呪いは思案の外
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一人の女学生が階段から突き落とされた、という事件はまたたく間に学園へと広がっていった。
幸い、五段ほどの高さであり、被害者は驚いただけで大した怪我は負っていない。
ただ、大勢いたはずの誰も「犯人」を見ておらず、けれども彼女が突き落とされたかのように落ちていく現象だけは目撃されている。
不可解で、不気味で。
そして、そこにいたもの全員「わきまえなさいね」という少女のようなもっと幼いような、きゃらきゃらした笑い声とともにその呟きを耳にしていた。
ギスギスとした空気が蔓延していた学園に、さらに不穏な何かがもたされた。
「昨日……」
突然現れた貴公子前とした男、アレックスが一言口にした後、押し黙る。
彼は姿形から想像する通り、最も高貴な出自を持つこの国の王子の一人だ。
婚約者である少女が、彼の見知らぬ少女と茶器を挟んで会話しているところへ割り込んだ形だ。
老舗のカフェテラスで、彼女たちは外に誂えてあるテーブルにて会話を楽しみながら茶を嗜んでいた。
おっとりと、婚約者である少女、メリアドールが口を開く。
「殿下、どうなさいましたの?」
責めるような口調ではなく、ただ常ではない彼の様子を問う。
「いや、ただ、昨日は」
そこまで言いつのり、再び口を閉じる。
学園を出るころには感じていた焦燥感、といったものがついと消えている。
あれほど焦って、婚約者たる彼女に問いただしたい何かがあったはずなのに、その疑問すら忘れ去っている。
さすがに、自分自身の行動に疑問を覚えるほどに。
「学園におりましたが?」
おっとりと、メリアドールが答えを口にする。
ここでいう学園とは、王子の通うそれとは異なる学園のことを指す。
この国では女性は基本的には女子専門の学園へと通う。高位の家ならばなおさらのこと、そこへ通い、将来他家へと嫁いだときに必要な知識を学び、実践にて派閥を運営する能力を磨く。
王子の妃となる少女もまた、そこで己が束ねていくであろう派閥を形成し、きちんと統制をとっている。
例外となるのは、女性自身が当主となる場合だ。
当然、領地を持つのならば領地経営を、そしてやはりそれなりの付き合いを形成するために、王子が今通っている貴族学園へと入学するのが多い。その場合、いわゆる奥向きに関するものは別途先代夫人などに習うのが普通だ。
それゆえに、その貴族学園へと通う女性は、一般的にいって男性陣などよりもよほど忙しい。
継ぐ立場にないものたちは、そこで勉学にはげみ、将来はどこかの領地の官僚や王家などに出仕することを望む。
もちろん、そのものたちとて暇な時間はどこにもない。
学園に通う、というのはそういう意味をもつ。
「ああ、そう。うん、そうだよな」
どこか歯切れがわるそうな物言いで、うなずく。
「何かありまして?」
それは、常ならざる彼の態度のことを指すのか、それとも問いただしたかった何かについてなのか。
王子は答えられず、黙りこくる。
自分の通う学園の一人がわずかな段差ではあるが、階段から落ちた。
目撃者はいない。
だが、目の前にいる彼女は何も関係がないと、「今」ならば理解している。
どうして、自分自身があれほど必死に彼女を探し、何かを問いただそうとしていたのか。
「いや、何もない」
早く響く心臓の音が聞こえないように、気持ちを落ち着かせる。
「最近、お疲れなのではありませんか?」
時折、このようなよくわからない様相を呈す婚約者を慮る。
政略とはいえ、彼と彼女は時を重ねた上での信頼できる関係を築いている。
「いや、すまない。ちょっと勘違いしたみたいだ」
王子は、自分の中のよくわからない部分をごまかすように、婚約者の隣に座っている少女に視線をずらす。
「兄の、婚約者ですの。紹介する機会を設けようと思っておりましたが」
にこやかに、婚約者の口が弧を描く。
こちらを少しだけ責めるように。
多忙だと、そう言い訳をして彼女と会う時間を潰していったのは自分自身だ。そのうしろめたさから、彼女の視線から再び目線を外す。
「ああ、悪かった。また改めて紹介してもらうよ」
その場では簡単な自己紹介だけを交わし、王子は友人たちと一緒にその場を立ち去って行った。
学園で再び悲鳴が響く。
前回と同じ被害者だと思われる女性の声に、いつもは比較的無関心な学園生たちをも野次馬に変える。
やはり、同じ少女が、今度はずぶ濡れになった状態で泣きわめいている。
いたずらか、事故か。
だが、彼女の立っている場所が不可解だ。
学び舎の前にある芝生と芝生の真ん中にある通り道、周囲には水を出すものが一切ないところにて彼女はずぶ濡れになって立っているのだ。
皆一様に空を見上げ、わずかな白い雲しか存在しないそれを確認し、再び彼女へと目を移す。
前後左右にも噴水はおろか、水と関係しそうな花畑や畑すら存在していない。
けれど、彼女は濡れている。
彼女の自作自演ではない証拠に、分厚い教科書を何冊も抱え、その手には余計なものを持つ余裕などはない。
また、不思議な声が皆にも聞こえるように浸食していく。
笑っているような、怒っているような。
けれども、確実に女性だとわかる声音。
「まだいるのぉ?」
少しだけ間延びして、けれどもどこか責めるような口調が聞こえる。
そしてふと、不可解な現象に遭遇した彼女が、やたらと男子学生と親しいと評判の少女だということに全員が気が付いた。
この学園に通う女子学生はとても忙しく、わき目もふらずに勉学に励む。そして派閥づくりや、すでにできたそれらの中での立ち位置を学ぶ。高級官僚になりたいという一部の例外はあるが、ほんのわずかな女子学生らは皆勤勉で有り、優秀だ。
