第二部 四章
日曜日という一週間のうちでほぼ確実に休みとして用意されている高校生にとって、その一日の利用は非常に慎重に扱わなければいけない。それを時間の有意義な活用法として学校側からはこれでもかと課題を渡される。そんなものに時間を費やせばあっという間に青春は過ぎ去り、消えゆくのは必然。将来に備え勉強に勤しんだところで行き着く先は仕事のことしか考えられない社会人だ。つまらない高校生活の後に行き着くのはきっとつまらない大人。誰が望んでそんな道へ走るのか。勉学を疎かにして良いなんて思っていないが楽しめるチャンス、立派な休日があるのを見逃す理由はない。
「スタンバイ、OK!ゲットレディ?」
その休日を大人でありながら休息ではなく楽しむことに使える人物が自分の横にいる。そういう意味では彼が自分と同じ年頃は何をしていたのかと悠登は少しだけ考えた。
「今からカメラ回すなよ。バッテリーもったいない」
俺が言うと先日買ったばかりのハンディカム(定価八万九千八百円)をこちらに向けていた親父の動きが止まる。
「つまりぶっつけ本番、か……。ふ、いいさ、この程度の修羅場は何度もくぐり抜けてきた。多少の無茶は承知している!」
セリフ回しからディスチャージ仮面の見過ぎだ。ニヒルな笑みを浮かべてみたところで落ち着きなく尻尾を揺らしそわそわしているのが丸わかりになっている。
既に幼稚園へ着いていた獅子井家は悠登の勧めで木陰に陣取っていた。玲奈の出番はフルタイムではないのだから、撮影に適した場所を確保しても大半は暑いだけ。ネックなのは幼稚園の入り口からは対角線なのでトイレが遠いことぐらいだ。それでも運動後の昼時まで今日のような炎天下に玲奈を晒していたくない。
「しっかし、天気に恵まれて良かったよなぁ。水曜とかは日曜の予報は雨だったし」
レジャーシートに横たわっていた章助は起き上がると木陰から身を乗り出して空を仰ぎ見る。空の青は今日も澄んでいた。
「なぁ悠登、飯はまだか?」
振り返ると腹を押さえながら章助がこちらを見るので俺はすかさず弁当箱を自分の後ろに隠した。
「コンビニならここを出て右に歩いたとこの交差点にあったろ」
「俺はお前の料理が食いたいんだよ」
そういうニュアンスで言っているのがわかったからこちらも同じように返答した。察してか章助はおとなしく元いた場所に座る。
「それにしてもお前から俺を誘うなんてな」
「玲奈が言ったからであって俺がお前を呼んだんじゃないぞ……」
玲奈の運動会に章助がいる理由。章助が噂を耳にして勝手についてきたわけではない。
今回は俺の方から暇なら来いと話をした。章助には一昨日までは知られずに済んでいたのだが、先の通り玲奈が章助は来てくれないのかと言われる。玲奈の希望を受けて、話せば来るのだろうなと思いつつ言ってみると見事にこの通りだった。
「お前だって、俺が来ても良いから呼んだってことだろ?」
「それは……」
そうだとしても……増長するだけだろ。言うか。
「それは?」
暑苦しい顔が近付く。それに顔を背けて俺は幼稚園内の方に目を向ける。中で先生達がドタドタ忙しそうに箱を運んでいた。
「あれ、桑野?」
それを眺めつつどう答えたものかと思案していると章助の声が離れた。声と共に顔も違う方へ向けたのがわかる。なんと桑野さんの名を出して。
「なんで桑野さんがいるんだよ」
振り向きそうになったが章助が俺を欺こうなんて万年早い。しかも騙すならどうして桑野さんなんだ。俺は桑野さんとは……また話せるようになってきたけど……。そんなにガツガツはしてないというか。
「おい悠登、狼塚もいるぞ」
「はいはい」
狼塚も用意すると少しはリアリティも増すな。桑野さんと言えば狼塚。俺と言えば章助、は認めないがその二人の組み合わせはわかる。
「獅子井君、やっぱりいたね」
背後から聞こえる章助と違い野太くない女子の声。音とは耳で聞くものではない、頭で聴くものだ。その声が頭を掠めた瞬間に悠登は耳を声の方へ動かしてしまう。
「桑野さん……?」
「おはよう!」
耳より一拍遅れて悠登が顔を戻すと彼のシートより一歩離れた場所に長い髪を束ねた彼女、桑野明が立っている。白いティーシャツにデニムのベスト、ライム色のハーフパンツと徐々に暑くなり始めるこの時期に合った爽やかな服装だ。彼女は挨拶すると同時に敬礼するように右手を上げる。その更に後ろには章助が言ったように狼塚もいた。その周りには謎の狼獣人の集団。
「おは……おはよう。狼塚も……」
狼塚も視認して俺はやっと体も二人の方に向けた。狼塚はチェックのロングティーシャツにジーパン、腕は暑いのか巻くっている。
「……あぁ」
何があぁ、なのかはわからないがそれは確実に彼から俺へのリアクションだった。これを返せるようにならなくては会話が成立しない。その二文字だけの返事にどう返すかが今の俺の課題だった。
「だから言ったじゃねぇかよぉ」
「……すまん、悪かった」
恨めしそうに章助が言うものだから謝る。疑うどころか桑野さんの声を聞くまで信じようとも思っていなかった。それにしてもこの状況がわからない。
「狼塚はどうしてここに?」
「弟の運動会」
野暮な質問だと自覚はあった。この日、この場所で、家族らしき人達と揃って現れたのだからそれ以外に何があるのか。
「桑野も弟や妹いるのか?そんな話聞いたことないんだが」
そこに章助が俺の聞きたかった質問を桑野さんに投げる。
「私?いないけどトォちゃんが暇なら来いって言うから来たんだ。久し振りに史香ちゃんや園佳ちゃんにも会いたかったし」
フミカとソノカ、どちらも聞いたことのない名前だが狼塚が桑野さんを呼び出した。家族ぐるみのイベントに来いなんて言う仲なんだなと思うと……。
「……すみません。この辺って誰か先約とかあります?」
そこにスカート姿の狼獣人が申し訳なさそうに入ってくる。
「いや、誰もまだここは来てない、よな?予約席とかでもないかと」
確認すると父も母も頷く。そもそもこの二人はカメラの説明書を睨んでいたから周りなんて見ていなかっただろう。悠登も章助もここに来た時点でも、周りにシートを広げる家族はいなかった。ここに広げて良いかは猫垣先生に聞いてあるから違反はしていない。
「じゃあお隣いいですか?」
「……どうぞ?」
俺の許可はいらないけど、と思うが答えると話し掛けてきた狼は口を大きく開けて随分嬉しそうに笑う。一礼して向こうの狼達からシートを取り上げた。それをこちらの横に一気に広げると微かに風で砂が舞った。
「史香、そのやり方じゃ砂が飛んで迷惑だろ」
「あ……。ごめんなさい、お兄ちゃん。あと……」
狼塚が史香と呼んだ彼女が妹の一人。ならあっちの小学生くらいの子が園佳ちゃん……と。にしても狼塚は妹にもそんなぶっきらぼうに言うのか。
「こっちは別に気にしないよ」
さっきはちょっと嫌な方に考えそうになってたし。プラスに考えよう、休日も桑野さんに会えた、って。その方が健康的だ。
「……あの」
「うん?」
