三度目の新月の夜
三度目の新月の夜が来た。
来て…しまった。
今までと同じようにさら湯に薬を入れて入浴する。
迷いに迷って出した結論はククさんとの別れだ。
祓い方を思いついたんだからいつでも祓えるような気がする。
もう少しククさんと一緒にいてからでもいいような気がする。
でもそうじゃない。
あと一度でも姿を見て、言葉を交わしたら…
祓えない。
ずっと一緒にいる羽目になる。
きっと益々好きになってしまう。
チャンスは今日しかない。
この日は服を着ないで入浴した。
今までよりもうんとドキドキしてククさんの出現を待つ。
出てこない。
「ククさん。
いるんでしょ、姿を見せて」
そう声をかける。
「いや」
ククさんが返事をした。
ククさんも何かを感じてる…
「お願い」と指をくみギュッと目をつぶった。
そしてそうっと視線を落として水面を見たらお湯に浮かぶククさんの黒髪が見えた。
俺は顔を上げずククさんに抱きついた。
別にスケベ心からではない。
決心が揺らがないように。
だってククさんの顔を見たらきっと祓うことができなくなってしまう。
きつく抱きついたククさんの
顎が肩と首の境に乗る。
「ククさん、この前俺の言ったこと憶えている?
…お願い、一年ごとに憑く人を変えて。運のいい人を選んで。
人ってそんなに強くない。
うまくいかないことが重なるとどうしてもいやになっちゃうんだ。
努力することが無駄に思えてきちゃうんだ。
ごめん、ごめんククさん。
考えて考えて考えたんだけど…
林秀人は貧乏神背負って生きていけるほど人として強くない。
実力がない。
だから…
さよなら、ククさん」
言え!
逆さに呼びかけろ!
と命令する自分がいる。
そしてこの期に及んでまだククさんとの別れをためらっているもう一人の自分がいる。
「秀人…」
駄目だ!
ククさんに喋らせては。
俺はククさんに抱きついたままククさんの名前を逆さに呼んだ。
「んさクク」
俺の肩に顎を乗せていたククさんが「あ…」と耳もとで小さくつぶやいた。
次の瞬間。
一気に背中の皮がめくれるような感覚があり、きつくククさんに抱きついていた俺の両腕はお湯をかき自分自身を抱きしめるかたちになった。
激しくお湯が揺れる。
そしてしばらくするとそれは収まりお湯はきれいな水平を取り戻した。
いなく…なった。
ククさんが。
やっぱり、思いついた方法は正しかった。
敬称から逆さに呼ぶことで名前を逆さに呼んだ証明になった。
ククさんを呼び捨てになんか出来ないと言った俺の言葉に顔を曇らせたククさん。
あの時の顔がヒントになった。
「ああ、いなくなってしまった」
思わずそんな言葉が口をついて出た。
俺はしばらく浴室の天井をぼうっと見ていた。
「はは。
成功…しちゃった」
ククさんは、どこに行ってしまったんだろう…
風呂を出て自分の部屋に戻った時、ひどい違和感を感じた。
広い…
この部屋こんなに広かったのか。
ドアを開けた瞬間、掃き出しのサッシまでの奥行きの広さに驚いた。
たとえば一緒に暮らしていた恋人が部屋を出ていったとき、こんな風に感じるんだろうか。
8畳の部屋に足を踏み入れた途端、涙が出てきた。
その部屋の広さが耐えきれずそのままベッドに潜り込んで布団を頭まで被った。
そうしたら…
布団のひんやりした感触が一層心を冷やした。
ああ、布団ってこんなに冷たいものだったのか。
今まではすぐに自分の体温で温まって来ていたのにいつまでも冷たい。
ククさん…
ククさんは俺のエネルギーや運を奪っていたけど、温もりは与えていてくれたんじゃないかな。
それこそ俺が赤ん坊の時から。
赤ん坊の自分と添い寝するククさんの姿がくっきりとした映像として目に浮かぶ。
ベビーベッドのなかで身を丸めて俺に添い寝するククさんの姿が。
…もうこんなことを考えずに寝てしまおう。
寝ながら俺は泣いていたようで翌朝は腫れて目が明かなかった。
「秀人、あんた学校に行かない気?」
「うん…行かない
調子が悪いから今日は休む」
掛け布団を頭までかけた状態で俺は母さんにそう答えた。
「ねえ、あんた、やっぱり…」と母さんはなにか言いかけたけどふうとため息ひとつついていて部屋を出ていった。
後で聞いた話だけど、この時母さんは担任の先生に最近息子の様子がおかしい、学校で何かあったのではないかと相談の電話をかけたんだって。
俺が佳祐と和子さんを取り合って負けたという噂を耳にしていた担任は、失恋が原因じゃないかと思ったらしく、この年頃の子供は色々ありますから…しばらく気をつけて私も様子を見てみますと言ったらしい。
いじめを心配した母さんより、失恋を疑った担任の方が現実に近い。