だが、彼女はどこか不真面目な印象を周囲に与えている。
それは、学園の中で学問でも、将来の人間関係でもないことばかりに力を注いでいるようにみられているからだ。
彼女は、当主となる予定ではないし、将来役人になりたいわけでもないことは有名だ。
そもそも、そのような立ち位置の人間が、この学園にもぐりこんだことが不思議なのだと、ここにきてようやく周囲が気が付き始めた。
今までは、なんとなく毛色が変わった人間がいるな、けれども自分たちに悪い影響はないし、と、無意識に見逃してきたのかもしれない。
そして、彼女の交友範囲の中に、とりあえずこの学園内で一番地位の高い王子がいたことも、無意識化に影響を与えていたのだろう。
「……」
恒例の交流会、王城での茶会にて、王子とその婚約者が黙ったまま茶を飲んでいる。
お互い物音の一つも立てずに相対しているさまは、優雅ではある。
「殿下、何か?」
不敬ではあるが、メリアドールが先に口を開く。
学園に入ったころより、少しだけよそよそしい態度はあったものの、これほどあからさまに変だったことはない。
思春期のあれこれ、や、彼女には詳細は伝わらない交流関係からくるものだろう、と鷹揚に構えていたのだ。
「いや」
僅かに首を左右にふり、何もない、と婚約者に伝える。
「その、あなたは、こちらの学園には詳しくはないんだよね?」
遠巻きに、アレックスが口にする。
うっすらと聞きたいことの端が分かった彼女は、茶器を置く。
「それは、学問の内容についてですか?それとも交流関係についてでしょうか?」
おっとりと、少し煙に巻くような返答をする。
わかっていて、彼女は王子に問いかける。
「それとも、学園の噂についてでしょうか?」
交流関係について責められる、と思っていた王子は、予想していなかった問いにうろたえる。
今、確かに学園の中では噂でもちきりだ。
二度ほど不可解な目にあった少女は、結局原因がわからないままだ。だが、わからないままなのは不安な周囲は、彼女に因果があったのだと決めつけて噂話をまきちらしている。
つまり、何かの天罰のようなものに当たっているのだと。
「昔、あちこちの殿方と積極的に交流をもつ女性がいらしたそうですの」
直截ではなく、あくまでやんわりと、あまり褒められたことではないことだと指摘する。
「どういうわけか、いくつかの婚姻予定が壊れ、そしてそちらの学園はほぼ男子限定になった、というのはもちろんご存じでして?」
もちろん、随分と前の話ではあるが、アレックスだとて聞いたことはある。いや、むしろ積極的に陛下や兄王子たちから忠告されていたことを思い出す。
何をそんなに警戒しているのか、と、鼻で笑った記憶すらある。
「それから、また似たような状況が起こると、何かがその原因となった「女性」に対して、かわいいいたずらをするそうでしてよ。こちらは兄から聞いたことなので、ご存じないかもしれませんが」
王子は、押し黙る。
かわいい、かどうかはともかくとして、今起きている現象は、確かにいたずらの範囲内だと言えなくもない。
「三代ほど前にもあったそうです。母の実家が関係しておりまして、まあ、被害者側ではあるのですが」
王子の知らない情報がまろびでる。
彼女の家の家格はもちろん高い。そしてもちろん、その家に嫁いだメリアドールの母の家も高位貴族である。
年の関係がなければ、兄王子とも釣り合いが取れるほどだ。
そんな彼女が後ろ盾になっている自分は、随分恵まれているのだと常日頃言い聞かせられている。
おそらく、王家に縁の深い跡取りのない家に、自分と二人で送り込まれることになるのだろうと。
「それは、跡取りが変更になったことと、関係が?」
彼女の家のこともしっかりと学んでいる。
この国では男児優先で、なおかつ長子相続がほとんどであり、それから外れるにはそれ相応の理由がいる。
メリアドールの母方の実家では、三代前に突然後継ぎである弟長男が分家へと出され、姉が家督を継いだ、という不可思議な相続がなされたことがあった。なにがしか内向きの問題があれば、そういうことがさほど珍しくない、とはいえ女当主となると、その当時では珍しいはずだ。
アレックスの記憶にもひっかかるほど、それは普通の出来事ではない。
「はい。さる高貴な身分の方から婚約を破棄され、仕方がなく後を継いだそうで、それなりのお家ですと、もうほとんど婚約は決まっておりますでしょう?婿でしたら、まあ……」
今この段階でも、メリアドールの輿入れが取り消されれば、かなりな混乱が予想されるだろう。
この国ではもはや彼女に釣り合う家の婚姻可能な男性は残されてはおらず、だが、確かにどこか高位の家の次男三男なら婚姻が可能だろう。今回の場合は、兄が継ぎ、そしてメリアドールは適当な分家か何かを夫婦で継ぐ形となるはずだ。
「母の祖母はとても優秀な方だったようで、むしろ大叔父は喜んで分家を継いで研究の道へ進んだそうです」
今に置き換え、その混乱ぶりに眩暈がするようだ。
無意識に頭を振り、ためいきをつく。
たとえ、それが妙な具合に良い方向へとはまったとしても、我が身に振り替えれば、と不安となる。その当時のさる高貴な方が誰かも、その末路をも見当がつき、ますます不安がせりあがる。
大人になるまでの猶予期間と言えど、羽目を外しすぎるな、と。
少し残念なものを見るような目で見つめられ、思い当る節しかない王子はさらに黙り込む。
卒業すれば婚約者と結婚して、そして淡々と公務をこなす。
兄王子のところの跡取りが順調に育てば、いずれは臣下に降りる。そのことに拒否感はない。だが、少しだけつまらないな、と思っていた気持ちを見透かされているようだ。
