【に】アルバイト契約です
私は着ぐるみを着たことはないんですが、大変そうですよね。
一緒にひまりを応援して頂ければ幸いです!
お仕事初日。
私は『天堂カメラ』の本社に呼び出されました。
繁華街の大きなビル、その一フロアがまるまる『天堂カメラ』ということで、改めて大きな会社だなぁとしみじみ思います。
ドキドキしながらガラス張りのドアを開けると、スーツ姿の母がすぐに気付いて迎えに来てくれた。脅されたことも忘れて、見知った顔に何だか安心します。
白を基調としたオフィスにはたくさんのデスクが整然と並べられていて壮観です。ドラマでよく見るよね、ヒロインがこんなオフィスでラブバトルを繰り広げる話。
母と一緒に、若い男性が私に近づいてきました。
イケメン! 爽やかイケメンです!
紺のスーツが似合います。笑顔が眩しいの何のって。
これもしかして、私にもオフィスラブあるんじゃ!?
「時田くん、この子が新しいカメ子よ。私の娘」
時田くんが私に微笑みます。久々に乙女らしくときめきます!
「初めまして、人事の時田です。これから雇用契約について説明させていただきますね」
声もいい! 柔らかくて素敵です。人事なんてもったいない、こういう人こそ店頭に出るべきだよ! 絶対に女性客でその店の売り上げうなぎ登りだよ!
私は必死で笑顔を作る。
「は、初めまして、吉川ひまりです!」
にやり。
渾身の笑顔でしたが、時田くんの反応は如何に。
「おっほぅ…」
イケメンからあり得ないほど低い声が出た!
時田くんの口角がひきつっています。
はい。私のオフィスラブは消え去りました。
こういう反応に慣れている私は、すぐに諦めました。
「どうぞ『顔面凶器』と呼んでください」
開き直ってそう言うと、時田くんがしまった、という顔をした。
正直で優しい人だよ。ここで笑う人も少なくないってのに。
そんなやり取りを見ていた母が、この何とも言えない雰囲気を壊してくれました。
「この子、昔から笑うのが苦手なのよー。まあ、カメ子被っちゃうから平気でしょ。それに親の私が言うのもなんだけど、真面目だから与えられた仕事はちゃんとする子よ」
お母さん! 不覚にも感動してしまいました。
「そうですね! 被りますもんね!」
時田さん。無意識かもしれませんが、失礼ですよ。
でも場の空気は和んだので、私はそのまま時田さんに応接室へ案内されました。
契約書を目の前に置かれ、説明を受けます。
時給800円。知っています。最低賃金です。
交通費支給。これ大事。
昼食代、一日につき500円支給。ご飯代! 太っ腹!
社会保険加入。助かります!
制服貸与。制服っていうか、カメ子の皮というか。
制服のクリーニングは会社持ち。そりゃそうだ! 一般家庭では無理です。
遠方の場合は特別手当、一日につき5000円。へえ!
その際の交通費・宿泊代は会社持ち。ホテルは安いとこでしょうね。
働きにより昇格あり。…カメ子の昇格って、何だ?
こんな内容でした。
時給こそ安いですが、条件は決して悪くありません。
私は母と時田さんに言われるがまま、契約書に署名捺印しました。ていうか、母同伴のバイト契約って新鮮だな。
母が微笑んだ。
「おめでとう。今日からあなたはカメ子よ」
何度聞いてもダサい名前ですが、人生がかかっています。
やるしかありません!
そのあと、母に案内されて別の部屋に通されました。
まるでダンススタジオのような、ガラス張りの広い部屋。こんな部屋まであるんですね!
その部屋の隅に、カメ子が佇んでいました。
正確には、トルソーにカメ子を着せた状態のものが置いてありました。
実物も可愛いです。つぶらな瞳が私を見つめています。
「さ、早速着てみましょ」
母がうきうきした様子でそう言います。
私はまず、言われて持ってきていたTシャツとジャージに着替え、胸元までの長さの髪を、後ろで一つに束ねます。
まず、スポンジの胸当てを渡されました。これは「ボテ」というそうで、体にボリュームを出すために着けるそうです。
それを着けると、今度はカメ子のボディです。スニーカーのまま足を入れ、両手も入れて母に後ろのファスナーを閉めてもらいます。実際に着てみると、手は肘より下が、足は膝より下が稼働範囲で、かなり動きづらい!
