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会いたかったのだと思います

 講堂脇の回廊は、祭りの終わりから少しだけ離れた場所にあった。


 校舎の中では、まだ後片づけの音がしている。遠くで椅子を運ぶ音が響き、誰かの笑い声が廊下の向こうで弾け、白い布飾りが夕方の風に揺れている。けれど、回廊へ近づくほど、そのざわめきは薄くなっていった。


 エレノアは、手帳を胸に抱えたまま歩いていた。


 記録係としての控えは準備室に置いてきた。今日必要な確認は終えた。各班から戻ってきた当日対応記録も受け取り、大きな混乱がなかったことも残した。明日以降の振り返りはあるが、今この瞬間、自分が抱えていなければ止まるものはない。


 それをひとつずつ確かめるように歩く。


 けれど、足取りは仕事のときとは違っていた。


 どこかへ確認に向かうのではない。誰かの不足を補いに行くのでもない。誰かに呼ばれて、必要な紙を差し出すためでもない。


 約束の場所へ向かっている。


 記録には残らない約束。


 その言葉を思い出すだけで、胸の奥に淡い熱が広がった。


 回廊の入口には、夕方の光が斜めに差し込んでいた。石柱の影が床に長く伸び、祭りのために飾られた白いリボンが柱と柱の間で静かに揺れている。その奥に、人影があった。


 アレクシスだった。


 彼は柱のそばに立ち、外庭の方を見ていた。片づけの喧騒から少し離れたその姿は、朝の来賓対応のときとは違って、どこか静かに見えた。だが、エレノアの足音に気づくと、すぐにこちらを向いた。


 待っていた人の顔だった。


 そのことが分かった瞬間、エレノアの胸は小さく跳ねた。


 アレクシスは、ゆっくりと礼をした。


「エレノア嬢」


「アレクシス様」


 名前を呼ぶだけで、いつもより声が柔らかくなる気がした。


 エレノアは歩み寄り、ほんの少しだけ息を整える。


「お待たせしました」


 そう言うと、アレクシスは静かに微笑んだ。


「待っていました」


 短い言葉だった。


 けれど、まっすぐだった。


 待っていた。


 昨日、そう言われた。あなたが来られる時間まで、と。今日、本当に彼は待っていた。急がせず、呼びに来ず、役目の途中から連れ出さず、エレノアが自分の足でここへ来るまで、この場所にいた。


 それだけのことが、胸に深く落ちてくる。


「片づけは、もうよろしいのですか」


「はい。今日必要な記録は終えました。明日以降の振り返りはありますが、今、わたくしが持っていなければ止まるものはありません」


 アレクシスは、その答えを聞いて、少しだけ目を細めた。


「そうですか」


 彼は、褒めるようにも、安心したようにも見える顔をした。


「では、少し歩きましょうか」


「はい」


 二人は、回廊をゆっくりと歩き出した。


 手をつなぐことはない。


 肩が触れるほど近いわけでもない。


 けれど、並んで歩くには十分な距離だった。石床に落ちる二人分の影が、柱の間を通るたびに近づいたり離れたりする。そのたびに、エレノアは自分が彼の隣を歩いているのだと、少し遅れて意識した。


 誰かの隣へ戻ったのではない。


 自分で選んで、この隣へ来た。


 その違いが、夕方の静けさの中でゆっくりと輪郭を持っていく。


「今日は、記録席にいらっしゃいましたね」


 しばらく歩いたあと、アレクシスが言った。


「はい」


 エレノアは頷く。


「わたくしの場所でした」


 言ってから、自分でも少し驚いた。


 迷わずに出た言葉だった。


 わたくしの場所。


 以前なら、そうは言えなかったかもしれない。誰かの横で、誰かの不足を埋め、誰かの判断を先回りしていた自分には、場所があったようで、なかった。ただ必要とされていると感じる位置に立ち続けていただけだった。


 けれど今日、エレノアには記録席があった。


 各班が判断を戻し、確認済みの控えを差し出し、記録係として受け取る場所があった。


 アルフレッドの隣ではない。


 誰かの代わりでもない。


 自分の役目として立つ場所。


「よく似合っていました」


 アレクシスは静かに言った。


 その言葉に、エレノアは思わず彼を見る。


 似合っていた。


 華やかな装いでも、舞台の上でもない。記録席にいる自分が。


 彼の言い方には、軽い称賛ではなく、見ていたものをそのまま伝える落ち着きがあった。


「似合って、いましたか」


「はい。あなたがそこにいることで、流れが整っていました」


 エレノアは、少しだけ視線を落とした。


 嬉しい。


 そう思った。


 ただ褒められたからではない。美しいと言われたからでも、優しいと言われたからでもない。自分が誰かの代わりではなく、自分の場所に立っていたことを、彼が見ていた。そのことが嬉しかった。


