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カサブランカの香り

作者: いちどめし
掲載日:2019/10/30

 手の話ですか。


 していらっしゃったでしょう、手の話。


 何と言ったら良いんでしょうかね。

 そうですね、ええ、もしかしたら私、知っているんじゃないかと思いましてね。


 はい。

 そう、手をです。


 見つけたと言いますか、今申しました通りね、知っているんですよ。


 どこで、と聞かれましてもね、そうですねえ、とても、申し上げにくいのですけどね、

 ここ、なんですよ。


 ああ、いえ、今はね、どうやら、いないようです。


 嘘、と言われましてもね、ううん、残念ながら証拠などはないのですが、それでも見たんですよ、私は。


 初めてその手に気がついたのは、先週の頭でしてね。


 そんなはずがない、ですか。


 でもね、それが、あるんですよ。

 私だって最初は目を疑ったものですが、それでも間違いなく、手が。


 今日の電車、混んでいるでしょう。

 普段のこの時間ならいくつか空席が――ええ、空いているんです、本当は。

 ですから先週のその日にはね、座っていたわけです、私は。


 でも、空いているとは言え、仕事帰りの人が多い時間ですからね。

 がらがらに空いているというわけでもなくて、詰めてまで座りたいわけでもない、という人もいる、といった具合でして。


 ケータイをいじっていたんですよ。


 いえ、私が、です。

 最近じゃあ大勢そうしてますようにね、私も画面を見ていたわけです。

 それで、ふと、何の気もなしに視線を上げてみたんです。


 するとね、吊り革を掴んで立っている女性が視界に入りまして。

 そこで、あれっと思った。


 最初は、よく分からなかった。

 ただどうにも、違和感があった。

 どこがどうおかしいのか分からないんですが、違和感だけがあるんですよ。


 じっと見てみるというのも不審がられるかなとは思ったんですがね、運良くと言いますか、幸いにもその人は、それまでの私と同じように、片手でスマホを持って、その画面に釘づけになっていまして。

 ですから私は視線を外さずに、その違和感の正体を探ってみようとしたわけです。


 普通の、と言うか、何の変哲もない人なんですよ。

 顔も服装もあんまり覚えてはいないんですけれどね、ちょっとラフかなという程度の、本当に何の変哲もない。


 でね、気づいたんです。

 違和感の正体に。


 吊り革を持つ手がね、多い。


 右手にスマホを持って、左手で吊り革を掴んで。

 その、左手の上にね、指が、覆い被さっている。


 ええもちろん、その人の手であるわけがないんですよ。

 でも、多いとしか言いようがない。

 だって彼女の近くには吊り革を掴むことのできる他の人なんていなかったんですから。


 そうですよね。

 今思えば怖いというか気持ち悪いというか、自分でもそう思うんですけど。

 でもね、そのときは本当に、意味が分からなくて。

 なんだろうあれは、という好奇心というか興味というか、それしかなかったのです。


 見間違いかと思いました。

 指に見えるけど、どうせ違う何かなんだろう、と。

 だけど見れば見るほど手なんです。

 ああ、爪があるなあって。

 もう、見間違えようもなく手が多いんですよ。


 違う角度からも見てみたくなったんですが、それをしようと思ったら、席を立って移動しなければならないわけで。

 さすがにそこまでするのもどうかと、ね。


 そしてそのまま――手は多くて、私は何もできない、そんな状態のまま次の駅に着いた。

 その女性はね、そこで降りていってしまったんです。

 降りるなら当然、吊り革からは手を放すわけでして、その、放す瞬間に、

 手はね、


 はい、その、上にあった方の手は、こう、すうっと奥に引くみたいにして女性の手から離れると、そのままどこかへ消えてしまったのです。


 もう、不思議で不思議で。

 一体あれは何だったんだ、って。

 吊り革の方がおかしいのか、電車から降りた女性の方にタネがあるのか、あるいは自分の目がおかしくなってしまったのか。

 確かめようにもどうしたら良いのかすら分からなくて。


 そうやってもやもやしているところに、新しく乗ってきた男性が、ちょうどその吊り革を持ったのです。


 もちろん、見ましたよ。

 吊り革を、じいっと。


 まず、吊り革を持つじゃないですか。

 その段階では、ええ、手はその男性のものしかないわけです。

 だけどね、扉が閉まって電車が動きだすと、

 はい、そうなんですよ。

 手が、出てきたんです。


 輪っかを掴む手の、その陰から少ぉしずつ、少ぉしずつ、滑るようにして、指が出てくる。

 そして見る間に、最初の女性のときと同じように、覆い被さるかたちになったのです。


 彼は、それに気づいていないようでした。


 私はそこで初めて、ああ、見てしまったな、と。

 見てはいけないものを見てしまったんだなと怖くなってしまいまして。

 かといって目を離すのも何だか不安で、だから自分の降りる駅に着くまでは見ていようと、そう決めました。


 今度は、はい、その男性のときには、手が多い、とは感じなかったんですよ。

 その理由は、すぐに分かりました。


 指が細いんです。


 最初の女性の指は、その手と同じような細さだったので、だから多い、と感じたのだと思います。

 ところが、新しくやって来た男性の指と比べると、明らかに細い。


 つまりね、やっぱり手が多いのではなくて、別人の手が乗っている、そういう状況だったわけです。

 だけどもちろん、その手の持ち主らしい人が近くに立っているわけでもない。


 この男性はいったいどうなってしまうんだろうかと、びくびくしながら見守っていたわけですが――まあ、結論から言ってしまえば、何事も起こらなかったわけです。

 何駅かの間そのままだったのですが、彼が降りるために手を放すと、その手はやっぱりすうっと離れる。


 思い返してみれば最初の女性だって何事もなく降りて行ったわけですから、あれは害のないものだと、気味が悪いけれど害のあるものではないんだと、そう思うことにしたのです。


 その日は、それで終わりです。

 男性の降りる駅が私と一緒でしたからね。


 ええ、もちろん、降りる際にその吊り革を見てはみましたよ。

 どこからどう見てもただの吊り革で、何かが隠れているようには。


 触ってみる勇気は、そのときはありませんでしたけどね。


 はい。

 そのときは。

 結局、次の日には触って確かめることになりました。


 同じ時間に、同じ電車の、同じ車両に乗って。

 普段から帰宅時にはそうしているというだけで、手があるから乗ったのではありませんよ。


 ただ、ね。

 やっぱり、気味が悪いとは思うんですよ。

 いつもの車両を避けようか、いつもの電車を避けようか、いっそタクシーで帰ろうか。

 迷いはしました。それでも結局同じ時間の同じ車両に乗ったのは、いつもそうしているから、と言うよりも、気になったからに他ならないのでしょうね。


 いえいえ。

 吊り革を触って調べようと、初めからそういうつもりで乗ったわけではありませんよ。

 むしろ、そうですね、もう出てこないことを確認しに行った、と言うべきでしょうね。


 あんな得体の知れないものが見えたのは、あのときだけなんだということにして終わらせたかったのです。


 ところが、です。

 その日は、その吊り革を掴む人はいなかった。


 他の吊り革を掴む人はいたんです。

 ですが、そこに手は出てきていなかったのです。

 やっぱりあの吊り革じゃないと出てこないんだと思いました。


 それで、まあ、誰も握らなければ、手が出てくるのか、もう出てこないのか、確認のしようもないじゃないですか。

 とはいえ、誰も握っていないということはチャンスでもあるぞ、と思いまして。


 握るチャンス、ですか。

 いえ、ははは。

 もちろん、吊り革なんですから握る以外の選択肢なんて、今思えば、はい、ありませんでしたけどね。


 ちょっと調べてみるチャンスだと、そう思ったわけです。

 だから席を立って、近づいた。


 指先で軽く触ってみたり、角度を変えて見てみたり。

 人目がありますからそう露骨に観察するわけにもいかなかったのですが、私には普通の吊り革だという判断しかできなかった。


 そうなるともう、いよいよ、握ってみるしかない。

 吊り革を握っているときにしか手が出てこないんですから、手が出てこないということを確認するには、やっぱり握ってみるしかない。


 勇気、とは違うんだと思いますよ。

 あのときの私は、出てこないことを確認したかった。

 つまりね、出てくるわけがないという思いの方が、出てくるんじゃないかという不安よりも大きかったのです。

 何の根拠もありませんけどね、あんな奇妙なことが二日連続で起こるわけがないと、ましてや自分の身に降りかかるわけがないと思っていたのです。


 いやあ、出ましたよ。


 手の甲に、何かの触れている感触がありましてね。

 だけど、手の甲を見ても何もない。

 おかしいなと思っているうちに、その感触はすうっと上ってきて、そのまま指に沿うようになって。


 僅かにね、重みを感じるんですよ。


 姿は見えないにしろ、前日に見たもののことを考えれば、私の手の上にあの手が被さっていることはもう疑いようもないわけです。

 だけどね、私は冷静でした。

 怖いと思うまでには、一瞬の間があるんでしょうかね。

 その一瞬の間のうちに、どうすればその感触から逃れられるのかを思いついたんです。


 そう、単純な話で、吊り革から手を放せば良いんです。


 そっと、ゆっくり、放しました。

 するとその感触が消えるのが分かりました。


 ああ、良いんですか。

 場所、譲ってもらっちゃって。


 はは、変な話しちゃいましたからねえ。

 気味悪がらせてしまいましたかね。


 いえ、すみません。

 でしたら、じゃあ、

 この吊り革は、私が。


 ふふ。


 ああ、いえ、譲っていただいて、ありがとうございます。


 お礼ついでに、ひとつ。



 さっきのね、あれ、嘘だったんですよ。


   ✳︎


 確信した。

 手は、やっぱり無害な存在なのだ。


 そう思うと、爆発しかけていた恐怖心が急激に縮んでいった。

 代わりに思い出されるのは、私の手に乗っていた僅かな重みと、見えずともはっきりと分かった指の感触である。


 確かめたくなってしまった。


 手が出てこないことを、ではない。

 たった今感じたあの感触を、今すぐに、もう一度、確認したくなったのだ。


 触られたばかりの手を、再び輪に近づけていく。


 心臓が暴れていた。


 さっきの驚きが残っているのかも知れなかった。

 恐怖心をごまかすための生理現象なのかも知れなかった。

 手に再び触れられることを想像して昂っているのだと思った。


 今度は、何の遠慮もためらいもなく、何の曰くもないただの吊り革を誰もが何も考えず利用するときのように、握った。


 何も起こらないな。


 ほんの一瞬だけ、そう思った。


 ほんの一瞬ですら手の感触を待ちわびてしまった自分に、心地の良い気味悪さを感じた。


 ああ、ほら。


 やっぱり。


 来た。


 私は笑っていた。

 口角の持ち上がる自覚があった。

 予想した通りの感触が手の甲を這い上がってきたことが、どうやら私は嬉しかったらしい。


 姿は見えずとも、はっきりと感じる重み。


 冷たい手だ。


 姿の見えない五指の感触は、冷たかった。


 ただの、冷たい手だ。


 死人の手のようではない、ただの冷たい手。


 吊り革の握り部のつるりとした無機質な冷たさとは違う、ただの、柔らかい、冷たい手だ。


 見渡すと、吊り革を握る私の手を――私の手に乗っているのに違いない手を――気にしている者は、ただの一人もいないようだった。

 各々の手元に視線を落とした乗客ばかりが、見慣れているはずで見覚えのない夜の町並みを背景にして一様に揺られている。


 私のものではない手が、車輪の振動に併せて重みを変化させながら私の手を柔らかく押さえつけていることを、彼らは誰一人として知らないのだ。


 私だけが知っているのである。


 心臓が暴れている。

 唐突に芽生えた優越感が、心を刺激して止まないのだった。


 どぎまぎしながら、空いている方の手を伸ばしてみる。

 探求心が私を突き動かしていた。

 この不可思議な現象を、可能な限り味わってみなくては。


 伸ばした指が、見えない何者かの手に触れる――そうなるものだとばかり思っていた。

 しかし私の指先はそんな予想に反して、何に遮られることもなく自身の手の甲にたどり着いてしまう。

 見えない手の重みを感じたままで、その上ではっきりと私の甲を私の指先が刺激した。


 何とも奇妙な感覚。


 こちらからは触れられないとなると、さて、次はどうしたものか。


 まじまじと、自分の手しかないその空間を見つめて、ふと気づいた。


 指が多い。


 吊り革に通した自分の四本の指が、輪の向こう側ではどうやら、増えている。


 これだ。


 合点がいった。

 とてもとても冷静に、私はこの現象の仕組みを理解した。


 試しに吊り革を捩じって指の側をこちらに向けてみると、昨日見た絵面がそのまま目の前に現れた。


 吊り革を掴む私の手に体重を預けるようにして、手が、覆い被さっている。


 なるほど。

 手の甲の側から輪を覗き込んでも、それは見えないのだ。


 反対側から飛び出した指先や、そちら側から輪を通してならば、手の姿を確認することができるのだ。


 昨日見た通りの、細い指。

 細くて、しなやかな、右手。

 吊り革を見上げるかたちになってしまうせいで指の付け根が辛うじて視認できるという具合ではあるものの、透明なマニキュアと、指に走る血管と、中指のささくれを、一目で認識することができた。


 ああ、生きているのか、これは。


 そう確信した途端、単純なもので、彼女の脈拍すらもが感じられるような気がしてきてしまう。


 いったい、何なんだ。これは。


 今更にして今一度の疑問。

 これが得体の知れない現象であるという認識が、ざるの穴から固形物がぞわぞわとにじり出るようにしてぶり返してくる。


 駅への到着が近いことを告げるアナウンスが耳に入って、私は現実へと引き戻された。

 吊り革から手を離そうとすると、私の指は何の抵抗もなく持ち上がり、覆い被さっていた手は輪の向こうへと引き返して姿を消してしまった。


 汗をかいていた。


 私の両手は、額は、気づけばじっとりと湿っていた。


 どういう理由の汗なのか、今となっては既によく分からない。


 速度を落としていく列車の中で、白くなった自身の手のひらをぼんやりと見下ろしながら、私はひたすらに扉が開くのを待つことにした。


 汗をかいていた。


 私の手に乗っていたあれは、僅かに汗ばんで、私の手の甲を確かに湿らせていた。


 もう、その夜は、吊り革へ手を伸ばすだけの好奇心は残っていなかった。



 もしかしたら、今はまだ害がないだけで、今後何か良くないことが起こるのではないだろうか。


 電車を降りてから、自宅に着いてから、眠る前、眠っている最中、夢の中で、目が覚めてから。

 時間を空けて何かしらの不吉が訪れないなどという保証が、いったいどこにあるというのだ。


 手との接触を果たしてからというもの、私の中ではそんな不安がぶくぶくと成長し続けていた。


 理由は明白である。


 恐ろしかったのだ。


 紛れもない怪奇現象に遭遇してしまっただけでなく、事もあろうに私は自らそれに近づき、触れてしまったのだ。

 これで恐ろしく思わないなど、どうかしている。


 自分がどうかしているだなんて、考えただけでも恐ろしい。


 だから私は、自分の中で自覚的に不安を育てることにしていた。

 私はあの現象を恐れているのだと、自分に言い聞かせることにしていた。

 そうしなければ、私はどうかしているということになってしまうからだ。


 そして、やはり、私の不安とは裏腹に、私の身の回りは至って平穏なのであった。


 朝の電車に乗っても、昼食時でも、外が薄暗くなってからも。

 普段通りの生活がただの一つの綻びもなく通り過ぎ、だから私は必死になって不安を膨らませ続けていた。


 今日は何も起こらなかった。

 だけど明日には何かが起こるかも分からない。いや、まだまだ、今日だって終わっていないのだ。


 初めてホラー映画を観た後の幼い数日間に思い浮かべるような、有りもしなさそうな恐怖の妄想をいくつも遊ばせているうちに、いつもの車両が扉を開けた。


 昂る気持ちを否定しながら、車内で無個性に口を開ける吊り革に視線を這わせる。


 そして私は、酷く安心した。


 身なりの良い、白髪交じりの背の高い男だ。

 今夜は彼が、あの吊り革を掴んでいる。

 近くのシートに座って見上げると、分厚い爪をした浅黒い指の上に、細い手がひっそりと乗りかかっているのが確認できた。


 ああ、よかった。


 もし、彼がいなければ、私はまたあの手の相手をしてしまっていたのに違いない。


 それはおぞましいほどに甘美な想像で、だから私は初老の紳士に感謝し、安堵した。


 扉が閉まり、電車は動き出し、私たちを乗せた光の箱がつまらない夜の風景を後退させていく。


 車内は穏やかである。

 昨日と、一昨日と、それより以前のこの時間帯と、何も変わりがない。

 誰も彼もが各々の手元を見るのに忙しくて気づいていないということなのか、あるいはあれが私にしか認識できないものだということなのか。

 どうあれまだ誰にも、あの異様な姿は知られていないのである。


 今、まさしく触れ合っているはずの男でさえも、窓の外の陳腐な夜景に見入っている様子で、吊り革の手を意に介する素振りすらない。


 ああ、よかった。


 やっぱり、あの手は、まだ私だけのものなのだ。


 手の甲に、冷たい重みが甦る。

 それは言うまでもなく幻で、紛れもない優越感の発露だった。


 私だけが知っているのだ。

 あの手が存在することを。

 温度を、重さを、触れられた感覚を。生々しいディティールを。

 だからこそ触れられていない今この時でさえも、昨日の思い出をこうもありありと再現できるのだ。


 それが、この身なりの良い男にはないのである。

 せっかくそこに、自分の手の上に居るというのに、彼はこの奇跡を知ることがなく、したがって思い出にすることもできないのだ。


 なんという不幸だろう。


 かわいそうに。


 不意に芽生える。


 それは、幻を愛でざるを得ない虚しさに手を引かれてやって来た、小さな感情なのだろう。

 何処にあったとも知れない小さな小さな憐憫が知らぬ間に無視のできない位置に居座って、私の中で成長しかけていたらしい男性への嫉妬心を卑小なものとして踏み潰した。


 目が離せない。


 かたんかたんと浮き沈みを繰り返す列車の中で、小刻みに前後する吊り革。

 その上で健気に揺れる色白の手から、目が離せない。


 かわいそうに。


 ずっと一緒に揺られているのに、気づいてもらえないだなんて。


 この男が、ああ、

 この男が私ならば、この短い逢瀬を孤独にはさせないというのに。


 自然と立ち上がりそうになる身体を理性で抑えて、自らの右手を幻に重ねる。

 無意識下での動作ではあったものの、それは感情を刺激する幻を、そっと鎮めるための行動に他ならないのだった。

 心地の良い冷たさは、すぐに私の火照りで塗り戻されてしまった。


 たとえば。


 体格が良いとはいえ、彼は年配者である。

 となると、たとえば私が彼に席を譲ろうとしたらどうだろうか。

 そうすれば彼は私の好意を受け取って、私に吊り革を譲るのではなかろうか。


 良い案に思われた。

 とてもとても良い案だ。


 しかし、果たしてそれは不自然だと思われやしないだろうか。

 車内を見渡して、今一度考える。

 現状で空席が無いわけでもないのだし、この男は座ろうと思えば誰かに席を譲られるまでもなく座席を確保できるはずなのだ。

 その上で私が席を譲るなどという行動に出たとして、それはありがた迷惑と受け取られやしないだろうか。


 そもそも、彼は私が来るよりも前から吊り革を掴んでいて、その段階では今よりも座席に余裕はあったはずなのだ。

 その上であえて立ち席を選んでいるということは、もしかすると年寄り扱いをされるのを嫌がる人種なのかも知れない。


 だから――


 だから、何だというのだ。

 笑いそうになる。

 呆れて、笑い出してしまいそうになる。

 どうかしていた。

 目的を見失っていた。


 不自然だと思われても、構わないではないか。


 この男がどう思おうがどうだって良いではないか。


 私は、この男のために席を譲ろうとしているわけではない。

 私が、あの吊り革であの手と触れ合うために、邪魔な人物を退けたいだけなのだ。


 幻はもういない。

 私が消してしまった。

 それなのに感情は刺激され続けていて、もう、それを鎮める術が見つけられなかった。


 揺れる車内で立ち上がる。

 体勢を崩しそうになって、何の興味もない吊り革を掴んだ。

 つるりとしたプラスチックの冷たさが、五指の冷たさを無暗に思い出させる。


 何人かの乗客に見られているのが分かった。

 しかしすぐにそれらの視線は各々の手元へと戻っていった。

 煌々とした車両の中には鉄道を走る音だけが流れ、私の指の上には空虚が停滞していた。


 全身が震えるようだ。


 こんなに冷たく、孤独なものだったのか。


 気味が悪くなって、思わず吊り革から手を離す。

 手と一緒にいる男性が、羨ましくて仕方がなかった。


 一歩二歩と近づくと彼の意識がこちらに向いたので、親切の顔を貼り付けて、お掛けになりますかと声をかける。

 男性は軟らかい笑みを浮かべ、礼を言い、そして、次の駅で降りるからと私の申し出を断った。


 私の口からは何やらあやふやな言葉がだらだらと零れ落ち、私の脚は芯が抜けたようにぐらぐらと崩れ落ちた。

 重たかった。

 鉛のような孤独が、私を圧し潰さんとしていた。


 視線が集まって、またすぐに戻っていく中、初老の紳士が焦ったような声を出して、不安げな視線をこちらに向けている。


 この人は優しいのだなあ。


 自然と、私の顔には笑みが宿った。

 全身に力が籠るのが分かった。


 私を心配する男の手は吊り革から離れていて、私は男に感謝した。

 急に立ち上がった私が吊り革に手を伸ばすと、男はもう何も言わなかった。


 待ちわびた。

 なんと永い孤独だったろう。


 私の手に重なる重みは昨日と変わらず、私はその懐かしさで漏れ出そうになる嬌声を噛み殺した。


 寂しかったのだろう。

 嬉しいのだろう。

 手は私の手を握るように、ぐっと力を込めたようだった。


 応えてやりたくなって、私はその指にもう片方の手を伸ばした。


 すべすべとした肌の感触。

 微かに圧し返す肉の弾力。

 骨張った関節の山脈。


 手だ。


 手だ。


 手が。


 触れられる手が。

 はっきりと、紛れもなく、ここにある。


 昨日は触れることのできなかった手の上に、私の手が重なっている。


 昨日は透り抜けたのに。

 見えている側からならば、触れることが出来るのか。

 見えている部分だから、触れることが出来たのか。

 理由を考えればきりがなく、仕組みを確かめるのには材料が足りない。


 だけど、理由など、仕組みなど、どうでも良いのだ。


 触れることが出来る。

 それが分かっただけで満足じゃないか。


 重ねていた手を引くと、露わになった透明なマニキュアが複眼のようにこちらを見ているような気がした。


 なんと素晴らしいことだろう。


 私はこの手と掌を重ねることが出来るだけではなく、見つめ合うことすらも可能だというのか。


 降車駅に到着するまでの僅かな間、私は手との声のない語らいを楽しんだ。


 何度か孤独な他人たちの乗り降りが繰り返される中、手と私は永遠に二人きりだった。




 明くる日、私は何の障害もなく手を重ねることができた。


 吊り革を持つと、それまで誰にも相手をしてもらえなかったのが不満だったのだろうか、私の手を握る力は昨日よりも強くなっているようである。


 光栄なことだ。誰でもない、私が、孤独を癒してやることができているのだ。


 有名な百貨店の看板が通り過ぎ、背の高いホテルが後退し、人気のない踏切が置き去りにされていく。

 星よりも明るく疎らな光たちが各々のペースで車窓を横切り、姿を消してはまた生まれ変わる。


 無音の風景に包まれた車内には穏やかな時間が静かに流れていて、俯く乗客たちを見渡した私は痺れるような幸福を感じていた。


 私が手と繋がっているいるように、皆、誰かと繋がっているのである。


 幸福感が心の余裕を生み出すものなのか、心の余裕が幸福感を連れて来るものなのか。

 私は周りに優越感を抱いていた自分の視野の狭さを恥じ、周りを孤独と称していた自惚れを改めた。


 皆、きっと、孤独ではないのだ。


 俯いて手元を見ている彼らは皆、端末によって片手だけで誰かと繋がっているのだろう。

 私とは繋がり方が違うだけなのである。

 他の乗客たちは私と同じで孤独ではなく、私が手を重ねるのは彼らがやっていることと本質的には同じであるのに違いない。


 ただ一つ、異なるのは。


 私はもう、彼らと同じ方法では満足することができないということだ。


 この手に触れてもらわないと、私はこの幸せの箱の中で、ただ一人孤独になってしまう。


 憂鬱に沈みかけたとき、電車が停まった。降りたことのない、見慣れた駅だった。


 普段から乗り降りの少ない駅である。

 扉が開いても待っている客はおらず、車内では俯いていたうちの一人が立ち上がり、スマートフォンを片手に持ったまま車窓の薄闇の中へと溶けていった。


 若い男だった。

 彼はこの列車から降りていっても尚、孤独ではないのだろう。


 その発想は、半ば強引なものだった。

 隠し切れずに暴れだしつつある独占欲を、孤独感と強引に結びつけるためのものだった。


 昨日、この手を侍らせていた紳士を思い出す。

 一昨々日にこの吊り革を握っていた女と、その次にやってきた男を思い出す。

 もう、目鼻立ちなど覚えていない。

 覚えているのは、乗っている手に気づかない愚かで呆けた顔だったという事実ばかりである。


 あんな奴らにも、この手は等しく相手をしているのだ。

 だけどそんなことに、果たして意味はあるのだろうか。

 手は存在することにすら気づいてもらえず、彼らの孤独が手によって埋まることなどあり得ないではないか。


 私にとっては、この手でしかあり得ないというのに。


 扉が閉まり、列車が動きだす。

 手は、指の先が白くなるほど強く、私の手を握っている。

 こんなに求められているのならば、

 連れて帰れないだろうか。


 悪魔が囁くようだった。

 私はたった今、この瞬間、否定のしようもなく、おかしくなってしまったのだった。


 喉が上下するのを自覚して、生唾を飲み込んだことに気がついた。

 こちらを見つめる爪を意識しながらも、私の目は泳ぎだす。

 手を汗に濡らす私は分かり易く興奮し、焦っていて、激しい動悸の音が耳に届いてそれを裏付けた。


 吊り革を掴む、私の左手。


 私の左手を掴む、私しか知らない右手。


 短い爪を載せたその指先に、私は欲に塗れた右手を伸ばした。


 手は僅かにぴくりと反応したものの、私の思惑を知ってか知らずか、逃げだす様子はない。

 そのまま私はすべすべの手の甲へ指を這わせ、輪の向こう側の手首をぐっと捕まえた。

 私の指の中で細い手首は驚いたような動きをするでもなく、ただ、指の力をゆっくりと和らげた。


 手首を輪の中から引き出し、また更に引っ張る。

 手は、腕は、まるで魔法のようにずるずると吊り革の中から引き出され、肘の辺りで輪っかに引っかかると今度は釣り革ごと私の引く方向へと動き、もうそれ以上は出てくることができないらしかった。


 吊り革から腕が生えている。

 冗談のような光景である。


 無理だったか。


 手を離すと、放された腕はだらりと垂れ下がった後、緩慢な動きでするすると輪の中へ戻って行き、いつものように吊り革の向こう側へと消えていった。


 私は、笑った。


 残念に思う気持ちは確かにあった。


 しかしそれを補って余りあるほど、手のことをまた一つ知ることができたという喜びが大きいので、私はそれがなんだかとても可笑しくて、笑った。




 私が乗り込んだとき、吊り革は健気にも孤独だけをぶら下げてその身を揺らしていた。プラスチック製の真っ白な穴は、手の姿を欠くとどうにも不格好で、不自然で、奇妙である。

 激しい義務感が脚を急がせるせいで、私は気持ちの準備ができないままに手を伸ばす羽目になってしまった。


 すぐに、指の感触が手の甲を伝い始める。

 安心した。

 昨日は、少しばかり勝手が過ぎたような気がしていたのだ。

 まさか肘まで引き出される羽目になるとは思っていなかっただろうに、嫌われてしまっても文句は言えまい。

 昨日までと変わらない感触は、だから私の杞憂を笑い飛ばしてくれているように感じて、それが淡く瑞々しい喜びを誘った。


 不意に、甘い匂いがした。


 夜の電車内においては異質な、不安を誘うほどに強い花の香り。

 花の種類までは分からないし、本当にそういう香りをした花が存在するのかどうかも分からないけれど、執拗なまでに甘く明るく粘着質なその匂いは、きっと花の香りなのだった。


 香水だと思った。

 列車内には匂いの発生源となりそうな花などは見当たらないので、そう思った。

 花の香りをした香水なのだ。

 そうと断じてみると、むせ返るほどの甘ったるさは人工的であるようにも感じられる。


 もしも、これが香水ならば。


 確信めいた予感があった。

 もしもこれが香水ならば、これほどに強く匂うということは、私の近くに香水の主がいるいうことなのではないか。

 そして今、私の一番近くにいるのが誰なのかと言えば、考えるまでもない。


 指先に冷たさが重なる。

 私の視線は意図しないままに窓の外へ向けられていた。

 目を合わせる勇気がなかった。

 昨日まではこんな匂いを放ってはいないはずだった。

 手の様子が変わってしまったのだという想像は、なぜだかひどく忌まわしくて、私に呼吸の仕方を忘れさせようとしているかのようですらある。


 車窓の向こうでは、光が揺れて、流れていく。

 白い光の群れがビルの窓となって、車の列となって、町の営みとなって、流れていく。

 それなのに、赤い光の一群だけが、ずっと同じ場所に貼りついたまま。


 手が重たい。


 手が冷たい。


 手が、なぜか、赤い。


 夜景を背景にしてガラスに映りこんだ手は、蛍光灯の白を反射させて、その指先を赤く光らせている。


 花の匂い。

 強引で無遠慮な甘い匂い。

 私は視線を持ち上げた。

 手の方を見るつもりだったのか、匂いのする方を見るつもりだったのかは判然としない。

 眼前に佇む手は、ガラス越しに見たときよりもずっと鮮やかで、毒々しい色のマニキュアで彩られていた。


 どきりとした。

 中指にささくれの痕を見止めて、息が止まった。これは同じ手なのだ。


 すぐにでも手を放してしまいたい気分だった。

 すぐにでも逃げだしてしまいたい気分でもあった。


 きつい香水が嫌なわけでもなければ、透明なマニキュアが好きで真っ赤なマニキュアが嫌いだというわけでもない。

 私は、この手と向き合う覚悟を持っていなかったのだということを悟ってしまったのだ。


 今は、吸っている途中だったのか、吐き出している途中だったのか。

 鼻で息をしていたのか、口で息をしていたのか。

 息の仕方を思い出そうとする間にも、手は重みを増し続け、ついには昨日と同じように――いや、昨日よりももっとずっと強く強く強く、私の手を、握った。

 真っ赤な爪の周りの肉が真っ白になるほど、その力は強烈だった。


 ああ、なんて、怖い。


 プラスチックに圧しつけられた私の指は痺れ、関節には痛みが広がった。


 目の縁に涙が滲むのが分かる。

 怖い怖い。

 私のぽっと出の孤独感など、この手の抱えているものに比べれば他愛のない幻のようなものだったのだ。


 私が痛みを堪えているせいか、手が力を込めているせいか、吊り革が小刻みに震えている。


 もう無理だ。


 これまでの四日間で育ちつつあった愛着が悲鳴をあげる。

 私は孤独な手を振り払うように、乱暴な動きで吊り革から手を放した。

 昨日まではすぐに引き返していたはずの手は、うろうろと彷徨いながら何度か空を掴んだ後、物悲しそうに、口惜しそうに、ゆっくりと輪の中へ吸い込まれていった。


 もう、吊り革へ手を伸ばすだけの好奇心も、優しさも、私は持ち合わせていないのだった。


 再び孤独になった列車は、駅に着くたびに花の残り香を薄れさせていき、私は匂いを連れることもなく電車を後にした。


   ✳︎


 昼過ぎに人身事故が発生したらしく、夕日の沈みかけた今になっても、ダイヤには多少のずれが生じている。


 普段よりも人の多いホームで電車を待ちながらインターネットを見ると、どうやら若い女性が身を投げたのではないかということだった。


 そのニュースは、確証もなしに、私を激しく後悔させた。

 あの時、もっと優しくしていたら、あるいは。私なんかではなく、もっと懐の深い誰かが相手をしてやっていれば、もしかしたら、こんなことにはならなかったのではないか。


 私のせいなのではないか。


 耳に届く噂話が、後ろめたさをぐさりぐさりと刺激する。

 ここにいる誰もが、私と手との逢瀬を知らず、私が彼女を裏切り見捨てたことを知らず、したがって私を責めることもない。

 それがまた、私の内側に差した影を濃くするようだった。


 私だけが、彼女の孤独に気づいていたというのに。


 私だけが、あからさまな変化に気づいていたというのに。


 ここにいるうちの果たして何人が、彼女の死を悲しんでいるというのだろうか。

 そんなことを思い、私は少しだけ独りぼっちになり、しかし暫くすると、自身が周りの有象無象に混ざり、溶け合って消えていくように感じた。


 これはきっと、私のせいでもあるのだろう。


 だけど、こんなことになるだなんて思いもしていなかったのだし、それまでの私はきっと、彼女の孤独を癒す一助にはなっていたはずなのだ。


 だから、私一人の力では、結局どうにもならないことだったのだろう。


 定刻通りに到着した電車は、減らされた便に乗るはずの客がいるせいで、珍しく立ち席も賑わいを見せていた。

 後ろに並んでいた客から少し押されるようにしていつもの吊り革に近づいて行くと、そこには既に若いサラリーマン風の男が手を通しており、近くに立つ同僚らしき男と談笑をしているのだった。


 どうやら彼らも、SNSで得た情報を基に人身事故の話をしているらしい。

 動きだす列車内で耳を傾けているうちに、私は彼女のことを新しく知ることができた。


 大きな会社のОLだったということ。


 飾り気のない地味な人だったということ。

 職場で孤立していたのだということ。


 そして、右手がまだ見つかっていないということ。


 そういうことか。


 私は鞄の中をまさぐって彼女の入る余裕があることを確認すると、いつ降りるかも分からない二人のサラリーマンに声をかけた。


 見えていない彼らには、彼女と孤独を分け合うことなどできるはずもない。だから――。


 甘い、花の香りがする。

 


   おわり

 最初のシーンの「嘘」の内容に気づいていただけたら、狙い通りかなという感じです。


 カサブランカって綺麗な花を咲かせるけど、切り花にされがちでなんだか可哀想ですよね。

 この話では向こうの方から切り花になってくれました。そういうお話。

 赤いマニキュアをしている描写があるので、タイトルはカノコユリと迷いましたけど、響きでカサブランカにしました。


 書き始めのタイトルは「手の話」でしたけどね。

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