前編
「あれ……? ここはどこだ?」
ディランはゆっくりと目を開いた。
アイボリー色の天井が視界に入る。自分の部屋じゃない。
ああ、でもこの場所は知っている。
……王城の医務室だ。
どうしてここで寝ているんだろう。
なんだか頭がすっきりしない。
「いたたたたた」
起きあがろうとしたら全身の痛みで、身体が再び寝具に沈む。
ドアが開き長い銀髪の妙齢の女性が入ってきたと思えば、彼女は目を見開いて駆け寄ってきた。
「ディラン!!」
綺麗な女だ。誰だ?
「大丈夫!?」
「……どうしてだか全身が痛い」
「覚えてないの!? 私を庇って倒木の下敷きになったのに!!」
「木の下敷き? そりゃ痛いはずだ」
ディランは自分があちこち包帯を巻かれているのに気が付いた。
怪我の理由は納得した。女は「先生呼んでくる!」と言いおくと慌てて出ていく。バタバタと忙しないな。ディランは回らぬ頭でそんな事をぼうっと考えていた。
さっきの女を背後に伴って、王宮医師団の主任がやってきた。
「気分はどうだね。頭に目立った外傷は無いが、地面に打ち付けられた可能性もある。事故の記憶が曖昧らしいが、吐き気は?」
「頭痛や吐き気は無いです。ええと……曖昧と言うより、どうして木が倒れるような場所に居たのでしょう」
「えっ!?」
女性が大声を出した。
「休日が重なったから、劇を見に行ったじゃない!」
「俺が? 君と?」
どうしてだ。休日に知らない女性と過ごすなんて。
困惑していると医師が説明してくれた。
「ガイシス通りを歩いていただろう? 二日前の豪雨で地盤が緩くなった街路樹が突然倒れて人が下敷きになったと連絡があったんだ。王城の近くだし、騎士団のクロムウェル君だと分かったからここに運んだのだ」
「……二日前に豪雨? まさか!」
二日前が休日で天候も良かった。今日が休日な訳ない。都警備団との合同練習の日だ。
主任医師の顔色が変わる。
「クロムウェル君、今日の年月日を答えてくれ」
「今日は──」
答えると、ずっと様子を窺っていた女性が悲鳴を上げた。
主任医師が顔を顰めて緩く首を横に振った。
「クロムウェル君、落ち着いて聞きたまえ。今日は……」
ディランは愕然とした。およそ二年間の記憶を失っているらしい。
「身体が頑丈で良かったな。打撲と浅い傷だけで」
駆けつけた騎士団長が軽い調子で言う。ディランは不機嫌に「良くないですよ」と反論した。
「いつの間にか二十二歳になってるんですよ。しかも第三部隊長だし。記憶にない出世とか怖すぎる」
「ま、身体が覚えているから心配ねえだろ。執務だってそこまで責任ねえし、傷を治して早く復帰しろ」
「……絶対知らない部下とかがいる」
「気のいい奴らだぜ、大体は。大体は、な」
「なんで二回言うんですか。不安を煽りに来ただけなら帰ってください」
「口がそれほど達者なら大丈夫だ。思い出せなくても二年の空白なんかそのうち埋まるさ!」
団長は好き勝手にほざくと豪快に笑いながら帰って行った。
大雑把な人だ。しかし好物の果実を持ってくるところが団長らしい気配りだ。ディランは見舞いのリンゴを丸かじる。
「……レミは俺の事故を知らないのかな……」
騎士や兵士は、職業柄危険が多いので、怪我の時の付き添いをする緊急連絡人物を登録している。
ディランの家族は離れた故郷にいるから、急には駆けつけられない。だから恋人のレミ・アッシュブレアーネを指定していたのだが、連絡がつかないのだろうか。
そして、何故あのジェニファー・ゼタールとかいう銀髪の女性と出かけていたのか?