彼女の方は、常に平静な態度でこちらに寄り添ってくれてはいる。
義務だったかもしれないつきあいも、それなりの信頼感をお互いにもってもいる。
だが、学園にいるとそのあたりの理性が少しだけ、外れてしまう感覚がある。
それはとても気持ちのいいもので、だが、その状態が普通ではない、ということにも気が付いてしまった。
そう、一度目の不審な出来事が起き、まるで関係のない婚約者に詰め寄ろうとした自分の行動を振り返ることで。
どう考えても、理性的ではない。
彼女は別の学園に在籍しており、自分の通う学園にもちろん知り合いはいるが、彼女がどうこうできるはずもない。
また、する必要もないのだ。
彼女が一言、何かを告げれば、邪魔なものは簡単に排除できてしまう。
それができるだけの力を、彼女の家は持っているし、そしてもちろん本当に支障をきたすとすれば、自分の方からもそれが可能だ。
ちまちまと、不可解ないたずらを仕掛けるだけ、などとそれこそ「かわいい」ことは行うはずはない。
「すまない、少し、おかしかったようだ」
言葉を選んで謝罪をする。
それに対して、婚約者は鷹揚にうなずく。
どうして、自分があの場でおかしくなってしまったのかはわからない。
けど、あの場に、いや彼女に近寄らなければよいのだと判断をくだす。
色々なことが判明した婚約者との茶会から、アレックスは周囲の人間を専用のサロンへと集めた。
もちろん、そこには例の少女はいない。
友人たちは、どういう理由で集められたかもわからず、少し不安げにあたりを見渡している。
同年代の彼らは、これから臣下として兄王子に仕えるにあたって、もっとも頼りになる同僚となる存在だ。小さな頃から交流を持ち、切磋琢磨してきた。
そんな彼らですら、この学園に入ってからは、常とは違う振る舞いをしている。それは少しずつ、けれども確実に、自分たちを周囲から浮いた存在としている原因となってしまっている。
それがおかしなことだと、気がつかなかったことがそもそもおかしなことなのだ。
「昨日、婚約者から聞いた」
それぞれも、己の婚約者との関係がぎくしゃくしている男達は、少しだけ目を伏せる。
「この学園には呪いが存在する」
それは婚約者の家にかろうじて伝わった真実だ。聞いた瞬間は、あっけにとられ、そしてばかにするなと怒鳴りたくなる衝動にかられた。
だが、彼女の口からさる高貴なる男の辿った軌跡を説明され、それがことごとく今学園で起こった出来事と一致する事実に心がざわめいた。
今、ここで引き返さなければそれは自分にも当てはまるのだと。
「呪いだなんて、また、非現実的な」
大昔には魔法という技術が存在していたこの王国も、今では昔のことだ。その残滓は存在はする。けれどもそれは少しだけほんの少しだけ生活を助けるための何か、程度のものだ。
もちろん、呪いだなんてものもほとんどは現存していない。
「この学園が、当主候補や官吏になりたいものなどにしか門戸を開かなくなった理由は知っているな?」
今この場にいるのは王子と釣り合うべく、高位の子弟ばかり。もちろん、その理由は当主教育を受ける過程で説明を受けている。
「はい、確か、色々問題が起こったせいで……」
そのことを口にしたとたん、理性を取り戻している友人が口を閉ざす。
全員、思い出したのだ。
何が起こって、彼らがどうなったのかを。そして、今自分達が置かれている状態が、それに酷似しているということも。
突き進めば、どうなるかという自分達の近しい未来までも。
「そういうことだ。そして私たちの三代ほど前にも同じようなことが起こったそうだ」
渦中の少女がかわいいいたずらをされ、そしてそれをまるで関係がない別の学園の少女のせいだとうそぶき、破滅していった男の話をする。
いたずらをされた少女は、周囲に愛想をふりまき、この学園の理念からははずれた振る舞いをする少女であったという。
それも、今、現在いたずらをされた少女と似通っている。
いや、まるで再現のようだ。
「最初は大したことがない、いたずら程度のものだったそうだ。だが、それは徐々に過激になっていく、らしい」
数段の階段を落とされた、水浸しにされた。
そのどちらも大したことはない、けがもせず、水浸しは困りはするが、それでもすぐさま彼女の取り巻きによって取り繕われた。
「警告のような声が過激になって、最後は大怪我を負ったそうだ。まあ、だからこそ激昂して己の婚約者に詰め寄ったらしいが」
全く関係のない婚約者に詰め寄り、怒りのままに暴力を振るった行いはどこをとっても誉められたものではない。だが、今この場にいる全員が、そのような状態に陥ったら、その彼と同じ行動をとらない、と自信をもって言えるものはいない。
違う学校の、違う行動様式をとっている婚約者たちに、なぜそんなことをしてしまうのか。
ようやく自分達の気持ちの変化に気がついた男たちがしんと静まり返る。
「そういえば、どうして」
一人が重い口を開く。
どうして、彼女が魅力的に見えてしまうのか。彼女のそばにいると、どこか思考そのものを放棄してしまう傾向にすらある。
それは危険なことだと、最初はわかっていた。
だが、徐々に侵食するように、彼女とともにいる時間は増えていった。
王子の婚約者もそうだが、それぞれの婚約者たちは、非常に優秀だ。十分な教育を受け、育てられた彼女たちはその立場にふさわしいだけのものをもっている。
比較して、彼女の方はといえば、熱心に学習をするわけでも、人とやりとりをするわけでもない。そして所作は、どこか野暮ったさを感じさせる。
そこが魅力だと、言えなくもないが。
「何か、あるのかもしれないな。呪いがあるのだったら、もう何があってもおかしくはない」