シートを広げ終えると史香……さんが俺の横にそそくさと正座する。その向こうで狼塚の両親らしき二人がこちらに会釈した。それに同じように返すと史香さんが口を開く。
「あの、応援団の人ですよね?」
「あぁ……うん。そっか、史香さん……は今年入学してきたんでしたっけ」
「敬語なんて止してください先輩。史香でいいです」
くすくす笑う史香さん、もとい、お言葉に甘え史香を見て狼塚の妹なのにこんなに表情が豊かなのかと驚いてしまう。ついでに対面式の俺を覚えていたことも。
「対面式の時すごい先輩がいるなーって思って覚えてたんです。それに先輩、この前の開会式でかっちゃんと話してましたよね?」
かっちゃん、と聞いて最初誰かわからなかったがあの子か。狼塚の妹がいるかもとはどこかで思ってたけど誰か探そうとはしなかったし。
「ねぇねぇ、すごいって獅子井君やっぱり厳しかった?」
桑野さんが史香の肩に手を置いて傍らに座る。史香がこちらを見るが今の俺の方が彼女を怖がっているような気さえしてくる。
「今となってはもう過ぎたことですけど、あの迫力はびっくりでした……。でも……」
「でも?」
桑野さんが逃さないように追撃する。そろそろ聞いてる方も辛いし向こうも嫌な過去をほじくり返されたくないんじゃ…。
「でも、その、獅子井先輩はかっちゃんを抱えたりしてカッコよかったし、そっちの先輩は団長の胴上げ見てて面白いなって」
「俺?」
自分の方を指差すものだから黙っていた章助が史香の肩に手を乗せる桑野さんのように俺の肩に圧し掛かる。それに潰されないようにしながら俺は苦笑する。怖いという印象を今にまで引き摺らせたくない。かっちゃん……伊藤さんを保健室に連れてったのも見られていたり普段からあの子と話すならカッコよい先輩とやらでもう少しだけいたかった。
「はい、確か対面式の日は獅子井先輩といましたよね。でもそれから見なくて……」
「それでも団長の胴上げをする虎澤を見て思い出したってわけか」
狼塚の捕捉に史香が頷く。このずっしりとした体格、そうはいないから一度見れば刷り込まれてると言われても肯定しかできない。
「対面式は大変だったよなー。泣いてる子もいたし」
「泣かせたのは縞太郎君達でしょ?」
……否定できない。
「いや、俺達が教室で怒鳴ってた時は泣いてる子なんてほとんどいなかったって。泣いたとしたら……」
言い訳を始める章助の目線は狼塚の方に向けられた。
「教室から体育館までの間!つまり泣かせたのは廊下担当の狼塚だ!」
ビシッと狼塚を指差す章助。片手が肩から離れたのでもう片方を俺が手で払うと鬣に章助の顎が埋まった。
「……俺は立ってただけだ」
それだけが対面式や応援団じゃないんだぞ。狼塚にはそう思うがまずは章助を頭から退かす。
「でもあの時のお兄ちゃん、怖かった……」
明の下で史香が対面式を思い出し俯いてしまう。それを心配に思ったか明も離れ、狼塚と彼女の顔を覗き込む。
「ちょっとトォちゃん……。なにしたの?」
「だから、言われた通り立って睨んでただけだ。それに史香、帰ってきてからフルコースだったろ?」
桑野さんに弁明する狼塚は俺により辛辣な言い方だった。でも感情的というか。それに史香に対しては呆れている。こんな狼塚はそうそう見られない。にしても、フルコースとは?
「お兄ちゃん最近は園佳とばっかりお風呂や添い寝してこっちのことなんて構ってくれないじゃない!フルコースも何年振りだと思ってるの?」
「風呂……」
「「添い寝……?」」
章助が風呂、俺と桑野さんが添い寝を復唱した。声がハモったのに気付いて一瞬目が合うと桑野さんはほんの少し吹き出した。俺もちょっとしたことだったが口が緩む。
和やかな雰囲気なのは俺達だけ。章助は固まり史香は不機嫌で狼塚は気まずそうに周りを見ている。他の親御さん方も集まっては来たがこちらを気にしてはいない。
「おい史香……」
「私は今だってできればお兄ちゃんをもふもふしてお風呂入ったり寝たいのに!わざと部活や勉強で時間ずらしてるでしょ?」
フルコースの全貌が見えてきた、それに対して羨ましいと思っている自分がいるのも悔しい。いや、史香をどうこうしたいんじゃなくて、どちらかと言えば狼塚を……余計危険だ。
そこでようやく史香の尻尾に目が行った。それに、狼塚の両親や園佳ちゃんの方にも…。
単刀直入に言えば、良い。フルコースと言って狼塚家の尻尾を自由にして良いともしも言われたら数時間は手放さない自信がある。
「獅子井君、ダメだよ。さすがに女の子の尻尾は……」
「ぐわぅ……っ!?」
桑野さんが横に来て他に聞かれないようにそっと呟いた。もちろんこちらに来るのは見えていた。俺が動じたのはその内容の方である。
「く、桑野さん……そんなのあるわけ……」
「だって史香ちゃんや園佳ちゃんを見てにやけてるんだもん」
見抜かれていた。それににやけてまでいたとなれば完全に俺の落ち度だ。
「ごめん……少しだけ思った。でも大丈夫だから……うん」
だから素直に謝る。狼塚の両親は二人で話しているからこちらの目に関しては気付いてない、と思う。分別はある、今まで狼塚の尻尾を無理に触らなかったのが根拠。
「素直でよろしい」
桑野さんが胡坐をかいて笑う。狼塚達はまだ家族喧嘩……というよりももはや痴話喧嘩のような言い争いを続けている。園佳ちゃんも狼塚に抱き付いて史香も兄の腕にすがり付いた。それに興味を持ったのか章助もそれを楽しそうに眺めていた。
「でも私も思う時あるんだよ」
「なにを?」
また聞いてみてすぐに気付いてしまう。尻尾の話をしていたんだ。狼塚の尻尾に決まっている。
「あぁ、狼塚の尻尾に、だよね。本人はあの魔性の魅力に気付いてないんだから……」
「トォちゃんの尻尾は私触ったことあるもん。私の言ってるのは違うよ」
もったいない、と俺が言う前に桑野さんが言う。触ったことはあると前に言ってたっけ。でもそれならどう違うのか。
「……耳?」
俺が次に触りたい狼塚と言えば耳だ。あの大きくとんがった耳がどう自分の手に収まるのか考えると悩みは尽きない。耳の方が難易度は低い気がするが、だからこそ俺はまず狼塚の尻尾から制覇したい。
「違う。……触ったことがないのはライオンの鬣だよ」
「たっ……。えっ?」
会話にライオンの鬣が出て面食らってしまう。聞こえていた。それなのに聞き返してしまう。
「もちろん、縞太郎君みたいに急に腕や顔とか突っ込んだりなんてしないから安心してね?あはは……トォちゃんにも怒られたし」
俺が引いたと思ったのか慌てて桑野さんは両手の平を俺に向けて振る。
「いや、それは……」
ライオンの鬣を触ってみたい。そんなのこっちは願ってもない申し出、なのに。是非触ってくれと言えなくて。そう言ったらこっちの気持ちがばれるんじゃないかとか考えて。意識してしまったら止まんなくて。
「……狼塚の言ったことなら気にしなくていいんじゃない?狼塚に対して気を付ければいいことだと、思うし」
それが俺に言えた精一杯。……カッコいい先輩にはやっぱりなれそうにない。
