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群青幻想  作者: 滄龍 青司
CantoⅠ
1/10

カラヴェラ市にて

 カラヴェラの朝は、船の綱が鳴る音から始まった。


 夜明けの港では帆柱がまだ黒い線に見える。潮を吸った綱が軋み、滑車が短く鳴り、眠りから引き上げられた街の骨組みを少しずつ起こしていった。埠頭の石畳にはまだ夜の湿り気が残っている。靴底が触れるたびに薄く光り、魚の鱗を敷いたような反射が細く走った。


 そこへ斜めの光が差し込む。天幕の白布、魚籠の銀、行商人の革靴。順に色が戻り、朝市は眠りの皮を剥がれていった。潮風が吹くたび、焼いた麦菓子の甘い匂いと、荷揚げしたばかりの魚の匂いが入れ替わる。油を吸った紙、濡れた麻袋、皮革の乾いた匂い。春の一日目の港はそれらをまとめて吸い込み、また吐き出していた。


 朝市はもう動いていた。


 布屋は巻いた反物を肩に担ぎ、果物売りは小ぶりの柑橘を水で濡らして光らせている。魚売りの女が木槌で台を叩くと、銀色の腹をした小魚が籠の中で跳ねた。若い船員が干し肉を値切り、年寄りの荷運びが横から笑う。店と店の間を人が流れ、荷車の車輪が石畳の浅い窪みに水を弾いた。


 蒼凪は市の奥、古い木箱を机にしている情報屋の前に立っていた。


 白と青のローブは風を受けて少し開き、鍛えた胸と腹の線を隠さない。刺繍は控えめで、朝の光にだけ縁が白く浮いた。赤い短髪が朝日に濃く燃え、深い青の瞳だけが静かだった。革ベルトには海溝晶が収まり、胸元のプラチナの首飾りは肌の陰で細く冷たい光を返している。


 街の者は彼を見ていた。魚を選ぶ手を止める者。声を落とす商人。すれ違う若い船員が横顔を一瞬だけ追い、慌てて視線を荷へ戻す。カラヴェラの市では腕の立つ者が珍しいわけではない。それでも賢者位の男が朝市の湿った石畳に立つと、人の流れには見えない間合いが生まれた。


 机には海図が広げられている。角は貝殻で押さえられ、中央には銅貨が三枚置かれていた。海図は何度も折られた跡があり、潮で薄く膨らんだ線がある。墨の黒はところどころ掠れ、島影の端だけが指の脂で濃くなっていた。


 情報屋の老人は片手で海図を撫で、欠けた手首を膝の上に置いていた。欠けた先には古い革紐が巻かれている。濡れて乾いてを繰り返した革は黒ずみ、縁は細く毛羽立っていた。老人は片手だけで座り位置を整え、膝の上の手首を布の端で隠す。隠しきるためではない。市場に座るための癖だった。


「南西の航路だな」


 老人の指が、二つの島の間を叩いた。


 指先の爪は厚く、煙管の煤が縁に残っている。叩かれた海図の下で木箱が鈍く鳴った。蒼凪は同じ場所に目を落とした。


「先月から二隻、消えてる」


「沈没か」


「そうなら楽だ。板切れ一枚、樽一つ、どこかへ流れ着く」


「何も上がってない」


「そういう話だ」


 蒼凪は海図に指を置いた。島影、潮の向き、商船が通る線。指はゆっくり動き、ある一点で止まった。爪が紙を傷つけないぎりぎりの圧だった。市場の音は近くにありながら、その指先の周りだけ薄く遠のいた。