ディランは翌日には退院の許可が出たので、朝にさっさと一人で騎士寮に戻った。しばらくは強制自宅療養である。
「大変だったな」
仕事の合間に同僚が次々と訪れて、とても安静にはしていられない。
同期のマイルズは「内臓が悪いんじゃないならいいだろ」と酒を持参し、コップに入れて寄越すのだからとんだ悪友である。ちゃっかり自分も飲んでいるあたり、見舞いなのかどうか疑問だ。
「せっかくジェニファーちゃんと初めてのデートだったのに災難だったな」
マイルズの言葉にディランは驚き、酒に咽せた。
「は!? 何言ってんだ?」
背中をさすってくれるマイルズを睨むと、彼は不思議そうにした。
「え? 彼女の誘いをようやく受けただろ?」
そう答えてからマイルズはハッと気がついた。
「そっか……、おまえ最近の記憶がないんだったな。もしかしてジェニファーちゃんとの約束を覚えてないのか?」
「……知らない女だ。それに浮気みたいな真似はしない。俺はレミと付き合っているじゃないか」
言いながらディランは不安になる。
「おい! 団長は最近の記憶がないと言ってた!! もっと昔の記憶もなのか!? おまえとレミちゃんは一年前に別れてる!」
マイルズの真剣な声で、ディランは最悪の事態だと知った。
レミ・アッシュブレアーネは医療省に勤めて四年目の国家薬師だ。
騎士のディラン・クロムウェルは王立学院の同級生である。元々接点のない薬学科の彼女が騎士科のディランと出会ったのは偶然だった。
図書委員だったレミが放課後図書室にいた時、歴史の授業の資料としての本を探しに来たディランとたまたま出会った。図書室利用が初めての彼は、カウンターのレミに声をかけて何冊か薦めてもらう。それがきっかけで二人は話すようになった。
「騎士科の人って、一度も図書室に入らず卒業するのが普通と聞いていたわ」
「あー、勉強嫌いなヤツ多いしな。力が総てみたいなところはある。でも“普通”は言い過ぎ」
「いろんな本があるのにね」
「タダで娯楽本も読めるのにな。冒険譚や恋愛ものが結構あるのに驚いた」
「それらは卒業生の方が寄贈してくれるのも多いの」
「それはありがたいな!」
屈託ない笑顔は爽やかで、レミがディランに淡い想いを抱くのに時間はかからなかった。
整った顔とスタイルの良さに加え、騎士科でも実技、座学共に成績がトップクラス。明るく優しい彼は当然人気者だ。貴族制度が廃止されて久しい今、学歴を得たい旧貴族のお嬢様たちを受け入れる学科がある。その教養科の生徒たちにもディランはよく囲まれていた。
ディランが気にかけているレミは、パッとしない少女なだけに妬みの対象だった。奥手なレミは密かな恋を成就させる気など無かったのに。
そして卒業間近。ディランに卒業パーティのパートナーを頼まれびっくりした。もっと親しい女子もいるだろうと断ったが再度誘われ、学生時代の最後の思い出にとようやく申し込みを受ける。彼にエスコートされて夢のような時間を過ごした。家まで送ってくれた彼に「付き合ってほしい」と告げられ、それから二人は交際を始める。
始めは良かった。医療省と王立騎士団に進んだ二人の勤務地が少し離れていても、時間を作っては会っていた。
十八歳で交際を始め二十歳になった頃には会う頻度も落ち着く。それでもレミは交際は順調だと思っていた。
交友関係が広がり忙しく過ごすうちにすれ違ったのだろう。とうとうレミはディランに別れを告げられる。元々不相応な相手だったのだと、すんなり受け入れた。二十一歳の冬の出来事だった。
「あんたの元カレ、ジェニファー・ゼタールとデート中に彼女を庇って怪我をしたそうよ」
医療省の総合事務課のカーリー・シーラムがレミに告げた。口元にはうっすらと嘲りの笑みを浮かべていた。
「そうですか。大事なければいいですね」
終業後、一階エントランスでたまたま会ったカーリーに、レミは足を止める事なくそう返し「お疲れ様です」と、軽く頭を下げて彼女から離れた。
「何よ。まだ未練あるんでしょう? 強がっちゃって」
絡み捨て台詞だ。ディランと別れた後は似たような言葉をあちこちで聞いた。くだらない。
「シーラムさん、嫌味は品がないよ」
