第四部 二章
鞄に詰めた荷物はそれほど多くない。二泊三日分の着替え、各種洗面用具セット。他にも何か、と考えて買ったのはちょっとしたお菓子のお土産。
「ふふふふ、ふふふふ、ふんふ、ふんふーん!」
ワゴン車の中で運転手が軽快に鼻歌を鳴らし、助手席で悠登は周りを警戒していた。
「実恵、左に寄り過ぎ。曲がる時に縁石擦るぞ」
「了解!」
返事は良いのだが、この指摘も既にドライブが始まって三回目。悠登は何度も運転手、実恵にひやひやさせられていた。
「………」
窓を開けて入ってくる風の強さに鬣が揺れ、目を細める。国道を走ることおよそ小一時間、目的地まではそう遠くなかった。
「おにいちゃん」
「どうした?」
後ろから聞こえた呼び声に振り返る。チャイルドシートに座った玲奈が俺を呼んでいた。
「あとどれくらい?」
「十分ちょっと、もう少しの辛抱だよ」
玲奈も気にしていたようで伝えてやると落ち着いたようで景色を見やる。しかし窓から見えるのは木々のみで反対は広大な畑。奥に何が隠れているかもわからなかったが直後、トンネルへ入った。
「辛抱ってどういう意味さ。よーし、それならスロットル・アップ!」
「一気に行くな!」
人の話を都合の良い部分だけ聞いて、自分の世界に取り入れる。実恵が耳を傾けているだけマシと思うが、だからこそ制止するのは俺でなければならない。
「トンネルだし、車通りもあんまないじゃーん」
「いいから前見ろ。ブレーキ踏むの遅いやつがスピード上げてどうすんだ」
車内がナトリウムランプで橙に照らされる。加速していないと確認しながら悠登は実恵を横目で見た。
「そうだぞ姉ちゃん。それに覆面パトカーに違反で取り締まられたくないだろ?」
実恵の真後ろにいた章助も同意する。
「ちっ。平和主義者のネコ男子め。わかってるってば……何をそんなに警戒してるのさ」
何を、ではない。お前の暴走に決まっている。そのために俺が助手席、章助が後ろに構えていた。
「まして、違反なら君達も同じでしょうに」
「………」
「………」
実恵がしたり顔で言う。悔しながらも、車内の誰一人として言い返せるものはいなかった。
彼女の言う、違反とはこの先にある。トンネルを抜けると一気に風が強まった。
「右見てみなよ、玲奈。実恵はいいから前見てろ」
俺の一言に実恵を除く全員が右を向く。
「うみー!」
林の隙間から見えたのは一面の青。車が林を過ぎ、視界が開けると一気に水平線がずっと遠くに見えた。近くへ目を移すと、波は白く泡立ち岸壁を打ち付けている。玲奈がはしゃぐように視界の大半が青に染まる日常ではない世界。その傍らに佇む大きな石垣に囲まれた民家に実恵は車を停める。
「悠登、バックで入れて!」
「俺は無免許だって……。車通りないんだ、前から突っ込んでも良いだろ」
駐車をまともにできずにここに来たのか、と思ったが駐車場も広い。出る時ナビゲートすれば事足りるのだから、とにかく早く降りたい。
なんとか敷居をくぐり、停車位置を決めてエンジンオフ。すぐに俺は降りると一気に体を伸ばした。
「うぉぉぉ……着いた」
伸びの後に力を抜くといつもの猫背。悠登がストレッチをしている間にワゴンの後部ドアが開き、ぞろぞろと同乗者も降りてくる。
「よいしょ!」
「おいしょっとい!」
「………」
「ふぁー」
「………」
最初に玲奈と章助。黙って降りたのが狼塚、欠伸をしているのが桑野さんで、最後に降りた保谷さんは顔色が悪い。車内での会話は多くなかったが、集めた面子はこの通り。
「叔っ父貴~!来ったヨ~!」
荷物を降ろしもせずに実恵は家へ無遠慮に入っていく。その間に悠登はこっそり保谷さんへ近付いた。
「真衣……酔ったか?」
「……大丈夫」
悠登が気にしていたことを狼塚が真衣へ尋ねる。大丈夫、とは言ったが彼女はその場から動こうとしない。
「ごめん、保谷さん……。実恵のブレーキって小刻みに強く踏むからぐらぐらするんだよね」
指摘はしているのに直らない。もう自分のリズムで癖になっているのだと思う。慣れないワゴンを運転してもらっておいて言うのも悪いが、酔うのも無理はない。
「ふふ……。獅子井君、教習所の先生みたいだった。見たことないけど」
「俺も」
弱々しいが保谷さんが笑う。深刻になるほどではないみたいだ。しかし、実恵専属の教官になるつもりはない。たぶん章助が横にいれば同じことになった。今は無事に着けたことを喜びたい。
「実恵、引っ張んな!お、ショウか!背ぇ伸びたなお前!」
「叔父貴は太ったろ?」
野太い声と共に外現れたのは中年の虎男。胸は厚いが腹はたるんで、ポロシャツからも丸みがよくわかる。
「うっせ!俺も若い頃はお前みたいに……む……?お前…」
親しげに章助の肩に腕を回していた虎と目が合う。三人になると本当に縞だらけだな……。
「お久し振り、です。俺のこと覚……」
「お前!悠登ぉぉぉぉぉお!」
やっぱりそう来るか……!章助を乱暴に放り、突進してきた猛虎を引き付け、なんとか身を翻して避わす。
「くっ……!うっ……!?」
違う。避けたつもりでも俺の腰にはがっしりと腕が巻き付いていた。横に抜ける直前、腕が予想よりも伸びて捕らわれる。そのまま腕力に任せ抱き寄せられた。
「覚えてるぞおぉぉぉ!元気してたかぁ!」
「痛いってトースケおじさん!それに抜け毛!覚えてるに決まってるじゃん……」
トースケおじさんこと、虎澤藤佐。章助と実恵の叔父だ。何故か四十を過ぎても誰とも結婚はしておらず、独身で何年もここに住んでいる。会ったのはたぶん鬣も無い小学生以来。一目で俺に気付いた辺り、あの頃の実恵とやらかしたエピソードが残っているんだろうな。ちなみに章助や実恵に叔父貴、と呼ばせているのは響きがカッコ良いからという理由。他意は無い……はず。
「すまんすまん!悠登も含めてここにいるのが今回の助っ人さんってわけだ」
「そういうこと」
実恵が藤佐に答えて片目を瞑る。助っ人、という言葉にデジャヴを感じて悠登は苦笑した。
事の次第は実恵が帰省した翌日、俺の家に来たことから始まった。町の自治会で運営する海の家の経営を任されている藤佐さんから、人手が欲しいと実恵に言われたらしい。最初は大学の友人に頼もうとした実恵だったが、地方からの上京が仇を成して連れてくることもできない。それならば地元の友人を、と思ったら他の面々も遠くへ進学したり就職していたりと上手くいかない。……実恵の今までを知っているから体良く断っているような気もするが。