「この時季なら荒れない海域だな」


「荒れない。だから船乗りが嫌がってる。荒れた海なら、海のせいにできる」


 老人は火の入っていない煙管を唇に挟んだ。煙は出ない。ただ乾いた竹と金具が歯に当たる音だけがした。蒼凪は続きを急がせなかった。市のざわめきが二人の間を通り過ぎる。


 魚売りの声が高く跳ねる。荷揚げ人夫が樽を下ろす。白布の天幕が風を孕み、下を抜けた影が海図の上を一度暗くした。老人はその影が過ぎるのを待ち、煙管を少し傾けた。


「組合が南西を避けると言い出した。商人は迂回する。荷は遅れる。運賃は上がる。評議会は机の上で怒鳴る」


「調査隊は」


「まだ出ない。誰が金を出すかで揉めてる」


「いつもの形だ」


「いつもの形だ」


 老人の声は低い。布の下を這い、木箱の継ぎ目を伝い、足元から聞こえるような声だった。蒼凪は銅貨を一枚足した。銅貨は海図の上で軽く鳴り、貝殻の影に半分入った。


 老人が片眉を上げる。


「もう受け取ってる」


「追加だ。必要になったら使え」


「賢者が銅貨を惜しまないのは珍しいな」


「金貨で黙る口は、銅貨で話したことを忘れる」


 老人は喉の奥で笑った。笑いは短く、煙管の先で折れる。彼は煙管を机に置き、銅貨を指先で寄せる。片手だけで四枚を重ねる動きはゆっくりだが、迷いがなかった。銅貨の縁が互いを擦り、乾いた小さな音を立てた。


 蒼凪は海図の位置をもう一度見た。南西の線、島と島の間、荒れないはずの海。目に入れたものをすべて別の棚へ置くようにして、表情を動かさない。背を向けると、ローブの裾が木箱の角を避けて揺れた。


──────────────────────────────


 市の通路を少し戻ると、ヒュウマが籠を抱えて待っていた。


 深い藍と砂色の海守りの戦闘服は、朝市の人波の中でもよく馴染んでいる。革は柔らかく使い込まれ、要所だけを守る金具には潮の曇りが薄く残る。背には潮鎚。左耳のプラチナのピアスが、荷車の隙間から差した光を拾った。


 短髪の黒はきっちり整えられ、茶色の瞳は人の流れを静かに見ていた。褐色の肌に朝の光が乗り、籠を抱える腕には港仕事で作られた力の線が出ている。年の若さは顔に残るが、立ち方は海守りの当代のものだった。通路を塞がず、けれど必要ならすぐ前へ出られる足の置き方。


 籠には魚、塩、香草、それから紙包みが二つ入っている。魚は藁の上で銀の腹を冷たく光らせ、塩袋は口を紐で結ばれていた。香草は乾ききっておらず、触れれば指に青い匂いを残しそうだった。紙包みからは焼いた麦と少し焦げた砂糖の香りがした。


「終わりました?」


「終わった」


「顔を見ると、半分くらいですね」


「半分」


 ヒュウマは籠の上の包みを一つ取り、蒼凪へ渡した。紙は薄い油を吸い、角に小さな欠けがある。渡す手つきは戦闘具を預ける時ほど固くないが、落とさない位置を自然に選んでいた。


「麦菓子です。端が欠けてるから安くするって」


「三つか」


「四つです」


「悪くないな」


「でしょう」


 蒼凪は包みを受け取り、ローブの内へ入れた。その動作の間に前を通り抜けようとした子どもが足を止める。ヒュウマが少しだけ籠を上げて道を作り、子どもは礼も言えない速さで走っていった。蒼凪のローブの裾は風に持ち上がり、すぐ静かに落ちる。


 ヒュウマが籠を抱え直して歩き出し、蒼凪がその横についた。


 二人は人波を避ける動きが似ていた。荷車が来れば同時に半歩ずれ、魚籠を担いだ男が横切れば、ヒュウマが少し前へ出て道を作る。蒼凪のローブの裾は車輪に触れず、ヒュウマの潮鎚は誰の肩にも当たらない。


 足音の間隔も近かった。石畳の濡れたところでは踏み込みを浅くし、乾いたところで少し歩幅を戻す。前から樽を担いだ二人組が来ると、ヒュウマは視線だけで右へ寄る合図を出した。蒼凪は見ていないようで見ており、半歩遅れず同じ隙間へ入る。