「今日は、少し不思議でした」


 エレノアは、石床に落ちる影を見ながら言った。


「以前なら、わたくしが動かなければ止まると思っていたものが、今日は、わたくしが動かなくても動きました」


「それは、あなたが何もしなかったからではないと思います」


 アレクシスの声は穏やかだった。


「あなたが戻すべきものを戻し、残すべきものを残し、それぞれの役目を見えるようにしてきたからではありませんか」


 エレノアは答えられず、少しだけ歩みを緩めた。


 そう言われると、今日の記録席に届いた紙のひとつひとつが思い出された。受付係からの変更、会場係からの控え、委員長確認済みの紙。どれも、誰かが自分の役目として動いた結果だった。


 その流れの中に、自分もいた。


 埋める人としてではなく、支える人として。


「誰かの隣でなくても、支えられるのだと思いました」


 エレノアは、ゆっくりと言った。


「穴を埋めなくても、場を支えられるのだと」


 口にすると、胸の奥に残っていた痛みが少しだけ形を変えた。


 アルフレッドの隣に戻らなかったこと。彼が自分で判断したこと。自分がそれを記録係として受け取ったこと。それは寂しさを含んでいたけれど、間違いではなかった。


「そのように立つあなたを、私は美しいと思いました」


 アレクシスの声は、夕方の回廊に静かに落ちた。


 エレノアは息を止めた。


 美しい。


 今度の言葉は、先ほどよりもさらに受け取り方が分からなかった。


 けれど、アレクシスは急いで近づくことも、照れたようにごまかすこともしなかった。ただ、彼女の隣を歩きながら、まっすぐに言葉を置いている。


「……困ります」


 エレノアは小さく言った。


「そのように言われると、どう返せばよいのか分かりません」


「返さなくても構いません」


 アレクシスは少しだけ表情をやわらげた。


「私が、そう思ったというだけです」


 それだけ、と彼は言った。


 けれど、その「だけ」は、エレノアにとって少しも軽いものではなかった。


 二人はしばらく黙って歩いた。


 回廊の外庭には夕日が差し、木々の影が長く伸びている。祭りの灯りがひとつ、またひとつと消されていく中で、白い布飾りだけがまだ薄い光を受けて揺れていた。


 エレノアは、その揺れを見ながら、昨日の言葉を思い出した。


 あなたが来られる時間まで。


 待ってくださるのですか、と尋ねた自分。


 当然のように、はい、と答えたアレクシス。


「昨日、待っていてくださると聞いたとき」


 エレノアはぽつりと言った。


「少し、不思議でした」


「不思議、ですか」


「はい。わたくしが役目を終えるまで、待っていると言ってくださったことが」


 アレクシスは、すぐには答えなかった。


 その沈黙は、言葉を探しているというよりも、彼女の言葉をきちんと受け取っている時間のようだった。


「あなたを急がせたくありませんでした」


 やがて、彼は言った。


「今日のあなたには、あなたの役目がありましたから」


 エレノアは彼を見る。


「私が会いたかったのは、役目の途中で連れ出されたあなたではありません」


 アレクシスは静かに続けた。


「あなたがあなたの役目を終えて、自分の足で来てくださることに、意味があると思いました」


 胸の奥が、静かに震えた。


 彼は、奪わない。


 引きずり出さない。


 自分だけを見てほしいと迫るのではなく、エレノアがエレノアとして立つ場所を尊重したうえで、そのあとに待っていると言う。


 その優しさは、甘さだけではなく、確かな敬意を含んでいた。


「だから、待っていました」


 アレクシスはそう言った。


 エレノアは、しばらく言葉を失った。


 待っていました。


 その言葉は、回廊の夕方の光の中で、昨日よりも深く聞こえた。


 エレノアは手帳を胸に抱え直す。けれど、開かなかった。今日この時間を記録するためではなく、自分の鼓動があまりに大きく感じられて、それを少しだけ押さえたかった。


「わたくしは」


 言いかけて、止まる。


 言葉にするには、まだ怖い。


 けれど、今日、記録席から離れ、準備室を出て、回廊へ向かった足取りを思い出す。あのとき、自分はどこへ行きたかったのか。役目が終わったあと、最初に向かいたかった場所はどこだったのか。