王子の言葉に、周囲が頷く。
傾国の美女、というわけでもない彼女に、少なくない数の男たちが群がる。教師たちは時おり、苦言を呈してきてはいた。だが、わかった、と言う言葉を口にしたすぐそばから、彼女の近くに侍っていた。
そんな自分達を冷ややかに見つめる周囲の視線。
特に、当主となる女性陣は、こちらを虫けらのような目をしていたことを思い出す。
彼女たちはここへ、勉強するためにやってきたのだ。
こんな浮わついた気持ちで過ごす暇はない。
翌日、王子は例の少女に呼び止められた。
そのとたん、どこか浮き足だった気持ちとなる。自分の役割を放棄して、享楽的に過ごしてみたい衝動。
やはり、自分はなにがしかの影響を受けている。
だが、それはそれほど強いものではないのだとも。
自分をしっかりともっているものはひっかかりもしない。そういった同級生の顔が幾人か思い浮かぶ。
「悪い、急いでいるんだ」
彼女の誘いに是と答えてしまいたくなる気持ちを押し込め、彼女のそばから離れる。
とたんに、先ほどまでの浮わついた気持ちは沈んでいく。
少しだけ気分がよくなり、役目から解放されたような気分となる。だからこそ甘えた部分をもっていれば、彼女のそばが居心地がよいと感じてしまう。
自覚して、羞恥心にまみれる。
そして、王子とその周辺たちは、次々と彼女のそばを離れていった。
もとより、選択している科目も異なり、目指す道さえ離れている彼女とは、頻繁に顔を会わせる方が不思議なのだ。
少なくない侮蔑の視線を受けていた小さな集団は解散され、学園も落ち着きを取り戻すはずだった。
だが、そんな安心感を三度の悲鳴が切り裂いていく。
廊下の真ん中で、やはり手が塞がっていた彼女の制服のスカートが切り裂かれていた。太ももの後ろ側にはうっすらとした切り傷さえある。じんわりと血がにじみでた傷口は、浅いがずいぶんと長い。
悲鳴を上げた後は呆然として、固まったままの彼女に医療系の技官が近寄る。
素早く彼女を回収し、彼女のまわりにぽっかりとできた空間を囲み、取り残された人たちも動けないままでいた。
今回も、彼女の制服が切り裂かれる瞬間を見たものはいない。
いつのまにか、他者と一定の間隔を開けていたはずの彼女の制服が裂けていた。
そんな不可思議なことはあるはずはなく、そして徐々に過激になっていくその「いたずら」に戦慄する。
ここにきて、呪いがある、という少し前からささやかれていた噂に信憑性が高まってくる。
王子周辺が流したそれは、自分達の行いを確認し、反省させるためのものだ。
幾人かはそれにならい、関係のないほとんどのものは面白がって吹聴した。
それが、ある程度の現実感を伴って突きつけられたら、戸惑いもする。
「判明しました、言いにくいのですが……」
少女の取り巻きを調べていたアレックスの友人が口ごもる。
ほとんど残っていない、彼女の取り巻きの中でもっとも高い身分は王子の従弟にあたる高位貴族の子息であった。彼の母親が王妹にあたる。歴史はあるが、それほど家格が高くはない家の跡継ぎに惚れ込んで、王妹がやや強引に嫁いでいった先でできたのが、その従弟である。家族の仲は悪くはなく、ただ従弟は妙なところで一つ上にあたる王子に劣等感と対抗心をもっている。
似たような年回りなのだから、比較する連中もいる。彼の場合はその筆頭が王妹である己の母親なのが、その根を深いものとしている。
わずかに残った取り巻きのなかで、もっとも執着をしているのが従弟であると仲間から告げられる。
それ以外の子弟は、取り巻いているようでそれほどのめり込んではいない。ただ遊戯のようにおもしろがって侍っているようでもある。
「困ったな、彼は僕の言うことなど聞きはしない」
これが跡継ぎである兄王子であれば、と思考し、それでも彼は何一つ言葉を聞き入れはしないだろうと考える。
それほど、王家の子弟たちと彼の仲はこじれている。
そこを、彼女が悪気なくつついたのだろう。
ほぼ独占状態となる今に満足し、周囲に見せびらかすかのように少女を伴って出歩いている。
そう、もはや学園の中だけで収まる問題ではなくなってきている。
「けれど、アレックス様以外ですと」
ここにいる子息たちは家格は高くはあるが、やはり王家の直系の血筋をもつ従弟には叶わない。身分制度があるこの国で、身に染み付いたそれは決して越えることはできない。
「はぁ、仕方がない。恥ずかしいが兄に頼ろうと思う」
もはや自分達だけでは解決できない、と、算段した王子は、兄王子へと相談する段取りを頭の中で計画していく。
もやもやと、どうしようもない鬱屈感を感じていた彼らに、その騒ぎが四度目、届けられた。
少女が持っていた花束が突如燃え、驚いてそれを放り投げた際に近くにいた男子学生にあたり、そこから炎は俄に燃え盛った。という、もはやいたずらの範疇を遥かに越えた被害がもたらされた。
怪我はなかったが、目の前で人が燃える瞬間を見てしまった少女はショックを受け、医療院へ行ったのち、寮へと引き込もってしまった。
とばっちりを受けた男子学生の方は、幸い左腕が少々焼けた程度で、それはそれでひどいものだけれども、後遺症などはなさそうだと診断された。
もはや、彼女に近寄ることすら恐怖の対象となってしまった。
おそらく、彼女が復帰したとしておそろしく遠巻きにされてしまうだろう。
彼女とかぶる教科を変更しようと検討している連中もいるほどだ。
王子が、皆によく知られている友人たちとともに、見慣れない青年を連れて講堂へと足を運ぶ。
周囲の人間は好奇心を隠そうともせず、彼らに不躾な視線を寄越す。