 布屋の天幕から垂れた紐が揺れた。蒼凪は肩を傾けて避け、ヒュウマは籠の中の魚が跳ねないよう腕を沈める。どちらも言葉にしない。戦う時と同じで、距離と角度だけが短く行き来した。


「南西の航路ですか」


 ヒュウマが言った。


「聞こえてたか」


「はい。老人の声、低いのに通ります」


「低い声ほど、布の下を抜ける」


「気になります?」


「気になるな。ただ、神殿の線とは別だ。多分」


「多分、ですか」


「箱が違う。まだ混ぜない」


 ヒュウマはそこで頷き、それ以上は聞かなかった。聞き返さないことも、彼らの間では合図になる。籠の中で香草が揺れ、乾いた匂いが少し立つ。蒼凪の視線は前を見たまま、耳だけが港の音を拾っていた。


 途中で果物屋の女がヒュウマに手を振った。ヒュウマは片手を上げず、籠を抱えたまま顎だけで応じる。海守りの戦闘服を着た若い当代は、市の人々にとって港の一部だった。蒼凪はその隣を歩く。馴染むものと異物に見えるものが並び、だが二人の間の呼吸は一つに見えた。


──────────────────────────────


 角を曲がる手前で、怒鳴り声が割り込んだ。


「離せって言ってるだろ!」


 続けて、木箱が倒れる音。詰めていた干し魚が石畳に散り、乾いた皮が跳ねた。周囲の声が一段引いた。値切りの声も、笑い声も、刃を当てて魚を開く音も同じだけ薄くなる。人波が引く時は水より速い。


 蒼凪とヒュウマは同時に止まった。


 蒼凪の視線が動く。天幕の影、二十歩ほど先。人垣の空き方。倒れた箱の位置。逃げ道。魚籠を抱えた男がどこへ退くか。子どもがどの柱の陰にいるか。彼の目は音の先だけを見ていなかった。


 ヒュウマは籠の重さを一瞬で測った。地面に置ける場所、踏まれない位置、蒼凪の足の運びを邪魔しない角度。右肩にかかる潮鎚の重みが、背中で小さく位置を変える。二人の間に言葉はまだなかった。


「四人」


「武装は」


「刃物。軽い。連携は薄い」


 ヒュウマは籠を足元に置いた。魚が藁の上でわずかに滑り、塩袋の口紐が木枠に触れる。右手が背中へ回り、潮鎚の留め具を外す。金具が鳴る前に指で押さえられた。蒼凪は左手を腰の革ベルトに添えた。そこに海溝晶がある。


 天幕の下から男たちが出てきた。


 先頭の男が痩せた旅人の腕を掴んでいる。旅人は商人風の上着を着ていたが、袖は乱れ、片方の靴紐がほどけていた。汗が首筋に浮き、喉が何度も上下している。後ろに三人。二人は腰に短い刃を下げ、一人は手ぶらに見える。


「こいつは借金を踏み倒した!」


 先頭の男が周囲へ叫んだ。


 野次馬は足を止めるが、近づかない。借金という言葉は、朝市では厄介事の印になる。金の話に刃物が混ざれば、誰の商いにも泥が跳ねる。天幕の奥で女が子どもの肩を引き、果物屋の籠が静かに台の下へ下げられた。


 蒼凪は一秒だけ黙った。


 先頭の声は大きい。だが足は開きすぎている。右奥の男は視線を旅人ではなく、周囲の退路へ散らしていた。手ぶらに見える腕の袖口だけが不自然に重い。蒼凪の深い青の瞳が一度だけ細くなる。


「先頭は囮気味。右奥が違う」


「任せてください」


 ヒュウマが踏み出した。


 一歩目は静かだった。濡れた石畳に靴底が吸い付くように置かれる。二歩目で距離が消えた。潮鎚はまだ背中にある。右拳が先頭の男の顎を下から押し上げるように入った。男の手が旅人から外れる。