そこで捕まったのが弟の章助と俺だ。当たり前のことだが、最初は断った。玲奈の茄子嫌いを克服させるために奮戦している俺に時間はない。話を聞いて、且つ踏まえた上で実恵は切り札を先に切って見せた。
……それがバイト代、というやつだ。本来バイトは申請し、許可が下りないと通らないものだが、夏休み中では書類も書くに書けない。バレればどうなるかと多少危険な綱渡り要素があっても、高校男児にとって小金稼ぎの機会は逃したくなかった。これが先程実恵が車内で言っていた違反部分。夏祭りの消費は自分でも思いの外、大きな痛手だった。だからこそ、実恵の誘いに条件付きで乗ってしまう。
条件とは、補充人員の確保だった。分け前が減るヨ?と言われたが構わない。元々、身内で集めているなら正式なバイト代が稼げるとは考えていなかった。二泊三日になるのだから玲奈を独りで家に置いておくことはできない。
こちらの都合で玲奈を振り回してしまうことになるが、本人は寧ろ喜んでいた。日曜日も跨ぐのでごねると思ったが、どうやらゴールデンタイムの番組が夏休みスペシャルを朝から放送するらしい。要はディスチャージ仮面をリアルタイムで見れない、と騒がれないのだ。一回休みの不満は海を見て晴らしてもらうとしたい。
海の家でのバイトの間、玲奈に同伴してもらうために追加で呼んだのがその場にいなかった三人。狼塚は月曜の午前中から部活だから、と最初は断られたが後から参加すると言われた。話を聞くと桑野さんも行くと聞いたから、らしい。
「よっと……」
虎澤家が話をしている間に悠登はワゴンの裏に回ってバックドアを開ける。荷降ろしだけでも先にしておきたかった。
「あ、手伝うよ。ごめんね?」
悠登とついて来ていた明がすぐに気付いてくれる。そう言えば、朝の挨拶もそこそこに何も話していない。雑談どころではなかったせいもあるが。モスグリーンのティーシャツ一枚だとどうも目のやり場に悩む。
「ありがとう……。じゃあ、これ」
確か桑野さんの荷物はこの黄色のラインで縁取られた水色のバッグだったと思う。手渡すのも目が泳いでしまった。
「これ私のだ。し……獅子井君知ってたん、だ……?」
「さっき、実恵に預けてるの見えたから……」
明らかに明が途中で言葉を詰まらせる。悠登自身も動じていた。
「そう……」
「うん……」
空気が重くなった気がする。ただ、荷物を渡しただけなのに。……てか、俺が意識し過ぎなんだ。鼻息荒くとかなってないよな。
名字呼びに戻ったのがなんだ。一回二回名前呼びされただけで何を浮かれていたんだ。メールのも変換予測の流用。単にレスポンスを良くするための応急措置だ。……そう考えると楽になった。
「め~い!私の荷物は?」
「あ……」
俺は足音が聞こえていたけど、桑野さんは何か考えていたのか保谷さんの接近に気付かなかったようだった。呼ばれて反応が少し遅れている。
「それならこっちだよね?はい」
確か保谷さんはオレンジのバッグだ。……狼塚と章助、俺のは地味で紛らわしい。
「ありがとう!縞太郎君の叔父さんが部屋に案内してくれるみたいだよ?」
「そっか。じゃ、これとこれ……あぁ、玲奈のも持って……と」
真衣が教えてくれたので悠登が残りの荷物をまとめて担ぐ。そこまでかさばる荷物でもないから重さも大したことはない。
「荷物なら私も……」
「入って左。客間はすぐそこだし、なんならそこの縁側からも入れるし大丈夫」
この家の構造なら、昔は何度もかくれんぼもしていたし把握している。大幅なリフォームでもしてない限りわかるだろうけど、外から見た様子では何も変わっていない。
「じゃあ……行こうか?……悠登君」
「うん?……あぁ、うん」
明が真衣を伴って歩き出す。荷が重かったわけではないが遅れ、その背中に向かってしか返事ができなかった。
……まずい、楽になんてなれない。意識するな、って方が難しいだろ、これ……。
♂♀!!
バイトの内容自体はそこまで難しくはない。注文を確認し、お代を受け取って料理を運ぶ担当。その注文された料理をする担当の二手に分かれる。時間で担当はローテーションするが、どちらの担当にも属さない休憩時間は玲奈と過ごしてもらう。……玲奈を藤佐おじさんの家で留守番、とも考えたがそこは本人に判断してもらう。飽きたか疲れたなら徒歩数分で帰れる距離だ、その時の担当の言う事を聞くようにはもう言った。
「準備万端、いつでも行けるぞ……」
水着の上にティーシャツ姿の章助が首を掻く。あまり気乗りしているわけではないらしい。
「実恵には横に俺かお前がいないとな……」
親しい叔父貴からの頼み、全力で応えたい気持ちと、応えようとする別人の空転の心配。両方が混ざって珍しく章助が煮え切らない。しかしくすぶっていると余計に危険だと思う。予め心構えだけはお互いにしておきたかった。
「姉ちゃんを置いて俺達だけで来た方が……いや、姉ちゃんはずっと玲奈ちゃんと……」
「正気かお前。実恵と玲奈のツーショットなんて絶対に却下だ。当事者はフルタイムワーカーに決まってるだろ」
今の発言で章助は海の家を成功させたいと感じ取れた。しかし玲奈の保護者である俺からすれば、そんな提案は受け入れ難い。
「そうだよな……。俺、なんてことを……」
「………」
心配事が多過ぎて考えが纏まらないんだろうな……。こんなにテンションが低い章助、そうそう見られないぞ。
「俺も悪かった。フルタイムは無いとしても、俺達でフォローしよう」
「俺達、で?」
俺を見る章助の目が潤んでいる。そう、お前は今、一人ではない。
「あぁ。俺も、狼塚もいる。桑野さんと保谷さん、それに藤佐おじさんだって。そうだよな、狼塚?」
「うん?あぁ」
振り返れば水着姿の狼塚が俺に背を向けブラッシングしていた。料理に毛が混入しないようしっかりすること、と藤佐おじさんから言われたからだ。たぶん、話は聞いてなかったろうな……。
「ありがとう……。俺、やれる気がした!」
少し元気になったみたいでひとまずは胸を撫で下ろす。やるからには客商売だ、暗い顔はしていられない。
「女子ぃ、準備できたかぁ?」
早速襖向こうの二人に声を掛ける。するとすぐに襖は開いた。
「こっちはエプロンとバンダナ付けるだけだもん。そっち待ちだったよ」
物音はしていたのだが、二人とも朝の格好にエプロン、頭にバンダナを巻いただけのようだった。玲奈は紐だけオレンジであとは白いワンピース水着にゴーグル姿。片手には子ども用救命胴衣も持っている。着るかビート板代わりにするかは任せる。……ところで、海だとはしゃいでいたけど泳げるのか?