アレックスがこの講堂を選んだ理由は、兄王子経由であろうとも従弟がサロンへの招待を承諾するはずもなく、だからといって教室内や他の公的な空間でやりとりをするわけにもいかないからだ。学園側に許可を取り、そこで彼を説得する手はずとなっている。
大人しく彼女を侍らせるのをやめてさえくれれば、あの呪いは積極的に何かを起こしたりするものではない。
「どういうつもりだ?」
王子の従弟が、彼もまた友人たちを従えて講堂内に座して待っていた。
不機嫌な顔をしたまま、横柄な言葉を返す。それを周囲がはらはらとした顔をして見守っていた。
「ああ、悪いが苦情はあとからいくらでも吐き出してくれ。彼のことはもちろん知っているな?」
王子たちが連れてきた男のことはもちろん、従弟だとて知っている。
彼は、王籍をはずれた聖職者だ。知らないはずはない。
だが、この場に気に入らない男が兄王子名義で呼び出して、さらには親戚とはいえ位の高い聖職者である元王族を呼ぶ意味がわからない。
「この学園には呪いがある、って知っているか?」
その言葉に、心底ばかにしたような声を吐き出す。
最近噂になっているそれは、まことしやかに学園内に広がり、例の少女への加害をもって信憑性まで纏っている。
そんなものは馬鹿げた偶然だ、というには確率よく何かをされる少女と、響く怨嗟の声。それを結びつけるのは簡単なことだ。
「馬鹿馬鹿しい、おまえか?噂をばらまいたのは」
「まあ、そうだ。ばかばかしい、とは俺も思ってはいたんだがな」
親戚という間から、気安い口をたたく。
「お久しぶりです」
聖職者の男は、短い挨拶だけを口にする。
彼は元王族であり、この学園の卒業生でもある。さすがに、この学園で起こった悲喜劇を知識として知っている。効くのかどうかはわからないが、不可思議な現象に対抗する術として、同道を兄王子経由でお願いした。教会側と王家側としても、この学園での出来事がおもしろおかしく市井に吹聴されては少々困る。長い間見て見ぬふりをしてはきたが、このあたりで始末をつけよう、という算段がある。
言葉なく、両者がにらみ合う。従弟側の友人たちは、不安げに二人に向けて視線をせわしなく動かしている。
そう、長い時間でもなかったはずだ、ふいに肌に冷たい何かがあたったかのような気配がして、全員が無意識に手足を確認する。
何もない、そう認識したそばから上の方から声がかかる。
「皆様ごきげんよう、お久しぶり、の方がよかったかしら?」
剣呑な雰囲気で相対する二人を見下ろすような形で、演台の前に一人の見知らぬ少女がぽつりと立っていた。
綺麗な形の礼をとる。
その所作にしても、彼女の身に纏う衣類にしても、かなり高貴な家の出身であることを思わせる。
ただ、顔色はどこまでも白く、まるで生気を感じさせない。
「あら、あなた王族の方かしら?」
瞬時に、王子を「王子」であると見分けたことから、やはり高位貴族であることをうかがわせる。
「今までのいたずらはあなたが?」
動けないでいる従弟をよそに、王子はいつのまにか現れた明らかな不審者である少女に質問をする。
「ええ、そうよ。でもかわいいものじゃなくて?」
刃物や放火がかわいい、とはとても言えはしないが、そこは飲み込む。
「なぜ、とお聞きしても?」
どこか、婚約者に似た色合いをもつ少女に質問を重ねる。
ひょっとすると、メリアドールの家系の誰か、なのかもしれない。
「あら、あれであなた方は気がついたのじゃなくて?お礼を言ってもらいたいぐらいだわ」
確かに、まだ「かわいい」いたずらであるうちに、王子とその周囲は気がつくことができた。
けれども。
「ふざけるな!彼女は怪我をしたんだぞ。おまえの差し金か」
やはりというか、激昂した従弟が立ち上がる。彼女の方へと近寄ろうと、左端にある登壇するための階段へと駆け寄る。
音もさせずに彼女は、従弟が座っていた椅子へと滑り込む。
ふわりと浮いた体は、どこか透けているようで、やはり生きている人間ではないことを知らしめている。
舌打ちをして、従弟は元の場所へと戻る。
登場からしてそうではあるが、今の不可思議な現象をまるで意に介していない。
よほど、例の少女のことで思考が削られているようだ。
「そうだといったら?」
蠱惑的に口の端をあげる。
彼女は、美しく、そして高貴な生まれであることを自負するかのように尊大な態度をとっている。
彼女の胸ぐらをつかもうとして、むなしく右手が空を切る。
「なっ!」
ここにきて、ようやく従弟が動揺する。
対峙した彼女が、人間ではないのかもしれない、という事実を認識する。
「ふふふ、申し訳ないけど、私もう亡くなっておりますの」
おっとりと、微笑みながら告げる。
そこには激しい感情をうかがうことはできない。ずっと凪いだような、穏やかで少し冷たい声音。
「私のことをご存じ?」
「ええ、少しだけ」
世継ぎである兄王子に彼は尋ねている。今、学園で起こっているような事象がずっと以前に起こってはいないかと。
ほぼ消し去られた歴史の中に、やはりそういう事象は存在した。それは代々王家や、それに連なる家へは伝えられてもいた。
ただ、それを王族や高位な家を継ぐための試練としてとらえ、伝える範囲を狭めていたと白状までされた。よほどひどい状態にならなければ、まあそこそこの個人が自爆していくだけだからだと。
つまり、王子も試されていたわけだ。
もちろん、従弟ですらも。
「もういいのではないですか?」
彼女がこの学園に居座ったきっかけは、もちろん教えてもらっている。
どこかの馬鹿な王子が、愚かな女に入れ込み、彼女を亡きものにしようとした事実。未然に防がれたそれは、けれども彼女に物理的にも精神的にもひどい傷を負わせた。そして、彼女は自ら儚くなってしまった。
