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多田省吾が鳴潮の左兵衛へ己が企てを開陳し、その順調な成り行きを美酒で祝ってから七日目の夕刻……
七面山の尾根に沿う急勾配の獣道を二里ほど登った先、以前は炭焼き小屋だった隠れ家で異国の馬と共に横たわり、亥吉は沈む夕日を見上げていた。
静かだ。
近くの渓流を流れる水のせせらぎと身を寄せ合うマレンゴの鼓動、息遣いの他、何の音も聞こえない。
静かなのも道理。元々、辺鄙な場所である上、この小屋には忌むべき理由がある。
何年か前、江戸からの駆け落ち者が入り込み、中で心中して以来、化けて出るとの噂が立った。
亥吉は祟りの類を信じていない。それ故、付近の村人が寄り付かなくなった小屋を格好の根城とさえ思っていたのだが……
今やそこから抜け出すのは至難の業だ。
鎌倉から六浦まで、金沢街道の彼方此方で岩須藩が目を光らせており、裏道を周知した左兵衛の手下も邪魔になる。
おまけに体力の衰えが著しかった。
亥吉に病の症状が出たのは、隠れ家に辿り着いて三日目の事。
あまりのだるさ、熱っぽさに渓流まで足を運び、眠気覚ましに水浴びしようと服を脱いで、脇腹の淡い発疹に気付いたのだ。
この疫病神が!
自暴自棄になってマレンゴへ怒鳴り散らし、どうにか逃げようと悪あがきした末、為す術無く隠れ家へ戻る体たらく。
それを何度か繰返し、広がる発疹の痒みにも慣れた頃、往生際の悪い亥吉と言えど、逃げ場は無いと認めざるを得なくなった。
高熱は間も無く強烈な寒気に転じ、時々、耐えがたい眠気が襲ってくる。互いに身を寄せ合う他、暖を取る手段も無い。
すぐ側にいれば、マレンゴの、日を追う毎の衰弱は否応も無く感じられた。おまけに食料は尽き果て、飢えで歩く気力さえ失われつつある。
「俺ら、このまま死ぬんかな」
密着したマレンゴの耳元へ唇を寄せ、亥吉は囁く。
「どう気張っても、江戸へなんか行けねェ。へへっ、思えば情けねぇ生き様だぜ。俺な、実は一度も出た事が無ぇんだわ、この金沢の街道筋から」
掠れる声を絞り出し、亥吉は止めどなく喋りつづけた。
夕陽が山の端へ沈みかけ、徐々に迫り来る夜の静寂が死の予兆そのものに思えて怖い。怖くて、怖くて、仕方無い。
だが瀕死の馬の瞳は、それでも尚、穏やかな光を湛え、窓の外へ……まだ鮮烈な赤味を残す夕焼け空へ向いている。
「なぁ、やっと判った気がするよ。お前が何故いつも上を見ていたか」
命の残り火を共に費やしながら、亥吉はマレンゴの瞳の奥に強い追憶の光を見出していた。
残してきた家族や友、仲間を思う断ち切れない思慕を感じた。
そして、今や遠い異国で死を待つマレンゴにとって、故郷と繋がる光景は見上げる空の色だけなのだ。
亥吉はふと大陸を駆け巡る瞳が、どれだけの壮大な光景と出会ったか想像してみた。霞の時の様に、目の奥に何か映らないかと覗き込んでもみた。
けれど、何一つ見えはしない。
亥吉が生きてきた世界はあまりに狭く、嘘や裏切りが彩る欲望に染め抜かれている。
「なるほど、お前がろくに俺を見ないのも道理だぜ」
亥吉の唇が歪み、苦い笑みを形作った。
「海の向うで綺麗なもん、凄いもんを一杯見てきて、最後の最後に俺みたいな虫けら、その目に映したくは無ぇやな」
情けなさに絶句した直後、頬に生暖かい感触がある。
マレンゴが滲む涙を舐めたのだ。その大きな両の瞳が、今、確かに亥吉の姿を捉えていた。
何だよ、お前ぇ、心配してくれてんの?
返事の代りに、また頬をペロリと舐める。発疹が馬の舌にも生じていたから乾いた肌触りだったが、気にはならない。
あれから二十三年生きて、俺が手に入れたのは、結局、この温もりだけかよ。
霞に頬を舐められた幼き日の感触を、亥吉は想い、噛み締めていた。
二度と大事な物を奪われたくない。
その一心で強さを求めた小さな決意は、挫折と自堕落な日々の中で摩耗し、遂に何処へも届かない。
終わる。
終わるのだ。成す術もなく、何も残せず……
ふと我に返ると、マレンゴの舌の感触は失われていた。
だらんと下がった長い舌が亥吉の目の前で揺れ、眠りに落ちたのだとわかる。二度と目覚めないであろう昏睡の泥濘へ。
霞の時と同じく、避け難い別れが近づいている事を亥吉は知った。
へん、ざまぁねぇ。
長い草鞋を履き、ようやく俺ぁ、振出しへ戻っただけかも、な。
噛み締める苦い記憶は、しかし不思議と後悔へ結びつく事無く、亥吉の頬にはとうの昔に失った筈の屈託無い笑みが浮かんでいた。
何時の間にか、恐怖は失せている。
もう悪あがきをするつもりも無い。
代りに弱っていく獣の鼓動へ耳を澄まし、大きな頭を両の掌で包んで、少しでも癒してやりたいとだけ、亥吉は願った。
読んで頂き、ありがとうございます。
あと1エピソードで完結となります。
良かったら彼らの結末、見届けてやって下さい。