通りがかった薬剤品質管理部の副主任グレイヴ・サンチェットがカーリーを咎めた。自分を庇ってくれているので流石に素通りできず、レミは仕方なく足を止める。
「いやだ。違いますよ。心配しているんです。レミさんとは同級ですし」
見目良い独身男性のグレイヴに対しては声のトーンが違う。レミはチラリと彼女を盗み見た。瞬時に媚態じみた態度を取れるカーリーに、呆れを通り越して感心すらする。
教養科のカーリーとは四年の在学中、一般座学で同じ授業を受けただけで話した覚えすらない。ディランとの交際を知ると悪口と嫌がらせをしてくる筆頭だった。別れたら嬉々として「振られて当然よね。あんたみたいな取柄のない女」と言ってくる結構アレな性格である。
「じゃあ言葉使いは気にしないとね。この時間はこんなに人がいる。君の好感度に影響するよ」
グレイヴの忠告に「はあい、わかりましたあ」と、幼稚な口調で素直に返す変わり身の早さはすごい。
「綺麗な子なんだから黙ってニコニコしていればいいのにね」
並んで外に出るとグレイヴは苦笑いをした。
「そうですね」
レミもつい同意してしまった。
「新しい恋をしないの? 結婚は考えていない?」
尋ねられてレミは首を振る。
「そのうちにですね」
「じゃあその気になったら言って。デートに誘うよ」
手を振って笑いながら去っていく男の後ろ姿をレミは見送る。
「恋はもういいかな」
楽しく幸せな思いをした。それ以上に切なく苦しく自己嫌悪に陥ったりもした。
結婚するなら見合いでいい。穏やかに愛情を育んでいけそうな純朴な相手がいい。華やかな人はもう懲り懲り。
「そっか……ゼタールさんと付き合い始めたのか」
ジェニファー・ゼタールは騎士団の経理部にいる楚々たる美人で、騎士たちに“騎士団の華”扱いされている女性だ。彼女がディランに急接近している噂は聞いていた。美男美女でお似合いだ。彼女は自分を守ってくれたディランの面倒を甲斐甲斐しく見ているだろう。レミがディランの怪我を心配するまでもない。
別れてもう一年だ。久しぶりにディランの笑顔を思い出した。
「よう、今帰りか」
下を向いて歩いていたレミは、掛けられた言葉に驚いて顔を上げた。
まさに。
今思い出していた男が目の前にいた。淡褐色の瞳に短髪黒髪の懐かしい美丈夫。
「こんばんは。怪我をしたと聞いたけどもう大丈夫なの?」
知人に対する最小限の気配りだ。
「あ、ああ、今日から仕事に復帰した」
「そう、元気そうで良かったわ。じゃあね」
正面にいる彼を避けて横を通ろうとした。が、「待ってくれ」と腕を掴まれる。咄嗟の行動だったらしくディランはすぐに手を離した。
「何の用? この事、ジェニファーさんは知っているの?」
昔の恋人に会うと知ったら気分が悪いに決まっている。棘のある言葉しか出てこない。
「誤解だ! 彼女とは付き合っていない!」
「そう。でも私には関係ないわ。さよなら、クロムウェルさん」
冷たく突き放すとディランは傷ついた顔をした。一体何なのよ。レミは苛立って彼を睨んだ。
「……ちょっと話をしたい。一緒に食事しないか」
「お断りよ」
ディランと話す事なんて無い。関わりたくない。
「頼むから!」
無視しても呼び止めながらディランは付いてくる。このままでは家まで来そうだ。それに周りの好奇の視線が気になる。若くして騎士団の一個隊長のディランは結構有名だし、レミが元カノなのは知る人ぞ知る。目立って仕方がない。
家に押し入られる心配をするなら、ここで話にけりをつけた方がいい。
「分かったわ」
路地裏の静かな食事処に連れて行かれる。知人がいなくてレミはほっとした。
「何ですって……」
ディランの話を聞いてレミは驚きのあまり目を見開いた。
「あなたの時間は二十歳で止まっているの?」
「そうなんだ」
「記憶喪失だなんて……」
「いつの間にか隊長になっていて、上司も代わってるし後輩も知らない奴が大勢いる」
「それは大変ね」
「環境は慣れればいいからそこまで大変じゃない。でも……」
ディランはそこで言い淀んだ。
「俺は何故か大切な恋人と別れている。意味が分からない」
レミは溜息を吐く。