「あとは日焼け止め、ね。玲奈ちゃんにも塗っておいたよ」
「ありがとう」
真衣が日焼けクリームらしき容器を持ってひらひらと見せる。毛刈りをしている獣人は人一倍気にするのだろうが、悠登達は毛刈りよりも汗疹の方を注意していた。
「揃ったー?じゃあ、移動しますか」
聞こえていたのか実恵が部屋に顔を覗かせる。時間もあまり無いので早々に移動することになった。
「最初の休憩は狼塚かー」
クーラーボックスを肩に提げて移動しながら決めた休憩する順番は狼塚、悠登、真衣、明、章助。振り出しに戻り再度狼塚、悠登、真衣。九時から十七時まで、一時間交代制で翌日は逆順で回る。実恵のみ今日は悠登、明日は真衣と同時に一度だけ休憩で決まった。
「いいねぇオーカミ君。代わる?」
「狼塚にまでは止せ……」
今日初対面だろうに、実恵は狼塚にも馴れ馴れしい。俺が止めているがすっかり気に入ったみたいで不安になる。狼塚本人は気にしていないようだが、彼もまたどこか普段の落ち着きと違う静けさでいた。
「……狼塚も車酔ったか?」
「俺は酔っていない。だが」
だが、の宣言と同時に首が後方を向こうとした。
「……保谷さんな。着替えしてからは平気そうだったけど」
急に朝早くから連れ出した上にこの仕打ち。負担も大きかっただろう。
「泳いだ場合、乾かす時間もいるからちょっと早めに行った方が良いか?」
「そうしてくれ」
玲奈と二人にする不安はあまりない。同い年の弟を持つのだから、幼児の扱いには俺より慣れていると思う。まして、玲奈も狼塚には気を許して車内でも話し掛けていた。
「じゃあお前ら、パッパと準備始めるぞ!説明だって何度もやってらんねーからな!」
海の家に着くと藤佐が手を鳴らして注目を集める。中を見ると厨房と広い板の間のみ、板の間に背の低いテーブルが幾つか並び、そこで座って食事を摂る形になりそうだ。他にも出店のような屋台がいくつか砂浜に点在している。
「よろしくお願いします!」
バンダナを巻いて俺も準備万端。するとすぐに藤佐おじさんが俺の手を握った。
「頑張ったら、その分ご褒美やるからな……?」
顔が近い。
「はぁ、ありがとうございます……」
客寄せとかすれば良いのかな……。そんなことせずとも、休憩所も兼ねているのはここぐらいだから集まりそうだけど。
料理のラインナップは定番の各種ラーメン、焼きそば、カレー、カツ丼、焼き鳥やホットドック等々……。デザートにはかき氷と市販のアイス。揚げ物類は章助とおじさんで、ある程度一気に揚げてしまう。実恵は氷を削り、シロップをかけ、またはアイスを冷凍庫から出すだけ。実恵を知る章助、俺、藤佐おじさんの三人で決めた事だから覆らせはしない。かき氷なら実恵でも大丈夫だと思う。これは俺も夕涼み会で経験しているから難易度の低さは知っている。
レジ打ちは傍らに年季の入った操作方法のメモも貼ってあったと桑野さんが言っていた。一通り説明を受けてから狼塚は玲奈を連れて先に海水浴を堪能しに行ってしまう。玲奈が引っ張っていった、というのが正しいけど。
「もうすぐ開店だね。なんだか緊張してきた」
店内をぶらぶらする桑野さんが見えたが、保谷さんは俺に声を掛ける。彼女は肉焼きに立候補して、おじさんの準備が終わるまで俺と厨房前で待機していた。
「保谷さんもバイトとかしたことないんだ?」
「うん。海水浴場とかに来たのも久し振りだし」
夕涼み会の手伝いはどちらかと言えばボランティアだ。対して今回は金銭が絡む。失敗したくないのは同じだった。
「明はよくお客さんと話す方をできるな、って思うよ。獅子井君も縞太郎君も平気なんだろうけど……私はこうして裏でイソイソしてた方が良いかなぁ」
開店する前から不安そうにしている。狼塚はどちらでもやればできるんだろうな。少し考えたが、保谷さんの方に向き直る。
「それを言ったら、保谷さんの作った焼き鳥が黒コゲだったら誰だぁーこれ作ったやつはぁ!って厨房に乗り込まれるよ?行き止まりで逃げられないし」
わざと牙と爪を見せるように言うと保谷さんは一瞬驚いたようだったがすぐ笑った。
「ふふっ…もう獅子井君……。怖がらせないでよ」
「そうそう、可愛いんだし保谷さんも笑顔でいないと。店員さんが顔を強張らせてたら、お客さんも来づらいよ」
保谷さんだって交代で応対してもらうんだから、後ろ向きでもいられない。でも、こうして笑えるんだからきっとやれる。
「……ありがとう」
緊張は解せたと思ったけど保谷さんが目を見てくれない。というか、俺も俺だ。人にいきなり可愛いとか何を言っているんだ。
「ショウ、真衣ちゃん、そろそろ始めっから来てくれ!」
「あ、はーい!獅子井君、また後でね」
「うん。それじゃ」
そうしている間に厨房に真衣が入ってしまう。開店まで明と話そうかとおも思ったが、彼女の方は悠登にあまり近付こうとしていない。それを感じて最低限、最後の確認を互いにしていると開店時間になった。
「おじさん、もうやってる?焼きそば二つ欲しいんですけど。外で食べます」
店内を見つつ、最初のお客さんは大学生くらいの人間で、いきなり人を中年呼ばわりして俺のやる気を削いできた。人間を皺や髪で判断するように、俺達は毛並みを見て言ってほしい。今日はバンダナで隠れているけど。
「はい、ありがとうございます!合わせて八百円になります!」
おじさん、は聞き流して焼きそば二つで小計。千円紙幣を受け取り、入力して……?
