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首尾よく馬をかっぱらい、左兵衛へ献上すりゃ命が助かるだけじゃねぇ。子分に取り立ててもらえるかも、な。
さもしい魂胆を薄っぺらな笑いで隠し、亥吉は異国の馬へそっと近付く。
ほぉれ、良い子だ。後生だから騒ぐんじゃねェよ。
見知らぬ男が触れても馬は動じない。
微動だにせぬ巨体の耳元へ甘言を囁き、柱へ括り付けた手綱を解こうとした時、
「おい、貴様、何をしておる」
御堂の方から男の声が飛んだ。
見ると観音開きの扉から、まだ若い武士が飛び出した所で、その右手はしっかり刀の柄に掛かっている。
「いやぁ、髄分豪勢な馬だと思いましてね、旦那」
亥吉は、動揺を抑え、咄嗟に愛想笑いを作った。
「もしかして、南蛮渡来ですかい」
「何っ」
「そう血相を変えなくて、ようござんす。昨今は象とかいう化けもんが、はるばる大海原を渡って、花のお江戸まで運ばれるってぇ御時世だ」
「余計な詮索は身の不幸を招くぞ」
侍はぐっと凄んだが、その容貌を観察すると、さして怖くはない。細面に鼈甲縁の眼鏡をかけ、刀に掛けたままの右手は神経質に震えている。
「案の定、訳ありみてぇだね」
「黙れ、下郎」
侍が喚くと同時に、亥吉は大きく目を剥いて相手を睨みつけた。カモと見なしたが故の振る舞いである。
こういう如何にも小利口そうな輩は、最初に一発かますと後々やりやすくなるものだ。
「おうおう、さんぴんの田舎侍。下郎とは大層な御挨拶じゃねぇか、えぇっ」
「町人風情が逆らうか」
「ヘン、徳川さまの御意向も、すっかり色褪せた時世でござんす。武士ってだけで、俺らがヘイコラすると思ったら大間違いのこんこんちきよ」
若い侍は怒りで顔を紅潮させた。
だが、刀を抜く様子は無い。
亥吉の睨んだ通り、そろばん勘定は得意でも、腕の方はカラッキシなのであろう。
「俺ぁ、この辺りじゃチョイと知られた野槌の亥吉ってぇもんだ」
「つまり、地元の顔役か」
「おう、あんたの名前も聞かせてくんな。訳ありなんだろ。事情によっちゃ、こちとら一肌脱ぐかもしれねぇ」
侍は躊躇ったが、亥吉が脅しと宥めを程良く交えて尋ねると、重い口を開いた。
「信州・岩須藩、多田省吾と申す」
「へぇ、岩須藩ってぇと、確か、あれだ。異国と生糸の商いをして、近頃、やたら羽振りの良い所でござんしょ」
「良く知っとるな」
「へへっ、何しろ浦賀は、我が縄張りの内でござんすから」
居丈高な口調から、いきなり遜った態度に戻り、相手を混乱させる。まぁ、手慣れたものだ。世間知らずの若侍など、あしらうのは雑作無い。
「いやぁ、売り言葉に買い言葉とは言え、あっしみてぇな者が、お侍に失礼な口を利いちまった。勘弁しておくんなさい。良かったらお詫びの代りに、酒でも一献差し上げたいんですがね」
酒と聞いた途端、多田は喉を鳴らした。
どういう事情を抱えているやら、ろくに飯も食っていない様子で、握り飯を見せると今度は腹が鳴り出した。
江戸への逃避行を決めていた亥吉は、酒も食料も懐にたんと用意している。
全く、御誂え向きとはこの事よ。
内心ほくそ笑み、亥吉は御堂に入って、多田へありったけの酒を振る舞い、酔いが回った所で博打に誘った。
「旦那、壺、かぶりますぜ」
手垢で汚れた賽子を、亥吉は鮮やかな手並みで愛用の壺へ放り込む。
「さぁ、旦那、丁方ないか、半方ないか。どっちもどっちも」
「お主、うるさい。小細工で謀る気なら、この場で成敗してくれる」
「天地神明に誓い、いかさまは無しでさ」
明るく囃す亥吉に対し、多田は警戒心丸出しで、銭十文ばかり丁へ張る。
「勝負。ニトオシの丁」
「お、俺の勝ちか」
「いやぁ、恐れ入りやの何とやら。今宵はついていなさるね」
ささやかな儲けを握りしめ、ぐいっと酒を煽った多田は、次の勝負で銀を三分ほど床の上へ放り投げた。
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