 拳は叩き潰すためではなかった。声と足を同時に止める角度だった。先頭の男の目が泳ぎ、膝から力が抜ける。ヒュウマは倒れかけた旅人の襟を掴み、自分の背後へ運んだ。乱暴ではない。足が地面につく場所へ置いた。


 旅人の靴紐がほどけた足が石畳を擦った。ヒュウマは見ずに半歩位置をずらし、旅人の肩が魚箱に当たらないよう逃がす。そこで初めて潮鎚の柄に手が届いた。


 二人目が刃を抜いた。抜き終わる前に、ヒュウマの左足が半歩入り、潮鎚の柄尻が手首を打った。骨を砕くほどではない。だが握る力だけを正確に奪う打ち方だった。刃が石畳に跳ねる。薄い金属音が市場の沈黙に刺さった。


 続けて潮鎚の頭が三人目の肩に当たった。骨を砕く角度ではない。動きを止める角度だった。潮鎚の重みは見た目より深く、受けた男の体は肩から腰まで一度に折れる。息が抜け、膝が石畳についた。


 三人目が膝をつく。


 四人目が消えたように低く動いた。天幕の柱を使い、ヒュウマの右後ろへ回る。人垣の陰と柱の影を縫う動きだった。手ぶらではなかった。袖の中から短刀が落ちる。刃は短いが、握り方に迷いがない。


 蒼凪の左手が海溝晶を抜いた。


 結晶は掌の上に浮き、深海色の光を薄く脈打たせる。青は明るくない。光でありながら、周囲の色を沈めるような濃さを持っていた。周囲の空気が冷えた。魚の匂いが遠のき、潮だけが濃くなる。天幕の白が一瞬だけ灰色に沈み、野次馬の息が揃って止まった。


 蒼凪の唇が動いた。


 声は低い。市の喧騒には混ざらず、底へ沈むように流れた。言葉になりきる前の響きが石畳へ落ち、海溝晶の光がそれに合わせて脈を打つ。ローブの裾が風ではない揺れ方をした。


 四人目の短刀がヒュウマの脇へ伸びる。


 その前に、ヒュウマが振り返った。潮鎚を盾のように斜めへ立てる。短刀は柄に当たり、薄い海水をまとって横へ滑った。刃が外へ流され、男の肩が空く。ヒュウマの左手が相手の手首を取る。肘、肩、腰の順に崩し、男を石畳へ落とした。


 落とす時も頭は打たせない。だが呼吸は奪う。四人目の背が石畳に当たる音は重く、天幕の柱に吊るされた小さな貝飾りが遅れて鳴った。


 蒼凪の詠唱が止まった。


 海溝晶の光が静まる。冷えた空気が朝市の温度に戻っていく。魚の匂いが戻り、麦菓子の甘さも戻る。誰かが長く息を吐いた。それを合図にしたように、野次馬の足音が少しずつ動き出した。


「終わったな」


「終わりました」


 ヒュウマは潮鎚を背に戻し、留め具を締めた。金具が今度は小さく鳴る。それから籠を拾う。塩の袋の口が少し緩み、白い粒が底に散っていた。彼はそれを見て、眉をわずかに下げるだけだった。


 海守りの詰所の若い男が走ってきた。胸の徽章が揺れている。息は上がっていたが、目は倒れた男たちと旅人を順に確認していた。


「ヒュウマさん、遅れました!」


「大丈夫です。借金絡みだそうです。評議会の窓口へ」


「はい」


「先頭と四人目は分けて見てください。四人目は慣れてる」


 若い男の顔つきが変わった。


「分かりました」


 詰所の者たちが続いて来る。二人が先頭の男と刃を持った男を押さえ、別の一人が四人目の袖を裏返した。短刀を隠していた布の内側に、細い革の輪が縫い付けられている。若い男はそれを見て短く頷いた。


