第1話
いつか失うことを
心の何処かで解っていたのに、
僕はずっと、
見ない振りをしていた。
北海道にある小さな町。人口は数万程度、酪農業で細々と生計を立てている個人経営が殆ど。目立った特産物や観光名所も無い、そんな小さな町で起きた一つの出来事があった。
とある夏の日──。
何の変哲も無い、ただの日常であるはずだった。
少なくとも少年にとって、それは日常の一つだった。
ただ、自分を包んでくれた存在が、二度と笑ってはくれなくなったという、それだけしか違わない、日常の続きだった――。
◆ ◆ ◆
最初に気が付いたのは、近所に住む少年の友達だと言う。いつものように、「遊ぼう」と声を上げ庭からベランダへ回ると、物凄く変な臭いがしたんだ。と、今まで嗅いだ事もない変な臭いだったんだよ。と、子供は夕飯時、その日の出来事を母親にした。
せっかく遊びに行ったものの少年はおらず、結局家の周りをうろうろして自分の家に帰ってきたのだと、つまらなそうに話したのだった。それを聞いた彼の母親は何を感じたのか、夕食後、少年の家を訪ねた。
「ごめんくださーい。お晩ですー。夜遅くにごめんなさいねー」
よく知っている声を耳にした少年は布団のそばから立ち上がると、襖を開けて玄関へ向かう。「はい」と返しながら鍵を外し、扉を引きあけた。玄関前の小さな風除室には友達の母親がにこやかに、しかし緊張した面持ちで立っている。
「今晩は。永井君のお母さん」
いつものように愛想良く、少年は静かな笑顔で応じた。
普段通りの少年に、逆に永井の母親は不安が過る。思わず眉をしかめた。
「何の御用ですか?」
「お母さんは居る? ちょっとお話があって……。電話でも良かったんだけど、近所だし、大事なことだったから……」
嘘だった。
両親は離婚したと聞いている。そのため少年の母親は遅くまで働いており、この時間はいるのかどうか分らない。不安が増すのを堪えながら、彼女は務めて平静な声で話す。
「母は、体調を悪くして入院しています。今はいないんです」
その答えは彼女の表情を幾分険しくさせた。
「まあ大変。どこの病院に? お見舞いに行った方が良いかな?」
「その、遠くの町の大きな病院なので……」
「何ていう病院? 住所とか電話番号は分る?」
「あの……、それは……」
矢継ぎ早の質問に言葉を詰まらせた少年に何かを感じ取り、彼女は「ちょっとごめんね」と声を掛けて上がり込む。
居間へ続くドアを開けた途端足を止めた女の後ろで、少年は僅かに表情を曇らせた。
その違和感は玄関に入った時から感じていた。
まずは匂い、そして小さな羽虫。室内のいたる所に置かれている羽虫の固形駆除剤と殺虫スプレー、除菌消臭剤。彼女は厳しい表情で室内を見回す。
永井の母親は結婚前、NGOの看護師として海外経験があった。当時の過酷な現場が脳裡を過る。
居間を満たす異様な臭気に、彼女はハンカチで口元を覆った。雪国故の寒さ対策で気密性の高い住宅は、匂いも外部へ漏らしにくい。とはいえ人の動きで大気は動き、漏れていく。
台所のある居間の奥には二つの部屋がある。一つは少年の部屋で、もう一つは母親の部屋だ。廊下は無く、他はトイレと風呂があるだけの小さな平屋の借家。何度か訪れた事のある家の、母親の部屋の襖を彼女は思い切り引き開けた。