「ここ」
一、二秒固まっただけだが桑野さんがすかさず俺の右手を掴んで隅の現金・預かりキーを押す。印刷されたレシートをお釣りと一緒に手渡した。
「二百円のお返しになります!」
「少々お待ちください!」
今、俺の手を桑野さんが握った。瞬きする間よりも短い出来事だが、酔いしれるには充分。だが、接客中でふらつく間もない。なんとか正気を保ってお釣りをお返しした。
「はーい」
間もなく割り箸を輪ゴム留めした焼きそば入りフードパックが出てきた。値段の割に量は多いと思う。
「お待たせしました!」
「どもー」
「ありがとうございました!」
一礼してお見送り。お客さんの背中が消えてから肩の力が抜けた。
「……ごめん!一瞬頭から操作消えた!」
「あるあるだよ、ドンマイ。……代わろっか?」
両手を合わせて謝るが桑野さんの一言で救われる。見て聞いただけじゃダメだった。
「いや、やらないと覚えない。もう少しやらせて」
「……うん、わかった。よろしくね」
桑野さんはそれだけ言って持ち場に戻る。任せてくれ、とは言えないが、だからこそそのレベルまで達しないと。屋台なのだから複雑な注文が来ることもない。あと数回やれば覚えられる。一度、自分の右手の甲へ目を落とし、力を込めた。
開店すれば早いもので、客足は増える一方だった。混んでくるタイミングで交代するのは心苦しいのだが、ピークには戻るからと伝えて実恵と一度その場を後にする。
「レジ打ちは桑野さんがやってくれてる」
「オーカミトォちゃんはかき氷と厨房に注文伝達と、料理運びお願い!」
「わかった」
手を繋いで戻って来た狼塚、玲奈はどこも濡れていなかった。
「二人して何をしてたんだ?」
「日陰で準備運動と雑談」
泳いでないのか。って、また戻ることも考えれば砂遊びで泥まみれにもなっていられないか。
「玲奈、泳いでて良かったんだぞ?」
屈んで言うが玲奈は首を横に振った。
「おいのづかのおにいちゃんとはなしたかったの」
「……そう?」
きょとんとして狼塚を見上げたが、こちらを見ない。
「悠登ぉ、焼きそば三つ確保してきた!食べよーヨ!」
「あぁ……」
狼塚は裏口に回って着替えに行ってしまう。話した内容について玲奈に聞いてみると、せけんばなし、とのことだった。特撮しか観ない子が世情に詳しいわけもなく、近況を話していたのだろうとは予想できたが、あの狼塚と会話のキャッチボールをしたのか。そのトーク力をどうか分けてほしい。
移動して堤防の階段に三人で腰掛ける。八月ももうすぐ終わるが、海水浴場利用者はまだまだ増えそうだった。
「ショウ、ソース濃すぎ……」
「玲奈はこれくらいが好きだよな?」
「うん!」
口に含むと汁っ気がある。それだけたっぷりソースが使われていた証だ。俺は飲み物が欲しいが玲奈は美味そうに頬張っている。
「ねー悠登ぉ、私ホントにかき氷だけで良いの?」
「アイスも売ってくれ」
「そうじゃなくて」
高望みをしない。それが皆のためだ。
「……実恵のかき氷、美味しいって言いながら帰ってたぞ」
「そう?もしかして……私、かき氷作りの才能あるのかな?」
少し迷ったが濃い焼きそばを呑み込み頷いた。
「お前は今年、かき氷作りのプロになるんだ。俺達は器用貧乏にこなすけど、実恵の場合は集中して取り組めるから極められる」
「な、なんかよくわからないけどすごい……!」
単純なやつと思うが、実恵はどちらかと言えば褒めて伸びるタイプだ。運転に関しては指摘が多かったし、せめてこれくらい。
「私行くヨ!悠登が到達できなかった場所まで!」
「頑張ってな」
食べてしまうと玲奈は海をじっと見ていた。少し迷ったが、自分が濡れないように気を付ければ良い。
「泳いでみる?」
「……いいの?」
「さっきも言ったろ。もちろん」
遠慮してるのがひしひし伝わってくるが、夏の海に来て泳ぐなと言う方が無理なものだ。俺が頷くと玲奈は救命胴衣を身に付ける。
「俺は膝くらいまでしか入らないから、近くで遊んでね?」
「うん!」
玲奈は言うと駆け出して、まずは足首だけ浸け、ぴちゃぴちゃと海水を蹴って遊び出す。腹ごなしには良い運動だ。
「じゃ、私は戻ってかき氷極めようかなー」
実恵が立ち上がって肩甲骨を回す。軽くだが骨の鳴った音が聞こえた。
「おい、もう戻るのか?」
「うん。元は私が頼まれた事だもん」
実恵は連帯責任に人を巻き込むが、責任転嫁や逃れはしない。故に心配でもある。
「……疲れてんじゃないのか。朝から動きっぱなしだろ」
一応まだ昼前だが、この後もまだまだ働かないといけない。ただでさえ実恵は休憩が悠登達よりも短く、この一度きりしかないのだから。
「悠登の私を気遣ってくれるとこ、好きだヨ」
「どーも」
階段を下りて実恵が振り向き、目を細めて笑う。気遣うというより不安が大きいから言っているのだが。彼女は気付かない。
「今夜は早く寝かせてもらおうかな。体力はそれで回復させる。今日は久々に叔父貴と一緒だし、頑張りたいんだ」
「………」
実恵ってこんなに責任感のあるやつだったっけ。……大学に入って少しは変わったのかな。
「ねぇ悠登?」
「なんだ」
実恵が俺に背を向ける。
「あの子達、悠登のなに?」
章助以外の三人か。
「仲の良いクラスメート、だよ」
もっと仲良くなりたい、って人もいるけど。まずはそうとしか言えない。
「悠登が女の子に囲まれてるなんて思ってもいなかった……」
「語弊がある表現だぞ」
まるで俺が女たらしみたいだ。好きな女子一人、射止められていないのに。力が抜けて頭が下がった。
「でも人間相手だったから、まだ安心かな?」
……人間だと大丈夫で、獣人だと大丈夫じゃない交友関係なんてあるのだろうか。逆ならまだわからないでもないが。
「よし、私は戻るヨ!またね」
「おう」
そこそこに切り上げて実恵は戻っていく。最後の発言の意味はわからなかったが、少しでも気晴らしできたら良かった。
「おにいちゃーん!」
「今行く!」
手を振る玲奈に俺も手を振り返す。既に腰まで浸かって玲奈は楽しそうに浮いていた。
どうやら泳ぎは得意ではないらしい。そもそも泳ぎ方を習うのは小学校に入ってからだ。俺が教えても良いが手取り足取り、というわけにはいかない。狼塚のように、海水を全身に浴びないようにして正解だった。戻ることも考えるとまずい。
