#1
#1
鏡に映った自分の顔、そこから視線を下へずらしていく。
首、肩、首と肩をつなぐ……鎖骨。聡美はそっと肩に手をやった。怖くて痛くて、とても直に傷口へはさわれない。
本当なら、水をはじく若々しい肌が光るはずの右のデコルテに、大きくついた幾筋もの醜い縫い目。
聡美は寒さだけではなく、何かを感じて体を震わせた。
水だけのシャワーは泡が立ちにくい。もうお湯なんてとっくに止められている。立たない泡を無理矢理かきむしるように身体にこすりつけていく。
コンビニのバイトから帰ってきた深夜、聡美はなるべく音を立てないように身体を洗った。
真夏でなければ水は冷たい。それでも入らないよりましだった。隠しておいたタオルで水気を取る。
聡美が使えるドライヤーはこの家にはない。そうだ、今度のバイト代が入ったら買おう。家族が寝静まる中、そっと自分の部屋に戻る。
ドライヤーを買うのがいいか、それとも自分専用のシャンプーとリンスを買うのがいいか。聡美はしばらく迷った。でもきっと、バイト代は食費に消える。
これ以上家族に内緒でバイトを増やすのは難しい。もっとお金があったら、ここを出て独りで暮らせるのに。
独りで。なんて甘美な響き。
家庭に無関心な父親も、冷たく当たる兄妹も、聡美への一切の世話を放棄して狂気の瞳で見つめるだけの母親もいない、たった独り。
十七歳なんてもういやだ。早く年を取りたい。大人になりたい。
聡美は、ここ数年一度も干されていない冷たい布団の中で、身体を丸めてそう願った。
「ねえ、やっぱにおうよね」
「かんべんして欲しいよ、清潔は基本だよね。ってかマナー?」
自分では精一杯洗ったつもりだった。でも生乾きの髪ではやはりダメだったのか。聡美は後ろの席から聞こえよがしにつぶやく苑子たちの声に、身をすくめた。
特待生授業料免除に引かれて入った私立高校は、華やかな巻き髪やネイルやファンデーションの香りが似合う女の子ばかりだった。
着替えもろくにない、シャワーも毎日浴びられない聡美のような人間は、誰に何を言われるわけではないが浮いていた。
そう、誰も直接は言わない。そのくらいの分別はあるらしい。だが聡美は独りだった。独りで生きていくのを切望しながら、実際に孤立してしまうのは、いくら家で孤独には慣れているはずの聡美でも、ひどく堪えた。
がたん。我慢できずに席を立つ。
「すいません、具合が悪いので早退します」
あっけにとられている教師を残して、聡美は足早に教室を出ていく。行く当てはない。バイトが始まるのは夕方の六時。どこで時間をつぶそうか。聡美はため息をついた。
「ご利用時間は。おひとりですか」
そんな店員の問いかけに、指を二本立てて曖昧にうなずく。二時間と意思表示したつもりだけど、伝わったのだろうか。
昼下がりのカラオケボックスは人もまばらで、制服姿の聡美はちょっとだけ後ろめたい思いにかられた。
こんな昼間に独りでいられるところなんて限られている。独りでカラオケをすることを、ヒトカラって言うんだって。ネットの掲示板で知った知識。
行くところがなくなると、聡美はよくカラオケに行った。歌いたい訳じゃない。独りでいられるところなら、どこだっていい。
店員は独りの客なんか慣れているようで、伏し目がちに伝表に書き込むと、ドリンクバーのでかいコップを聡美に差し出した。
ヒトカラはおんなじ店に行きにくい。通りの向こうも、駅の反対側ももう行ってしまった。公園の横のここは、初めて入る店だった。
「ちっくしょうふざけんなよ。いいかげんバリアフリーにしろよ」
向かい側で、車椅子に乗った男の子がドアを叩いている。入り口のほんのちょっとの段差が、どうしても上がれないようだった。
「おさえててやろうか」
お節介かと思った。店員を呼べよ、とも思った。でも何だか放っておけずに聡美は自分の部屋に入る前に、彼のところへ寄っていった。