 倒れた男たちは詰所の者たちに引き渡された。市場の人々はまだ距離を置いている。だが台の上へ籠を戻す音がして、魚売りの女が落ちた干し魚を拾い始めた。日常は傷口を見せながら、ゆっくり元の形へ戻ろうとしていた。


 旅人は座り込んだまま、震える手で膝を掴んでいる。


 ヒュウマが屈み、声を落とした。


「怪我は」


「な、ないです。ありがとうございます」


「水を飲んでください。あそこの天幕、井戸があります。歩けますか」


 旅人は何度も頷いた。ヒュウマは立ち上がり、井戸の方を手で示す。示し方は大きすぎず、震える相手が目で追える速さだった。詰所の若い男が旅人の肘に手を添え、少し離れた水場へ連れていく。


 蒼凪は少し離れて見ていた。天幕の布が風で膨らみ、影が蒼凪の足元を行き来する。胸元の首飾りが一度だけ光り、また肌の陰へ戻った。海溝晶は革ベルトへ収まり、何事もなかったように沈黙している。


「悪くないな」


「塩、少しこぼれました」


「それで済んだ」


「なら、悪くないですね」


 二人はまた歩き出した。


 市場のざわめきはまだ少し硬い。だが蒼凪とヒュウマの歩幅は乱れていなかった。籠を抱えるヒュウマの右腕に余計な力はなく、蒼凪のローブの裾は先ほどと同じ角度で揺れる。人々は道を空けた。恐れだけではなく、見慣れた港の規律に従うような空き方だった。


 宿へ戻る道で、帆布を畳む男たちが二人に軽く頭を下げた。ヒュウマは短く応じ、蒼凪は視線だけを返す。石畳の湿り気は朝より薄くなり、潮の匂いの中に昼の埃が混ざり始めていた。


──────────────────────────────


 宿の二階の角部屋へ戻るころ、港の光は昼から午後へ傾いていた。


 階段は古く、踏むたびに乾いた音がした。下の広間からは煮込みの匂いと客の声が上がってくる。二階の廊下には海風が抜け、壁に掛けられた安い絵の端がかすかに揺れていた。角部屋の扉を開けると、外より少し静かな港の音が迎えた。


 窓は半分開いている。外では船員の声、滑車の音、遠くの波が重なっていた。木の卓には魚、塩、香草、麦菓子の包みが並ぶ。朝市で買った物たちは市場の喧騒を少しだけ部屋へ連れてきていた。


 ヒュウマは袖をまくり、魚を捌き始めた。


 刃が骨に沿って走る。皮を外し、塩を振り、香草を千切る。動きは速いが、音は少ない。戦闘で潮鎚を扱う時と同じで、余った力がどこにも漏れなかった。魚の皮は一枚の薄い布のように剥がれ、身は皿の上で淡く光る。


 塩を振る指は高すぎず低すぎない。白い粒が魚の表面に散り、余った分は木皿の縁で止まった。香草を千切る時だけ青い匂いが強く立つ。ヒュウマはそれを指先で軽く潰し、魚の脂に馴染ませた。


 蒼凪は窓辺に椅子を寄せ、古い海図を広げていた。情報屋のものより傷んだ写しだ。端には潮で滲んだ跡がある。紙は薄く毛羽立ち、折り目の山だけが白く抜けていた。窓から入る光が海図の線を斜めに照らし、島の名の墨を半分だけ濃く見せる。


 蒼凪の指が南西の線を追う。戦闘の直後でも呼吸は静かだった。だが椅子の背に預けた肩には、詠唱へ入った時のわずかな余韻が残っている。ヒュウマはそれを見たが、すぐ魚へ目を戻した。