「次は保谷さんと遊んでてな」
「りょうかい!」
砂の城でも作ろうと思ったが、爪や毛に砂が入り込むことになる。食品を扱うことを思えば避けたかったので、足で砂と海水を楽しむ程度に抑えた。それでも一時間はあっという間に過ぎる。玲奈はまだまだ満足していないようだったが当然、既にずぶ濡れになっていた。
「あ、保谷さん」
「獅子井君、お疲れ様」
海の家の裏口に着くとちょうど保谷さんが出てきた。
「遅くなったかな……」
「ううん!ちょっと荷物取りに来たんだけど……」
「そのまま休憩入ってよ。お昼取ってくるし」
「ほんと?ありがとう……」
このまま交代してもらおう。しかし、エプロンを外した保谷さんはおもむろに上着を脱いだ。
「ほ、保谷さん!?」
「うん?あ、ちゃ、ちゃんと水着着てるってば!」
にしても、心臓に悪い光景だった。でも目には良いというか……馬鹿。
そのまま真衣はズボンも脱いで完全に水着姿になった。赤白黒のトリコロールカラーのビキニは真衣には少しセクシーなデザインに見える。
「……似合う、かな?」
「……うん。大人っぽいしお洒落だと思う」
じろじろ見るものではないので、直視していた時間は短いが素直に感想を洩らす。
「あのさ獅子井君……」
「なに?」
逸らしていた目を真衣に戻す。すると彼女の手には何か握られており、悠登に差し出している。
「ごめん、背中に日焼け止め……塗ってくれない、かな?」
「ぐ……るぅっ!?」
一歩下がり、口を閉じたまま唸るように変な声が出た。動じるなと言う方が無理な頼みだった。
「自分じゃ届かなくてさ……」
「いいの……?」
真衣が頷くので握られていた日焼け止めクリームを受け取る。渡してしまうと彼女はすぐに背中を向けてしまう。
「じゃあ……」
意識するな。指先にクリームを付けて……。
「……塗り方、ってあるの?」
こういうのってたぶん女の子ならではのこだわりがありそうなんだけど。特に保谷さんみたいな色の白い人なら気にするだろう。
「えっと……たっぷりつけて手に塗り広げて」
広げて。
「両手を背中に上から」
上……から。意識しない。直接じゃない、クリーム越しに触っているんだ。……無理か。
「……くるくる回すように」
まさす……回す、ように。当然だが、背中全体、だよな。
「……ありがと!」
「どう致しまして。……怪我しないようにね」
日焼けも火傷のようなものだが、気を付けてほしい。俺は裏口から入って焼きそば一つと飲み物を二つ取って戻る。
「じゃ、行ってらっしゃい」
「うん、行ってきます!無理言ってごめん!次は明に塗ってもらうね」
「いってきまーす!」
保谷さんが玲奈と昼食を摂る場所探しがてら歩いていく。たぶん人がいなければ俺達が食べたところで落ち着きそうだ。
「………うん?」
次は明に塗ってもらう、か。そりゃあそうだ……けど。けど、もしかして、塗ってもらうなら玲奈でも良かったんじゃ……?
「……………」
たぶん保谷さんもうっかりしてたんだ。気付いた途端、あまりの恥ずかしさで顔から火が出るかと思うくらい、熱くなってきた。穴があったらしばらく籠りたい。
そうは言っていられず、再び海の家に戻ると中は大勢の客で埋まっていた。真衣が抜けた串焼き類の注文が予想外に多く、悠登はしばらく串焼きに集中することになった。
休憩の時間はもう一度あったがそれを除けばずっと悠登と章助は藤佐と共に料理に集中してしまう。お昼のピークを越えて客が減っても雑談する余裕はほとんどなかった。
「……よし、時間だ。今日は閉店にするぞ」
「やっとか……!」
ラスト三十分には二度目の休憩だった保谷さんと玲奈も戻り、玲奈は端に座って大人しくしている。藤佐おじさんの閉店宣言に章助も声を洩らした。
「お嬢ちゃん達、おしまいだぞーぃ!」
厨房から声を張る藤佐に向こうから返事が聞こえてきた。俺は厨房から抜け出て玲奈の元へ寄る。
「お待たせ玲奈。戻るよ」
「うん!」
ほどほどに休憩していたようだがそれでも玲奈はまだ元気なようだった。これは夜の寝入りが早いぞ……。
「そいじゃ皆、汗かいたろ?帰って夕飯終わらしたら風呂は入るが、全員シャワー浴びてこいな」
言って藤佐おじさんがレジから小銭をじゃらじゃら取り出して一人一人に取り出す。俺にも渡してから一瞬固まった。
「この子……」
「あぁ、それなら……あ」
それなら俺が一緒に。そう言いかけて詰まった。……俺からすれば玲奈との入浴は当たり前になり過ぎているが、ここは日常から離れた場所だ。
「玲奈ちゃんは私とシャワー浴びようか」
「え?……うん」
明らかに何か言いたげにこちらを見たのだが、桑野さんの誘いに応じて玲奈は行ってしまう。藤佐おじさんも納得したようだった。
個々で簡単にシャワーを浴びている間に陽は傾いていった。帰り道は程良い暗さで風が涼やかに感じられた。
「玲奈のこと、ありがとう」
「ううん。お風呂も私達と一緒で良い、よね?」
迷ったが頼めるのなら、玲奈にとってもその方が良い。……玲奈は人間と入浴するのなんて獅子井家に来てからたぶん初めてじゃないだろうか。
「お願いできる?」
「わかった」
夕食は今日獲れたばかりという魚の刺身を山盛りだった。鶏魚と間八は特に絶品。醤油が主役で玲奈も大喜びだった。
食後は男子と女子に分かれて入浴を済ませた。四人でも充分な広さではあったが、浴槽は流石に高校生の男子三人にはキツかった。桑野さんと保谷さんは獣人用ドライヤーの風力に驚いていたらしい。乾いていたとはいえ、髪を下ろした桑野さんには目を奪われた。
「ちょっと海岸のとこにあった自販機行ってくる」
夜は持ち寄った課題を皆で片付けよう、という話になっていたのだが、疲れで到底それどころではない。満場一致でただ部屋に集まっていた。
テレビもないので話をしているだけだったが、女性陣は玲奈のディスチャージ仮面講義を受けさせられている。まだ寝るには早いので飲み物でも買いに行こうと思った。一応、海の家で売るための飲み物が探せばあるだろうけど、数が合わないなんて話になっても面倒だ。それに、もらってばかりもいられない。
「あ、俺コーラ」
「スポーツドリンク」
「おにいちゃん、オレンジジュース!」
「麦茶お願い」
「え、良いの?じゃあ……緑茶」
「私も同じのお願い……って、そうだよね」
