男女差別に対して若干捻じ曲がった意見
男女平等。女性差別。セクハラ。いずれも最近では聞きなれた言葉である。
やれ女のくせになどと言っただとか。
やれ仕事内容に差があるだとか。
そういったことに腹を立てて裁判沙汰になることも、最近ではしばしばある。
そんな裁判を起こし、テレビや新聞などで取り上げられる被害者、主に女性達を見て、私はこう思う。
暇なのだろうか。
他にすることがないのだろうか。と。
物事を俯瞰する大前提として、人には差異がある。世代、立場、経験、主張、そして性別。様々な差異が存在する中で、意見の食い違いがあった程度で裁判にする女性達は、私の目には実に滑稽に映る。
ヒンドゥーの人間がすき焼きを見て「牛様を食べるなど、なんて罪深い」と言っているようなものだ。
そもそもの立ち位置が違うというのに、自分の意見を一方的に押し付けるのは、ある種の傲慢である。人には人の固定観念がある。そしてそれは、人の数だけ違うのだ。
誤解を招かないために明言するが、私はセクハラなどを擁護する気持ちはこれっぽっちもない。
それどころか、私が嫌うのはセクハラを含む、不快に思う行為全てだ。
『人の嫌がることをしてはいけない』と言う保育園で習った常識で、私は物を言っているのだ。
政府が社会問題として取り上げているのを傘に着てわざわざ大ごとに持って行く人達よりは、余程常識的だと思いたい。
そんな私は、そもそもなぜ男女不平等を政府が問題視しているのかが理解できない。
孔子の教えは誰もが知るところ。そのうちの一部を限定的に取り上げて、一体何がしたいのだろう。
そんな事よりも、待機児童の対処早よ。と言いたくなる。女性達の不快感より、幼児達の教育の方が大事なはずだろうが。と。
しかし、それを押しのけて男女差別を前面に出す理由として、旧日本にあった男尊女卑の精神があるだろう。
古来より染み付いてきた風習とイメージの結晶は、現代の女性達に予想外の傷を負わせるのだろう。
だが、そんなのは知ったことではない。
何故なら、男尊女卑を受けていたのは彼女達では無く、現在は高齢の女性達なのだから。
未だにその精神を持ち合わせ、他人に押し付ける時代遅れの骨董品のような男も男だが、それにいちいち腹を立てている女性の狭量さや、それ以前の被害妄想にも目を向けるべきであろう。
さらに言えば、寧ろ女性の方からある意味差別意識を持っているとも受け取れるワードを、女性陣は実によく使っている。
『女子力』と言うワードをご存知だろうか?
知らない人は、もう殆どいないのでは無いかと思えるくらい、浸透したこの言葉。
女性らしさ、女の子らしさの度合いを表すワードであるが、コレが高い事が、一つのステータスであるのだ。
気遣いができたり、ハンカチティッシュを常備したり、おしゃれに気を使ったり、料理ができたり、掃除ができたりと、女性らしい振る舞いを出来るとモテる。らしい。
そう、女性らしさである。
気遣いができたり、ハンカチティッシュを常備したり、おしゃれに気を使ったり、料理ができたり、掃除ができたりするのは、女性らしさだ。他でも無く女性がそう言っているのだから間違いないだろう。
だったら、黙ってお茶を出してくれたまえ。
だが、それは許されない事らしい。私はそれが理解できない。
理解できないと言えば、労働についても同じような事が言える。
仮に、山積みの書類があるとしよう。それを女性に持って行かせると、持たせた男性は他の女性から白い目で見られる。
男らしく無い。女々しいなどと影で言われることもある。
何なんだよもう。
一体我々男性は、女性にどう接したら良いのだろうか。
力仕事を任せない代わりに雑務とかを、例えば、お茶汲みなどをこなしてもらうという、均一に分配された仕事に対して文句を言われて、社会的に見て我々が悪いらしい。
断言しよう。理不尽であると。平等にしようが差を作ろうが文句を垂れる女性に対して。
平等にするなら何もかもを平等にしよう。体力測定で、女子も1500メートルを走ろう。柔道で女子を投げとばそう。男性と一緒に重たいダンボールでも運ぼうではないか。
それでこそ、真の平等だ。
それが嫌なら、せめて互いが不快に思わない関係を持とう。
『人の嫌がることはしない』という人として当たり前のことをしよう。
何故なら我々は、男である前に、女である前に、1人の人間であるのだから。
しょうもないことしてすいませんでした
5/4:数々のコメント、誠にありがとうございます。私は男性で、男側の意見しか述べられませんでしたので、感想欄にて女性からの意見を拝見した際、身にしみる思いを感じました。他にも同性の違う視点の方からの意見も有り難く思います。妹に吠え面かかせるために書いたエッセイですが、これほどまで評価されて幸福の限りです。ありがとうございます。