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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅡ
118/129

白を汚す雨

 白い服は、朝いちばんで汚れる。


 袖口のボタンを留める時、指に昨夜の墨が残っているとすぐ目につく。襟を折る時、髪油がついていれば線になる。薄灰のベストは白よりいくらか親切だが、親切なだけで許しはしない。港の煤も、朱肉の粉も、黒蜜の油紙の匂いも、近づけば全部拾う。


 朝の水はまだ冷たかった。指の腹に残った湿りが、白い布へ触れるたびに小さく色を変える。ボタン穴は固く、爪の端で押し込むと布地の目がきしんだ。新しい服ではない。支部の白は洗われすぎていて、古い紙みたいに水を吸う。


 俺は鏡の前で袖を引いた。


 左の袖口の端が濡れていた。洗面の水だ。布をつまんで絞りかけ、途中でやめる。朝からそんな癖を出すと、あとで自分の手に腹が立つ。袖はそのままにした。白い服は濡れた場所だけ重くなり、手首へ小さく貼りついた。


 鍵、札、靴紐。報告書。帳面の束。


 順番に確かめる。


 支部の朝は、荷札の声から始まっていた。階下では海婚祭の搬入札が読み上げられ、赤い紐が革盆の上で鳴っている。祝いの荷は待たない。白布、貝飾り、灯花蝋、潮文紙、香油、客船用の予備帆布。どれも表の港へ向けて動いている。


 読み上げる声は、木の梁に当たって少しこもる。数を言うたびに別の手が札を拾い、赤い紐が乾いた音で跳ねた。封蝋を温める小皿から甘い脂の匂いが上がる。古い紙の埃っぽさと混じって、朝の支部はまだ誰も怒っていない倉庫の匂いがした。


 その横で、俺たちは別の白い紙を積んでいた。


 席で乾いた朱印が、数日かけて支部の腹へ降りてきた。応接室では一枚だった覚書が、帳面の列になると急に増える。写し、控え、照会、差し戻し、差し替え、抹消。紙は薄いのに、束ねると手首へ来る。


「ニコさん、夜の列、また空きます」


 帳面係の若いのが言った。まだ白い服に慣れていない。袖を汚さないよう肘を浮かせすぎて、逆に紙の端を引っかけている。首元も固い。襟の白に気を取られて、目が帳面から逃げていた。


 俺は机の端から札束を取った。


「元冒険者と元護衛団員は夜に入れるな。昼へ回せる奴は昼。回らない奴は診断待ちへ置く。昨日も言った」


「診断待ち、多すぎませんか」


「多いから待ちって言うんだよ。少なきゃ列にならねえ」


「教会支部の控えも?」


「組合と教会支部、両方だ。片方だけなら戻ってくる。戻ってきた紙は二度手間になる。二度手間はカポが嫌う」


 若いのはすぐ背筋を伸ばした。


「はい」


「怖がる場所が違う。紙を怖がれ」


 俺は黒い紐の束をほどいた。


 紐は指へ乾いて絡んだ。昨日の夜まで誰かの懐にあった紙もあれば、倉庫の棚で湿気を吸っていた紙もある。表は同じ白でも、匂いは違う。封蝋、古い糊、手の汗、油紙。紙は口をきかないくせに、通った場所だけは残す。


 一つ目の山は、黒蜜の前借り契約だった。薬代立替。後日控除。荷役の名の横に、小さな印が並んでいる。そこへ赤で線を入れる。無効。差し戻し。該当列から外す。人の舌の裏へ置かれたものが、紙の上ではただの列になっている。


 赤い線を引くと、筆先が少し粘った。朱肉ではない赤は、白い紙の上でやけに生きて見える。息を詰めるほどの作業ではないのに、若いのは線一本ごとに肩を上げていた。


 二つ目は、夜間搬入の停止だった。元冒険者、元護衛団員、古傷のある人足。夜の荷は古い身体に合わない。カポはそう言った。言った後で、祝祭の荷繰りは倍になった。夜が塞がれば、昼が詰まる。昼が詰まれば、表の荷が遅れる。遅れは客へ出る。客へ出れば、支部の白さが曇る。


 窓の外では、客船の鐘が一度鳴った。祝いの港は人を急かす音をよく出す。だが紙の列は急かされるほど乱れる。俺は札の角を揃え、爪で折れを戻した。角が揃うだけで、嘘みたいに仕事が進んで見える。


 三つ目は、下請けの処分だった。


 代理屋二件。現場監督一人。帳面の余白にあった小さな名が、別の紙へ移される。消すのではない。切った記録として残す。残すために、表の帳面からは外す。そういう仕事だ。若いのはその違いがまだ指に入っていない。


「ここ、消していいんですか」


「消すな。線を引け。消したら、そいつが最初からいなかったことになる。切ったなら、切った手を残す」


「はい」


「返事が軽い」


「……はい」


 いくらかましになった。


 四つ目は、古杭の護衛団所属者の再照会だった。旧契約者と書かれた列を、古い団名へ戻す。団名を戻すだけなら簡単に見える。実際は面倒だった。昔の名簿、組合の控え、支部登録、保証欄。薄い紙を何枚も重ねて、同じ人間が同じ人間だともう一度確かめる。