そこまででも腹立たしいが、大した罪にも問われなかった事実が、それに関わった人間の気持ちを消化させることなく色々な意味で燻らせたままにさせてしまった。
言われれば、王子の婚約者の家はどちらかといえば王家に冷淡な態度をとっている。やはり、彼女はそこに連なる家系なのかもしれない。
「まだ愚かものがいるのに?」
見上げる視線は従弟へと定められている。
色を無くした従弟は、小刻みに震えながら、けれども逃げ出すこともせずに対峙している。
「学生のうちだけだ。それに、彼女とはそういった関係ではない」
どこかで聞いたような口を聞く。
少し前の自分の姿を再現されたようで、王子は少し気まずい思いをする。
「あら、ほんとう?」
ゆっくりとした口調で、歌うように問う。
少女は、ゆらゆらとその姿を変える。
きれいに整えられた髪はざんばらに、顔には鬱血を残し、首まわりにはくっきりと紐が食い込んだ痕が残っている。
彼女は自ら、死を選んだ。
そう聞いていた王子は、それを見た瞬間、それもまた偽りの歴史だったのだと気がつかされた。
「わたしね、殺されたの」
ああ、と、首肯しようとした瞬間、周囲に突風が舞う。
頬になにかがかすった感覚を残し、彼女は消えていった。
突然現れて、突然消えた彼女がいた場所を中心にして、取り残された男たちはしばし言葉を失った。
もう一度調べ直せば、彼女は宗教が禁止している自死を選んだとして、葬儀すら拒否されていた。そしてそれを大したことではないとして静観していた王家、さらには彼女の家もそれに消極的に追随していた。
それをもって、彼女は今もさ迷っているのかもしれない。
だが、今の彼にはどうすることもできない。
かなり前の出来事だということもあるが、この世にいない少女が告白した出来事など、証明できるはずはないからだ。
「どこの愚王なんでしょうねぇ」
国王陛下、そして兄王子とその弟が集う。
私的な部屋にて侍女すら遠ざけられている。
自らの手で茶を入れた茶を飲みながら、公的ではない家系図に視線を走らせる。
「ああ、ありました、こちらに」
同じことをしていた兄王子が、該当する箇所を指し陛下に見せるために綴じられた文書を差し出す。
「二百五十年程前、か。この国の歴史を思えばそれほど昔、というほどでもないのか」
父陛下の呟きに同意する。
今でも呪いを撒き散らしている彼女は、確かに存在していた。
それは、その時代のこの国では最も家格の高い貴族家の令嬢としてだ。そして、やはりアレックスの婚約者の家系に連なるものでもあった。
あの家は、王子の婚約者に選ばれたことをあまり喜んではいなかった。各派閥の均衡を鑑みて、渋々といった風情で当主が承諾して結ばれた婚約であったと、理解している。
「相手の王子は、一応記録に残されていますよね?」
愚かなことをして愚かな結末を迎えたはずの当時の王子は、きちんと王家のものとして記録されている。生涯独身ではあったようだが、幽閉されていたわけでも前線に送られたわけでもない。記録を見れば、存外と長生きをして言わば天寿を全うしている。
それに引き換え、婚約者だった彼女は自死を選んだとして、公式の記録から抹消されている。なにがしかの真実を残したくて記された私的な記録がなければ、彼女の名すら知ることはできなかっただろう。
「これは、まあ正直呪うのも無理はないというか。私たちまるごと恨まれていますよね?」
そう兄が語れば、父も弟も同意する。
メリアドールの母方の実家の出来事は、父王が直接記憶していた。それは、それだけ十分な醜聞だったということだ。
さるやんごとない家の跡継ぎが起こしたあれこれや、それをまるでなぞるかのようにしでかしたアレックスの仕出かし。理性的に考えればわかる、はっきりとした醜聞に婚約者の前で感じた羞恥心を再び感じ入る。
特にメリアドールが語った過去、父王すら記憶していたそれはいっとう酷い結果となっている。
学園の条件を厳しくしたり、あれこれ試みたにもかかわらず、やらかしたから仕方がないのだろう。
彼は、最初の原因となった王子とは違って、かなり苛烈な報復を受けた形となっている。そしてその男は、やはりこの王家と深い縁のあった家の嫡子であった。
そのせいで、あれはとりわけ憎いと思われていたのかもしれない。
「伝統だといえば、割と黙りますからね、みな。それでも工夫して事が起こらないようにしてきたみたいなのに」
兄王子の言う通りではある、それでも最悪の事態を避けるべく規則は変更され、今の学園の有り様となった。
「さすがに、これほど短い期間で起これば、根本をどうにかしたほうがよいのか」
父王の言葉に、やはり二人の子供は頷く。
俯瞰してみれば、それほど悪いことではないそれを、今までは試練だのなんだのと見逃していた。
だが、さすがにこんなことばかり繰り返していては、市井にも漏れ伝わっていくだろう。
王妹の立場を省みない身分違いの恋、などといった糖衣でごまかせばなんとかなるような仕業ではなくなっている。
今この代で幾つかの婚約が壊れ、幾つかの家の跡取りが廃され、入れ替わるとしたら。
事後処理の気の遠くなるようなあれこれに、王はわずかに頭を振る。
あの女学生は、どういうわけか目的意識も持たずに入学している。だが、これだけ周囲を騒がせてはそのまま、と、いうわけにはいかない。正直、責任をとるような形で第二子である従弟が婿入りする形で収まるのならば、それですむ。
もう色々面倒だから、それで済ませてしまいたい、という考えが三人の脳裏を掠める。
「あれが納得するはずもない」
王家の子弟に負けたくはない、という気持ちは年々高まっていき、今では婚約者の格で競いあっている。
そんな気持ちはないこちら側としては、さっさと条件と相性のよい相手を見繕い、現在に至る。