それが桑野さんにどう届いたかはわからない。だけど彼女は俺の言葉を聞いて目を丸くした。
「……うん、ありがとう」
桑野さんが俺に対してお礼を言った理由はよくわからなかった。だがその直後彼女は自分の携帯を取り出す。
「あのね、真衣も呼ぼうってトォちゃんに話したんだ」
「保谷さん?」
桑野さんが頷き携帯の画面を向ける。そこに保谷真衣、という名前が表示されていた。
「トォちゃんが渋ったから止めたんだけど、私が呼びたいなら呼んでもいい、かな?」
それを聞いて俺は間髪を入れず頷く。それを見て桑野さんは笑った。
「だよ、ね!そうだよ、獅子井君も縞太郎君も来てるんだもん。真衣もいてくれた方がいいよ!史香ちゃんもいるんだし!」
俺達といるよりも女子率が増えてくれた方が桑野さんも居づらくないと思う。保谷さんと何を話せば、と俺達が気にするよりも二人で喋っていそうだ。
「……よしっ」
しばし携帯をいじっていた明が何か気合を入れるように呟くと携帯を見詰める。しまわないのはまたすぐに使うつもりだからだろう。
「メール送ったよ!……って、ここ獅子井君の家のシートだった……ごめん」
慌てて立ち上がる桑野さんの太股がちょうど俺の目線に入る。その曲線や色をもっと見ていたかったがすぐに首を振って煩悩を払う。
「……狼塚のシート、人いっぱいだしこっちにいたら?」
提案してから恥ずかしくなった。でもまだ話していたい。それに人がいっぱいなのは事実だった。
「いいの?」
「章助が向こうにいるし」
見れば狼塚は自分に抱き付く妹二人の頭を撫でながらなだめている。それを両親に見守られ、章助が狼塚にいつもこうなのかと聞いていた。
「獅子井君ってさ、人間の女の子を預かってるんだったよね?」
再び桑野さんが横に座る。俺の提案にとりあえず乗ってくれた。
「うん。お隣さん、楢原さんの家の玲奈、って子」
今は入場準備をしている頃だろう。玲奈の晴れ姿の撮影、それは親に任せたが腕の方も心配だ。実際に撮ったらブレてばかりだったなんて洒落にならない。念のため携帯で自分でも撮るつもりだった。親父は心配すんな任せろと言って聞かないが昼の確認だけは絶対にしておかねば。
「トォちゃんが珍しく自分から獅子井君の話をするから気になってたんだ。どう、可愛い?」
地区予選帰り、保谷さんに呼び止められた時桑野さんがフォローしてくれた。それに何か意図を感じもしかしたら知っているのかも、とは思っていた。先程やっぱりいたと言われ確信したから桑野さんのさっきの質問には驚かなかった。今の質問にもすぐに答えられる。
「可愛いよ。馴染むのに時間掛かったけど、今は自分の気持ちをはっきり言ったりして。ディスチャージ仮面の見過ぎとか、ませてるなと思ったりする日もあるけど……」
「ディスチャージ仮面って……あ、ごめん」
桑野さんが何か言おうとしたがその途中で彼女の携帯が震えた。たぶん、さっき送ったメールの返信かな。
「…………」
しばし画面に目を走らせてから桑野さんの指が滑るように動く。
「来るって、真衣」
「良かったね」
携帯を今度こそしまった桑野さんの報告はどこか淡々としていた。嬉しさ半分、不安半分のような。
「あんまり乗り気じゃなさそうだけどね」
それを無理に呼んだから悪いとでも思っているのなら今の表情になるのもわかる。俺が章助相手に呼んだならほとんど何とも思わないだろうが。
しかし桑野さんの表情を見てまた、前に見た寂しそうな横顔を思い出す。あの日しか見ていないのに、忘れそうにまでなっていたのに。
しばらくは戻って来た章助と話し、桑野さんとの会話はうやむやになってしまった。桑野さんの方も狼塚の妹達と話しに行ってしまう。狼塚はこちらに来ようともしないので章助が無理にこちらへ連れてきた。おかげで狼塚家シートに女子、獅子井家シートに男子が固まることに。
「め~い!」
「真衣ー、こっちこっち!」
園児達の入場が間もなく始まるところで保谷さんがやって来る。携帯をいじっている姿は見ていたからそろそろ着くのかも、とは思っていた。他の園児達の親もがやがやと集まりあまり広くないグラウンド端に詰まっている。
「ふう、ほんとに獅子井君も縞太郎君もいる。おはよ」
「おう」
「おはよう」
黒いインナーに赤と黄のチェックシャツ、レースになった白いスカート姿で現れた真衣は今日も息を切らしていた。なんだか地区予選の日を思い出してしまう。
「真衣、史香ちゃんだよ。覚えてるでしょ?」
桑野さんは迷うことなく自分の横を叩いてそこに座るよう促す。それに保谷さんも応じて、一度躊躇ったが座った。
「うん、遊べる場所が被ってた時はいつもお兄ちゃんのとこにいたもんね」
「私も覚えてます。あの……ご無沙汰、してます!」
二人の会話を盗み聞くつもりはないが会話から察するに随分会っていないみたいだ。
「狼塚って桑野とは会ってたのに保谷とは会ってなかったのか?仲良かったんだよな?」
「今なら気にならんがちょっと家が離れてたからな。小学校も違ったし」
章助も聞こえていたのか俺も疑問に感じていたことを狼塚にぶつける。それに簡単な補足も加え答えてくれた。
「園児と今じゃ移動範囲違うもんな」
章助はそれに満足したのかたどたどしく挨拶する後輩とそれを和まそうとする先輩の両方を見ている。俺はそろそろ始まる運動会の方に意識を向けた。
“大変長らくお待たせしました。ただいまより、入場行進を行います。”
ブツっとスピーカーからノイズがした直後、遂にアナウンスが流れる。それを聞いた親達も一斉にざわめき出す。
「よし、いくぜ!」
「他のカメラの邪魔だけはするなよ……」
ハンディカムを起動し勇む譲司に釘を刺す。彼もまた親だ、それくらいわかっているとは思うのだが悠登は新品のカメラ、初めて玲奈を撮影できるということでかなり興奮している父に不安を抱かずにはいられなかった。
「射線上に入るな、だな?任せろハカセ!」
ディスチャージ仮面に出てくる博士はモノクルを付けた老紳士だ。既に靴を履いて行ってしまった親父にそう思っているとどこかで聞いたことのある曲が流れてくる。
“やってきました運動会!今年の入場行進曲は『ブレイジング・ディスチャージャー』、お父さんお母さんにもおなじみディスチャージ仮面の主題歌です。元気いっぱいにまずは年少組のみんなが……”
今日は録画だけで済むと思っていたがこういう場所だ、流れても何の不思議はない。それを自分が予想していなかっただけだ。章助は頭を揺らして曲のリズムに乗っている。
「狼塚、弟って年長さんか?」
「あぁ年長だ」
なら俺も会ってたりするんだろうか。いや、狼塚の家族に朝会ったことも帰りにそれらしき子も見たことがない。俺が玲奈を送り、迎えに来る間に送迎を済ませているようだ。
「なら玲奈も知ってるかもな」
「組が違うんじゃないか。アイツはユリ組だが」
俺の推測に狼塚がそれを無効にする発言をした。玲奈が制服に付けていた名札の形はバラ。それに対して狼塚の弟はユリ組。組は明らかに違う。
「玲奈はバラ組なんだよなぁ」