 名は同じでも、筆跡が違う。年が違う。保証人の印が薄い。古い団名の横にある紙魚の跡まで、目で拾わなければならない。紙の端をめくるたびに乾いた匂いが立ち、喉の奥へ積もった。


 五つ目は、診断対象化だった。


 荷へ出す前に、身体を紙へ通す。肩、腰、膝、手首。動くか。立てるか。縄を握れるか。夜の段を下りられるか。支部の若いのは人を見て判断したがる。だが今日からは紙を待つ。紙が遅ければ、荷も遅れる。


「面倒ですね」


 若いのがつい言った。


 俺は帳面から目を上げた。


「面倒だよ。面倒にしてんだ」


「何で」


「楽だと、人を夜へ放り込むからだ」


 若いのは黙った。


 その黙り方だけは、悪くなかった。


 机の端に、黒い油紙の小さな包みが置かれていた。昨夜、診断待ちに回された人足の懐から出たものだ。使い残しではない。匂いだけが残った紙だった。甘い。苦い。焦げた蜂蜜に、薬草の底を混ぜた匂い。治療院の白い壁に染みていたはずの匂いが、支部の机にも来ている。


 包みの折り目は柔らかく潰れていた。何度も開きかけて、何度も閉じた手つきが残っている。油紙の黒は白い机の上で沈み、そこだけ光を吸っていた。


 若いのが鼻をひくつかせた。


 俺は包みの上へ別の紙を置いた。


「触るな」


「黒蜜ですよね」


「名前を知ってても、触るな」


「売り物なら」


「うちの者は口にしない」


 声が低く落ちた。


 若いのの指が止まる。


「売り物だからじゃない。あれが人を畳む薬だと、うちが一番よく知ってるからだ」


「薬、なんですか」


「薬じゃねえって言う奴もいる。痛いまま動ける飴だって言う奴もいる。呼び方は好きにさせとけ。うちの白い服が舌の裏へ置いたら、処分だ」


「はい」


 今度の返事は軽くなかった。


 奥の棚には、封を戻した箱の控えも一つあった。俺はそこを見ないようにした。見ないようにした時点で、もう一度だけ見てしまった。白布。湿った倉庫。火明かりを飲む硝子。丸く寝ているものの影。硝子の赤子。俗称だけが、まだ喉の奥で冷たかった。


 値は高い。買う手がないだけだ。


 カポの声まで戻ってきたので、俺は帳面へ視線を落とした。


「ニコさん?」


「何でもない。次の束」


 俺は伝令の札をまとめた。


 札の穴へ紐を通す。赤い紐ではない。支部の伝令札は黒い紐でまとめる。祝いの荷と混じらないためだ。黒は汚れが目立たない。目立たないだけで、汚れていないわけではない。


 白い紙の上で、人が動かされる。夜から昼へ、荷場から診断へ、旧契約者から古い団名へ、前借りから無効へ、代理屋から処分済みへ。救われるために。支部が汚れないために。荷が遅れないために。


 紙の上では、どれも同じ手つきだった。


 階下で赤い紐が鳴った。


 祝いの荷が、また一つ増えた。


──────────────────────────────


 最初に殴られたのは、サロだった。


 三日目の夜、使い走りに出した帰りで支部の裏口へ転がるように戻ってきた。雨は降っていなかった。なのに髪は濡れていた。汗と、路地の汚水だ。白いベストの胸が灰色に汚れ、口の端が切れている。左目の下はもう腫れ始めていた。


 裏口の石へ靴底が擦れる音がした時、最初は荷を落としたのかと思った。次に息の音が聞こえた。走った息ではない。腹を抱えたまま、戻る場所だけを間違えないようにしている息だった。


 サロは黙って荷袋を差し出した。


 その手が震えていた。荷袋は濡れていない。封も切れていない。通行札も揃っている。仕事だけは戻した顔だった。


 トニが先に走った。


「誰だよ」


 サロは答えない。


「どこの奴だ。顔見たんだろ」


「トニ」


 俺が止めた。


 トニは振り返った。いつもは口が先に動く男だ。今は拳が先に動きそうだった。倉庫で火明かりを持った時の軽さは消えている。白い服の袖だけが、やけに綺麗だった。


「見ろよ、ニコさん。これで黙ってろって言うのか」


「まだ何も言ってねえ」


「じゃあ言えよ」


「報告が先だ」


 トニの顔が歪んだ。


 それでも止まった。支部の若衆は、止まることだけは覚えている。止まったまま怒るので、余計に面倒だった。


 サロは椅子に座らされた。座る時に顔をしかめた。脇腹も入っている。俺は水を渡し、血の混じった唾を受ける皿を置いた。皿の白がすぐ汚れた。


 血は最初、薄い線だった。水に触れると縁がほどけて、皿の底へ花みたいに広がる。サロはそれを見ていた。自分の口から出たものだと認めたくない顔ではない。どのくらいで拭けるかを測る顔だった。


