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 はて面妖な。

 

 今宵は丸いお月さんが二つ、仲よく光っていやがるぜ。

 

 野槌の亥吉は独りごち、無精髭が覆う顎を掌で撫でた。

 

 戌の刻、宵五つを僅かに過ぎた頃合いで、東海道五十三次四番目の宿場、保土ヶ谷宿の町外れにある小寺の境内に、彼以外の人気は無い。

 

 夏の夜の生温い風が鬱蒼とした茂みを嬲り、癇に触る音を立てていた。

 

 あやかしでも跋扈しそうな佇まいだが、そうでなくても一昔前に住僧を失い、すっかり荒れ果てた古寺へ、まともな者は寄りつくまい。

 

 野犬か、凶状持ち、さもなくば今の亥吉の如く、行き場を失ったろくでなしの類しか足を踏み入れぬ場と言えよう。

 

 にも関わらず、その本堂の軒下辺り、十五夜間近の明月にも劣らぬ澄んだ光が垣間見えたのである。






 さては先客でもいやがるか。まさか、追手じゃあるまいな。

 

 鵜の目鷹の目で本堂へ忍び寄り、光が見えた辺りを覗き込む。

 

 そこには大きな影が佇んでいた。

 

 微動だにせぬから岩だと思い、無防備に近づくと、俄かに影が動きだす。驚きの余り飛び退った亥吉は、見開いた目でその正体を悟った。

 

 馬だ。

 

 軒下に手綱で括られていて、正面に立つと視界を蓋う程、でかい。先程、闇の中で輝いて見えた物は、どうやら大きな瞳に映る月の照り返しであったらしい。

 

 その日暮らしの博徒に過ぎぬ亥吉に対し、彼の父・巳代治は温厚な人柄と実直さで知られる東海道の馬追いであった。

 

 二十三年前、心の臓の病で急死するまで『霞』と言う名の牝馬を世話し、時には息子も連れて金沢の宿辺りを流していたから、亥吉にも多少は馬の知識がある。

 

 その常識を、目の前の生き物は遥かに凌駕していた。鮮やかな栗毛と逞しい筋肉が差し込む月明かりに映え、一幅の絵を思わせる。

 

 こりゃ異国の産か。

 

 亥吉は口中で呟き、改めて馬体をじっくり眺めてみた。寸胴の大和馬とは違い、首や足がすらりと長く、実にしなやかな体付きである。

 

 ひゅう、と感嘆の口笛を吹いたその時、何故かふっと懐かしい感覚が、向き合う亥吉の胸をよぎった。

 

 異国の馬を扱った経験など、無論無い。

 

 何故、俺はこの馬を何処かで見た様な気がするのだろう。

 

 微かな躊躇いが亥吉に生じる。でも、それは一時で、すぐ別の思惑が湧き上った。

 

 こいつは銭になる。うまくすりゃ、切羽詰まった俺の立場をひっくり返す切り札になるかも。

 

 まともにこちらを向きもせず、唯、じっと月を見上げるのみの馬を前に、ろくでなしの胸は高鳴った。






 そもそも亥吉がこんな殺風景な場所へ逃げ込む羽目になったのは、払いきれない借金の取り立てから逃れる為だ。

 

 浦賀の顔役、鳴潮の左兵衛が仕切る賭場で負けに負けた十両二分を、明日まで返す約束である。

 

 踏み倒せば勿論、返済が遅れただけでも只では済まない。

 

 一見温厚な風貌の左兵衛がこれまで何人の横紙破りを闇へ葬ったか、噂では両手、両足の指を使っても足りないとか。

 

 野槌の亥吉は六浦陣屋の宿場を根城に、付近の賭場を渡り歩く一匹狼の博徒である。年の頃なら三十半ばで逃げ足は一番の自慢。尻に帆かけたトンズラが常套手段だが、今回は少々難しい。

 

 逃げようものなら街道筋へ回状を送り、草の根分けても捕まえて、魚の餌にすると左兵衛は断言したのだ。

 

 時は文久三年の七月。

 

 黒船来航から十年の年月が流れ、浦賀港の周辺には合法、非合法を問わず、異国の物資が荷揚げされている。金の匂いを嗅ぎつけた無頼の輩が全国から集まり、地元の顔役としても時に厳しい態度を示す必要があるらしい。

 

 吹けば飛ぶような下っ端など、見せしめには打ってつけだ。

 

 必死の亥吉が夜通し知人宅を回り、土下座までして掻き集めた金は一両二分ほど。残念ながら利子にも足らない。

 

 この際一か八か、江戸へ逃げようと思い定め、人目を忍んで一夜を明かすべく潜り込んだのが件の廃寺なのである。


読んで頂き、ありがとうございます。


馬の澄んだ瞳に映し出される男の心、その揺れ動きを丹念に追っていけたら、と思っています。

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