「二隻」


 蒼凪が言った。


「南西の船ですね」


「内陸の島から外洋へ抜ける定期便だ」


「積み荷は」


「片方は麦と油。もう片方は金属部品。共通点は薄い」


 ヒュウマは魚を皿に移した。皿は白く、魚の身は淡い桃色を帯びている。香草の緑と塩の白がそこへ乗り、朝市の色が小さく整えられたようだった。


「絡んでくる影は」


「分からないな。消え方だけが似てる」


「残骸なし」


「沈めば浮く。浮かないなら、沈んでないか、沈んだ場所が違う」


 ヒュウマは香草を散らし、皿を卓に置いた。木の卓は古く、刃物の跡と杯の輪染みがある。港町の宿らしい傷の多い卓だった。けれど皿を置く場所だけは、ヒュウマの手で自然に空けられている。


「まず食べましょう。冷めます」


 蒼凪は海図を畳んだ。折り目に逆らわず、角を揃え、革袋に戻す。卓につく時、ローブの前が少し開いた。鍛えられた胸と腹の線に窓の光が落ち、首飾りのプラチナが細く光る。


「悪くないな」


「味を見る前に言ってますよ」


「匂いで半分分かる」


 ヒュウマは短く笑った。声は大きくない。市場で人を退かせる時の声とは別の、部屋の中に収まる笑いだった。蒼凪は麦菓子の包みを開け、欠けていない方を割ってヒュウマの皿へ置く。


 麦菓子は割れる時に乾いた音を立てた。中の生地はまだ少し柔らかく、焦げた端だけが濃い色をしている。甘い匂いが魚と香草の匂いに重なり、食卓は一度だけ朝へ戻った。


「四つだったな」


「俺の見立てですよ」


「見立てがいい時は、安い時だ」


「それ、褒めてます?」


「褒めてる」


 食器の音がしばらく続いた。港から吹く風がカーテンを揺らし、香草の匂いを部屋の中へ散らす。蒼凪は魚を小さく切って食べる。ヒュウマは先に塩の具合を確かめ、それから自分の皿へ手を伸ばした。


 食べ方にも違いがあった。蒼凪は味を確認するように噛み、時折窓の外へ目を向ける。ヒュウマは相手の皿の減りを一度だけ見て、自分の食べる速さを少し落とした。どちらも指摘しない。そういう調整は声に出すほどのことではなかった。


「蒼凪さん」


「ん」


「さっき、詠唱を続けてたら《重圧》でしたよね」


「出てた」


 ヒュウマは魚の骨を皿の端へ寄せた。指先に付いた塩を布で拭き、言葉を選ぶ短い間を置く。窓の外で滑車が鳴り、港の声が一つ高くなった。


「市場の床、割れたかもしれませんよね」


「割れていただろうな」


「止めてくれて助かりました」


 蒼凪は魚を一切れ口に運び、少しだけ間を置いた。噛む音はしない。飲み込んでから、目線だけをヒュウマへ戻す。


「ヒュウマが間に合った」


「でも詠唱には入りました」


「四人目が死角を取った」


「見えてました」


「見えていても、刃が届く瞬間は別だ。確率の問題だ」


 ヒュウマは頷いた。反論はしなかった。反論ではなく、次の動きに入れるための頷きだった。茶色の瞳は穏やかだが、さっき短刀を受けた時と同じ芯が残っている。


「次は、もっと早く潰します」


「無理しなくていいぞ」


「無理じゃないです。蒼凪さんに詠唱させない方が、俺の仕事ですから」


 蒼凪は返事をしなかった。焼き菓子を一口齧り、窓の外へ目を向ける。甘さが口の中でほどけ、香草の苦みが遅れて消えた。ヒュウマはそれ以上言わず、皿の上の魚を片づける。


 港は金色になり始めていた。船の帆がゆっくり畳まれ、埠頭の人影が長く伸びていく。朝には湿っていた石畳が乾き、夕方の光を硬く返していた。遠い波の音は昼より低く、街の奥からは鍋を叩く音が薄く届く。


 蒼凪の胸元で、プラチナの首飾りが細く光った。


 同じ光が、ヒュウマの左耳のピアスにも届いた。


 二人はそれを見ていたが、どちらも何も言わなかった。

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