、擦り傷のある手の甲に麻の端が触れた。小さく痛む。生きている痛みだ。大したことはない。


 市場を抜ける時、さっきの人の流れの向こうをもう一度見た。白と青はもうなかった。


──────────────────────────────


 根菜を買い、豆を買い、宿へ戻った。


 夕方の手前、二階の部屋はまだ明るかった。窓を開けると、香草が風を受けて揺れた。朝に結び直した紐はほどけていない。乾いた葉がかすかに鳴る。


 卓の上に、塩屋の婆さんから預かったパンを置く。蒼凪さんの分。包みの端から、焼けた小麦の匂いが少し漏れている。片手で焼いたパンだと思うと、布の結び目までやけに強く見えた。


 夕食の支度を始めた。


 魚を温め直し、豆と根菜を煮る。塩は少なめにした。蒼凪さんは濃すぎる味を嫌う。嫌うというより、体に入れるものを静かに選ぶ。そういう人だ。自分の身体を、きちんと扱う。


 鍋の中で根菜が柔らかくなる。木べらで底を撫でると、豆が沈んで軽く当たった。魚の皮は少し焦げるくらいがいい。焦げすぎると苦い。火を弱めて、皿を二つ出す。


 卓を窓の方へ少し寄せた時、脚が小さく鳴った。


 傾いている。


 朝は気づかなかった。床板の癖か、昨日動かした時に脚の位置がずれたのか。手を置くと、ほんの少しだけ揺れる。蒼凪さんなら座った時に気づく。気づいて、何も言わない。


 俺は廊下へ出た。壁際の隙間に、薄い木片が落ちている。宿の修繕で出た端材だろう。指で埃を払って戻り、卓の脚の下に挟んだ。


 もう一度押す。


 揺れない。


 それだけのことなのに、部屋の中が少し落ち着いた気がした。


 包丁を洗いながら、夜の岩場のことを考えた。グエンさんの網。低い音。海水の層。まだ繋がらない。けれど、繋がらないものを放っておくと、いつか人の足元で急につながる。


 それは困る。


 蒼凪さんが今日見たものも、俺が今日聞いたものも、まだ同じ場所へ入れない方がいい。焦ると見落とす。海も街も、人が急いでつけた名前に合わせてくれるわけではない。


 夕日が白壁を金色に染め始めた頃、階段が鳴った。


 蒼凪さんの足音は分かる。歩幅が一定で、踏み込みが軽い。急いでいなくても遅くない。街を歩く時と同じ足だ。


 戸が開いた。


「おかえりなさい」


「ただいま」


 蒼凪さんの胸元で、プラチナの首飾りが光った。夕日を受けて、細い線みたいに跳ねる。俺の左耳のピアスも、たぶん同じ色を返している。


 手には本があった。革の匂いが少し遅れて部屋に入ってくる。


「何を買ったんですか」


「植物図鑑と、伝承の本」


「蒼凪さんらしいですね」


「分かりやすいらしい」


「本については、分かりやすいです」


「お前も言うな」


 短く返されて、俺は少しだけ笑った。


 蒼凪さんは本を卓の端に置いた。厚い革装の本と、薄い冊子。植物図鑑は想像がつく。葉の形。根の癖。潮風に耐える仕組み。あの人の目は、そういう細部で止まる。


 伝承の本は分からない。


 蒼凪さんが古い話を買う時は、ただの古い話では済ませない時だ。聞きたいと思った。けれど、聞かなかった。


 蒼凪さんの顔に、まだ形になっていない考えがあった。言葉にしない時は、言葉にする前の場所で組んでいる。そこに手を入れると、かえって遅くなる。


 俺はパンを並べた。塩屋の婆さんの包みを開くと、焼けた小麦と塩の香りが強く出た。蒼凪さんの目が一度そこで止まる。


「詰所で、塩屋の婆さんが転んだと聞いた。ヒュウマに伝えてくれと言われた」


「行ってきました。腕だけです。骨は大丈夫でした」


「二日か」


「たぶん、それくらいです。本人は明日から店に出るって言ってましたけど」


「止められたか」


「一応」


「無理だな」


「はい。無理です」


 短い会話だった。けれど、婆さんの顔までその場に出てきた気がした。明日には店に出ると言い張る顔。左手があるからねと笑った顔。塩袋を見て目を逸らした顔。


 俺はパンの包みを指した。


「婆さんからです。蒼凪さんの分だそうです」


「俺に?」


「はい。会ったことはないはずなんですけど」


 蒼凪さんは少しだけ包みを見た。


「お前が話したんだろう」


「少しは」


「なら、会ってるようなものだな」


 その言い方が、思ったより静かに胸へ残った。


 街の人は名前を覚える。俺が話せば、その人の中に蒼凪さんの置き場所ができる。蒼凪さんが街を歩けば、街の中にまた別の置き場所ができる。会う前から、人は少しずつ近づいている。


 俺は汁を椀によそい、魚を皿に置いた。向かい合って座ると、部屋の中の音が少し落ち着く。外では市場が夕方の片づけに入っている。階下では女将の声がする。遠くで港の鐘が鳴った。


「蒼凪さん」


「ん」


「今日、街を歩いて、何か気になりました?」


 聞き方は軽くした。問い詰める形にはしない。気づいていることだけを、置く。


 蒼凪さんは湯気の向こうで一拍黙った。深い青の瞳が、卓の上ではないどこかを見ている。今日の街をもう一度歩いている顔だった。


「気になることは、いくつかあったな。ただ、まだ繋がってない」


「そうですか」


「繋がったら話す」


「分かりました」


 俺はそれ以上、踏み込まなかった。


 俺にも、まだ話していないことがある。夜、岩場へ行く。グエンさんと約束した。蒼凪さんが見つけたものと、俺がこれから確かめるものが同じ場所へ向かっているのかは分からない。


 分からないうちは、焦って一つにしない。


 夕食を食べ始める。婆さんのパンは、片手で焼いたとは思えないほど柔らかかった。塩の香りが先に来て、それから小麦の甘さが残る。皮は薄く硬い。中はまだ少し温かい気がした。


 蒼凪さんは一口食べて、短く言った。


「悪くないな」


「婆さんに伝えます」


「伝えなくていい」


「伝えます。喜びます」


 蒼凪さんは少しだけ目を伏せた。否定はしなかった。


 魚の皮は少し焦げていた。汁には刻んだ葉が浮いている。朝の香草とは別のものだ。パンを割る音が部屋に小さく響く。外では誰かが階段を上がり、すぐに別の部屋へ入った。宿の床板が鳴る。


 日が暮れていく。


 俺は食べながら、時々窓の外へ目を向けた。街の声を聞く。呼ばれれば立つつもりの耳でいる。そういう耳は、食事の時でも完全には眠らない。


 けれど向かいに蒼凪さんがいると、部屋の内側にもちゃんと戻ってこられる。椀の湯気。卓の安定した脚。布包みの本。プラチナの首飾りの光。


 一つずつ、ここにある。


 窓の外で、カラヴェラ市の屋根が低い金色に沈んでいく。街は今日も、誰かの怪我や、網の破れや、子供の約束や、言葉にならない視線を抱えて動いている。


 俺はその中にいる。


 海守りとして。


 十八の俺として。


 そして、蒼凪さんの向かいに座る一人として。


 今夜、海を見に行く。


 まだ何も決まっていない。だからこそ、見に行く。

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