テンションの高いアナウンスが年中に続き年長組の入場を告げると俺は立ち上がった。狼塚は俺を見上げたが前へと顔を戻す。
「さて、ちょっと行ってくる」
「わかった」
わざわざ俺に言わんでも、と表現するように狼塚は入場する園児達だけ見ている。もう少しくらい興味を持ってもらいたいと思いつつ、そうしている間にも入場は続いていた。シャッターチャンスは逃したくないのでグラウンドへ向かう。
カメラを構える親御さんたちは姿勢を低くしすり抜けなるべく前へ。譲司が反対側にいるのを確認すると悠登は携帯のカメラを起動した。
「……ズーム、汚いよな」
昨今の携帯カメラはオートでピントを合わせて高精細、手ぶれ補正もついているとCMでは謳う。それでも少しズームした途端一気に残念になる。無論、携帯は電話やメールといった連絡ツールだ。持ち運びに難があろうと撮影に特化した本物のカメラと、オマケで付いている携帯カメラでは性能を比べるべきではない。
それでもここまでの進歩をした携帯カメラの性能は悠登からすれば十分過ぎる程だった。まして、新品でナウいハンディカムなら譲司が持っている。悠登が使って一年以上経つ携帯とは雲泥の差があると言うべきだ。写真ではなく動画ならその開きは更に大きくなる。
グラウンドを周回する園児達はかなり近くまで来てくれる。ズームは使わずに済みそうだと安心して悠登は玲奈の姿を探した。
「お」
見付けた。カメラ越しで探した玲奈はきびきびとした動作で腕を振って律義に行進している。親を発見してすぐにそこへ向かおうとする子や自由に跳ねている子もいる中で玲奈は落ち着いているように見えた。
「………」
緊張しているのかそれがどこか子どもらしくなくて。背伸びしているんじゃないかって。こちらに気付く様子の無い玲奈を一枚撮影すると俺は一呼吸。
「玲奈!」
他の親のように子にこっち向いて!と叫ぶのは気恥ずかしさがあった。でも背伸びしない玲奈で良いと思ってほしい。
「……!」
玲奈は俺に気付くと少し表情が和らいだ。それもすぐに引き締まり一段と大きく腕を振り、足を上げる。それを見てふと笑ってしまった。
無理しなくても、と思ったが今日は張り切った姿を見せたいんだな。それが伝わってきてやりたいようにやってもらおうと決めた。だったら俺や親父で精一杯カッコよく、可愛く撮影するまでだ。
入場、開会式中の体操、座って園長の話を聞く姿、退場まで一通り玲奈を撮ってから悠登は章助達に合流する。彼らはその場でおとなしく観覧していたようだ。
「お疲れ、獅子井君」
「ありがとう」
保谷さんが最初に気付いて声を掛けてくれる。それで他の皆もこちらを向いた。
「獅子井君、玲奈ちゃんの写メ見せてくれない?」
俺が一度座るとすぐに桑野さんが横に近寄ってきた。手に持っていた携帯が目当てだろうが、近い。
「うん……どうぞ。これ、この赤じゃなくて白い帽子被ってる方」
フォルダから撮りたての画像を開いて携帯の画面を見せると桑野さんが覗き込む。もっと近くで見せれば良かったんだが、微かに桑野さんの髪から甘いシャンプーの匂いが香って……動けなかった。
「この子?あ~!目ぇおっきくて可愛い!」
「でしょ」
玲奈は当然だが桑野さんも、とか勢いで言えたら良かったが理性と躊躇いが俺を止めた。言ってたらきっと今度は恥ずかしさで今夜眠れなくなる。
「こう見えて猛獣使いだって縞太郎君が言ってた」
章助は狼塚に話し掛けているが狼塚は一言二言返すのみ。お喋りなのはアイツくらいだった。
「そうだね、章助もちょくちょく乗られて操られてるよ」
「なんか想像できちゃう」
桑野さんは笑って玲奈の画像を見てるので携帯を差し出した。他の画像も興味があれば、と思って。
「真衣達にも玲奈ちゃん見せていい?」
「もちろん」
俺が答えると桑野さんはすぐに膝歩きで女子達に玲奈を見せに行った。それと入れ代わるように章助がこちらへ這って来る。
「悠登ぉ……狼塚が構ってくれない」
「俺がお前を構うとも限らないぞ。今日は忙しいからな」
章助の報告に俺も現状を伝える。そう答えると章助は尻ポケットから折り畳んだ今日のプログラムを取り出した。
「年長の競技はまだだろ?少しくらいいいじゃねぇか」
そう言われると少し考えてしまう。他がどうでもいいとまでは言わないが全ての園児達を撮影対象にしているわけでもない。
「あ、ならタクマ君とか知り合いの子も撮影しとくか?」
俺の提案におぉ、と声を上げ章助が起き上がった。なんだか俺が小さい時は親同士がそんな風に写真を交換していた覚えがある。
「面白そうじゃん。……でも俺そんなに知らないぞ」
ただぐうたらしているよりはと思ったが、言われてみれば章助は人が多い朝ではなく人のいない夕方の幼稚園しか知らない。その分誰かに会うこともなかった。玲奈の迎えも大抵コイツはグラウンドをぼんやり眺めているし。
「誰彼構わず撮るよりいいだろ?俺だってメインは玲奈だし」
「そりゃあそうか」
納得がいったのか章助も携帯を取り出す。
「撮ったやつはお前に送ればいいか?」
「今度寄り道してプリントすればいいかって思ってたから無理に送らんでもいいぞ」
写りが綺麗かは知らないがプリントするだけならその辺で機械を見掛けた。プリンタが家にあるかは親父に聞いてみよう。
「ならまずは撮ることから始めないとな」
章助の言う通り。桑野さんから携帯が返ってきて年少の玉入れが終わると再び競技場カメラマンとして章助を伴い出立した。
“赤、赤、白、赤、白、白。若干赤組がリードしています。白組も頑張ってください!”
年長の徒競走が始まると章助はカーブ、俺はゴール際と分かれて待機。あとは玲奈がやってくるのを待つのみだった。他にも何人か撮ってはいたが主賓の出番はいつなのかとやきもきしてしまう。これが保護者目線ってもんなのかな、と考えたがそれは偏見だろうな。
「悠登、来るぞ。逃がすなよ」
「親父…!?」
あちこちふらふらしていると思っていたがいつのまにか背後に親父がいた。俺の肩を叩くと同時にスターターピストルが鳴る。それを合図に六人が一斉に駆け出した。
「悠登!わかってるな!」
「任せろ!」
親父と俺のターゲットは一人。邪魔者もいない。それならば逃す心配なんて有り得ない。今この時に必要なのは心配ではなく一瞬を逃さない集中力だった。
「来たあぁぁぁぁ!」
親父の叫びも騒音でしかない。そのカメラも動画で撮っているなら今のも後で見てうるさいと思われないだろうか。
「玲奈!」
頭では冷静に思っている。それでも、カーブを抜けた玲奈の横を走る園児が少しずつ離すために速度を上げた。我慢できずに自覚もないまま叫んでしまう。
「ふっ…!ふっ…!っ……!」
玲奈が前のめりになって腕を、足を限界まで素早く交互に動かす。少しずつ、少しずつだか玲奈が一番前に体を出していく。
「頑張れ!」
「行け、玲奈!」
差は微々たるもの。横の犬獣人の男子も玲奈の追い上げに負けじと食い下がる。それでも玲奈はゴールテープに六人中一番に飛び込んだ。
“白、白、赤、赤、白、赤。赤組も最後まで追い上げを見せました!”
