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#2

#2


彼は、蓮と名乗った。


それから毎週、聡美はここで蓮に会った。しょっちゅう早退するわけにもいかないから、集合時刻は三時半にした。

それだって六限が終わるとぎりぎりだ。息を切らせて店に着くと、いつも蓮は入り口で頬杖をつきながら待っていた。

学校には行ってないの?聡美の問いかけに、火曜日はリハビリで必ず欠席、出席日数足りねえかも、と笑って言う。


「そのけが、バイクでこけたの?」


「違う。雨でスリップして、母さんの運転してた軽が横転した。おれは車の外に放り出されて」


お母さんは?思わず聡美がそう訊く。


「かすり傷。おれは母さんが無事でうれしかったのに、本当にうれしかったのに、事故からずっと、おれを見て泣くんだ」


「優しいお母さんなんだね」


きっと想像もできないくらい辛い思いはたくさんしたのだろう、でもどこかうらやましい。言葉には出せないそんな思い。聡美はその感情を飲み込んだ。


「家におれがいると、母さんは気が休まんないと思う」


「それでここに来るの?」


「おまえは?」


聡美はちょっと黙ってから、言葉を選んで話し出した。


学校の誰にも言えないことを、蓮には言える。お互いよく知らないからこそ、本音が言えるのかも知れない。



幼い頃から他の兄弟と全く違う扱いをされてきたこと、母親が自分に対してだけ恐ろしい目で見ること、何一つ世話をしてもらえずに、家族の中で独りぼっちでいるということ。ぽつりぽつりとそんな話をした。


そんなの聡美のせいじゃない、蓮の声は優しかった。


「ううん、あたしにかわい気がないから。きっとそう。どんくさくて醜くて、何となく気にいらないんだと思う」


母親が狂うのは、あたしを見る時だけ。ならきっとあたしに問題があるんだろう。聡美は涙をこらえてそう言った。


あたしが妹みたいにかわいかったら、兄みたいに勉強ができたら、とぎれとぎれにつぶやく。


「聡美は、そのままでいい」


わざと素っ気ない、蓮の言葉。二人は黙った。

メインボーカルの声をなくしたメロディーだけが、部屋を満たしていく。

ここは誰も来ないから、誰も二人を責めたりしない。聡美は深く息を吸い込んだ。





何度目の火曜日だっただろう。その日は雨で、それでも二人はこの部屋に来た。

車椅子に大きなレインコートを掛け、タイヤを雨で濡らしながら。いつもならこんな無茶しない、蓮は笑ってそう言った。


「これ」


蓮が細長い箱を取り出した。ラッピングにピンクのリボン、それを引っ張って中身を開けてみる。銀色に光るネックレスだった。


「いらない」


聡美は素っ気なく突き返した。顔が思いがけずこわばる。それを蓮はどう勘違いしたのか、あわててこう付け加えた。


「別に特に意味があるわけじゃないよ。あのな、たまたま人にもらったから、それで」


そんなことじゃない。特別な意味があると思ったわけじゃない。聡美にとって、ネックレスは悲しみの象徴。


「あたし、つけらんないの」


「なんで?金属アレルギーかなんか?」


「鎖骨のところに大きな傷跡があって、そこに当たると痛いんだ。だから襟ぐりの開いた服も着られないし、タンクトップもキャミソールも、全部ダメ」


だからいつも、ハイネックの格好悪いTシャツ。制服の下からはみ出していてもどうしようもない。

口さがないクラスの連中が何か言ってるのも知ってる。一番酷い時は下着もつけられなかった。誘ってんじゃない?そう陰口をたたかれたこともある。

この傷は一生残る。痛くて痛くて、女の子らしい服装が何も出来ないのが悔しくて。


黙ってしまった聡美に、蓮はそっとさっきのネックレスを差し出した。聡美の左腕を取ると、手首にそれを二重にして巻き付ける。苦心して留め具をはめると笑顔を見せた。


銀の鎖の上に、蓮が大きな手のひらを乗せる。聡美は顔を上げて彼を見た。唇をきゅっと結び、口角を無理に上げる。


笑いたかった。でもそれは難しいことで、聡美の両目に涙がたまる。


あの時の痛みと苦しさと、幼かった自分ではどうしようもできないという無力感がデジャビュのように襲ってきた。


「部屋の中で転んだの」


「ドジ」


蓮が微笑む。不思議といやではなかった。逆にあったかくて、何でも話せそうだった。誰にも言ってなかった、言ってはいけなかった、あの時の記憶。


「母親がね、突き飛ばしたんだ。小さかったあたしはふっとばされて床に肩をぶつけて」


骨が折れた。聡美はそのまま放っておかれた。夜、父親が帰ってきて救急車を呼ぶまでは。痛みで泣き叫んで、その声も枯れて、涙が水たまりを作るまで泣いて。

すぐに手当をしなかった鎖骨はねじ曲がり、普通の処置では対処できなくなっていた。

手術をしてボルトを埋め込んで、皮膚には大きな傷跡が残った。

他の人なら何でもない傷かも知れない。でも聡美は敏感な体質らしく、布が触れるだけで痛みが走った。

もう何年もたつのに。きっとおそらくこのまま一生。


家なんか出ろよ、蓮がつぶやく。まだそんな母親と一緒にいるの?と。


「だって家にいれば、ご飯は食べられる。夜寝るところもある」


たとえそれが、家族の目を盗んで独りで食料をあさるのだとしても。冷え切った布団にそっと身体を横たえるだけだとしても。


「おれが普通の男だったら、おまえをそっから引っ張り出してやるのに。一緒に住もうって、言ってやれるのに」


蓮はそう言うとグラスを揺らした。溶けかけた氷が音を立てる。

誰も歌わないカラオケボックスの小部屋は、まるで地下室の無音スタジオのようだった。自分たちの他はお客もいない。いろんなものから取り残されて、今はただ二人。


「初めて、悔しい。脊損じゃなかったらって。事故からずっと、思ったこともなかったのに。おれに聡美を救うだけの力のないのが悔しい」


「そんなこと、ないよ。蓮といるとほっとする」


救われる。蓮の言葉一つ一つが、心の中にしみていく。手のひらの温かさが聡美の心を溶かしていく。家でのことも学校でのことも、何もかも忘れられる。


「おれはできないから、男として愛してやることができないから、これから先もずっと独りで生きてかなきゃならない」


「するだけが愛することじゃない」


「聡美に触れたい、手をつなぎたい、肩を抱きたい、頬を寄せたい、髪を触りたい、それから…」


「それだけでいい。それだけで十分。その先なんていらない。そばにいられるだけでいい」


蓮が両腕に力を入れて身体の向きを変える。蓮の顔が目の前にある。

蓮がそっと手を伸ばし、聡美の頬を包み込む。そのまま引き寄せる。

唇を触れ合わせるだけの、やさしいキス。


ハイネックの端をそっとずらし、蓮は首筋にもキスをする。聡美の身体がびくりと震えた。怖い。まだ傷口には遠いのに、痛みが走る。蓮はその肩を抱きかかえ、自分の胸に聡美の顔を押しつけた。


「痛い?」


聡美はかぶりを振る。本当は痛くて怖くて、傷口が疼くのだけれど、今はこうしていたかった。蓮の体温が伝わってくる。鼓動も聞こえる。聡美はそっと目を閉じた。


これ以上先には進めない二人に、雨音が優しく響いていた。



(つづく)

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