博士の記憶術
とある大学の研究室。記憶の仕組みを専門とする博士が、ゼミの学生たちに語っていた。
「人間の脳の優秀な点は、“忘れることができる”ということだ。余計な情報を削除し、リソースを効率的に確保する。たとえば──何日か前に友人と話した内容は覚えていても、そのとき相手が着ていた服の色までは覚えていないだろう?」
学生たちが頷くのを見て、博士は続ける。
「それでいて、必要なら思い出せる。パソコンにおける“圧縮”だな。しかも“思い出すたびに”、その情報が重要だと判断され、記憶は強化される。これは、実に興味深い仕組みだ」
学生の一人が手を挙げる。
「つまり、“忘れること”が、逆に“覚えること”につながるんですか?」
「その通り。“忘却”は敵ではない、むしろ味方なのだよ」
博士は一冊のノートを取り出し、学生に問いかける。
「最近、何か忘れたいような“嫌なこと”はあったかね?」
不意を突かれた学生は戸惑いながら答える。
「えっと……バイト先で店長に怒られたことですかね。発注ミスをしてしまって……」
博士は頷き、にこやかに言った。
「では、記憶の“優先度”を下げる訓練をしよう。君は怒られたとき、店長がどんな靴を履いていたか覚えているかね?」
「え? ええと……灰色のスニーカー、だったと思います」
「腕時計は? ベルトの色は?」
学生は記憶をたどるように、少しずつ答えていく。
博士は嬉しそうに頷いた。
「いいぞ。こうして“嫌な出来事のどうでもいい部分”を繰り返し思い出すことで、脳は『そちらが重要だ』と勘違いする。“本当に嫌だった部分”の記憶は、やがて霞んでいくのだよ」
「……そんなので、本当に?」
「試してみるといい。毎回、店長の靴を思い出すのだ。きっと、君の脳は“靴”にばかり注目するようになるだろう」
学生が苦笑する中、博士はさらに語る。
「これは“覚える”技術にも応用できる。たとえば数学の公式を覚えたあと、あえて先ほどの技術を使い、忘れる。その後、自分の力で思い出す。これで“これは大事な情報だ”と脳に印象づけられる。“忘れて、思い出す”──これこそが、記憶強化の鍵だ」
「すごい……来週の試験で実践してみます!」
学生が感心して頷き、席に戻っていく。
しばらく静かな時間が流れ、博士は実験ノートに記録をつけていた。
すると、先ほどの学生がふと手を止め、首をかしげた。
「そういえば博士、結婚してませんでしたっけ? この前、繁華街で若い女性と歩いてるのを見かけた気がして……」
博士の手が止まる。
「……ほう、そうか。それは興味深い。では訊こう。その時、私はどんな靴を履いていたかな?」
学生は言葉に詰まり、額にしわを寄せる。
「……ええと……黒の革靴、だったような……?」