アナウンスが玲奈をただの白組としか言わない。それは仕方ないことだが玲奈が一番になってくれたという喜びに水が差された。
「おにいちゃん、おじちゃん!」
しかしそこに一等と書かれたバッヂを体操服に付けてもらった玲奈が俺達を呼ぶ。走り終わった園児達と先生に応援席に戻る途中、玲奈は俺と親父にずっと手を振っていた。
「ふふん、喜んでたじゃん」
親父もとても嬉しそうに口元を動かしながら俺を肘でつんつんつつく。
「そっちこそ。……邪魔にならないうちに戻るぞ」
「おうよ」
途中章助が玲奈の一位に喜び俺に抱き付いてきた。すぐに押し退けたが玲奈の一位を喜んでくれる人が一人でも多いのは俺にとっても嬉しかった。
大玉転がし、玉入れ、お遊戯と運動会は続く。そこに玲奈の姿があれば俺と親父、そして章助はすぐに飛んでいった。容量、ピントずれ、手ぶれなんて気にせずまずは決定的瞬間を掴むためにシャッターを切る。それだけで時間はすぐに過ぎて昼休みが訪れた。
「おにいちゃん!」
迎えに来た俺の姿を見付けると玲奈は駆け寄って俺のズボンにしがみ付いた。その様子だとまだまだ体力は残っているらしい。
「さ、お昼だぞ。お弁当いっぱい食べてな」
「うん!」
日陰に陣取っていたことがわかると玲奈は涼しいと言った。段々気温も上がってきているしあれだけ動き回っていたのだ、さぞ暑かったろうとまずは冷えた水筒のお茶を飲ませてやる。
「ふー!」
玲奈が喉に潤いを取り戻すと共に一息。その間に俺は用意していた弁当箱や紙皿、紙コップを取り出し配る。そこで気付いたことがあった。
「桑野さんと保谷さんって昼飯どうするの?」
狼塚のお母さんが狼塚の弟を探しに行った間、狼塚家は昼食をお預け状態にされているようだった。獅子井家の隣だけお昼時なのに皆が静まり、気まずい。
「真衣は何か考えてた?」
「もう、呼びだしたのはそっちじゃん。コンビニ行く?」
「……家ので良ければ一緒にどうかな?」
それまで静かに腕を組んでいた狼塚父が重い口を開いた。真衣は驚いたようだったが明はその提案に笑顔を見せる。
「ありがとう、おじさん。でも私達二人は……」
「なら、俺の家のもどう?味は保証しないけど……量はあるよ」
出しゃばったかもしれないが元は俺から振った話でもある。狼塚のお父さんに先は越されたが元々俺からも一緒にどうか言おうと思っていた。
「味って……それ、獅子井君が作ったの?」
「一応」
桑野さんが見ていたので俺は自分が持ってきた二段だけの重箱を開ける。
「おぉ、美味しそう!」
保谷さんも中身を見て唸る。章助が黙って手を伸ばしたのでそれを叩き落としすかさずおしぼりを玲奈に渡し章助へは投げた。
玲奈とその他のリクエストに応えた弁当。一段にはおにぎり、形は玲奈の希望通り、腹に海苔を巻いているものを敷き詰めた。崩れていないか心配だったが開けて安心する。
もう片方は当然オカズフロアでかまぼこと筑前煮、少し焼き過ぎた気がする厚焼き卵にリクエストで小振りのフライドチキンも多数。母にもリクエストを聞いてみるとイカを食べたいとのことで塩コショウで炒めた物も追加した。そして水筒のお茶とスポーツドリンク、オマケのみかんも用意してあるので自分でもカラフルになったと思う。卵がもう少し明るい色だったらと反省は残るが。
「ふいた!」
「じゃ、召し上がれ」
玲奈からおしぼりを受け取る。紙皿と割り箸はおにぎりを食べてもらってからにしよう。
「うん!いただきます!」
端のおにぎりを掴み玲奈が勢い良く頬張る。それを見て章助も手を合わせた。
「悠登、いただきます」
「……おう」
勝手に食おうとして一応反省したのか。親父と母ちゃんもおしぼりを取り出し無心で手を拭いている。それを尻目に桑野さん達に視線を戻すと狼塚のお母さんも丁度戻ってきた。
「お待たせ」
「あぁ!めいねーちゃん!」
狼塚母の横にいたのは見覚えがある園児だった。忘れもしない、玲奈と先刻徒競走でデッドヒートを繰り広げた子だった。大雑把に犬で括っていたがどうやら毛皮の模様で勘違いしたらしい。でももう何年かすれば……。
「……どうした?」
「いや、なんでも」
将来が楽しみだ。尻尾とか。
「知君久し振り~!元気してた?」
「うん!」
桑野さんが知君と呼んだ狼塚の弟は靴を脱ぐとすかさず桑野さんに飛び付いた!堂々と胸に顔を埋めてご満悦で尻尾をぶんぶん振っている。ちょっ………かなり羨ましかった。
「悠登?どうした」
固まる俺に章助がおにぎりを丸呑みするように口へ放りながら聞いてくる。俺はすかさず紙皿と割り箸を取り出した。
「桑野さんに紙皿と割り箸渡そうと思ったんだけどさ」
章助はそうか、と言ってこちらに手を出す。なら先に俺にくれ、と言いたいのだろう。素直に俺は章助達に配っておいた。
「知幸、早く食べないと昼休みが終わるぞ」
「はーい!」
狼塚父の一言に弟は返事をして何の未練もなさそうに明から離れる。そこで彼の名前が知幸だとわかった。
「桑野さん、これ良かったら」
「あ、ごめん!ありがとう」
桑野さんと保谷さんにも紙皿と割り箸。面倒臭がって人数分ではなくあった分を無造作に鞄に詰めて良かった。こうして離れて見ると物静かが二人にアグレッシブな性格が二人と狼塚家の子どもはバランスが取れているように思えた。
「にいちゃんそれぼくの!」
「……そうか…ほら」
「う……じゃあ、はんぶんこしよっ」
早速お弁当を食べ始める狼塚家。こちらからだと狼塚は背中しか見えないが知幸が食べようとした何かを狼塚と取り合い。狼塚が引き下がり耳を曲げると知幸は分配を提案する。狼塚の耳がすぐにピンと張ったのは言うまでもない。
性格にバランスは取れていても弟と妹達は兄が大好きと偏っているようだ。それもまた羨ましいが今の俺には玲奈がいるから気にはならない。
「獅子井君……また尻尾?」
「ち、違っ!……狼塚は尻尾もだけど人望も厚いなって思っただけ」
俺も食わねば、と思って手を拭くとフライドチキンを口に放り込んだ。
「ね、桑野さんもせっかくだから。鶏肉は嫌い?」
話題を逸らそうと慌てて勢いがついて桑野さんに箱を少し寄せる。大したものはないが俺の手料理を差し出してしまった。口に入れたチキンも桑野さんの手が伸びる前に骨まで噛み砕いて呑み込む。
「ううん、好きだよ。だけど……」
そんなに俺って尻尾キャラで桑野さんにも定着しているんだろうか。狼塚に対しても最近は自重するようにしていたつもりなのに。つもり、では何の意味もないか。
桑野さんは俺や親父、章助を見て困惑している。そこに母ちゃんが箸先を俺に向けた。
「フライドチキンの骨までバリバリ食う人間がどこにいるってのよ」
「あ……!」
俺が気付いた時には遅い。桑野さんを見ると頬を掻いて困ったように笑った。
「ごっ……玲奈もごめん」
見ると玲奈は普通に骨を残していた。何に対して謝られたかわかっていない。それならまずは保留にする。残したところで俺は問題ない。
「あの、桑野さんも保谷さんも骨とか気にしないで?」
「こんなに美味いのに」
余計なこと言うな、と思うが章助は構わず俺の卵焼きに箸を伸ばす。
「じゃあかまぼことおにぎり……いい?」
「……そりゃあもう!どうぞ!」
俺は桑野さんとの気まずさに声を張るしかできなかった。
♂⌒♀
獅子井君、獣人ってチキンは骨まで食べる派が多いの?