そして最後にいよいよ頭部。首を入れる所には太いゴムが付いていて、それを肩に引っかけ、頭を支えるようです。頭はとにかく大きい! 私の頭のてっぺんから、肘の上までを覆うような状態。
お、重い! 着ぐるみってこんな重いんだ!
それに視界が狭い! カメ子の目と鼻の部分からしか見えない。
怖い! 動くのが怖いよ!
それにこの頭部、変なニオイがする。臭い訳ではないけど、これは…。
お線香のかほり。
母にそう言うと、答えはすぐに返ってきた。
「前の人が奥さんを早くに亡くしててね。朝晩必ずお線香焚くらしくて、体にニオイが付いてたのよね」
しょっぱい! 理由が切なすぎる!
おじいちゃんの残り香、私の体にも染み付きそうです。
尚も声を出そうとしたところ、母から言われました。
「カメ子はしゃべりません」
ひい! 口を利くなと言われた!
「とりあえず動いてみて」
ゆっくりと歩いてみる。カメ子、足短いよ! 知ってはいたけど、確かに獲物は捕まえられないに違いない。
手をぱたぱた振ってみる。そこで気付きました。首から提げているオモチャのカメラ、手が短すぎて届かない!
この手の長さでカメラマンとか、無理でしょ。
何とか手に取れないかと、体を左右に揺らしてカメラを動かしてみる。必死で体を振ってブランコのように揺らしたカメラが手の近くまで!
短い右手でタイミングを合わせて、カメラをはしっと掴んだ。
やった! やりましたよ! カメ子はカメラマンとしての第一歩、「カメラを手に取る」を成し遂げました!
次にファインダーを覗こうとしますが、今度は手のリーチが短すぎて目まで届かない!
カメ子、悪いことは言わないからカメラマンは諦めな!
諦めきれないなら、三脚で固定カメラにしなよ!
カメラを手に取るという動きだけで息切れし始めた私(カメ子)を見ていた母と時田さんが呟いた。
「可愛いわね…」
「可愛いですね…」
え!? そうなの!?
今の動き、可愛いの!?
「必死な感じが何とも母性本能をくすぐるわ」
「以前より機敏で幼さが出ていいですね」
「前の人は、ゆーっくり過ぎてスロー再生みたいだったものねえ」
前の人とそんなに違うと良くないんじゃないでしょうか。私はおじいちゃんに寄せた方がいいのでは?
そんな心配を余所に、母と時田さんは嬉しそうだ。
「多少動きが激しい方が子ども受けもいいしねえ」
「社長も好きなタイプでしょうね」
社長はアクティブなカメ子が好みらしいです。
ならいいか。
それから二十分ほど歩く、動く、チラシを配る練習をしましたが、予想以上にキツいです!
そして暑くて、汗が滝のように出てきます。
ようやく頭を取った時には、汗だくで顔を真っ赤にした私を見てびっくりした様子の時田さんが、慌てて背中のファスナーを下ろしてくれました。
いい人だ、時田さん。
その後、時田さんにうちわで背中を扇がれながら、母から改めて注意事項を聞かされる。
一つ、熱中症を防ぐために、普段から食事と睡眠には気を使うこと。
一つ、体力作りをすること。
一つ、「カメ子」になるのは一回三十分が体力的に限度と心得ること。
一つ、三十分を越える前に限界を感じた場合は、近くにいるスタッフか広報の人間に「限界です」と伝えること。
ものすごくハードな仕事なんですね、ゆるキャラって。
この先色んなゆるキャラを見ても、以前のようにただ「可愛いー」とは思えないに違いない。
大変だろうな、とか暑そうだな、とか稼働範囲大きくていいな、とかお給料いくらかな、とか思っちゃうんだろうな。
嗚呼、働くって大変なことですね。
次回は初仕事です!