 カポは階段を下りてきた。


 白い上着。白手袋。黒い靴。葉巻は持っていない。持っていない時の方が、声の置き場所が少なくなる。


 支部の者が一斉に黙った。


 ルッカさんはサロの顔を一度だけ見た。腫れ、口、脇腹、手の震え。それから俺を見た。


「報告」


 俺は背筋を伸ばした。


「サロ。第三南通りから戻る途中、裏宿筋の手前で数人に殴られています。携行物は通行札四枚、夜間停止の差し替え札二枚、伝令札一枚。荷は無事です。封切りなし。札の欠けなし。刃物傷は見える範囲ではありません。左目下、口角、脇腹。歩行は可能ですが、診せます」


「時刻」


「二つ目の鐘の後です」


「一人で戻したのは誰だ」


「俺です」


「理由」


「昼の荷繰りで二人組を崩しました。夜回りではなく伝令扱いにしました」


「記録」


「あります」


「医者」


「呼びます」


「届け」


「出します。相手は未確認です」


 トニが息を吸った。


 俺は横目で見た。まだ黙れ、という目になったと思う。トニは歯を噛んだ。サロは皿を見ている。自分の血が薄く水に広がるのを、荷の汚れでも見るように見ていた。


 ルッカさんはサロへ向いた。


「誰にやられた」


 サロの喉が動いた。


「顔は、見てません、カポ」


「見なかったのか。見えなかったのか」


「布で」


「人数」


「四、たぶん五です」


「言葉は」


 サロは首を横に振った。


「荷は狙われたか」


「いえ」


「札は」


「見られてません」


「お前を殴っただけか」


 わずかな間が空いた。


「はい、カポ」


 ルッカさんは頷いた。


 頷いただけだった。


 白手袋の指が、皿の縁ではなくサロの袖口を見た。そこは汚れていない。相手は荷袋にも札にも触っていない。殴る場所だけを選んだ手だった。


「医者を呼べ。サロは診断対象に回す。明朝の使い走りから外せ。持ち場は受付奥の札揃え。トニ、お前が代わりに行くな。怒った足は道を踏み抜く」


「カポ」


 トニの声は硬かった。


「やられて終わりですか」


「終わりではない」


「なら」


「殴り返すな」


 その五字だけが、支部の床へ落ちた。


 トニの顔に、理解できないものが浮かんだ。怒りより先に、裏切られたような色だった。白い服を着ているのに、白い服の側が殴られている。そういう顔だ。


 ルッカさんの声は変わらない。


「祝祭前だ。表の荷は詰まっている。いま若衆が下層で殴り合えば、札は止まる。札が止まれば、荷が止まる。荷が止まれば、支部の名で弁明することになる。お前の拳は弁明に向いていない」


 トニは何か言いかけた。


 やめた。


 拳の骨が白くなっていた。握ったまま、行き先を失っている。床の血は少ない。少ない血ほど、殴られた事実だけが残る。


 ルッカさんは俺へ戻った。


「夜の伝令の組みは見直す。昼の荷繰りは組み直せ。サロの持っていた札は確認後、別便で出せ。医者の控えは俺の机へ。届けは名前を置かず、場所と時刻だけ先に出す」


「承知しました、カポ」


「ニコ」


 短く呼ばれた。


 いつもの庇護寄りの呼び方だった。こういう時にそれを出されると、余計に背中が固くなる。


「サロを座らせたままにするな。痛みはあとで増える」


「はい」


「トニ」


 トニの肩が動いた。


「空腹か」


「……いえ」


「嘘が下手だ。飯を入れろ。空腹で怒るな。安くなる」


 トニは口を閉じた。


 その顔を見て、俺はひとつ息を吐いた。笑えはしない。けれど飯を入れろと言われた若衆は、少なくとも飯を食うまで殴りに行けない。


 サロは皿を持ったまま、まだ白い床を見ていた。


 床に落ちた血は少なかった。


 少ないから、すぐ拭ける。


 拭いた布はすぐ赤くなる。白い床は、濡れたところだけ鈍く光る。誰かが桶を持ってくる音がして、誰かが医者へ走る。ルッカさんの白手袋の指は、札の欠けを確かめる時と同じ形で宙に止まっていた。


 拭ける量の血を、俺たちは医者、届け、持ち場、札、組み替えの言葉へ移していった。痛いかと聞く前に、どの欄へ置くかを決める。支部はそういう場所だ。


 外では海婚祭の荷札がまた読まれていた。


 白布の数が合わない、と誰かが言った。


 サロの息が、一度だけ浅くなった。


──────────────────────────────


 昼の下層は、白い服をよく見た。


 観光港の白とは違う。洗った石の白でも、応接室の白でもない。港湾下層で白い服は、汚れていないものとしてまず目に入る。次に、誰の下にいるかが目に入る。最後に、殴った時にどこが一番汚れるかが目に入る。


 俺は伝令札を革袋へ入れ、港湾下層への石段を下りた。


 石段はいつも湿っている。上の港が晴れていても、ここだけは水を吐く。靴底の革がぬめった石を一段ずつ探り、足の裏で苔の薄い膜を読む。踏み抜くほどではない。滑るほどではある。白い裾が石に触れそうになるたび、膝が勝手に逃げた。


 封鎖倉庫の方へは行かない。行く用もない。あの夜の箱は、支部の奥で別の紙になっている。俺の今日の道は、裏宿筋、旧水路北口の手前、荷役場の裏、診断待ちの人足が溜まる酒場裏、通行札の回収所。どれもただの仕事だ。