食後、紙コップにお茶を注ぎながら保谷さんに聞かれた質問だ。どうして狼塚でも章助でもなく、桑野さんすら差し置いて俺に聞いたのか。
加熱した骨は縦に裂ける。それを呑み込めばあちこちに刺さるからコンビニとかで売っているサイズのフライドチキンは俺も軟骨で自重していた。しかしあんな人間の口でも一口で食べれる大きさの骨程度なら噛み砕いて食べてしまう。それが普通だと今の今まで思っていた。保谷さんが俺達を知らなかったように俺も人間達がチキンの骨は噛み砕かないと知った。
それを知っていたらもう少し違う物を考えたんだが、と悩みつつ俺はトイレを借りに園内に入った。結局桑野さんも保谷さんも遠慮してチキンはほとんど食べてくれなかったなぁ。
玲奈と桑野さんも挨拶程度に話していたが玲奈はバラ組の別の子と行ってしまう。あの子の名前も今度聞いておかないと。
「あら」
「こんにちは」
職員トイレで用を足し終えると外に犬間さんがいた。今日は獅子ヶ谷さんがいない。
「こんにちは獅子井君。獅子井君達……どこにいたの?」
「俺達は砂場近くの木陰です」
茶色く毛の短い獣人の犬間さんはそれを聞いて耳を一度揺らす。
「あぁ、あそこ!見ないなーって話してたんだけど……いいとこに目を付けたのね」
「はは……」
イタズラ交じりに恨めしい目を向けられ、犬間さんが日光直撃の場所にシートを広げていたのを思い出す。玲奈の撮影で挨拶する暇もなかったが俺は一方的に犬間さんを発見していた。
「ねぇ、ウチの旦那見てない?トイレからずっと出てこないんだけど」
「それなら……個室が一つ閉まってたからそこにいるんじゃないですかね」
少なくともトイレの中で誰かの姿は見ていない。
「暑いからって水分がぶがぶ摂るから……。はぁ、午後の親子レクどうするつもりかしら」
壁に背を預け、男子トイレを見て肩を竦める犬間。悠登はその犬間の一言の中にあった単語に反応した。
「親子レク……」
俺が繰り返すと犬間さんは首を傾げた。
「綱引きとかあったよね?獅子井君の家はお父さんが出るの?」
「あの……あるのはわかってたんです。でも決めてなくて」
そんな話は一切してない。親父が出る、母ちゃんが出る、誰が出るかなんて話はハンディカムに夢中だった二人とは何も話していなかった。
「……すみません、俺戻りますね」
「そう?またね~」
犬間さんに軽く頭を下げて俺は園の外に出て真っ直ぐに速足で戻った。
「おぉ悠登、今確認してたがバッチシ撮れてるぞ!」
シートに戻ると玲奈はもういない。親父がはしゃいで俺にカメラを向けるのみ。
「そんなことより午後、どうすんだよ」
撮影が成功していたのはそんなことでは済まされない喜ばしいことだがそれどころじゃない。
「どうするって……あぁ、保護者対抗綱引きとか親子競技な」
俺の反応が薄かったからか親父は耳をほじりつまらなさそうに身を起こす。狼塚は妹に囲まれ、桑野さんと保谷さんは談笑している。
「それなら問題ない。綱引きは既に刺客を向かわせた」
「………」
まさか、と昼休み終了間際、保護者対抗綱引き参加者の入場待機列を探す。
眼鏡姿やメタボ体型の中年がひしめく中に一人、明らかに浮いた縞模様の同年代を発見。あれが楢原家保護者代理、らしい。玲奈も横で楽しそうに何やら縞男に話している。
「章助……」
「撮りに行くか、もう時間みたいだし」
譲司が靴を履くがその前に、と悠登は彼の肩を掴む。言いたいことをどれから話すか迷うがまずは逃がさないことだ。
「他のも章助がやるのか?」
「いや。借り物競走はお前だ。そんで俺は撮影係」
牙を見せて笑む親父だがどうしてそうなるのか。
「なんで親父は出ないんだ。こういうの、やりたがりのくせに」
「甘いな。例えるならソースゥィートってやつだ」
例えになっているとは思えないが本人が気にする様子はない。俺を混乱させただけだ。
「わからないか?物事には適材適所ってもんがあるんだよ」
慣れないカタカナを使ったと思えば急に四字熟語を語り出す。俺は親父の続きを待った。
「章助君は綱引きで勝つパワーがある。お前は俺達の中で一番素早く動けるから借り物競争に出るべきだ。そして……!」
章助が力自慢で俺はスピード。だが、力なら何も章助でなくとも親父でも良かった。
「この俺は撮影のプロだ!」
「おいおい……」
最後の最後に説得力の欠片もないことを。一気に拍子抜けしてしまった。
「疑ってるようだがお前、今すぐこれ使えって言われても困るだろ?」
「……そうだな」
操作がわかる、というならば章助や俺よりは秀でていることになる。そう思ってしまった時点で親父が俺の肩を抱いて耳打ちしてきた。
「いいか?玲奈ちゃんを勝たせるんだ。俺達が今全力を尽くすべきことはそれだけだろ?お前らの若さはそれだけでもおっさん達には武器になるんだ」
「なんかせこくないか…?」
小声で言うものだから俺もつい小声で聞いてしまう。すると親父は離れて俺の背中を叩いた。
「それでも、勝ちゃあいいんだよ!俺達で勝とうや」
「……おう」
そう自信満々に言われてしまっては俺から返す言葉はない。赤白の勝敗はともかく、俺達が参加した競技に関しては勝ってみせる。
章助とは話していない。たぶん、そこまでの意気込みなんてなくとも二つ返事で参戦を決めたと思う。
だとしてもやるからには全力は尽くすやつだ。綱引きに関しても圧倒的な力の差で玲奈達は赤から綱を引き抜いた。その間、抵抗する様子も見受けられない程にあっという間だった。
「拍子抜けだな。次のも出てくりゃ良かったか?」
「それじゃただの荒らしだろ!」
戻ってきた章助は不完全燃焼や空焚きの状態で力を持て余しているようだった。大人や園児相手に高校生が全力を以て挑むのもおかしな話だと思う。
だがそのおかしな話に乗ってしまったのも事実。時間が過ぎる間に俺は狼塚達にも探りを入れていた。
「狼塚、お前この後の競技は出るのか?」
「まさか。虎澤じゃあるまいに」
これが正常な反応なのだろうなと思うと切なくなってくる。挫けずにぼんやりグラウンドを見ている狼塚に俺は重ねて聞いた。今度は探りではなく純粋な疑問として。
「なぁ、狼塚は幼稚園のことってどんくらい覚えてる?」
俺はさっきトイレを借りに幼稚園へ入った時に懐かしさは感じた。この臭いを嗅いだ覚えがあると。それでも具体的なエピソードは思い出せない。
