第3話
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夜の町は騒然とし始めていた。
警察の車両が小さな家の前に数台止まり、無音で赤い光を振りまいている。家の周囲にはトラテープが張り巡らされ、警察官は集まってきた周辺住民を近寄らせないように目を光らせていた。ベランダや窓はブルーシートで覆われ、外から見えないよう目隠しがされている。中では鑑識班が捜査に必要な物を集めているはずだ。遺体はすでに運び出され、警察と連携している病院の安置所に置かれている。
小波のような人々のざわめきが、家の周囲を、町を取り巻いていた。
同じ頃、警察署では年配の優しげな婦人警官が一人、ソファに座っている少年のそばに寄り添っていた。人目を避けるためにと包まれていた薄いタオルケットは、畳まれて少年の脇に置かれている。向かいの机の前には調書を取るためにもう一人若い男性警官が座っており、気遣わしげに子供を伺っていた。
ここは、いくつも机の並んだ室内の奥をパーテーションで仕切ってあるだけの簡単な相談室だった。周囲では数人の警官が慌しく動き回っていて、音が筒抜けになっている。雑然とした空気は、学校の職員室にどこか似ていた。小さな町でもあり、堅苦しい雰囲気は少ない。
少年はマグカップを両手で包み込み、湯気を上げる黄色い液体を見つめていた。とても、凄惨な状況にショックを受けているようには見えなかった。一時的な心の防御反応だと考えてはいるが、それにしては妙に落ち着き払っている。聞かれたことに対してはゆっくりとだが淡々と答えた。合間にカップを口に運ぶ。静かな話しぶりは乱れることなく、感情を表さない。
およそ年齢にそぐわぬ空気をまとう少年を、二人は扱いあぐねていた。
少年は、母親が居間で首をつるのを見ていた。驚く事に死体を自力で降ろし、あの畳の部屋に寝かせたという。その後、床に出来た汚れを出来る限り掃除したらしかった。
母親は小柄で細身だったとはいえ大人の死体。降ろすのは子供にとって相当の重労働だろう。遺体には死後についたと思われる打撲痕や擦り傷等が複数あった。机の前に座っている警察官は調書を書き上げた紙面から目を上げ少年を盗み見る。
随分と大人びて見えるが小学五年生だという。背は平均的な小学五年生よりは幾らか高いほうだと思う。もやしとまで言わないが線が細く、女の子のような顔立ちをしていた。問いかけに無駄なく答える様子には賢さが見え隠れする。
死体をおろしたのは「そのままでは可哀相だと思ったから」で、普段、部屋の掃除などは彼の役目なのだと言っていた。汚れや洗い物は溜めておかない。出来る限り速やかに掃除するのが家の中での決まりごとなのだそうだ。床の染みは上手く綺麗に出来ず、汚れが残ってしまい困ったという。
そうして死体を布団に寝かせた後、少年は誰にも知らせることなく日常生活に戻っていく。
母子家庭でもあり、彼は子供ながら一通りの家事をこなすことができるという。保険証や印鑑の場所も知っていたし、銀行のカードの扱い方も知っていた。
淡々と学校に通い、買い物をし、食事を作り……。家事をしながら、時折は友達と遊ぶこともあったようだ。親の見当たらない彼を心配して声をかける者があったが、「病気をしてここ暫く入院している」と話し、「何か手伝おうか」との言葉には大丈夫だからと断っている。「時々親戚の人に来てもらっているから」と。実際にはこの家に親戚など誰も訪ねていない。
少年はいたって穏やかで、不安定な素振りや普段と違う言動も無く、日常の生活に荒れたところも見受けられなかった。母親想いのしっかりした良い子だと思われていて、周囲の大人は少年の言葉を信じた。
そして、腐敗した遺体が強烈な異臭を放つまで、周囲の誰一人、この異常な状況を発見できなかったのである。
母親の死を目撃し、遺体と共に日常生活を送るのはどんな気持ちなのだろうか。自分には想像もつかない。落ち着き過ぎて、いっそ超然とした雰囲気さえ持つ少年に、若い警官は得体の知れない薄気味悪さを感じていた。
死を理解できていない訳ではない。むしろ素直に受け止め、子供なりの真摯さで冥福を祈っていた。「今まで、僕のためにたくさん働いて大変だったから、天国でゆっくりして欲しい」と、少年は幽かに笑った。初めて見た少年の表情だった。
警察官は、知らずため息をついた。手の中のペンをくるりと回すと尋ねる。
「ねえ、孝顕君。どうして、誰にも知らせなかったんだい? 一一〇番とか、近所の大人とか、色々あったと思うんだけど……」
名前を呼ばれて、少年は机の前に座る警察官へ顔を向ける。暫く見つめた後、再び手元のカップに視線を移した。
「怖かったから……」
平坦に答えると、少年はぬるくなったコーンスープをすする。
再び沈黙した少年を見て、困り果てたように二人の警察官は顔を見合わせた。
周囲は相変わらず忙しく立ち回り、時折けたたましい電話のベルが響いている。ざわめきに耳を傾けながら、少年はこれまでの事を思い起こしていた。
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