一通り意見が出されて明が苦笑した。
「………」
好き放題言って……。いや、一人だけ飲み物買いに行く俺も悪いんだろうけど。
「全員分、持てないんじゃない?手伝うよ。真衣、お金」
「はーい」
財布を出して小銭を保谷さんが桑野さんに渡す。
「姉ちゃん奢ってよ」
「お断り」
自分の分だけ実恵が小銭を俺に渡すと、章助も渋々財布を出した。
「スポーツドリンクってどれでも良いのか?」
「あぁ」
その辺は無頓着なんだな。預かったからには買うけど。
「じゃあ行こうか、買い物班」
「そうだね」
断りは入れずともすぐに戻るからと藤佐には話さず二人で出てきた。音で気付かれただろうが、中から様子を窺われた様子はない。
「暗いね……」
街灯が少ない分、道は暗かった。天気が良いので星は輝いているがそれも一面という程ではない。
「そう?」
しかし悠登からすれば道はハッキリと見えていた。まちまちながらもある街灯で充分光源は確保できている。
「あ、獣人って視え方が違うんだ?」
「夜まで一緒にいることなんてまずないもんね。玲奈がトイレに起きる時もこんなに明るくしてどうしたの?って聞いたことあったなぁ」
玲奈が来て間もない頃だ、トイレに起こされて連れていこうとしたら電気を点けるように言われた。目が悪いのか、と思ったこともあったが桑野さんの言ったように、視え方が違うらしい。
「そう言えば悠登君の瞳孔、すごく大きい。日中のはちょっと怖かったな」
顔を覗き込んできた桑野さんの顔もよく視える。
「またおじさん呼ばわりされたよ。鬣生えてるだけなのに」
「生やし方が立派なんじゃない?雄々しいって言うのかな」
怖い顔も解釈次第。そんな風に言ってくれるのが桑野さんだから余計に胸が跳ねた。
「でも今はクリクリした目で可愛いよ?それなら年相応に見えるかも」
「だと良いな」
可愛いと言われるのも悪くない。滅多に言われないし。
「なら、可愛いクリクリおめめで自販機まで案内するよ。……もっと近くにあったら良いんだけど」
半端に海岸に近いせいもあって自販機はもっと坂道を上った町中か、今向かっている方にしかなかったと思う。しばらく来ていなかったから新たに増えているかもしれないが、他は知らない。
「あのさ……聞きにくかったことあるんだけど、良い?」
「なに?」
遠慮していたものを払拭させることができている。玲奈と感じていた心の壁を瓦解させられた時と同じ。近付く事が可能なら、もっと近くに感じたい。
「私……花火の時から悠登君のこと、名前で呼んでる、じゃん?」
「……うん」
おかげでどれだけ照れたことか。
「あの時さ、やっぱり戻そうとしたんだ」
「え?」
思い出してみると、何か言いかけていたような。
「獅子井君、って呼び慣れてたしさ。だから今朝も呼び方安定してなかったよね、ごめん」
「はは……大丈夫だよ」
互いに苦笑して誤魔化す。だけど。
「俺は名前で呼んでもらって構わないよ。……その方が、嬉しいし」
「……わかった。なら、これからは悠登君で」
もうひと声。
「……俺も」
「うん?」
「俺も、桑野さんじゃなくて名前で呼んでも良いかな。それなら、お互い様だし」
……言ってしまった。引き返せないと思ったが、桑野さんからの返事は早かった。
「いいよ。私、やっぱり人は名前で呼びたいもん。慣れは必要だけど。だから、お互い様」
確かに桑野さんの場合、章助はともかくあの場にいた人物は皆名前で呼んでいる。
「じゃあ……これからは明さん、で」
「明で良いよ。メーサン、って言いにくいもん」
悠登の前に回り込んで笑みを浮かべる少女。暗くても獅子の少年には彼女の笑みが眩しく見えた。直視していると目が灼けるのではないかと思うぐらいに。
「……レジ打ちみたいに慣れないかもしれないけど、やってみる。……明で」
「うん!」
ここに来てくれたのが明で良かった。きっと他の誰かだったらさっさと歩いて、買って戻るだけ。二人になれて、本当はもっとしたいこともあった。欲張らずとも成果はあったと思う。
キンキンに冷えた自販機の飲み物はひんやりと俺の手を冷やす。それでも胸は熱く、湯上がりなのにまた汗をかくんじゃないかと思ってしまった。
二日目も滞りなく終わる予定だった。開店から一時間後、最初に休みの章助が玲奈と戻り、明と交代してしばらく経った時だった。店内から金属の派手な音が鳴り響く。
「悠登ぉ……」
「………」
音源を辿り、その場で固まっていたのは実恵だった。悲痛な顔で俺を見上げる彼女の手には見覚えのある半円形のパーツ。
「お前……注文もないのにかき氷機いじってたのか」
「えへ、えへへへへ……」
見れば、かき氷機のハンドル部分の半分だ。ハンドルはかろうじて取り付いたままだから回すことはできる。こうして見ると、今時まだ手動式なのか。
「……回し、にくいな」
これはこのまま実恵に任せていたら今度こそハンドルをへし折るな。てか、どうやってハンドルの付いていない側のパーツを壊したんだ……。決定的な瞬間を見逃した。
「げ、姉ちゃん!また壊したのか!」
「う、うっさい!」
気付いた章助も実恵を見るが言ってはいられない。
「藤佐おじさんに替えのパーツがないか聞いてくれ。実恵、無いようなら接着剤を取りにおじさんの家にダッシュして」
「おう!」
章助はすぐに厨房へ飛び込む。実恵から壊れたパーツを受け取る。
「直るの……?」
「直すの」
壊したこと、気にしてるんだな。
「悠登、やっぱり無いってよ」
「聞いての通りだ。その間は俺がやっとくから……」
戻って来た章助の報告に頷き、実恵を見る。
「俺が……って、なら私は?」
「だから、接着剤取りに行ってくれって。お前じゃこのままやってたらまた壊すだろ?」
器用に壊したと思うが稼働に影響のない部分でまだ良かった。
「でも悠登が任せてくれたのに……」
「………」
「その悠登の頼みだ、姉ちゃん。俺達が繋ぐから行ってきてくれって」
俺が言わない代わりに章助がきっぱり言うと、実恵は一度こちらを見た。
「……うん、行ってくる…」
静かに言うと実恵は小走りで出て行った。……あとはかき氷の注文が来たら騙し騙しなんとか使うしかない。
「姉ちゃん、悪い癖が始まったな……」
「言う程に悪化するんだ、気を付けるのは俺達もだぞ」
もしかして、かき氷に拘っていたのは昨日の俺のせい、か……?