「思い出すのはくだらないことばかりだ」
狼塚は口の動きを最小限にほぼもごもごさせながら答えた。
「章助に何かされたとか……」
「………話さなきゃならんか?」
いつもの淡々とした狼塚ではない。嫌だとか、不機嫌ではなく困っている。それが伝わってきた。この表情を見れただけで収穫と思えるが俺は貪欲に頷いてしまう。
「じゃあ章助か俺のことで覚えてることがあれば」
「それはない」
「あれ」
限定した途端に狼塚は一言でぶった切った。それを聞いていたのか桑野さんが保谷さんと史香との話を切り上げてこっちに来る。
「ちょっとトォちゃん……。少しくらいあるでしょ?」
「ない」
俺も狼塚との思い出がなかなか出てこない。章助が当時アニメで地中から出てくるキャラの真似をして砂場に埋まろうとしたとか、章助がミミズを詰めたフィルムケースを折り紙教室の途中で捨てに外へ抜け出て怒られたとか。狼塚が呟いたように俺も思い出すのはくだらないことばかり。
「ないって……。私は覚えてるよ。獅子井君も、縞太郎君も」
「俺と章助が変なことした、とか?」
章助が起こした一連の事件に俺は度々巻き込まれていた。それを当事者でなく第三者として離れて見られていたならどうだろう。思い出の補正で余計に美化か悪化しているかもしれない。
「何気ないことなんだけどね」
桑野さんはそれだけ言うと引き下がった。その際の表情に俺は息が詰まった。
あの時の、寂しそうな明に一番近い。また同じことを繰り返してしまったと思ったがそれを悠登は取り戻せない。それってどんな?と聞いたら。それすらも自分が覚えていなかったら。
ほんの数秒で明は真衣達の会話に戻ってしまう。手を伸ばせば届く距離なのに一気に離れてしまったこの感覚、できることなら二度と味わいたくなかったのに。
“これよりぃ華のステージ第二戦を行います!次の借り物競走に参加されるご家族は入場門にお集まりください!”
「お、今の声は猫垣先生じゃないか?」
「………そうだな。ちゃんと働いてたんだなあの人」
章助が耳を澄ませて繰り返されたアナウンスを聞く。今日は姿も見掛けなかったが今は本部にいるらしい。
「……じゃ、行ってくる」
「頼んだぜ?」
章助が座ったまま握り拳をこちらに向ける。俺は立ってからその拳に自分の拳骨をぶつけた。競技直前で桑野さんにやらかしてしまったがそれはそれ、これはこれで気持ちを切り替える。はしゃぐことも、落ち込むこともなくだ。
「お前、借り物競走に出るのか」
先程虎澤じゃあるまいに、と話していて早々に俺が向かおうとするものだから狼塚からの言葉が耳に痛い。今から代わって俺が出る、と親父が言うならまだしも向こうは既に入場から撮影する気で待機している。
「そういうことだ。どうせなら玲奈を勝たせたいし俺も少しくらい体動かしたいしさ」
ちょっとだけ見栄を張って俺は入場門へ向かう。これが親の参加型最後の競技だった。
親父の視線を早速感じながら玲奈と合流する。汗に光る額を持っていたハンカチでとりあえず拭ってやる。
「疲れてない?まだいける?」
「うん!」
シンプルだがとても力強く玲奈は頷くと俺の手を握った。それを握り返すと整列する。
“さぁ華のステージも終わり、遂にやって参りました!本日最後の親御さん参加競技です!最後はベタに!シンプルに!企画案もなかったので借り物競走です!”
「なんで今日に限ってテンション高いんだあの人……」
普段お仕事は程々に気を抜くくらいがベタなんだよとか言ってたのに。今日は幼稚園の運動会にプロレス実況者を呼んだようなこの気合。マイクで叫ぶ内容も企画がないからとか散々だ。
しかし普段の猫垣先生を知らない周りの父親たちはアナウンサーの熱気に徐々に当てられ次第に柔軟なんかを始める。それを見ても俺は動じない。逆に冷静になる時間をもらえた。
「玲奈」
「どうしたの?」
玲奈が俺を見上げる。俺がすべきことは何か、決めるのは彼女だ。
「玲奈はさ、借り物競走で……勝ちたい?」
「うん。もういっかい、こんどはおにいちゃんといちばんになる」
玲奈は迷わずに即答した。考えなしとは違うが彼女が答えに悩むことなんてほとんどない。今回も同じで、玲奈がそう言うのなら本当に勝ちたいから言っているのだろう。
「じゃあ俺も全力を出す。でもせっかくだし、楽しくいこう?」
「わかった!」
俺が玲奈と自発的にこうして体を動かすなんてあまりなかった。大抵章助や親父が俺を巻き込んでいたからそう感じることはなかったが今は二人。
“では入場開始です!お父さん、お母さん!恥ずかしがらずに腕を大きーく振ってくださいね?足は高く!もちろんお子さんと笑顔で!”
声色も普段の猫垣と違う。妙に声高く、気持ち良く歌うように好き勝手言っていた。最初の方に並んでいた人間の親子はノリが良いのか、その指示に忠実に従いぶるんぶるんと兵隊のように腕を振る。それに合わせて園児もやるものだから親は合わせる。もちろん、俺も玲奈も。
これを親父どころかクラスメート達にも見られている。去年も似たようなことがあったがアレは一学年全員参加だったから構わなかった。それが今は俺だけ、しかも周りは子どもか中年。少しは恥ずかしい。せめて携帯でもいじってくれていればいいのだが。
“入場は済みましたね?では簡単にルール説明からさせていただきます!”
入場を終えるとその場にしゃがむよう言われ玲奈の横で本部テントを向く。そこに猫垣先生が原稿らしき紙を片手に座っていた。
“えー、借り物競走。その名の通り走者はコース途中にある紙を拾い、そこに書かれている物を家族やここにいる皆様から借りてきてからゴールするというものです。今回はタッグ、親子でどこにあるか考えてくださいね!注意としてはペアと手だけは離さないように!”
無難にルールを読み上げる猫垣先生は少し落ち着いているようだった。
“あと補足させていただくと借り物のお題に関して無茶なものはありませんのでご安心ください。俺が昼休み、ご飯も食べずに園内を歩き回ってどこに何があるか確実に把握した上でさっき紙とマジックで作ったので!”
それを聞いて周りから微妙なざわめき程度に笑い声が聞こえる。そんなにウケてなかったが本部の猫垣先生はニヤニヤして嬉しそうだった。
“それではご託はここまでにして!野郎ども、準備はいいか!”
