1. 出発の刻
■[NS-37] 岳麓中央
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まもなく、岳麓中央。岳麓中央です。
3番ホームに到着、お出口は左側です。
この電車の通過します岳麓本町、登口、這々坂にお越しの方と、渓澄線はお乗換えです。
各駅停車は降りましたホームの向かい側、4番ホームに停車中です。この電車のすぐ後に発車いたします。
渓澄線は階段を上がりまして隣の5番・6番ホームから、今度の電車は7時ちょうど発の渓澄湖畔園行です。
快速急行 楽汲温泉行、当駅を出ますと冷沢、湯泊、終点楽汲温泉の順に停まります。
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3面6線の地方ターミナル。
早朝の静けさを破って、新宿からやってきた10両編成の電車が下り線のホームに滑り込む。
速度を落とす電車。屋根の柱に掲げられた駅名標。車窓の景色が止まり、プシューと開く扉。
ニュータウンから乗ってきた快速急行から、僕は岳麓中央のホームに降り立った。
「……着いた」
平日早朝、6時半の下り線。利用客の多い南速とはいえど時間が時間、10両はオーバースペックだった。椅子もガラガラ。
岳麓中央で一緒に降りた客も、どうやらラケットを持った制服姿の学生が数人のみ。
いやはや、こんな朝早くから朝練とは。……そういやテニスといったら岳麓高、さすが名門校だ。
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3番ホームから 快速急行 楽汲温泉行が 発車いたします。
次は 冷沢です。
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ポォォォと長音一声のブザーが鳴り、ほどなく扉を閉める快速急行。
黄色い線の内側を歩く僕達を尻目に、電車は山上の温泉街へと旅立った。
山登りに備えてぐんぐん加速するモーター。
バチッと弾けるパンタグラフ。
遠ざかる車輪のガタンゴトン。
ホームの屋根に取り付けられた白ランプが消灯し、やがて赤に輝く双眸はカーブの先へと消えていった。
さて、僕はこの駅で乗換だ。
小鳥のさえずりと学生達の会話を耳にしながら、ホーム中程に設けられた階段へ。前を歩く学生達に続き、掲げられた左側通行に倣って階段を上る。
最後の一段まで上りきると、そこは橋上改札。東京からは1時間以上とはいえ、一端の地方都市。ズラリと並んだ自動改札はなかなか荘厳だ。
そんな改札口へと真っ直ぐに向かう学生達……とは別に、僕は5・6番ホームへの下り階段へ。
僕の目指す先はこっちだ。
階段を下りきれば、そこは誰も居ないすっからかんの渓澄線ホーム。
「……それもそうだよな」
行楽客の多い休日ならともかく、世間では何でもない只の平日。登山客も居ないし、通勤ラッシュと逆方向では乗客もいない。
そんな渓澄線のホームに吊り下げられた、LEDの電光掲示板を眺める。
「あと20分」
黄色と緑の点々が映し出す、『7:00 渓澄湖畔園』。その隣に並んで吊り下がる黄緑色の時計は6時40分を指し示している。
……と、ここで気になったことが一つ。
「各停、だよな?」
そういや、電光掲示板には『各停』の文字がない。急行でも各停でもなく、種別は無印。……まさかこれ、各停の名を冠する権利すら取り上げられちゃったのか? 「どうせ渓澄線は各駅停車しか走らねえから」と。
なんと可哀そうに。本当にローカル線なんだなとしみじみ感じた。
「にしても20分……暇だな」
ローカル線あるある・その1、待ちが長い。
旅を始めて早々に洗礼を浴びてしまった。
手持ち無沙汰にホームをぶらぶらとうろつく。……とは言えど、10両分の長さがある南速本線のホームとは違って渓澄線のホームは僅か3両分。数脚のベンチを除いて何もないホーム、気軽にうろつく程の広さすら無い。
暇だなー。
何か暇を潰せる物は無いだろうか……。
「おっ」
――――いや、有る。
有った。
思わず心を動かされるほどの物が。
「……でっか」
ホームの端、屋根の途切れた先から見上げると――――そこには、雄大な楽汲山がズンと聳え立つ絶景。