 考えれば、答えはもう出ていた。


「創立祭が終わったあと」


 エレノアは、ゆっくりと言った。


「どこへ向かいたいかを、考えました」


 アレクシスは黙って聞いている。


「記録係として必要なことを終えて、準備室を出て、廊下に立ったとき……わたくしが向かいたかったのは、ここでした」


 言えた。


 その瞬間、胸の奥で何かがほどけた。


 エレノアは、アレクシスを見る。


 夕方の光の中で、彼の表情はいつもより少しだけ静かだった。けれど、その目は、彼女の言葉をひとつも逃がさないように向けられている。


「役目が終わったあと」


 エレノアは、もう一歩だけ言葉を進めた。


「わたくしが向かいたかったのは、ここでした」


 声は震えていなかった。


 けれど、胸は震えていた。


 ここ。


 回廊。


 約束の場所。


 そして、彼が待っている場所。


 アレクシスは足を止めた。


 エレノアも、隣で足を止める。


 柱の間から差し込む夕日が、二人の影を石床の上に長く伸ばしていた。祭りの音は遠く、今は風が布飾りを揺らす音だけが、かすかに聞こえる。


「それは」


 アレクシスは、いつもより慎重な声で言った。


「私が待っていたから、でしょうか」


 エレノアはすぐには答えられなかった。


 けれど、逃げることもできなかった。


 アレクシスの問いは、責めるものではない。急がせるものでもない。ただ、エレノアが自分で置いた言葉の先を、そっと確かめているだけだった。


 エレノアは手帳を抱える指に力を込め、それから、小さく頷いた。


「はい」


 たった一音。


 それでも、確かに自分の答えだった。


 アレクシスの表情が、わずかに揺れた。


 エレノアは、その変化を見て、胸の奥がさらに熱くなるのを感じた。


 もう、言わずにおくことはできなかった。


「……お会いしたかったのだと思います」


 声は、小さかった。


 けれど、夕方の回廊には十分だった。


 言ってしまったあと、エレノアは視線を落とした。頬が熱い。手帳を抱える手にも力が入っている。自分が何を言ったのか、言葉の形を思い出すたびに逃げ出したくなる。


 けれど、取り消したいとは思わなかった。


 お会いしたかった。


 そうなのだと思う。


 昨日から今日まで、回廊という言葉が手帳の余白に残り続けていた。祭りの朝も、記録席にいる間も、遠くで彼と目が合ったときも、後片づけが終わったときも、その約束は消えなかった。


 役目が終わったあと、向かいたかったのはここだった。


 彼に、会いたかったのだ。


 アレクシスは、長い沈黙のあと、静かに息を吐いた。


「エレノア嬢」


「はい」


 顔を上げると、彼はまっすぐにこちらを見ていた。


「私は、あなたにお会いしたかった」


 その言葉は、エレノアの胸に深く落ちた。


「昨日、約束を差し出したときから、今日、あなたがここへ来てくださるまで」


 アレクシスは続ける。


「私は、あなたを待っていました。記録係としてではなく、誰かの代わりとしてでもなく、あなたとして来てくださるのを」


 エレノアは、息を吸うことを忘れた。


 あなたとして。


 その言葉が、静かに胸の中心へ触れた。


 ずっと、役目があった。婚約者として、記録係として、委員会の一員として、誰かの隣で、誰かの不足を埋める人として。そうして立ち続ける中で、自分がどこにいるのか分からなくなることもあった。


 けれど今、目の前の人は言った。


 あなたとして来てくださるのを、待っていた、と。


 エレノアは、手帳を抱く力を少しだけ緩めた。


 この時間を、記録に残す必要はない。


 いつ、どこで、誰と、何を確認したのか。共有先は誰で、次の判断者は誰か。そんなふうに整えなくても、この言葉は消えない。


 記録には残らない約束は、記録に残らないまま、確かに自分の中へ残っていく。


「……ありがとうございます」


 エレノアは、ようやくそう言った。


 アレクシスは首を横に振る。


「こちらこそ」


 そして、少しだけ視線を外庭へ向けた。


「もう少し、歩きますか」


 その問いに、エレノアはすぐには答えず、夕方の回廊を見た。


 祭りの灯りは、ひとつずつ消えていく。けれど、空はまだ完全には暗くならず、薄い金色と青が混ざるように広がっている。石床に落ちる二人の影は、柱の影と重なりながら、ゆっくりと前へ伸びていた。


 エレノアは、小さく頷いた。


「はい。もう少し、歩きたいです」


 今度は、迷わなかった。


 二人は再び並んで歩き出した。


 手は触れない。


 言葉も、すぐには続かない。


 それでも、沈黙は少しも苦しくなかった。


 風が一度だけ回廊を抜け、並んだ二人の袖をかすかに触れ合わせた。


 誰かのための記録を残すためではなく、明日の確認事項を整えるためでもなく、今この瞬間のために、エレノアは隣を歩いている。自分の役目を終え、自分の足でここへ来て、会いたかったのだと思う相手の隣にいる。


 そのことを、彼女はまだうまく名づけられない。


 けれど、名づけられなくても、消えはしなかった。


 記録には残らない。


 けれど、忘れない。


 祭りの灯りがひとつずつ消えていく中で、エレノアは初めて、明日のためではなく、今この瞬間のために彼の隣を歩いた。

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