 ただの仕事の道ほど、顔が多い。


 石段の途中で、最初の潮位を見た。壁の染み、苔の線、水の匂い。一回目は仕事だ。下層の道は潮位で半分変わる。閉じる路地、開く抜け道、足音が響きすぎる石段。知らなければ転ぶ。


 潮が高い日は、低い石が水を含んで柔らかく見える。靴の裏が覚えている高さと、目で見る高さがずれる。そういう日は早い道が遅くなる。


 二回目は、旧水路の口へ差す風を見た。不安の方だ。今日は南から湿っている。水は上がる。夕方には低い通路が使いにくい。


 三回目はしない。


 昼だからだ。


 俺は手を革袋へ戻し、札を一枚抜いた。


 裏宿筋の手前には、昔からある洗い場があった。水はいつも濁っている。女たちが布を叩き、男たちが荷車の車輪を直し、子供が魚箱の蓋で遊ぶ。表の浜へ出る客は来ない。来ても長居しない。匂いが違うからだ。


 安い香油。潮。酒。湿った布。寝ていない身体。


 洗い場の石は足裏へ冷たかった。布を叩く音が平らに続き、合間に魚箱の蓋が水を切る。香油は薔薇の名で売られているが、ここでは酒と汗に負けている。潮はその下にある。何を足しても最後に残る匂いだった。


 二階窓から、誰かが俺を見た。


 視線はすぐ消えた。


 消えた後で、別の視線が来る。白い服を見る目だ。顔を知っている目もある。俺が白い服を着る前から知っている目もある。そういう目は最初に俺を見て、次に服を見る。順番が逆になると、わずかに息が詰まる。


「ニコじゃねえか」


 洗い場の横で、古い顔が言った。名は出さない方がいい顔だった。昔からそういう位置にいる。誰の味方にもならず、誰の敵にもならない。だが声だけはよく通る。


「白いのが板についてきたな」


「板についてるなら、洗い場で言うなよ。濡れる」


「濡れた白は目立つぜ」


「乾いた白も目立つ」


「じゃあ脱げ」


 周りで小さく笑いが起きた。


 軽い。まだ軽い笑いだ。笑いの下に、別のものが沈んでいるのは見えた。黒蜜を切られた身体が、笑いの近くで震えていたからだ。


 酒場裏に、男が三人いた。


 酒場の戸は昼なのに半分だけ開いていた。中から薄い酸味の酒の匂いが漏れる。戸口の下には昨日の雨水が残り、靴跡の形で濁っている。そこへ甘苦い匂いが、熱のない煙みたいに重なっていた。


 ひとりは膝を抱えて座り、指をこすり合わせている。指先が震えて止まらない。寒いわけではない。汗はこめかみに浮いている。目だけが妙に据わっていた。俺が白い服で近づくと、目がこちらに刺さる。焦点は合っているのに、奥の方で別のものを見ている。


 黒蜜を切られた身体だ。


 痛みが戻る。眠気が戻らない。舌の裏が空く。手が何かを探す。薬に呼ばれる。そういう顔を、下層では見る。


 二人目は鼻の下を何度も拭っていた。袖は乾いているのに、そこだけ濡れる。三人目は笑っている。笑っているのに、歯が小さく鳴っている。どいつも甘苦い匂いを薄くまとっていた。使った後の匂いではない。切れた後に、身体の底から戻る匂いだった。


「白いの」


 膝を抱えた男が言った。


「前借りを切ったってな」


 俺は札を革袋から出した。


「診断待ちの札だ。名前を呼ばれたら組合へ行け」


「薬を切って、紙を寄こすのか」


「薬を切ったから紙が要る」


「薬じゃねえ」


 男は笑った。


 診断待ちの列でも聞いた言い方だ。薬じゃねえ。飴だ。立つためのものだ。痛いまま動けるだけだ。そういう言葉は、どこでも似る。


「じゃあ何だ」


 俺が聞くと、男は答えなかった。


 答えの代わりに、唇を舐めた。舌の動きが速い。そこに何もないのに、ある場所を探している。手は膝の上で震えていた。俺はその手を見すぎないよう、札を酒場の戸口へ置いた。


「名前を呼ばれたら行け。行かないと夜の荷へ戻れない」


「戻す気があるのかよ」


 別の男が言った。


「戻る場所がある奴だけだ」


「シローネが言うと親切に聞こえるな」


 笑いが起きた。


 今度の笑いは軽くなかった。


 奥の方で、別の声がした。


「親切じゃなくて帳尻だろ。代理屋が干されて、現場監督も消えた。抜いてた銭が止まったんだ。上も下も腹が減ってる」


 黒蜜を切られた身体が、殴る手になる。だが、殴る空気は別のところでも作られる。前借りで抜いていた者、夜の荷に人を流していた者、保証欄の横で銭を削っていた者。そういう連中が、表には出ずに火だけを足す。