「分からないも何も、あなたが別れを切り出したのよ。振られたのは私」
「……信じられない。どうして俺は君を振ったんだ!」
「しんどい、疲れた、君といると辛い、って言われたわ」
「君は別れを黙って受け入れたのか!?」
非難じみた声に、レミはディランを睨みつけた。
「私も縋り付くほどの想いは残っていなかったんでしょうね」
「俺は、俺は……、君と別れていない」
ディランの言葉は真実なのだろう。まだ二人寄り添っていた時期の記憶しかないのなら。
「二十歳のあなたは一年後、私を捨てたの。記憶が戻るのを待てばいい」
「医師は記憶が戻らない可能性もあるって言った」
「それはあなたの事情で私は関係ない」
冷たい言い方の自覚はあったが、二度と人生が交わらない相手である。こんな会話は不毛だ。
しかしディランにとっては別れた事実が青天の霹靂なのだ。あんなに好きだったレミと別れるなんて、よっぽどな事があったに違いないと思い込んでいる。
「俺ともう一度やり直してくれないか」
「嫌よ」
間髪を容れずにレミは断った。
「一年前に終わった恋なの」
「話はおしまい」とレミは自分の食事分の金額をテーブルに置いて席を立ち、呆然とするディランを残して店を出た。
レミはディランときっちり話をつけたつもりだった。しかし。
「これ、街で話題の菓子なんだってよ」
「この栞やる。レミの瞳みたいな瑠璃色で綺麗だろ」
「市場のおばちゃんに貰った。南の珍しい果物だ」
ディランは時間が合えば土産を手に、医療省の入り口付近でレミの終業を待つようになる。最初に話題の菓子の誘惑に勝てずに受け取ったのが敗因だ。
「クロムウェルさん、いい加減にしてください」
小さな花束を渡されて、とうとうレミは苦言を呈する。付き合っていた当時でも貰わなかったのだ。別れた今になって渡されるのは苛立つ。
「惚れた女を口説いているんだから当然だ」
「なっ……」
「卒業式の日に両想いで付き合い始めただろ。今の俺は片思いの相手を振り向かせようとしている男なんだ。好意は表さないとな!」
そしてレミの住む集合住宅まで送る。その間に誘う食事に頷かないレミに対し、不快な顔もせずディランは彼女を部屋まで送り届ける。かつてはよく訪れたその場所に入れろとは決して言わなかった。
『ディラン・クロムウェルが昔の女とよりを戻そうとしている』
そんな噂が飛び交うようになる。ディランは行動を隠さないのだから当然だった。それにより、鎮火していたレミへの悪意が再燃する。流行りの髪型もせず装いも地味なレミは、いい男に追われるに値しないと思う女性がそれなりにいるのだ。
「もっさりした格好ね」
「素朴な感じで純情ぶる手管なのかしら」
「気を持たせて何様なの」
「どうせまたすぐに飽きられるわよ」
カーリーを始めとして、聞こえるように陰口を叩かれる。
昔と同じだ。変わり映えのない悪口の数々。かつては聞くのが苦しかった言葉に、驚くほど感情が動かない。
成長していないわね、と思うくらいだ。
以前二人が交際していた事実を知らない者も、レミの存在を知る事になった。
「あのクロムウェルが口説いているのだから、いい女なんだろう」
「結構可愛いじゃないか」
「派手で高慢な女より、大人しくて従順そうだ」
男たちの視線が煩い。
中には「身体が良かったのか? 今夜どう?」などと、ふざけた男もいた。
「あなたのせいで遊び人に目をつけられたわよ」
レミが文句を言うとディランはすぐさま「誰だ!?」と反応する。
「さあ? 騎士団の人よ。わざわざ制服で来るんだから、あなたに反感抱いている人なんじゃない?」
「俺からレミを掠め取る気か」
出世頭の自分があちこちで妬まれているのは知っている。しかしレミにとばっちりがいくなんて想定外だ。交際していた時はレミにこんなに纏わり付かなかったので、余計目を引くのだろう。
「変な奴に絡まれるなら俺と付き合った方がいい」
「どんな理屈よ」
「今の俺は君が誰と居ようが文句を言えない。恋人なら変な男を全力で排除出来る」
レミは眉尻を下げた。
「今更……。昔はそんな事言わなかったくせに」
「今は口説いている」
ディランは失った記憶をマイルズから聞いている。