それを不服に思っているのは、あの家と取り入る魂胆をしていた家ぐらいだ。
「めんどうくさいですが、そろそろ神の御許にいっていただくのが一番かもしれませんね」
ため息をつきながら、兄王子が結論を出す。
「言葉が通じるのでしたら、説得、という形をとってみてもいいのかもしれません」
アレックスの言葉に、父と兄がうなずく。
正直、自分自身が正気に戻り、原因の少女を排除した今となっては放置してもいいのかもしれない。そんな思いがよぎる。これ以上事を荒立てて、さらに騒音をまきちらすのも、と。
ただ、そうやって見ないふりをして現在がある。
近しい未来に同じことが起きらないとも限らない。
人間は、どこまでも愚かなのだから。
ただ、自死を選んだとして、名前すら消され弔うことすらされなかった少女を正しい道に導くなどとは、どうすればいいのかも、どうやればいいのかもさっぱりわからない有り様だった。
まして、彼女は殺されていたのだから。
「こちらとしても色々と調べてみたよ、やはりそういうことがあったんだね」
一段落ついて、婚約者と穏やかに茶の時間を楽しむ。
久しぶりのひとときに、第二王子は思わずためいきをついた。
「私の方も、私的な記録などを調べてみました」
呪いの主は、どこかで見たような耳飾りをしていた。
それが彼女の家に代々伝わるものだと知ることができ、王家の記録とともに、やはり彼女は婚約者の家に連なるものだと確定していた。
「やはり、記録は消されています。ただ、領地の方に代々の墓園とは異なる場所に眠っておられる当主夫妻がおりまして。それが、彼女の両親のものだと判明しました」
「じゃあ、やはり彼女は」
「ええ、おそらく同じ場所に納められているのでしょうね」
王家の判断に賛成したものの、やはり忸怩たる思いがあったのだろう。彼らは人目につかない方法で、きちんと娘を弔っていたのだろう。
それを、彼女は知らないのかもしれない。
「昔、そこへ詣ったことがあるのです。そこでこの家に生まれたものの覚悟を諭された記憶が」
右手の人差し指をあてながら考え込むように呟く。
それは、おそらく記録に残せない事実を伝えるための儀式みたいなものだったのだろう。
「そういえば、彼女はどうなりましたの?」
しんみりとした雰囲気を変えるように、話題を転換する。
その彼女、とは、もちろん第二王子も少々惑わされた彼女のことだ。
「ああ、少し調査をするといって隔離した」
特徴も能力もさしてない少女が、あれだけの男たちを惑わせた。
その事実に、あまり表舞台に立つことがない技術研究所の連中が目をつけた。
古の、本当に昔の魔法技術から、今の生活を支える技術やらを雑多に詰め込んだその研究所は、それが好きで好きでたまらない、といった連中がこもりきっている魔窟みたいなものだ。
ある程度、学園で起こる不可思議な出来事の事実を共有していることもあり、すさまじい早さで彼女を研究することが決定した。
「彼女は、別段特殊な能力はもっていなかったそうだ。まあ、それが今の技術できちんと測定できるのか、といえばわからないけど」
「まあ、それでは呪いの影響でして?」
「いや、特殊じゃないけど、彼女は近寄った人間の持っている責任感やら義務感やらを少しだけ忘れさせる力があったみたい」
「忘れ、させる?」
「そう、あの学園にいる連中って、跡取りだったり、自分で立場を掴み取らないといけない連中だろ?」
当主の立場を継ぐというのは、領地をもっていれば彼らの生活の責任を担うということでもあり、もっていなくとも責任のある立場に立たざるを得ない、ということでもある。また、継ぐものがない人間にとっては、自分の能力をもってして道を切り開かなければならない。そのどれも責任をともなうものだ。
だから皆、一心不乱に勉強するのだ。
それを少しだけ重荷に思っている連中には、彼女のわずかな力がよく効いた。今、ここにいる第二王子のように。
「少し、自信がなかったのかもしれない。君があまりに立派すぎて」
彼女は、華やかに笑って王子の茶を入れ換えた。
「私にも苦手なものがありましてよ?」
そう言いながら、彼女が茶器を彼に差し出す。
少し不思議な香りのするそれを一口飲み、なんとも言えない顔をした。
「ほら、私、お茶を上手に入れられませんの。いくら上手な方に教えていただいても、全く。今では兄は逃げますのよ、私がお茶を入れると」
そして、二人は笑いあった。
ようやく、ただ決められた婚約者同士、という関係から進めたような気がした。
大規模に学園とは関係のないものを引き連れ、第二王子が講堂へと進む。
例の呪いの騒動からいなくなったあの子。不思議だとは思うが、今の状態は好ましいと感じている。
なのに、ようやく落ち着きを取戻した学園に、また騒動が持たされた。
王子と、なにやらきらきらした容貌の少女、そしてこの前も見た聖職者の恰好をした男と、その仲間たちが集団で講堂の方へと歩いていく。
渋々、といった風情で王子の従弟もその集団の数歩後をついて歩く。
「そこに、いらっしゃるのでしょう?」
メリアドールの声かけに、何もないところからふわりと一人の少女が現れる。
彼女は、どこか婚約者に面持ちが似ている。
舞台の上で、尊大に、けれどもとても綺麗な礼をとる。
「あなた、お兄様の子孫かしら?」
「はい。そのようです」
随分と前ではあるが、確かにメリアドールは彼女の兄の子孫にあたる。
相対する二人をみれば、やはりどこか面影が似通っている。
「それで今日はどうしたのかしら?大勢いらっしゃるのね」
小首をかしげながらアレックスに顔を向ける。
「もう、いいのではないかと思いまして」
「神の御許にでもいけというのかしら?」