 腹を減らした者は、怒る。


 飯を食っていない怒りは安い。カポの言葉が、こんな場所でそのまま効くのが嫌だった。


 俺は酒場の戸口に札を置き、通行札の控えを回収した。店主は目を合わせない。手だけを出す。出した手の爪に黒い汚れが残っている。墨ではない。黒蜜の油紙を扱う者の指だ。


「白鷲の客と、荷場で暴れた連中が、同じ卓についてるらしい」


 誰かが言った。


 声の出どころは見えなかった。


 下層の噂は、顔より先に壁から出る。水路の口、洗い場、酒場裏、裏宿の階段。誰が言ったかを探すと、探している顔だけが残る。だから探さない。


 白鷲の客。


 その言い方で、俺の中に一つの顔が浮いた。評議会の紙を持って支部へ来た赤い髪の客。白い部屋で、床の血を見ても声を荒げなかった男。名前は知っている。肩書きも聞いた。だが、ここでその名を強く置くと、余計な線まで引いてしまう。


 俺は革袋の口を締めた。


 繋げるな。


 今日の仕事は、札を配り、控えを取ることだ。


 裏宿筋を抜ける時、細い路地の入口で、若い女が俺を見た。俺より幾つか年上かもしれない。目の下に寝不足の影があり、安い貝殻の飾りが髪に挿してある。貝殻は欠けていた。


 路地の奥は昼でも暗い。洗い場の音がここまで来ると鈍くなり、代わりに布の擦れる音と小さな笑い声が近くなる。香油の匂いはさっきより濃い。海の匂いを隠すために足された匂いだ。


 指が服の内側へ行きかけた。


 途中で止めた。


 女はそれを見たのか見ていないのか、口の端だけで笑った。


「白い服だと、客の目がつくよ」


「俺は客じゃない」


「知ってる。だから言った」


 横の男が笑う。値踏みの目が一瞬だけ来る。白い服の上から、肩、腰、手首、喉へ落ちる。昔から知っている種類の目だった。逃げ道を先に見た。左の路地、洗い場の裏、二階への階段、古い水路口。全部見えた。


 見えたのに、足は動かなかった。


「通行札」


 俺はそれだけ言った。


 女は肩をすくめ、札を出した。爪の先に薔薇香油の匂いがあった。裏宿の匂いは、昔よりいくらか薄くなっている気がした。たぶん、俺が白い服を着ているからだ。


 石段を上がる前に、もう一度だけ下を見た。


 白い服は、下層ではよく見える。


 救われた証として着ている白が、ここでは一番先に狙われる場所になる。そんなことは、見れば分かる。分かったところで、脱げるわけではない。


 支部へ戻る道で、子供が水を蹴った。


 跳ねた泥が、俺の裾へ点を打った。


 白は、すぐ拾う。


──────────────────────────────


 夕方の支部は朝より紙が少なく、声が荒かった。


 嫌がらせは増えた。荷場の端へ石を投げられた。診断待ちの人足の列へ、白い服のせいで飯が遅れると吹き込まれた。夜間停止の差し替え札が一枚、泥へ捨てられた。海婚祭の白布を積む荷車の車輪に、細い釘が入っていた。


 どれも大きくはない。


 大きくないから、腹に残る。


 受付の奥では、紙をめくる音まで尖っていた。誰かが椅子を引くたびに床が鳴り、誰かが小声で悪態を飲み込む。白い壁は昼の熱を少しだけ持っていたが、三階へ続く階段の上から冷えた空気が降りてくる。


 トニは食った。食ったが、怒りは安くならなかった。いくらか値が上がっただけだ。サロは受付奥で札を揃えている。左目の腫れは紫になり、口数は減った。本人が一番黙るので、周りが余計に喋る。