「別れる前はさ、おまえ、“レミが笑わなくなった”って零してたぜ。すごく悩んでいた」
その時自分は関係を修復する努力をしたとは思えない。レミはこうなんだと決めつけて『俺といて幸せじゃないなら解放してやる』気持ちで、別れを切り出した可能性が高い。傲慢だ。
了承されてショックだったのだろう。なんせ半年くらい酒と仕事に逃げていたらしい。害獣駆除や外交官の外遊護衛など進んでやっていたんだと。道理でその時期は特別手当が加算されて給料が多い。
笑ってしまう。失ったものを再度取り戻そうと必死だなんて。きっと別れる前にする事は多々あったはずなのに。スマートであろうと見栄を張るくらいなら、情けなくレミに縋れば良かったんだ。
「あなたはモテるから女の子を取っ替え引っ替えしてると聞いたけど。やっと出来た本命がゼタールさんだって」
『二人きりで会ってないのに、何故かおまえと一夜を過ごしたって言い張る女が続出で、おまえは面倒臭がって放置していたから“女たらし”の称号を得ていたぞ』
マイルズに教えてもらって絶句した。どうして俺は否定しなかったんだ! レミと別れてどうでもよくなったのか、悪い噂は自業自得である。
「女遊びもしてないし、本命も違う!」
「でも怪我をした日、あなたはゼタールさんと二人きりで出掛けていたわ」
それを言われると痛い。実際自分がどんな気持ちで彼女の誘いに乗ったのか不明だから。
「ようやくレミを吹っ切ろうとしたんじゃないかな。ゼタール嬢に恋をしたとは思えない」
考え考え憶測を口にした。
ジェニファーの態度はあからさまで「あんなに想われているならデートしたらどうだ」と同僚が勧め「古い恋を忘れるには新しい恋だ」と背中を押したらしい。俺は然程乗り気じゃなかったそうだ。
ジェニファーは清楚な感じの美人だ。しかし自分の好みとはかけ離れている。手際のいい看護師に任せてほしいのにディランの面倒を見たがる、ありがた迷惑な存在だった。
「俺はレミと別れていないんだ」
だから他の女性に目移りしない。
「もしかして気になる男がいるのか?」
「いいえ」
正直に言ってしまった。不安そうなディランの問いに、本気で彼を突き放すなら「いる」と答えるべきだった。
「じゃあお試しでいいからやり直してほしい」
「何よお試しって。もう一度苦い恋に振り回されろって言うの?」
「……気になる男がいないなら、付き合ってください」
「ずるい言い方ね」
「だって、他に方法がない」
「私じゃ、あなたに釣り合わないわ」
ずっと劣等感を抱えていた。ずっと終わりを想定しながらディランの側にいた。だから別れを告げられた時、文句ひとつ、涙一粒、ディランの前で零さなかった。常に破局を覚悟していたからで、矜持でも見栄でもなかった。
彼女が未練なく去ったように見えたからこそ、ディランは自分の判断は間違っていないと思ったのだ。
「釣り合わないって誰が決めるんだ。そんな事」
「私がいたって、あなたは女の子によく声を掛けられていたわ」
「眼中に無かったけど」
それはレミだって知っている。でも彼女たちは恋人のレミを見て、これならディランを奪えると考えたのだろう。
「あなたのどこがいいのかしら」
面と向かって何人にも言われた。レミと違って自信に満ち溢れた女性ばかりだ。
「お行儀よく別れた自分が信じられない。やり直すチャンスをください」
「そしてあなたは、つまらない私にまた愛想を尽かすの? 同じ事を繰り返すだけだわ」
「今レミは二十二歳で俺は二十歳だ。記憶の君より堂々としている。仕事や人間関係が充実している感じがする。その生活の中に、この年下の男を加えてください」
レミは思わず笑った。学生時代のようなこの懐かしさ。可愛らしいと感じる。今なら彼に群がる女性に嫌な思いはしないのだろうか。いや、性格は変わらない。きっと自分は彼が仕事で関わる女性にも嫉妬して、遠くで唇を噛むだろう。
「無駄ね。早く記憶が戻るといいわね」
「記憶が戻ったら謝る! 別れを告げてごめんって! 恋人は君だけだって!」
それからもレミは色よい返事はしなかった。靡かないレミと口説き続けるディランの姿は、医療省界隈では最早風物詩と化していた。