また会う日まで
朝目覚めると、隣にいるはずの人がいなかった。
本人がいないだけでない。
よく部屋を見回すと、その人の私物まで減っていた。
私の部屋は殺風景だったが、
あの人が住み着くようになってからはそんな部屋も大分物が増えていた。
持ち主がいなくなると、すぐ分かってしまう。
「ねえ…!?」
呼んでみても返事はない。
携帯に電話しても繋がらない。
昨日まではいつものように飲み、寄り添い、口付けを交わしていた。
しかし、忽然と姿を消したその相手。
テーブルの上の空の酒瓶まで片付けられて。
「どうして…!!」
不安と悲しみが私を襲った時、携帯が鳴った。
あの人からの指定着信ではなく、一般の着信音。
「はい…」
『あ、俺だけど…』
聞こえて来たのは、聞き慣れた低い声。
「…っ!!今どこに…!!」
泣きそうな声で叫んだ。
不安と安心が入り交じる。
『俺…暫くお前と会わないから』
「どうして…?」
『なほ頼め梅の立ち枝は契りおかぬ』
答えの代わりに告げられたのは和歌だった。
『お前なら、この続き分かるよな?』
「思ひのほかの人も訪ふなり…」
『約束の日、あの場所で待ってる。じゃあな』
そこで一方的に電話は切られてしまった。
――今までと同様私の訪問をあてにしていて下さい
――梅の長く伸びた枝の下には、約束もしていない意外な人も訪れるというそうだから
電話越しの声の余韻がまだ残っていた。
私は、伝えられたばかりの和歌の意味を、何度も頭の中で繰り返す。
それは、いつか自分が好きだと言った歌。
それを、歴史や時代物には興味がないと思っていたあの人が覚えていたのも意外だが、
まさかこのような現実となってしまった事に、大きな悲しみや後悔を覚えた。
「理由くらい…言ってよ…」
うずくまりながら呟く。
部屋の窓から見える梅の枝には、蕾が綻んでいた。
「そういえば…約束の日っていつだっけ…?」
そう考え始めたのは翌日になってからだった。
思えば最近外出したかと言えば、
2人で毎日会社と自宅の間の行き来だけ。
約束らしい約束など、私はした覚えがなかった。
1週間経った。
大分悲しみも落ち着いてきたが、
まだ一向に『約束』が思い出せなかった。
気分転換に、私は2人でよく通った公園の並木道を散歩した。
桜並木から少し外れた小路に、梅の花が桜より一足早く咲いている。
そこが、私のお気に入りの場所。
華やかな表の並木とは対照に、
人気のあまりない小路にひっそりと咲く梅の方が、自分に合っていると思っていた。
ここを紹介した時、花見の穴場だな、なんてあの人は言っていたっけな。
あの時は暦では春なのに、まだ寒かった気温は、梅と桜の開花を遅らせていた。
目を閉じて、その時の会話を思い出す。
――桜の咲く頃になったら、ここで花見をしよう
――いつ頃?
――そうだな…来年の今日に、咲いてるといいな
「…あ」
やっと思い出した約束。
それは約束らしい約束ではなく、
何気ない会話から生まれたものだった。
あの人は私を試していたのだろうか。
「分かりづらいよ…もう…」
思い出せた嬉しさなのか、なかなか思い出せなかった悔しさなのか、
どちらともいえない涙が視界を潤ませた。
それから数週間後、約束の日がやってきた。
確かあの日は夕日が綺麗だったと、鮮明に思い出した私は、15時ごろに家を出る。
歩く速度は、期待と不安を顕著に表していた。
公園に着いて、小路に入ると、すっかり枝のみとなってしまった梅の木が見えた。
それと、懐かしい人影。
「遅せぇよ、何時間待たせんだよ」
待ちわびた声が自分を罵る。
「まったく、覚えてないのかと思った」
彼が言葉を発するたびに、
せき止められていた涙が、私の顔をとめどなく流れた。
「バカっ…!!どこ行ってたの…!!」
「ちょっと修業に」
「そんな理由いらない!!」
彼の曖昧な答えに、いろいろと一人で考え込んで、
一人で悲しんでいた自分が悔しくなって、怒りが先に飛び出す。
不意に、彼のたくましい掌が、私の顔を包み、
涙を拭われて、キスをされた。
そのまま2人寄り添って、満開の桜を見上げた。
梅の枝は去年よりも長く、長く伸びていた。
end.