「一回だけでいいんだよ」


 トニが言った。


「向こうの膝を一本取れば、次は来ねえ」


「一本取って、相手の足が誰のものか割れるのか」


 俺は帳面を閉じた。


「割れるだろ。白いのに手を出した連中だ」


「白いのに手を出した連中は、白いのに手を出されたって言える。そういう場所で殴る気か」


「じゃあどうしろって」


「報告しろ」


「それはカポの教えだろ」


「そうだよ」


「ニコさんのは」


 部屋がふっと静かになった。


 トニは怒っている。だが、聞いてもいた。支部の若衆はそういうところが面倒で、だからまだ支部にいる。


 俺は舌先で奥歯に触れた。


 ルッカさんへ報告する前の癖が、先に出た。言い訳を噛み潰す場所。今日はまだカポの前ではないのに、身体が勝手に順序を探している。


「カポの教えは三つ。順序、礼、報告。……四つ目は自分で覚えた。逃げ道だ」


 トニが黙った。


 サロも札を揃える手を止めた。


 俺は続けなかった。こういう言葉は、続けると安くなる。カポの言葉ではない。俺が勝手に足した四つ目だ。勝手に足したものほど、長く説明すると借り物に戻る。


 トニは低く言った。


「四つ目だけ、逃げる話かよ」


「逃げる奴がいるならな」


「殴りたい奴には」


「出口を作れ。殴りたい手も、閉じ込めると悪くなる」


「俺の手の逃げ道まで見るのか」


「見るよ。お前、怒ると右から出る。分かりやすい」


 トニの顔がわずかに崩れた。


 笑いではない。怒りが、形を変え損ねた顔だった。


「やめろよ、そういうの」


「なら左から怒れ」


「無茶言うな」


 サロがそこで、ほんのかすかに息を漏らした。笑う手前の音だった。トニはそれを聞いて、口を閉じた。怒りは消えない。だが、殴りに行く足は一拍遅れた。


 その遅れがあれば、支部では仕事を差し込める。


「トニ、釘の入った車輪を見てこい。誰かが触ったなら、油の付き方が違う」


「俺が?」


「怒ってる目は細かい傷を見るのに向く。向こうへ向けるな。車輪へ向けろ」


「……はいよ」


「はいよ、じゃねえ。カポがいる階へ上がるなら」


「承知しました」


 わざとらしく言い直して、トニは出ていった。


 俺は報告書を持って三階へ上がった。


 階段を上がるたび、声の段が変わる。下では軽口で済む。二階では実務語に戻る。三階の白い廊下では、舌の奥が勝手に整う。カポの前では、砕けた声は出ない。出せない。出た時は、たぶん何かを踏み越えている。


 三階の廊下は、いつも手首から冷える。白い壁は磨かれていて、夕方の光を薄く返す。下の油紙や汗の匂いはここまで来ない。代わりに封蝋と革と、乾いた木の匂いがある。息を吸うと喉が細くなり、言葉の角が勝手に削られた。


 扉の前で、舌先がまた奥歯に触れた。


 中から金具の音。


「入れ」


 俺は入った。


 ルッカさんは黒檀の机の前にいた。白手袋の指が、海婚祭の搬入札を一枚ずつ揃えている。机の右には俺の報告用の空きがある。左には白い皿。中身はまだない。食卓の前ではないのに、皿があるだけで呼吸がひとつ遅れる。


「報告します、カポ」


「座るな。先に報告」


「はい」


 俺は報告した。


 サロの件の続報。荷場の投石。釘。差し替え札の泥。診断待ちの列で出た揉め事。下請け処分に絡む代理屋の周辺。黒蜜を切られた人足の手の震え。裏宿筋での白い服への目。どれも短く、場所と時刻と持ち物を添えた。


 報告は、喉の同じ場所を何度も通る。場所。時刻。物。人数。被害。次の手。余計な匂いは落とす。下層で吸った香油や酒や泥の匂いまで、言葉の外へ押し出す。


 噂の一行が舌に乗った。


 俺は奥歯の裏で止めた。


 未確認ですらない。耳の端に引っかかっただけのものだ。ここで出せば、俺が繋げたことになる。繋げた責任を持てない線は、まだ報告にしない。そう言えば聞こえはいい。実際は、カポの前で余計な線を引くのが怖かっただけかもしれない。


「以上です」


 ルッカさんはしばらく何も言わなかった。


 白手袋の指が、一枚の札の角を整えた。


「飲んだな」


 俺の背中が固まった。


「未確認の噂です」


「噂の中身は聞いていない」


「……はい」


「お前は飲み込む時、奥歯へ舌を当てる」


 俺は答えなかった。


 答えなければ、報告を飛ばしたことにはならない。そういう子供みたいな逃げ方を、まだ身体がする。


 ルッカさんは俺を見た。


 怒ってはいない。怒っていない方が、背中へ来る。


「明朝、別口で拾え。今夜は持ち越す」


「承知しました」


「嫌がらせの増え方は予想内だ。だが若いのが安くなるのは困る」


「トニは車輪へ向けました」


「悪くない」


 短い肯定だった。


 俺は目を逸らしかけた。逸らす前に、カポの目があったので止めた。褒められる方が逃げ場を失う。叱責なら、どこが痛むか分かる。肯定は置き場所がない。


 肩甲骨の間が固くなり、次にゆっくりほどけた。ほどけた分だけ、立っている足が重くなる。叱られる準備をしていた身体は、褒められると余った力の逃がし方を知らない。


「夜回りは二人一組に戻す。心配ではない。配置の修正だ」


「はい」


「サロは明日まで受付奥。トニは夜へ出すな。怒りを使うなら昼だ。夜は水が濃い」


「はい」


「ニコ」


 また短い呼び方だった。


「お前は旧水路の口を回って戻れ。封鎖倉庫へは寄るな。帰り道だけを見ろ」


「承知しました」


「飯は」


「まだです」


 ルッカさんの目が少しだけ細くなった。


「報告前に食わなかった理由は」


「順序を先にしました」


「違う。言い訳を先にした」


 白手袋の指が皿を押した。机の端に置かれていた包みが俺の方へ滑る。薄いパンと冷えた魚だった。食べろという言葉はない。皿の位置だけで足りる。


 皿は軽くない。中身は少ないのに、受け取る時に手首へ来た。白い皿の冷えが紙越しに指へ移る。冷えた魚の塩と油の匂いが、報告で乾いた喉へ急に近づいた。


「食え。空腹のまま下層を見るな。見間違える」


「はい、カポ」


「食ったら行け」


 俺は包みを受け取った。


 椅子は引かれなかった。立ったまま食えということだ。罰ではない。急ぎでもある。けれど、皿を渡されると、拾われた夜の飯の匂いが少しだけ戻る。あの時の言葉とは違う。けれど同じ手つきだった。