「獅子井君、どうかしたの?」
「あぁ、機械が壊れたみたい。実恵に接着剤取りに行ってもらってるから、大丈夫」
保谷さんと狼塚も心配そうに見に来たが、二人にまで気苦労をかけさせたくはない。
「行ってきた……」
戻った実恵の手にはしっかりと接着剤が握られていた。
「お疲れ」
接着剤を受け取り、壊れた部分に塗ってしっかりと固定するが下手に動かすとポロっと取れそうだった。
「どうよ?」
「うーん……」
様子見をしたいが、お客さんは待ってくれない。他にもかき氷をやっている店はあるが、だからと言ってそっちに行かれても困る。今だって狼塚達に注文を任せているんだから。
「私、やるヨ……?」
実恵は言うが章助の顔が険しくなる。
「これ以上姉ちゃんに……!」
「待てって」
それを思わず止めてしまう。
「実恵。このくっ付いてる部分にしばらく触れないこと。保谷さんの休憩時間になったら素直に休憩すること。守れるか?」
「うん……!」
俺の二つの条件に実恵が頷く。章助は未だに不安そうだった。
「姉ちゃんがやる気出してるのが一番怖いの、お前も知ってるだろ」
章助が厨房に戻りながら呟く。振り返ると実恵はじっとかき氷機の接合部を見ているようだった。
「……やる気を別に向けて、余計なこと増やされたくもないだろ?」
「う……それは確かに。お前、やるな」
どうして実恵の味方になるような発言をしたかはわからない。もしかすると、実恵を煽った張本人だったことに対して負い目もあったからかもしれない。
「今日も店じまいだ!お前ら、わかってんな!」
以降は太平無事に進んだ。いや、かき氷機を破壊しておいて無事と言うのも変だけど。接着はしばらく経ってから確認したが完璧だった。途中、藤佐おじさんにも確認したが怒るどころか自動のかき氷機に買い替えたいとは思っていたから今回の一件で踏ん切りがついたらしい。実恵からの被害がそれだけで済んだことにホッとしているぐらいだった。
「実恵も随分落ち着いたもんだ。男でもできたか?はっは!」
「叔父貴ってばセクハラだヨ?」
俺が確認してもう大丈夫、と言うと実恵は安心したようだった。気を付けてはいたようだが徐々に調子も取り戻していった。
「じゃあ戻るか……。って、叔父貴片付けとかは?」
「明日からは自治会のやつらが来るから、お前らは気にしなくて良いんだ」
元々この二日間だけ、というのも妙だと思ったが話を聞くと自治会で運営していたこの海の家、人手がこの昨日今日だけどうしても確保できなかったらしい。
「それより明日には帰るんだろ?だったら残り一時間、遊泳時間が許す限り遊んで来い」
藤佐おじさんの指令に顔を見合わせる。玲奈はともかく、俺達も水遊び程度はしていたが泳いではいない。
「……行くか!」
章助の一言に皆が触発された。陽はまだ高いが傾き始めている。日焼けの心配もあまりない。ほとんど一斉に上着を脱ぎ捨てて海へ走り出した。特に俺達獣人男子三人はパラソルを片付け始めていた人達をくぐり抜けて飛び込むように着水する。ゴーグルなんて必要ない。
勢い良く一気に市民プールよりも深い所まで泳いでいく。立って顔がなんとか出るくらいが丁度良い。小学生の時よりもずっと深くまで行ける自分に広がる光景は昔と違って見えた。
水中で広がる青は砂浜で見ていたものや天気の良い日の青とも違う。俺達の目は距離感を測るのに適していると良く言われるが、先を青に曖昧に塗り潰されてわからない。なのに、そこにあるのは不安ではなく、不思議と包まれているようにすら感じる青だった。
「………ぶはぁ!」
息が続かなくて顔を海中から出した。沁みる目を一度擦り、顔は出したまま立ち泳ぎで引き返す。
「あれ?もしかして悠登君……?」
「うん」
玲奈と保谷さんと脛ぐらいまでの浅瀬で遊んでいた桑……じゃない、明が俺へ近寄る。俺が頷いても、明は首を傾げた。……彼女のスポーティーな水着姿が目前な上にそんな反応をされては正面から見れなかった。見たいのに勿体無い。
「し、獅子井君……ずぶ濡れになるとわかんないね。てか、鬣がぺしゃんこで……か、カッパみたい……ふ、ふふ…」
「ちょっと真衣……ぷっ」
「………」
ちょっと往復しただけだが潜ったのだ、全身は余すところなく濡れている。ただそれだけなのに俺がわからない上に、海へ来てカッパ呼ばわりとはこれ如何に。保谷さんの言葉と笑いになんとか平静を取り戻して、俺は静かに二人と玲奈に背を向ける。
「章助!狼塚!ちょっと来てくれ!」
泳ぎ始めて十分ちょっとしか経っていない。それでも泳ぐ二人の姿を見付けて呼び出した。
「なんだ」
「どうした」
ずぶ濡れ獣人男子が揃った。ふわふわのもこもこしか知らない彼女達からすれば、一気に貧相なシルエットに変わったように見えるだろう。特に狼塚を見て保谷さんはにやりと口を歪めて笑いを堪えている。
「耳貸せ」
悠登が二人にほんの一言だけ耳打ちすると、何を言うでもなく獣人三人は人間女子三人を取り囲んで手を繋いだ。
「え?なになに?」
「どうしたの……?」
逃げる間もなく明と真衣はよくわからないまま身を寄せ合う。しかし寄せたところで意味は無い。
「シェイク・オフ!」
俺の宣言と共に三人で頭を、肩を、体を勢い良く振るう。直後、俺達に付着していた水滴が飛び散り、全方位から彼女達を襲った。その威力はおよそ洗面器一杯の水を浴びせかけられるようなものだ。到底、手で隠す程度で防ぎ切れるものではない。
「きゃー!」
「なにこれー!」
「きゃはー!」
明と真衣による悲鳴。玲奈のみ歓声。巻き込んで悪いがこんな子どもみたいなこと、まずやって見せないからまずは経験。
しばらく続いたシェイク・オフが自然と勢いを弱め、最後にぶるんと頭を揺らして耳を打ち鳴らす。だいたい吹き飛んで俺の鬣はカッパからヒトデぐらいにはなっただろう。
「……笑ってごめんなさい」
「お許しください……。すみませんでした」
「わかってくれれば良いんだ」
報復完了。手を放すと、そこには濡れていなかった筈の明と保谷さんが全身ぐしょ濡れ状態になって現れる。ポタポタと水滴を絶えず滴らせる様はさながら濡れた仔犬のようだった。
「おにいちゃん、もういっかい!」
「よし」
「や、やめて!」
保谷さんが悲痛な声を洩らす。疲れてもう泳ぐにもなっていなかったのに、こんなことで濡らされるとは思っていなかったようだ。こちらは泳いだ分だけ再現出来るからアンコールは受けて立つ。……高校生にもなってやるようなことじゃないけど。久し振りにやると意外に楽しかった。
