小説家になろう
初の短編小説です。今回はネット小説化を主人公に書きました
午前二時。アパートの六畳一間で、真壁はパソコンのモニターが放つ青白い光の中にいた。
机の端には、数日前に食べたコンビニのカップラーメンの空き容器が、積み重なっている。安物のオフィスチェアは、少し姿勢を変えるたびに「ギィ……」と、錆びついた悲鳴を上げた。
真壁は、大手メーカーで一般事務として働く三十二歳だ。
昼間は山のようなExcelのセルを埋め、上司の機嫌をうかがいながら、感情を殺して働く。彼にとって、自分の人生を肯定できる唯一の場所が、小説投稿サイト「小説家になってみよう」だった。
だが、最近はその場所も「第二の職場」に変わっていた。
真壁が書いているのは、剣と魔法のファンタジーだ。少し前までは、日間ランキングの三十位以内に食い込んでいた。だが、読者の反応を気にしすぎるあまり、彼の筆先からは次第に自由が失われていった。
昨日投稿した最新話では、順位がさらに十位も下がった。
恐る恐る感想欄をのぞくと、そこには匿名の人々による鋭利な言葉が並んでいた。
『最近、風景描写ばかりでテンポが悪い。早く次の街に行けよ』
『主人公がもっと無双しないと、読んでてストレスが溜まるだけなんだが』
『前の作品の方がマシだった。もう追うのやめるわ』
真壁は、それらの言葉を一つ読むたびに、自分の心臓を直接掴まれるような感覚に陥った。
「みんな、一分で読み飛ばすくせに、好き勝手言いやがって……」
悔しくて、膝の上で拳を握りしめた。だが、数字を維持するためには、読者の機嫌を取り、彼らが望む「インスタントな快感」を提供するしかなかった。真壁は、自分が本当に書きたいと思っていた、草原を渡る風の匂いや、沈みゆく太陽が雲を紫に染める繊細な情景を、次々と削ぎ落としていった。
一ヶ月後、真壁に決定的な追い打ちがかけられた。
同じ時期に執筆を始めた作家仲間が、人気が出て書籍化し、さらにはアニメ化まで決まったのだ。
その作品を読んでみると、真壁から見れば、どこかで見たような設定と、記号的なキャラクターの寄せ集めに思えた。けれど、世間はそれを「神作」ともてはやした。
「結局、みんなこういうのが好きなんだな。俺のこだわりなんて、ただの邪魔なんだ」
私生活でも限界が来ていた。
深刻な睡眠不足のせいで、仕事で重大な入力ミスをしたのだ。
「君、やる気あるの? 代わりはいくらでもいるんだよ。君じゃなきゃいけない理由なんて、うちにはないんだ」
部長から、社員全員の前で三十分にわたって怒鳴りつけられた。
その夜、泥のように疲れてアパートに戻り、いつものようにパソコンを立ち上げようとしたとき。
真壁は、自分の指が強張って動かないことに気づいた。
「もう、無理だ……」
彼は、パソコンの電源ボタンを力いっぱい押し込んだ。
そのままアカウントのパスワードを書いたメモを丸めてゴミ箱に捨てた。
「俺には、物語を書く才能なんて、一ミリもなかったんだ」
暗い部屋の中で一人、真壁は声を殺して泣いた。
それから一年が過ぎた。
真壁は書くことを完全にやめた。
夜に時間ができたおかげで、目の充血は消え、睡眠不足も解消された。会社でも、目立たない「静かな事務員」として波風立てずに生きていた。
けれど、心の中にはずっと、ぽっかりと黒い穴が空いたままだった。
街を歩いていても、不意に訪れる美しい夕日を見ても、「これをどう言葉にしようか」と考える自分が消えてしまい、世界がモノクロになったように感じていた。
ある冬の日、真壁は職場の倉庫整理をしていた。
埃をかぶった古い箱の中から、一冊の古い文芸誌が出てきた。
それは、彼が学生時代に憧れていた作家のインタビューが載っている雑誌だった。
『小説家とは、誰に頼まれたわけでもないのに、自分の心にある膿を吐き出さずにはいられない病人のことだ』
その言葉を読んだ瞬間、真壁の胸の奥が熱くなった。
「俺は……まだ、病気なのかな」
その夜、彼は一年ぶりに、捨てたはずのパスワードを記憶の底から掘り起こし、自分のページにログインしてみた。
管理画面には、数えきれないほどの通知が溜まっていた。
ほとんどは一年前の誹謗中傷だったが、一通だけ、見慣れない名前からのメッセージが混ざっていた。
名前は「ソラ」。
送り主のソラさんは、真壁がランキングも気にせず、ただ自分の好きな風景だけを詰め込んで書いた、短くて売れないお話のファンだった。
『真壁先生、はじめまして。
私は、重い病気でずっと入院しています。
病室の窓からは、電柱と、四角く切り取られた小さな空しか見えません。
でも、先生の書いた、あのランキングにも載っていない「夕暮れの草原」というお話を読んだとき、私は本当にその場所に立っているような気持ちになれました。
金色の草が波のように揺れる音。
頬をなでる、少し冷たくて湿った風の匂い。
太陽が沈む瞬間にだけ、世界が宝石のように輝くこと。
先生、私はもう、自分の足で歩くことはできません。
でも、先生の言葉があれば、私はどこへでも行けます。
もし、もしもいつか元気になれたら、先生の物語の続きを読んでみたいです。
私の暗い毎日に光をくれて、本当にありがとうございました』
真壁の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