楽しそうな声音ながら、すっと目元に力がこめられる。
美しい人は、そういった仕草一つとっても、見るものに威圧感を与える。
王子の後ろには高位の聖職者たちが並ぶ、彼らも見上げた先にいる彼女が「人」ではないことを肌で感じている。
ぞわぞわと、肌の上をなにかがなぞっていくような不快感。
寒くもないのに、襟をきっちりと閉めて首をすくめてしまいたくなるような威圧感。
どれもこれも、今までには感じたことのないような感覚に戸惑う。
「あなたの名誉を回復いたします」
それが、王家が出した結論だ。
彼女の名は消され、愚かな王子だけが残った。
あげくに、と、さらなる王家の恥にアレックスの言葉がつまる。
「あら?人殺しの子孫が言ったところで、説得力がないと思いません?」
にっこりと、その薄く美しい口の端をあげる。
ぞくりと、二度目の対面であるはずの王子ですら悪寒を覚える。
「それから、あなたを聖人に認定してもよいと」
愚かな王子のことはできれば公表はしたくない、したとしても誰にも得はないのだから。王家はただ恥をさらすだけであり、それをおかした人間はもうとっくに逃げ切っている。
「私を拒否した教会に認めてもらったところで、私になんの利があるのかしら?」
それは、もうその通りなのだろう。
葬儀すら拒否され、歴史から消された。
その原因を作った教会に認められる、そのことをありがたがれ、という方が無理がある。
「あの、こちらを」
婚約者が、小降りな白い花弁をたくさんつける花を束にしたものを掲げる。
それは、彼女の家の領地に咲く、家を表す特別な花なのだと、王子は教えてもらった。
この、王都にある屋敷の庭に、ひっそりと咲くそれを指し、少し幼いころの婚約者が語ってくれたことを思い出す。
「これは、あなた様が埋葬されている箇所に植えられている花と同じものをもってきたの」
ぴくり、と眉をあげ、花を凝視する。
「あなた様は、ちゃんと愛されておりました」
娘を思って、代々の規律すら無視し、娘と一緒に眠る。
それは、両親からの愛故だったのだろう。
「だから?お父様も、お母様も、もう会えないのよ?」
死後にもたらされる名誉も事実も、もう何もできない彼女にとってはまるで意味がない。
彼女は再び、愚かな王子によって成された事実を皆の前に開示する。
無造作に切り取られた髪、鬱血した顔、そしておぞましくも残された首を絞められたかのような痕。
引き連れられた誰もが息を呑む。
王子の隣にいるメリアドールも、同じく顔色を悪くする。
平和な世の中が長く、荒事もしない令嬢がみることがない光景だ。
唇が震え、一度噛み締める。
息を吐いて、ゆっくりとメリアドールが言葉を紡ぐ。
「どうしてあなた様は、女性の方を攻撃なさるの?」
王子の耳に届いた言葉は、予想とはまるで外れていた。
言われれば、今までそこに疑問をもったことはなかった。
それは、彼女にしてもそうだったようで、一瞬虚をつかれ、そしてまた美しい彼女の姿へと戻っていった。
「私、思いましたの。どちらが悪いのかしらって」
「どういうこと?」
「だって、どちらの殿方も身分が高かったのでしょう?それじゃあご令嬢は断れないのじゃなくて?」
「それは、まあ」
その当時、貴族の中では最も高位な女性だったとしても、目の前の女性に起こった悲劇のように、王子相手だとすればきっぱりと躱すのは無理な話だ。それは、第二王子の婚約者だとて同じことで、彼女は彼が「おかしく」なっていたときに、一度もはっきりと苦言を呈したことはない。
「あなた様でも同じことではなかったの?」
メリアドールと同じような仕草で、ほっそりとした指を顎先に寄り添わせながら考えている。
「それも、そうね。今回だとまあ、あの子の場合は喜んであんなことしていたみたいだけれど」
今回の騒動の元の少女は、悪意があったからではなく、ただ思う通りに身分の高い男性たちがちやほやをしてくれて、少し嬉しくなってやりすぎてしまっただけだ。その彼女に惑わされなかった高位貴族の子息たちも多い。最初から、惑わされなければ、彼女はここから排除されなかったのかもしれない。
「ええ、ですから、私から提案がありますの」
婚約者の美しい唇が弧を描く。
ちらりと、第二王子の方に視線をよこし、にこやかに微笑む。
全く笑っていないきれいな笑顔は、余所行きのそれだ。
意気揚々と原因を排除しようとやってきて、こんなところで王子は気がついてしまった。
婚約者が、あれに惑わされたことをまるで許していない、という事実に。
「諸悪の根元は、惑わされる殿方にあるとおもいませんこと?」
「そうね、あのときも、騙されなかったらこんなことにはなっていないのだし」
二人の視線が、王子と友人たちに注がれる。
人ならざるものからのそれらよりも、一段と強い恐ろしさを感じとる。
「復讐は殿方に、とても簡単なことでしょ?おねえさま」
にやりとでも言いたいような笑顔で、提案をする。
「とてもいい提案ね。さすがは私の妹のようなものだわ」
こちらもいい笑顔で笑いあう。
王子たちは最後は蚊帳の外のまま、学園の不可思議な事件は終結を迎えた。
身に覚えのあるものたちのへ罪悪感を抱えさせながら。
その後、学園内の噂は定着し、何かをやらかせば「男性」がいたずらをされる結果となる。
代々申し渡される注意事項が年々厚みをましていき、それでも時おりやらかす子息が現れる。
それでも、それほど悲惨な目には会わないようになっただけは、平和になったのかもしれない。
第二王子は無事に婚約者と結婚をし、彼女の入れたお茶を飲むのひとときが好きだ、と、こぼすほど仲むつまじいと評判だ。
名誉も回復し、いつのまにか聖女扱いとなった彼女もときおり夫婦の元に訪れる、という噂と共に。