黒くて車輪が少し傾斜している車椅子は、前にテレビで見た身障者バスケの人たちが使っている物に似ていた。ちょっとかっこいい。
男の子が顔を上げて聡美を見る。ショートレイヤーを金髪にして、右耳には三個のスタッドピアス、左側にもフープを一つ。
細面の輪郭に黒く光る瞳。強い意志を持ったその目が、聡美をじっと見つめた。
身体にぴったりとした黒いシャツに細身のデニム、膝のところは大きな破れ目。こげ茶のウエスタンブーツが、車椅子の足置き場に行儀よくそろえて置かれている。
パンクロックのボーカル、バイク乗り、どっちだろう。
「すっごい根性、そこまでして歌いたいわけ?けが治るまで我慢できないんだ」
思わず聡美の口からそんな言葉が出てしまった。治療中にも来るぐらいだから、よっぽどカラオケが好きに違いない。そう思ったのだ。
だが、彼は口元をゆがめると、薄く笑ってこう言った。
「治らねえもん、一生」
「えっ?」
聡美は驚いて彼を見返した。何と言ってフォローしたらいいのだろう。心の中に動揺が広がる。しかし彼はそんな聡美の言葉にも傷ついている様子もなく、明るい声を出した。
「背骨折ってるからほとんど足動かないの。脊損っつうんだけど知ってる?」
「……知らない。ごめん、変なこと言って」
聡美は素直に頭を下げる。彼はけらけらと乾いた笑い声を立てた。
「そっちもさ、火曜日の一時に制服でヒトカラ?もろサボりバレまくり。
けっこうキテんじゃん。どう?一緒に歌わない?」
「絶対にやだ」
彼の軽いノリに、反射的にそう返す。あとは無言でドアを開けてやると、聡美は後ろも見ずに個室へと戻っていった。関わり合いを持ちたくない。面倒はごめんだ。
でも、独りで歌っていると嫌でも向かいの部屋が目に入る。個室の小さな窓からでも、彼が手慣れた様子で次々と曲を入れ、真剣な様子で歌っているのが伺える。向こうはこっちのことなんか、気にもしていないようだった。
三十分も経っただろうか。聡美は二曲しか歌えなかった。曲の合間に流れる広告が耳につく。どうせ歌が目的じゃない。うまく時間がつぶれればいい。
気づくと、向かいの彼がドアを開けようとしていた。手にはグラス。ドリンクバーを取りに行くつもりだろうか、無理せず店員を呼べばいいのに。
案の定、独りでは車椅子がなかなか出せないでいる。
やっぱり放っておけない。聡美はため息をついて立ち上がった。
「サンキュ。悪いね」
彼が人なつこい笑顔を見せる。店員呼びなよ、との聡美の言葉に、いくら呼んでもちっとも来ねえし、と言い返してきた。
「おさえててやるよ。っていうか取ってきてやる。何飲みたいの?」
「じゃあ、ウーロン茶。氷三つ入れてね」
取りに行く聡美の背中に、ストローもね、と呼びかける。ちょっと馴れ馴れしいんじゃない?聡美はほんの少し笑った。
彼の部屋に戻ると、だいぶ前にはやったスローバラードを歌っているところだった。よく響く甘い声。音程も正確で高い声もしっかり出ている。何より、ニュアンスの付け方がうまい。
グラスを置いて帰ろうと思っていたのに、気づくと最後まで聴き入ってしまった。何だかしゃくにさわる。歌い終わった彼はまるで本物のボーカリストのように、そっとマイクを置いた。
「上手だね、バンドでもやってるの?」
まさか、彼が目を伏せる。ちょっとだけ表情がかげる。でも顔を上げた時にはもう、さっきの笑顔に戻っていた。
「車椅子なんかでステージ出てったら、客どん引きじゃね?」
わざとなのか、あっけらかんとした声。
「何で?ドラムやるのでもダンスするわけでもないでしょ。歌うだけなら関係ないじゃん」
心からそう思って言ったのに、彼は寂しそうに笑うばかりだった。黙ってリモコンをいじっている。
聡美は彼からそれを取り上げると、勝手に数字を打ち込んだ。さっきの歌手の他の歌。彼が驚いて聡美を見る。
「もっと聴きたい。歌ってよ」
彼はその言葉に、にっこり笑うとマイクを手に取った。
(つづく)