慌てて彼女のプロフィール画面に飛ぶと、そこには彼女の母親からの短い挨拶が載っていた。
ソラさんは、半月前に静かに亡くなったという。
最後の日まで、タブレットを抱きしめて、真壁の物語を何度も読み返していた、と。
「……ごめん。ごめんな、ソラさん」
真壁は、机に突っ伏して泣いた。
自分は、ランキングの数字や、顔の見えない誰かの悪口ばかりを気にして、たった一人のために書くことを忘れていた。
ソラさんは、真壁が「無駄だ」と切り捨てたあの景色の描写を、誰よりも大切に思ってくれていたのだ。
真壁は、震える手でキーボードに指を置いた。
一文字、一文字、記憶を辿るように打ち込んでいく。
今度は、ランキングなんてどうでもいい。
「面白い」と言われなくてもいい。
ただ、ソラさんが見たかったはずの、あの「続き」を書くんだ。
彼は書き始めた。
病院の窓から空を見上げていた少女が、光の翼を手に入れて、燃えるような夕焼けの中を飛んでいく話を。
彼女が感じたかったであろう風の冷たさを。
彼女が憧れたであろう地平線の輝きを。
それは、今の流行りとは正反対の、ゆっくりとした、けれど美しい物語だった。
筆が止まることはなかった。
一年前、あれほど苦しんだ執筆が、今は呼吸をするように自然だった。
「風は、ただ冷たいだけじゃない。北から吹く風は、少しだけ、遠くの森の香りがするんだ」
「夕陽が沈んだ後の、あの数分間。空が深い青とオレンジのグラデーションに溶け合う時間を、ソラさんはきっと好きだったはずだ」
外が白み始めた頃、真壁は「完」の一文字を打ち込んだ。
投稿ボタンを押すとき、ためらいはなかった。
画面には、閲覧数「0」の文字。
けれど、真壁の心は、かつてないほど穏やかだった。
窓の外には、夜が明けて、深い青からオレンジ色に変わりゆく、本物の空が広がっていた。
「ソラさん、届いたかな」
真壁はそうつぶやき、一年ぶりに心からの笑顔を浮かべた。
彼は立ち上がり、仕事へ行くためのスーツに袖を通した。
相変わらず、満員電車に揺られる退屈な毎日が始まる。
けれど、今の真壁には、守るべき約束があった。
彼は、もう孤独な事務員ではない。
たとえ読者がたった一人でも、その人のために言葉を紡ぐ。
彼は再び、小説家としての一歩を踏み出した。
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投稿から一週間が過ぎた。
相変わらず閲覧数は一桁で、ランキングの「ら」の字もかすらない。けれど、真壁の心はかつてないほど凪いでいた。数字のために書いていた頃の、あの焼け付くような焦燥感はもうない。
仕事帰り、いつものように最寄り駅の改札を抜けたとき、スマホが震えた。
公式アプリからの通知。一通のメッセージが届いている。
送り主の名前を見た瞬間、真壁の足が止まった。
『ソラの母です』
心臓が跳ねた。冬の冷たい空気の中、指先が強張る。彼は駅のホームのベンチに座り込み、祈るような心地で画面をタップした。
『真壁先生。突然のメッセージ、お許しください。
昨日、娘の遺品を整理していたところ、彼女のスマートフォンの中に書きかけのメモを見つけました。
それは、先生が先日投稿された「光の翼の少女」への、彼女からの感想でした。
娘は、あのお話が投稿される数日前に旅立ちました。
ですから、物理的にあのお話を読めたはずはありません。
でも、メモにはこうあったのです。
「不思議。今、すごく温かい風が吹いた気がした。
真壁先生が、私のために続きを書いてくれている予感がする。
草原の向こうに、もっと綺麗な場所があるって、教えてくれている気がする。
先生、ありがとう。私はもう、怖くないよ」
日付は、先生が投稿ボタンを押す数時間前でした。
娘は最後に、本当に幸せそうな顔をしていました。
先生の物語は、間違いなく娘に届いていました。
彼女を孤独から救い、空へ連れて行ってくださって、本当にありがとうございました』
画面の文字が、涙で滲んで読めなくなった。
駅のホーム、帰宅を急ぐ人々が真壁の脇を通り過ぎていく。誰も、この冴えない中年男がなぜ泣いているのかなど気に留めない。
真壁は、声を上げずに泣いた。
自分の書いた拙い言葉が、時空も、生死さえも超えて、たった一人の少女の「恐怖」を消し去ったのだ。
一分で読み飛ばされる流行の物語にはできなかったことが、自分の、あの「無駄だ」と蔑んだ描写にはできたのだ。
彼は震える指で、夜空に向けたカメラを起動した。
都会の空は明るすぎて星は見えない。けれど、その先には、ソラさんが自由に飛び回っているであろう、果てしない暗青色の世界が広がっている。
真壁は、空に向かって小さく頷いた。
「……こちらこそ、ありがとう。ソラさん」
彼はスマホをポケットにしまい、立ち上がった。
明日もまた、理不尽な仕事が待っている。
けれど、今の彼には確信があった。
自分の言葉には、誰かの夜を終わらせる力がある。
たとえ世界中の誰が認めなくても、あの草原の風を知っている二人の間には、消えない光が灯っている。
真壁は力強い足取りで、夜の街へと歩き出した。
カバンの中には、新しい物語の構想を記したノートが、誇らしげに収まっていた。
いかがでしたか?ネット小説、なんのためにやるのか、なぜやるのか作者自身が考えた時に思いついた作品です。