 俺はパンを噛んだ。


 冷えていた。魚の塩気が強い。うまいと言うほどではない。だが、腹へ落ちると手の震えが少し収まる。自分が震えていたことに、そこで気づいた。


 塩気は舌より先に腹へ落ちた。固いパンを飲み込むたび、胸の奥で詰まっていたものが下へ押される。背中はまだ固い。けれど固さの形が変わる。報告のための固さから、歩くための固さへ変わった。


 ルッカさんは見ていないふりをした。


 それも手順の一つだった。


──────────────────────────────


 雨は、旧水路の石を先に濡らした。


 夜の港で降る雨は、上からだけでは来ない。壁から滲み、足元から戻り、閉じた口の奥で水音になる。白い服はすぐ重くなった。袖口の布が手首へ貼りつき、ベストの前が胸へ冷たく乗る。黒い髪は額に落ち、視界の端で細く揺れた。


 最初は布の表だけが濡れる。次に縫い目が水を吸う。そこから重さが肩へ移り、肩から背中へ広がる。白い服は雨を弾かない。支部の灯の下では守りに見える布が、暗い水路では水を抱え込む。


 俺は旧水路の口で足を止めた。


 ただの帰り道だ。封鎖倉庫とは関係ない。支部から下層へ抜ける時も下層から戻る時も、潮位さえ合えばこの口は早い。早い道は知っている者には便利で、知られている時には網になる。


 一回目の潮位を見た。


 水は上がっている。まだ通れる。足首までは来ない。石の染みに、昼の読みと大きな違いはない。


 二回目を見た。


 風が変わっていた。雨が水路の奥へ吹き込み、低い通路の匂いを押し返している。古い藻、錆びた格子、濡れた木、泥。水はまだ道を残しているが、帰りには狭くなる。


 三回目を見た。


 理由は言わない。


 石の口の奥で、水が小さく鳴った。


 俺は革袋の紐を締め直し、短剣の位置を確かめた。鍵束は胸の内側。通行札は革袋。袖口の小火薬筒は雨で使いにくい。靴底は濡れた石にまだ食いつく。


 雨粒が首筋から中へ入った。冷たさは線で落ち、背中で点になった。息を吐くと白くはならない。ただ湿った空気が胸に戻り、吐いた分だけ狭くなる。


 背後で、雨とは違う音がした。


 俺は振り返らなかった。


 振り返る前に、左の壁を蹴った。身体を低く落とし、軒下の影へ入る。白い服が雨の中で遅れて動く。手が伸びてきた。大きい手だ。指が太く、爪の間が黒い。俺の襟を掴む前に、俺は下を抜けた。


 ひとりではない。


 正面の水路口にも影がいた。右の古い荷台の陰にも。顔は布で隠れている。帽子のつばが低い。雨で輪郭が崩れているのに、体の大きさだけは分かった。壁のようだった。下層の細い路地に、体格のいい男たちが並ぶと、道そのものが狭くなる。


 通り魔じゃない。


 帰り道を知っている。


 俺は水路口へ走らず、横へ折れた。古い石段の手すりへ足をかけ、濡れた壁を低く蹴る。膝を畳み、荷台の縁へ手をつく。白い袖が泥を擦った。背後で手が空を掴む音がした。


 抜けられる。


 そう思った。


 抜け道の先に、二枚目があった。


 濡れた網が落ちてきた。魚網ではない。荷を包む粗い網だ。雨を吸って重い。肩にかかった瞬間、布と縄が首へ絡んだ。短剣を抜こうとした手を、横から掴まれる。大きな手だった。俺の手首がすっぽり入る。力の差が、骨より先に皮膚へ伝わった。


 網は冷たかった。冷たいのに重さだけは熱のあるものみたいに首へ集まる。縄目が頬に当たり、雨水を含んだ繊維の匂いが鼻へ入った。古い荷と魚と泥の匂いだ。呼吸を吸うたび、縄が喉の前で小さく動いた。


「押さえろ」


 声はそれだけだった。


 誰の声か分からない。分からないように潰した声だ。


 俺は足を抜こうとした。膝が泥に滑る。背中へ重さが来た。ひとり分ではない。肩、腰、足首。別々の手が、別々の場所を押さえる。俺の身体は細い。ルッカさんの剣を受ける時は、細さが逃げになる。ここでは、掴む場所が少ないだけだった。少ない場所へ大きな手が重なる。


 泥は思ったより冷たかった。表面は雨で薄く、水の下にある土は底から冷えている。膝が沈むと、冷えが布を通って骨まで来た。重さが背中を押すたび、胸と泥の間の空気が潰れる。吸う。潰れる。吸う。潰れる。呼吸が短い手続きになった。


 顔を泥へ押しつけられた。


 雨水が口へ入る。泥の味。錆びた水の匂い。甘苦い息が近い。黒蜜の切れた身体の匂いだ。使っている時の甘さではない。欲しがっている身体の底から上がる甘さ。震える手。荒い呼吸。目が据わっている気配。顔は見えないのに、身体の方が先に分かった。


「白い」


 誰かが言った。


 言葉というより、息だった。


 拳が腹へ入った。


 息が出た。声にはならない。次に肩。次に脇腹。網が絡んだまま、短剣の柄へ指が届かない。足を引こうとすると、膝へ重さが乗る。右手首を捻られ、泥へ押し込まれる。関節が嫌な方向を向いた。