「お、おぉー!」
猫垣先生に一人だけ応えて他は乗り遅れた。それに困ってキョロキョロしたおじさんが先生以上に観客達を笑わせる。そうして第一走者達がスタートラインへ。
「位置について、よーい……」
先生の一人がスターターピストルを空へ掲げ引き金を引く。待ってましたと言わんばかりに父親達が子の手を引いて、我先にとコースの紙を拾う。
“おぉっとぉ?アレはなんだ?鳥か?飛行機か?いや、ボトルガムだぁぁぁ!”
最初に紙を手にした父親が紙を広げ周りに見せる。そこに書かれていたのは間違いなくボトルガム。そんなものをお題に混ぜたのなら、そこは確かに猫垣先生らしい。お題に無茶はないと言ったのはどこの誰だ。
“ボトルガムはどこにある!他のお父さんお母さんも積極的に貸してくださいね!ご協力お願いしまあぁぁぁす!”
無駄に声を伸ばし張る先生、訳もわからずそれに触発されて同じように叫び縦横無尽に駆け回る親子。他のは水筒や眼鏡とか、無難なものだがああいう流れ玉も仕込まれていることは頭に留めておかなくては。
次々と走者は放たれ、その度にお祖父さんのステッキ、ランチョンマット、青い携帯、石灰のライン引きから三角コーンにキックスクーター。お題が被ることなく指定されて段々俺の後ろにいたおじさん達も不安を吐露していた。
眼鏡と眼鏡を掛けた人、くらいの被りが出始めたところで俺と玲奈達の番が回ってきた。
“おぉ!次の走者をご覧ください皆さん!おじさん達に紛れて一人若者が混じっていますね!見たところ高校生くらいでしょうか?フレッシュお兄ちゃんですねぇ!”
「くっ…!」
俺を見付けて、わざわざとぼけた演技も入れて注目させおった。それでもここから本部に突貫するわけにもいかない。
“若者にはお父さん達もまだまだ負けていられません!若者も手加減くらいしてね?それでは参りましょうか!”
それは本気を出せ、という猫垣先生からの振りと解釈させてもらう。幼稚園のスタートはクラウチングではなくスタンディングスタートだった。
「位置について!よーい…」
腕を構え、足を出す。玲奈の右手は強く握り過ぎないように。
パパァン!と火薬の破裂する音と共に俺は玲奈と飛び出した。その踏み込みの速さは園児達がついてきても親が遅れる。
玲奈の歩調に合わせるが、そこまで無理に合わせずとも玲奈は全力で紙を目指す。
「わたしがひろう!」
「おう!」
姿勢を低くしてほとんど止まらずに手近な紙を拾う。それを投げるように玲奈は俺にパスしてくれる。タイミングよく掴むと俺は折り畳まれたその紙を広げた。
“さぁ獅子井君、玲奈ちゃんペア!二人が最初に……うぉっと!次の橘川さん、穐田さんも紙に飛び付く!”
ここまでは簡単だった。あとは借りてきて、ゴールするのみ。
「おにいちゃん……?」
なのに、足が止まった。
“お?獅子井君が固まった!ちょっと遅れて海狸ペアも来てしまったぞ!”
紙に書かれていた横文字。ポニーテール。
ポニーテールとは。髪を後頭部の高い位置で束ね、留めるものがあれば簡単にできてしまう髪型。かつては総髪と呼ばれていたがその名前の由来は……。
「おにいちゃん!」
「はっ!」
玲奈の呼び声に現実へ引き戻される。もう横にいた親子たちもそれぞれ確認して走り出そうとしていた。
「……あぁもう!玲奈!こっち!」
俺は玲奈に紙を返し、手を引いて走り出した。
“獅子井君駆ける!穐田さん滑る!海狸親子は疾駆する!”
「やかましい!」
考えず口に出してしまっていた。そんなのお構いなしに俺の頭はポニーテールでいっぱいになっている。いや、それも違う。不特定のポニーテールをした誰かではない、ある一人だ。
前からそうだった。ポニーテールではなく、たまたまポニーテールにしていた彼女のことしか考えていない。彼女を見ていたい。近くにいたい。そればかり考える自分に頭を抱えたり。ポニーテールは好きでも彼女に惹かれているのはまた違う理由がある。
「水筒か!携帯か!?お題はなんだ!!落ち着けって!!」
獅子井家と狼塚家のシートへ駆け込んだ俺に章助が叫ぶ。明らかに落ち着きがないのはお前だ。悪いが用があるのは狼塚家のシートで俺を観戦していた女子。
「…っは……。……桑野さん!」
「え?私……ベスト?」
自分のベストを指し示す桑野さんに俺は呼吸も整えず首を横に振る。
「違う、俺と来てほしい!」
俺はお題の説明も忘れて桑野さんに手を差し出した。手を見て桑野さんはそっと自分の手を俺の真っ黒な手に乗せる。
「………わかった!」
桑野さんが俺の手に力を込める。すぐに跳ね起きて靴に自分の足を突っ込んだ。踵を潰すこともなくスムーズに。
「私でいいんだよね?玲奈ちゃん、獅子井君!ちょっと急ぐよ!」
「うん!」
「頼む!」
ポニーテールだけならスターターの先生も、近くで観戦していたお母さんも、ちょっと髭と髪をお洒落に伸ばしたおじさんもいた。それでも俺は桑野さんが良かった。中学は陸上、高校はテニスと彼女は日頃脚力を鍛えていたから勝率がとか、そこまで打算的にはなれない。ここまで戻って合理的でもない。それでも俺は桑野さんを選んだ。
“獅子井君と玲奈ちゃんコンビが引いたお題はどうやらポニーテールだったようです。ここで橘川さんもコースへ戻って来るぅ!ゴールはどっちが先か!”
借り物競走の直前、桑野さんは俺にがっかりした、かもしれない。前と同じ、それは気のせいと思い込み時間で癒そうとした。
でもそんなのは嫌だった。桑野さんとの距離をまた考えて、悩んで。気持ちの切り替えと言ったのにそれもできていない。玲奈を勝たせたいと思ってたのに俺のワガママも入り混じって。
全てが半端と思いながら俺は桑野さんを先頭に玲奈の手を引く。抱き抱えたいくらいだったがゴールは最後まで三人で。
“ポニーテールな玲奈ちゃんの助っ人さんは足が早いぞ!あぁっと!橘川お父さんがここでボールを落としたぁ!これは痛恨!”
玲奈に合わせて走っていたのに息が荒い。砂を蹴って走る桑野さんの背中と、前方で転がり落ちたボールを見ながら俺は既視感を覚えた。
“そのまま追い抜き一気にゴォォォォルイン!高校生ズの一位、白!二位、赤です!”
桑野さんがここぞとばかりにスパートを掛けたのがわかる。玲奈もそれに必死に追い付こうと足を動かし、俺は玲奈の速力と桑野さんの速力を挟まれながら調節した。
前を走っていた親子がボールを落とさなかったら結果はわからない。それでも玲奈は俺と組んで借り物競走の一位になっていた。徒競走とは別に一等のバッヂを先生に付けられる。
付け終わって先生が二位の橘川親子にバッヂを付けようとする際、いつまで手を繋いでるの?と指摘されるまで、俺は玲奈と桑野さんの手を離し忘れていた。




