#3
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「いらっしゃいませ」
休憩が終わると、聡美はさっと髪を束ねてレジに入った。聡美はここのコンビニで夕方六時から十時まで働いている。
どことなく上流志向の苑子たちにばれたら、なんて言われるだろうか。でも独りで生きていくためには手段なんて構っていられない。
家族がいても、家があっても聡美は独り、いつも独りだ。
高校を卒業したらフルタイムで働けるのに。あと一年、そうしたら家を出よう。聡美の決意は固かったが、どこかそれは現実味を帯びない絵空事のように思えてならなかった。
あたしを拒絶するくせに、あたしをとらえて離さない家族たち。本当にあの人たちから逃れて自由になれるんだろうか。心の中に広がったいつもの不安を、頭を振って必死に追い出す。
夕方の混雑が一段落し、客足がいっとき途絶えた。聡美は何の気なしにコンビニの大きなガラスドアに目をやった。
がちゃん。何かがドアに当たる。金属の音がした。
一緒に組んでいるバイトの大学生が、気配を察してドアの方へと向かう。誰か大きな荷物でも持ち込もうとしているのか、それともまさかコンビニ強盗でも来たというのか。
ほんの少し緊張が走る。いつもと違うものには誰もが敏感だ。
大学生がドアを大きく開ける。手を差し出している。何をしているのだろう。
レジのカウンターから身を乗り出した聡美は、次の瞬間固まってしまった。
蓮だ。
でも車椅子がない。
そこには蓮が立っていた。
右足には太腿のところと膝、そしてくるぶしにぐるりと回した銀色の金具が見える。それを革と金属のベルトでつないでいる。
足元には普段履いている靴を囲むかのような、肌色のカバー。プラスチック製のそれは、さっきの金具とボルトで留められている。左足には、やや短めの同じような装具。
両手に金属製のクラッチを持ち、腕の力で地面をしっかりととらえている。かなりの力が必要なのだろう、立っているだけなのに息が切れている。
黒の上下のトレーニングジャージは擦れてあちこち汚れている。ひじにも膝にも分厚いプロテクター、頭に革製のヘッドギア。
あんなにおしゃれに気を遣っていた、いつもの蓮じゃない。
だけど、両足で立っている蓮は、そんな自分の様相が誇らしげで、自信ありげで、とてもかっこよかった。
「どう、したの?」
入り口までかけより、やっとのことで聡美が声をかける。蓮はにっこりと笑った。
「死に物狂いでリハビリした。どうしても一度立ってみたくて、おまえに見せたくて。おかげで全身あざだらけだ。先生は無茶だって言ったんだけど、おれ頑張ってみた」
バイト仲間はそっと控え室へと戻っていった。それに聡美は頭を下げる。
「どうして急に、そんなこと」
「一度でいい、ステージに立ちたい。歌ってみたい。聡美に聴かせたいと思ったんだ。軽音部の連中にはもう頼んである。来週の月例ライブに出さしてもらえることになった。だからおれ」
蓮は息を切らせながら、クラッチにすがりついた。笑顔は途切れない。
「もう歩けるの?」
「まさか。歩道から店に入るのがやっと。前の道路まで車で来た。ちょっとかっこ悪いけどな」
聡美が道路の方に視線を送る。白いワゴン。その前に心配そうな顔の女性、蓮のお母さんなんだろうか。聡美はもう一度蓮の方を向いた。
「かっこ悪いわけない」
胸が苦しくてそれ以上言えなかった。精いっぱい涙をこらえる。
ほんの少し背伸びして、蓮の髪にそっと手をやる。本当はこんなに背が高いんだ。聡美は驚いた。
「ステージ、見に来てくれる?」
聡美は何度も何度もうなずいた。
聡美は初めて蓮の学校に足を踏み入れた。紺のブレザーにグレーのズボン、女の子はチェックのスカート。制服達がまぶしい。
聡美は自分の着ているセーラーカラーの裾を引っ張り直した。夕べはシャワーも浴びられた。髪もきちんととかしてきた。バイト代で買ったコンビニ売りのコロン。今日は大丈夫、自信を持っていい。
中庭の端に、一段高くなっている急ごしらえのステージがあった。PAの機材があちこちに並ぶ。前のバンドが終わったばかりのようで、何人もの生徒達がステージの上をうろうろしていた。
中央にイスが運び込まれる。マイクの位置が少し下げられる。もう一本のマイクの前には長身の男の子が立って、チェックをしている。
聡美は、まるで自分がステージに上がるかのようにどきどきしてきた。手を胸の前で組む。
楽器のセッティングが終わり、男の子が手を上げる。蓮がいない。このバンドのはずなのに。でも曲は無情にも始まってしまった。
きれいな声の明るい歌。でも、蓮の方がずっとうまい。聡美は辺りを見回す。
ステージの脇に見慣れた黒いスポーツタイプの車椅子が見えた。周りと同じ紺のブレザー、ズボンにはあの時に付けていた装具。蓮だ。
蓮がゆっくりと立ち上がる。
時が止まってしまったかのようなスローモーションの動きに、聡美は目が離せなくなっていた。曲は進む、もうエンディングにさしかかる。
蓮は他の人から手を添えてもらいながら、ステージのほんのわずかの段差を自分の足で乗り越えた。一歩ずつ確かめながら、センターに向かって歩き出す。
聡美は祈った。
イスの所まで来ると、蓮はほうっと息を吐いて腰掛けた。右手を伸ばしてマイクを自分の口元にまで近づける。そして歌い終わった隣のボーカリストに笑いかける。
プロテクターにヘッドギア、たくさんの金属の装具で覆われた両足、おおよそ制服には似合わない重装備。それでも蓮は笑顔だった。
次の曲は特別ゲストの彼が歌います、こいつおれより歌うまいから、やなんだよね。男の子が苦笑いしながら蓮を紹介する。れんー!客席から声が飛ぶ。
蓮はそれに手を振って答えてから、ドラムスの方をふり返った。カウントが出る。
蓮が歌い出した。初めて会ったあの時聴いたスローバラードだ。
優しくて甘くて、心にしみていく歌声。いつしか周囲からざわめきが消え、蓮の歌う声だけが響いていった。
聡美は耐えきれずにうつむいた。涙が止まらなかった。それでも必死に顔をあげようとした。蓮のステージを見ると約束したのだから。
蓮が歌っている。
独りぼっちのカラオケボックスじゃない。二人きりの閉じこめられた空間でもない。
ここには大勢の人たちがいて、みんな蓮を見つめている。蓮の歌を聴いている。
蓮は歩き出したんだ。確実にその一歩を。自分の足で。
歌い終わり、ステージを降りた蓮に、聡美は駆け寄っていった。黙って自分の左手を差し出す。そこにはあの日、蓮がつけてくれたブレスレットが光っていた。
蓮はいつものように車椅子に座り、聡美を見上げた。同じように手を伸ばし、聡美の腕に重ねる。それに勇気づけられるように、聡美は言った。
「卒業したら、家を出る。必ず出る。あたしはいつまでも傷つけられる存在のままで、いたくない」
蓮が頷く。瞳が温かい。
「あたしがあたしでいられるところが、どこかにあるはず。そうでしょ、蓮」
独りから始めよう。孤独とは違う。たった独りで自分の足で歩き始めよう。
そしてその先に、いつかそこに、あなたが待っていてくれるのなら。
蓮がもう一度立ち上がる。両腕に力を込めて、息を切らせて。
聡美は蓮の背中に腕を回すと、胸に顔を押しあて、彼を包み込んだ。
<了>
北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved