エロい漢字と、実はエロくない言葉
「孔子は野合のすえに生まれた」……みたいなことを小説に書いたら、「野合って青〇(全年齢なので自粛)のことだと思ってた!」という感想が来た(複数)ので、もしや誤解している人も多いのではと思いたち、ほとんど衝動的に書いております。
たしかに、字面を見たら野外で交わってそうですよね。でも、「野合」は礼に合わない婚姻の意味です。
『史記』孔子世家に、
(叔梁)紇は顏氏の女と野合して孔子を生む。
【原文】紇與顏氏女野合而生孔子。
『史記索隱』今此云「 野合」者、蓋謂梁紇老而徵在少、非當壯室初笄之禮、故云野合、謂不禮儀。
『史記正義』男八月生齒、八歳毀齒、二八十六陽道通、八八六十四陽道絶。女七月生齒、七歳毀齒、二七十四陰道通、七七四十九陰道絶。婚姻過此者、皆為野合。
とあり、その注釈『史記索隠』は、「今、此に〈野合〉と云える者は、蓋し梁紇老いて徴在は少く、壯室初笄の礼に当たるに非ず。故に野合と云い、礼儀に合わざるを謂う」とあり、「野合」だと言っているのは、孔子の父である叔梁紇は年老いていて、母の顔徴在はまだ幼かったため、礼儀に合わないせいだ、と述べています。同じく『史記正義』は、男性は八か月で歯が生え、八歳で歯が生え替わり、(二×八)十六歳で陽道が通じて性的に成熟し、(八×八)六十四歳で陽道が絶えて老境に入る。女性は七か月で歯が生え、七歳で歯が生え替わり、(二×七)十四歳で陰道が通じて性的に成熟し、(七×七)四十九歳で陰道が絶えて老境に入る。婚姻がこの年齢を過ぎた場合は、皆な〈野合〉である、と。
つまり、「野合」の野は野外の意ではなく、礼に合わない、という意味す。「野合」は青〇(自粛)じゃありません。今、前後をかなり省略して引用しましたが、かなり注釈は長く、必要あるのか?ってくらい、詳細です。もしかしたら昔の中国にも勘違いしている人がいたのかもしれません。
「野合」以外にも、エロい言葉だと勘違いされているものが、他にもあるでしょうか。
私が思い浮かんだのは……
淫祀。
「淫祀邪教」とかいう風に使いますが、字面だけ見たら、エロくて妖しい性的な宗教秘儀みたい。男女合一のエクスタシーを極めて神の境地に至る……系の。
……だと思ってた人、手を挙げて。
実は私、この言葉を敢えて性的な宗教秘儀、の意味で使ったことがあります。いや、言い訳みたいですけど、私は本来の意味を知った上で、異世界ファンタジーだし、いっかなと思って敢えて使ったんですけどね。学生時代に、先輩の修士論文のテーマが「淫祀」に関係していると聞いて、中間発表を超ワクワクして聞きに行き、本来の意味を知ってガッカリしたことがあります。もう、はるか昔のことですが。
淫祀とは、『礼記』曲礼下に、
其の祭る所に非ずして之を祭る、名づけて淫祀と曰う。淫祀福無し。
【原文】非其所祭而祭之名曰淫祀。淫祀無福。
とあるように、本来祀るべきでない、祀る資格のない祭祀のことで、転じて「祀典に載っていない祭祀」の意味です。『祀典』とは国家が正しい祭祀と認めたものを採録したもの。国家が正しい祭祀と認めれば、『祀典』に載せます。これに載っていないものが、「淫祀」です。その祭祀の内容は問題となりません。
『後漢書』殤帝紀、延平元年条
詔して祀官の祀典に在らざる者を罷む。
【原文】詔罷祀官不在祀典者。
とあり、李賢注は『東観漢記』を引いて、当時、政治の実権を握っていた皇太后鄧氏が「淫祀を好まなかったからだ」としています。「祀典に在らざる者」=淫祀なのです。
もちろん、淫祀とされたものの中には、エロい秘儀を行うものもあったかもしれません。例えば六朝期に流行る上清派道教には、その手の秘儀があったようですし。ただ、「淫祀」は「淫らな祭祀」という意味ではないのです。
そもそも、「淫」とは、「度を超す」という意味です。そこから転じて、「ほしいまま」「みだら」という意味が派生します。だから「淫雨」というのは降り過ぎたよけいな雨のことで、「淫祀」はよけいな祭祀のことなのです。
……と、今、漢和辞典を見ながら書いていて、「淫液」っていう項目発見。これ、R18小説だと絶対、違う意味で使われているけど、「声を長くのばして歌う」という意味だそうです(出典は『礼記』楽記)。「淫」がつくからと言って、エロい意味とは限らないのです。
逆に、別にぱっと見はとくにエロくもなんともないのに、実はエロい漢字もいろいろとあるに違いありません。私が個人的に、この漢字エロいなっとドキドキするのは、「烝」です。
この「烝」という漢字、いくつか意味がありますが(「烝民」とか、あるいは「烝祭」などの、エロくない意味ももちろんあります)、「男が自分より身分の高い女と私通する」という意味があります。特に親族内で使われることが多いです。具体的には、兄嫁とか、父の妻といった、尊属の妻と性的な関係を持つ、その行為そのものを「烝す」と言うのです。
『春秋左氏伝』桓公十六年伝
初め、衛の宣公は夷姜を烝して急子を生む。(杜預注、「夷姜、宣公の庶母なり。上淫を烝と曰う」)
【原文】初衛宣公烝於夷姜生急子。杜預注:夷姜、宣公之庶母也。上淫曰烝。
庶母というのは、父の妾のことですから、宣公は父親の妾と「烝」、つまり関係して急子という子をもうけた、という意味です。
『春秋左氏伝』荘公二十八年伝
晋献公、賈より娶るも子無し。斉姜を烝し、秦穆夫人及び太子申生を生む。
【原文】晋献公娶于賈無子。烝於斉姜、生秦穆夫人及太子申生。
杜預の注に「斉姜、武公の妾」とあるので、献公は父、武公の妾であった斉姜と通じ(「烝」)、後に秦穆公の夫人となる娘と、太子の申生を生んだ、ということです。(この太子申生は晋文公となる重耳の兄であり、後に驪姫に陥れられて自殺してしまう人です。)
これらの事例は皆、父親の妾と関係することを「烝」と称しています。漢代の人、服虔は、
上淫を烝と曰う。則ち烝、進なり。自ら進み上りて之と淫するなり。
【原文】服虔云、上淫曰烝。則烝、進也。自進上而與之淫也。
と言っていて、つまり「烝」とは、立場が上の女の方から無理に強いられたわけではなく、自ら進んで関係を持つことだと、言いたいようです。
漢民族の認識からすると、父の妾と関係するなんて、まさしく「禽獣行」と言うべき、非常にあってはならないことなのですが、匈奴をはじめとする、中国の北方遊牧系騎馬民族には、レヴィレートという風習があって、父親が死ぬと、後を継いだ息子が父親の奥さんを総取り(但し、母親は除く)します。兄が死に、弟が継いだ場合も然り。漢から匈奴単于に嫁いだ王昭君は、義理の息子と結婚させられそうになり、漢の宮廷に救けを求めますが、漢からの答えは「郷に入っては郷に従え」だったのは、有名な話です。
西晋を滅ぼして漢民族王朝を南の長江流域に追いやり、北中国を支配した五胡十六国から北朝の君主は、異民族の伝統を守り、父の死後は当たり前のように父親の奥さんと関係します。彼らは自分たちの風習に従っているだけで、悪気もないですが、これも中国の歴史書には「烝」と表現されます。
『晋書』載記二・劉聰・子粲伝
既に偽位を嗣ぎ、聰の后靳氏を尊んで皇太后と為し、樊氏は弘道皇后と号し、宣氏は弘德皇后と号し、王氏は弘孝皇后と号す。靳ら年皆な未だ二十に満たず、並びに国色なれば、粲は晨夜に内に烝淫し、志は哀に在らず。
【原文】既嗣偽位、尊聰后靳氏為皇太后、樊氏號弘道皇后、宣氏號弘德皇后、王氏號弘孝皇后。靳等年皆未滿二十、並國色也、粲晨夜烝淫於内、志不在哀。
匈奴の一族から起こって西晋を滅ぼした前趙の劉聰の息子、粲は父の死によって帝位を継いだ。父の皇后であった靳氏をはじめ、貴嬪の樊氏、宣氏、王氏はどれもまだ二十歳にもならず、いずれも国でも有数の美女ばかり、粲は朝から晩まで後宮内で父の夫人たちと淫楽に耽り、父の死を悼む気持ちもなかった――。
遊牧民としては当たり前の風習なのでしょうが、漢民族からすると父の妻たちと、さらに父の喪中に姦淫するというのは「禽獣行」×二倍。ちょうど同じ時期の、南朝の漢民族社会では礼教主義が高まり、父親の喪中に婢に風邪薬を煎じてもらってるのを目撃されただけで、数年単位で官職から干されちゃう(『後漢書』の著者、范曄)ガチガチの儒教社会でしたから、殊更悪し様に書かれてしまったのでしょう。
中国史上、稀代の暴君とされる隋の煬帝も、「暨諒闇之中、烝淫無度」(『隋書』煬帝紀・大業十三年)――「父親の喪中に及んでも、(父の妻たちと)烝淫すること限度がなく」などと書かれていますが、それは煬帝が父・文帝の夫人の一人、宣華夫人を「烝」した出来事に拠っています。
『隋書』后妃伝によれば、文帝の病が篤くなった時、皇太子(=煬帝)と宣華夫人はともにその枕元に侍していましたが、宣華夫人が着替えに戻る機会に、皇太子は彼女に関係を迫ります。難を逃れて文帝の許に逃げた宣華夫人に文帝が何かあったのかと尋ねると、「太子が無礼を働いた」と告げます。文帝は、「あの畜生に天下を託すことはできない」と怒り、廃立した元の皇太子(煬帝の兄、勇)を呼び寄せるように言いますが、それを察知した皇太子は人を文帝の側に派遣し、直後に文帝は崩御します。突然の崩御にまだ皇帝の死を秘している間、宣華夫人のもとに皇太子から金の合子に封印を施したものが贈られます。
宣華夫人は毒薬に違いないと恐れて開くことができないのに、使者が催促するので仕方なく開いたら、中身は「同心結」でした。
周囲の者はほっと胸を撫でおろしますが、宣華夫人はむしろ怒り心頭です。返事もしようとしないのを、周囲に迫られて、仕方なく使者に礼を言い、その夜、太子は彼女を「烝」した――。
『隋書』后妃伝・宣華夫人陳氏
俄聞上崩、而未發喪也。夫人與諸後宮相顧曰、「事變矣!」皆色動股慄。晡後、太子遣使者齎金合子、帖紙於際、親署封字、以賜夫人。夫人見之惶懼、以為鴆毒、不敢發。使者促之、於是乃發、見合中有同心結數枚。諸宮人咸悅、相謂曰、「得免死矣!」陳氏恚而却坐、不肯致謝。諸宮人共逼之、乃拜使者。其夜、太子烝焉。
宣華夫人の陳氏は南朝陳の宣帝の娘で、陳が滅んだ後に隋・文帝の後宮に入ります。つまりバリバリの漢民族です。夫の喪中どころか、死んだその日に愛の告白されても、心情的に受け入れられるわけがない。たとえ相愛の間柄でも、死んだその日は無理ってものです。ましてや、死ぬ前から隙あらば言い寄ってきた息子となんて、以ての外という気分だったでしょう。
一方の鮮卑系の皇太子には、服喪という観念すらないのか、早速のように愛の告白をしてくるあたり、あまりの文化ギャップに笑ってしまいます。もしかしたら、父親が死んだら、義母たちとできるだけ早く結婚するのが、推奨されていたのでしょうか。
結局のところ、宣華夫人の漢民族としての礼教意識は、権力者の欲望の前にはあっさりねじ伏せられ、周囲に強いられるまま、彼女は皇太子と関係を持ちます。「其夜、太子烝焉」という六文字が、やたら生々しく艶めかしく感じるのは、私だけでしょうか。……現代語訳してしまうと、この淫靡な雰囲気は消えてしまうのですよね……。
……とまあ、長々と書いてきたのですが、要するに「お父さんの奥さんと自ら進んでヤる」のを表現する、専用の漢字「烝」はエロい、というお話でした。