まるで特等席だった。
ローカル線の旅あるある・その2。
あんなに遠くだったハズの山が近い。綺麗。そしてデカい。
「……凄い」
朝晴れの雲一つない空に映える、緑鮮やかな楽汲山。県のシンボルともいえる山。その稜線は地と空とをクッキリと分かち、山肌を覆う森の中にはポツリポツリと隠れ建つ山小屋。
まるで木々の1本1本まで見分けられるかと思えるくらい、山が近かった。
「やば」
いつの間にか蝉たちも目を覚ましたようで、一瞬たりとも鳴りやまない夏のBGMが絶景に華を添えていた。
ニュータウンのマンションからは小さく薄っすらと霞んでしか見えなかった山々が、こんなに大きくはっきり見えるだなんて。
感動。
スマホのカメラを起動し、写真に収めた。
何枚も、何枚も。
後で並べてみれば全部同じ写真なのだろうとは分かっている。……それでも、僕は夢中でシャッターボタンを押した。
そしてスマホを下ろし、もう一度この目で楽汲山を眺めた。
……改めて感動した。
同じ県内での小旅行とはいえど、遠くに来たんだと実感が湧いた。
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お待たせいたしました。
5番ホームに 折返し 渓澄湖畔園行が参ります。
危険ですから 黄色い点字ブロックの内側まで お下がりください。
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無心に写真を収め続けていれば、待ち時間もあっという間だった。
もう電車が来る。
スマホをポケットに仕舞い、結局誰も来なかった5番ホームへ。
目印は足下の『乗車位置』ステッカー、その上に立って到着する電車を眺める。
Y字に分岐したレールをゆっくり踏んで、電車がホームに入線する。
2両編成、短いホームよりも更に短い。
くすんだステンレスの車体に、色あせた紺色の帯。
前面には『岳麓中央』と示された昔ながらの白黒方向幕と、緑地に白文字で『ワンマン』の札。
首都圏の鉄道とは思えない、もはやタイムスリップ級の電車が入ってきた。
のろのろとホームを進む電車。そのスピードが更に遅くなり、そして停まる。
僕の目の前ピッタリに止まり、ガタンッと扉が開いた。
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岳麓中央 岳麓中央 終点です。
お忘れ物のないよう ご注意ください。
南速本線は お乗り換えです。
5番ホームに 到着の電車は 折返し 渓澄湖畔園行です。
発車まで しばらくお待ちください。
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到着の自動放送とともに、ぽつぽつと乗客が降りる。スーツ姿のサラリーマンや学生服を着た少年少女、さっきも見た岳麓高の制服。
少し遅れて方向幕がぐるぐる回り始める。下に消えていった岳麓中央に代わって『回送』が現れ、空欄を経て『渓澄湖畔園』。ピタっと止まった。
その間にも車内の人が少しずつ降り……赤シートと単語帳を携えた学生が最後に降りて、電車は空っぽになった。
「よし」
電車に乗り込む。
7人掛けのロングシートの座席、勿論座るのは端だ。
やっぱり此処が一番落ち着く。
「……僕1人」
2両編成を独り占めというこの贅沢感というか、背徳感というか。
悪くない。
それからの5分、到着から折返し発車までの間。渓澄線のホームを通ったのは、前側の運転席へと移動する運転士だけだった。
どうやらこの列車、乗客は本当に僕1人のようだ。2両編成を独り占め。
そして左手の腕時計は、発車時刻の7時ちょうどを指し示した。
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お待たせいたしました。
5番ホームから 渓澄湖畔園行が 発車いたします。
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誰も居ないホームにアナウンスが掛かり、プゥゥゥと響く長音一声のブザー。
……さて、出発の刻だ。渓澄線の旅が始まる。