休憩の時に感じた時間の長さは泳いでみるとすぐに過ぎてしまう。物足りないと感じるかと思えば、日中の疲労もありそれで充分だった。慣れない立ち仕事というのもあったのだろう。
「ショウ、一撃で決めろ」
夕食と入浴後に縁側に集められた俺達を待っていたのは庭に敷かれたブルーシート、その中央に大玉のスイカ。そして包丁を持った中年虎男だった。
「叔父貴の前だ。やって見せるさ」
置かれたスイカを鋭く見下ろすのは筋肉タイガー。長く息を吐き出すと彼は肩幅に足を開き、一気に手刀を振り下ろし、叩き付けた。
「おらぁぁぁあ!」
パン、と短い音と共に、縞模様のスイカを、縞模様をした男が、縞模様な割れ目を作り真っ二つに割った。木刀なんて必要ない。
「おぉー!」
「すごいすごい!」
女子二人が章助へ称賛の言葉と共に拍手を送る。自分への喝采に章助も満足げだった。
「おにいちゃんもできる?」
「どうかな。親父はできるだろうけど。……買ったら試すかな」
玲奈には言ったがスイカを丸ごと自分から買う機会は無さそうだ。貰いものか、カットされているものを買うか。
「よーし、ちょっと待ってな……」
割れたスイカを藤佐が回収し、その場で器用に切り分ける。破片もあったが大半は問題なく天を仰いで割れたので問題ない。これらをまとめて俺達で全員で頂くことになった。
「こんな大きいの初めて……」
「やっぱり夏と言えばスイカだね!」
大きさに驚く明の横で実恵も元気良くスイカに噛み付く。厚みもあったろうに、一噛みでごっそり半月を三日月に変えてしまう。
「あっ……」
「どうした?」
俺達と同じ大きさのスイカを頑張ってかじっていた玲奈だが、ふと声を洩らす。
「おにいちゃん……スイカのタネ、のんじゃった……」
確かに先程から種を一粒一粒取りながら食べていた。だから余計に食べるのが遅かったのだが……。
「あちゃあ……玲奈ちゃん、それはいかん。そのうちお腹にスイカができちゃうヨ」
「あぁぁ……!」
玲奈が聞いたことのないような声で自分のお腹を見る。怖がらせた実恵を睨むと素知らぬ顔で顔を背けた。
「大丈夫だよ、一つふたつくらいなら。いっぱい呑んだらわかんないけど」
「ほんと?」
「うん」
明がフォローしてくれたけど、発芽はしないと断言してくれた方が……。ひとまず落ち着いたから良いけど。シャクシャクとスイカをかじっているといつの間にか藤佐おじさんの手から包丁が消えていた。
「ふっふっふ。じゃーん!皆さんお待ちかね!給料タイムだ!」
代わりに手に納まっていたのは封筒。言うと同時にそれぞれへ手渡す。
「ほい、お疲れさん!中身見るのはは帰ってからにしろな」
言って藤佐も縁側の端に座ってスイカにかぶりついた。向こうはそれで、終わり、と言いたげだったがこっちはそれで済まない。高校生でそそくさと立ち上がり集まると彼は怪訝そうな顔をする。
「なんだ?」
『ありがとうございました!』
声を揃えての礼に藤佐が肩を跳ねさせた。
「で、でっけぇ声出すなよ……びっくりした」
「でも叔父貴、ありがとな!」
甥の礼に藤佐が笑う。
「お前らが体を張って稼いだんだ。多いか少ないか、どう取るかはお前達次第だが使い道は考えるんだな」
それだけ言うとおじさんはスイカをゆっくりかじり出す。
「……まるで親みたいなこと言っちまったな」
独身ではあるが大人だ、言えることはあると思う。
「あ、悠登」
どう使うか……。考えてから決めようと思っていると呼び止められる。
「なんですか?」
「マッサージしてくれたら、割増してやるぞ?」
「ありがとうございました、お疲れ様です」
肩揉みぐらいなら良いが、指を動かして俺にもスキンシップする気が満々だった。そういう残念な大人なら、既に間に合っている。帰ってから確認した二万円、無駄にはしないと心に誓った。
翌朝、再びの実恵の運転で帰宅して俺と玲奈は早速昼食の準備に取り掛かっていた。両親は仕事に行っているので用意するのは二人分。片付けは昼食を済ませてからにしよう。
片付けを後回しにする程、俺はうきうきして冷蔵庫を開けた。そこにあったのは、開封厳禁と書いた紙を貼り付けた瓶。
「ふっふっふ……」
シンクの上に置いて、今その封印を破る。
「く……」
蓋をひねると予想通り、中身の液体が吹き出た。汁で手を濡らしながらも完全に開ける。
「……よし」
俺は勝利を確信して引き続き昼食の準備に取り掛かった。
「ご飯だよ、玲奈」
「はぁーい!」
テレビを見ていた玲奈に声を掛け、テーブルに並べる。お昼はさっぱり素麺に卵と刻んだ油揚げとネギ添え。
「あとはこれ」
そして小皿に置いた食べ物を見て玲奈が固まる。それこそ、先程悠登が解禁したものだった。
「これ……ナス?」
正解。茄子の漬物、だ。今回の二泊三日の前に仕込んでいた、まさに俺からすれば切り札の様な存在だった。
「いただきまーす」
「いただきます……」
玲奈はさっきの返事はどうしたのか一気に暗くなってしまった。だから、先に言っておく。
「前に玲奈は茄子の歯応えが嫌いって言ってたよね?」
「……うん」
あれから考えて考えて、やってみた結果。玲奈は塩分を正義と思っている節があるのは知っていた。
「今回、ちょっと歯応えが変わるようにやってみたんだけど……食べてみてくれないかな」
だからこそ塩辛い味付けにして、歯応えもパリパリにした。これでダメならもう一つ試したことはあるが、まずはシンプルながら時間をかけたこの一品で。
「うん……」
好き嫌いで何か言ったことは無い。お菓子を食べてからの食事を残して注意したことはあったけど。怒られる、と思っているのかわからないが玲奈は重く頷いて茄子の漬物を一枚、口に入れた。
「………」
「………」
程なくして、パリポリと漬物を噛む音が聞こえてくる。玲奈に表情はまだ、ない。
「………っ」
「……どう?」
呑み込んだ。一間置いてから尋ねると玲奈はもう一度箸で茄子を摘まむ。
「……たべれる」
無表情で再度茄子をパリポリ、ゴックン。
「……うん、おいしい!わたし、ナス、たべれる!」
「お、おぉぉお!でかした玲奈!」
玲奈に笑顔が戻った。塩っ気を強めにしただけあった。褒めて頭を撫でてやると得意げにもう一度頬張って見せる。
実恵の言う事でこんなに効果があるのか、と思う程に玲奈は容易く茄子を食べてくれた。それは悠登の夏休みの目標が想定以上に達成された事に他ならない。己との戦いを制した少年は一人勝利に酔う。ライオンの男子高校生が薄皮の丸茄子を浸けて、幼稚園児に食べてもらい喜ぶという、地味過ぎる情景に気付いて我に返るまで、あと数分。こうして獅子井悠登の夏休みは幕を下ろした。