 俺は歯を噛んだ。


 悲鳴は出さなかった。出すと息がなくなる。息がなくなれば、次の動きが遅れる。そう教わった。そういう理屈を、身体はまだ覚えていた。


 だが、これは戦いではなかった。


 相手は俺の刃を見ていない。手順もない。順序もない。報告もない。白い服を泥に伏せる重さだけがあった。殴る拳は上手くない。けれど重い。重いものは、上手くなくても潰す。


 腹の奥で冷えと痛みが重なった。拳の熱はすぐ消える。残るのは、泥の冷たさと雨の重さだ。押さえつける腕の汗が近く、甘苦い息がまた顔の横をかすめる。相手の震えが、こちらの骨へ伝わった。震えているのに、離れない。


 泥の中で、俺は声を探した。


 支部は近い。


 雨の向こうに、三階の灯が見えるはずだった。角を二つ曲がれば裏口だ。夜回りを二人一組へ戻したばかりなら、誰かが近くを通る。声を出せば届く距離だった。届く距離だと分かったから、出せなかった。


 呼べば、誰かが来る。


 来た奴が、次の手になる。


 そう考えたのかもしれない。違うのかもしれない。そこまで頭はきちんと動いていなかった。ただ、喉が閉じた。走れと他人に言う時の声が、自分のためには出なかった。


 別の手が襟を掴んだ。


 白い服が裂ける音がした。


 雨で重くなった布は、乾いた布より鈍く裂ける。胸元が開き、冷たい水が肌へ入る。俺は空いた左手を服の内側へ伸ばしかけた。縫い込んだものに触れそうになり、泥で汚れた指を止めた。触るな。そこまで汚すな。そんな言葉も声にはならない。


 体を反転させられた。


 空が見えた。雨の筋。帽子の影。布で隠した顔。大きな肩。揺れる目。震える指。甘ったるい息。殺す目ではなかった。殺す熱ではない。もっと古く、もっと低く、下層の夜で知っている種類の熱だった。


 胃が冷えた。


 膝を割られ、腰を押さえられる。白いシャツの裾が乱れ、帯の結び目に手がかかる。意図は明確だった。言葉にしなくても分かる。分かる種類の夜だった。昔の裏宿の階段、閉じた戸、笑い声、値段を決める目。知っている。知っているから、体が先に固まった。


「こっち」


 また短い声。


 何かが遠くで鳴った。


 鐘ではない。支部の方角から、荷車の金具が雨に打たれた音かもしれない。あるいは通りの誰かが戸を閉めた音かもしれない。男たちの手が一瞬だけ止まった。


 その一瞬で俺は膝を入れようとした。


 入らなかった。


 腹へもう一発来た。今度は拳ではなく、肘か膝だった。体の中の空気が全部潰れた。視界が白くなった。白い服ではなく、目の奥の白だ。


 息はすぐ戻らなかった。戻る前に身体が吸おうとして、泥と雨の匂いだけが喉へ入る。胸が開かない。開かないまま、次の息の場所を探す。遠くの音が薄くなり、近くの水音だけが大きくなった。


 手が離れた。


 全部ではない。少しずつ。肩の重さ、腰の重さ、手首の重さ。網が外される。外される時に、裂けた布がまた引っかかった。誰かの手が俺の髪を掴み、泥から顔を少し上げた。何も言わない。顔を見ようとしたのではない。息をしているか確かめただけの手つきだった。


 それから、その手も離れた。


 雨の中で足音が引いた。


 何も要求しなかった。


 何も言い残さなかった。


 伝言のない拳は、雨より早く消えた。残ったのは、泥、裂けた白、腹の奥の鈍い痛み、手首の熱、舌の上の錆びた味だけだった。


 俺はしばらく動けなかった。


 旧水路の口で、水が鳴っている。潮は上がっていた。雨が白い服をさらに重くする。体の下の泥が冷たい。呼吸をするたび、脇腹が遅れて痛む。


 泥は体温を持たない。冷たいものは、冷たいまま身体の形に入り込む。裂けた布の端が肌に貼りつき、雨のたびにひきつった。息を吸うと腹の奥が折れ、吐くと手首が熱くなる。どこから起きればいいのか、身体の方が決められずにいた。


 手を動かした。


 右手はうまく握れない。左手で袖をつまんだ。濡れた袖を絞ろうとした。布は泥を含んで重く、指に力が入らなかった。絞れば水が落ちる。落ちた水がどこかへ流れる。そういう簡単なことだけを、体が勝手にしようとしていた。


 途中でやめた。


 服の内側へ触れかけて、またやめた。


 支部の灯が見えた。


 本当に近かった。雨で滲み、白い建物の輪郭は見えない。ただ灯だけが、濡れた石の先に浮いている。そこへ行けば、誰かがいる。カポがいるかもしれない。トニがいるかもしれない。サロが受付奥で札を揃えているかもしれない。


 俺は声を出そうとした。


 喉が動いた。


 出なかった。


 泥のついた袖を、口へ押し当てた。血の味が布へ移る。息だけが布の中で熱くなった。声はそこに閉じた。閉じたまま、雨に冷やされた。


 支部の灯は、濡れた袖の向こうにあった。俺はその袖を口へ押し当て、呼べたはずの声だけを絞った。

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