第四部 一章
休日なのに体が気だるいのはうだるような暑さのせいだ。閉め切ったカーテンの向こうで全開の窓から夜風を取り入れ、扇風機を回しても寝汗はかいてしまう。起きてまず自分の汗臭さで鼻に皺を寄せた。
先に述べたようにこの日は休日、夏季休業中である。寝苦しさから体は重く、もっと睡眠を欲していた。それでも獅子井悠登は天井を見詰め数秒後、腹筋で起き上がる。
「ふぁぁ……」
欠伸で口を大きく開けると目尻に涙が浮かぶ。指で拭うとベッドから足を下ろした。
「おはよう玲奈。朝飯作るよ」
「う……ん…」
悠登がタオルケットにくるまる少女を起こす。まだ六時だが、やはり暑いのか汗で前髪が額に張り付いていた。
「おはよう……おにいちゃん」
「今日も天気良いぞ~」
カーテン越しにもわかる青空と日射し。個人的には勘弁したいが玲奈にもそんなだるさを伝染させたくはない。無理にでもテンションを上げるとカーテンを一気に開いた。
「まぶしい……ふぁー。ねっちゅうしょうになっちゃう」
丁度玲奈の顔面に日光が降り注ぎ、止むなく彼女も身を起こす。熱中症なんて言葉よく知ってたな。ダジャレも少し流行ってたな。
「よし、今日も一日やりますか」
「おー」
俺の空元気に、同じように気が伴わない玲奈の応え。それでも満足して朝食の支度へ向かう。今頃涼は新聞でも読んで俺達が起きるのを待っている。親父は食事の時間になってから起こせば良い。
今日を昨日よりも良くするために。俺の些細だがしっかり掲げた目標。知ってか知らずか玲奈はまた目を瞑っていた。
朝は米だ!パンも麺も、シリアルでもダメ。朝はとにかく力が入るように、米を食べなくちゃいけないんだ!それがニッポンライオン男児のキソクタダシーイ人生を送るヒ・ケ・ツ。てか、俺はお米が好きなんだって。味噌汁だばっとかけて猫まんまとかも最高じゃん?あ、あぁわかった!あんまりワガママ言わないから!えっと……朝はパンよりお米だと、パパ、嬉しいかなーって?ね、ねぇそんな怖い顔しないで!ごめんってばぁ!うわわーん!
……俺と父親、譲司とのやり取りの一部だ。たまたま米を切らし、止むなくパンを朝食に出したある日に言われた。休日は朝飯より寝ていたいとか言う割に、食べる日には好き勝手な注文を押し付ける。以降、俺は頑なに米を切らさないようにして朝食を用意している。影で俺が何を考えているのかを知ってか知らずか、親父はいつも楽しそうに朝食を残さず食べていた。
「………」
だが、そこに笑顔のない者が一人。今日も譲司と涼は食事を済ませて各々で仕事へ行く支度を始めていた。悠登と玲奈は夏休みだが、社会人の二人にそんな連休はない。悠登も既に食べ終えて麦茶を飲んでいる。
「はむ」
玲奈がスープの具を頬張る。今日の朝食は白米に厚焼き卵とウインナー、仕上げに茄子の冷製スープだった。悠登が目を光らせているのはスープを飲む玲奈だった。
「……玲奈」
しばし見守ってから、口を開く。俺を見上げて玲奈の食事がストップする。
「なぁに?」
「玲奈さ、もしかして茄子が苦手なんじゃないの」
頬杖をついて見据えると玲奈の口が引き結ばれた。あぁ、やっぱりか。
ある食品をメニューに出した日だけ、彼女の食事をやけにスロウにさせる。そう、それこそが茄子だ。異変に気付いたのは初夏の頃、細切りにした茄子を入れた味噌汁を出した時。玲奈は豆腐だけ先に食べて汁を飲み、最後に茄子を口に詰め込んで飲み物を利用し飲み下した。
「……うん」
短い返事で玲奈が俯くように頷いた。口に出す時期が早かっただろうか。玲奈はなんとか茄子を口に運ぶとあまり噛まずに呑み込む。
「ちゃんと噛まなきゃ、お腹に良くないよ」
言うが伝わらないだろうな、と思っていた。それに一応、もうほとんど食べ終わっている。
確信もなかったため、自分でできる範囲で試行錯誤していた。察知されないように日を空けて趣向の違う茄子料理を出すうちに、レパートリーが増えてしまう。それでも玲奈のお気には召さなかったようだ。
定番の夏野菜カレーと麻婆茄子に至っては特に不評だったようで、出した日は玲奈の顔が一瞬引きつったくらいだ。夏休みという時間があったから試したグラタン、今回の冷製スープとは別に試した冷製ポタージュでかろうじて無反応に食べてくれる。
「茄子のどこが苦手?」
好き嫌いは良くないが怒っているわけじゃない。単純に聞いてみたいだけだ。
「……はごたえ」
「ふーん……?」
グラタンはともかく、スープはミキサーにかけて原型がないから飲めたのか。ならば今回は小さく丸切りにした茄子。あまり食べたくはなかっただろう。
「あのね、ぐしょぐしょにしたかみをたべてるみたいで……やなの」
「あー……」
散々な言い様だが、わからなくもない。カレーや麻婆茄子のようにしんなりとして煮込み柔らかくなった茄子が嫌だ、と。反応の見極めは正しく、話も繋がった。食べやすかろうと作った物は大失敗だったらしい。
「だからね、ナスはもういい、よ?」
「そうはいかんよ。茄子は体を冷やしてくれるんだから。この時期は特に食べなきゃ」
可愛らしい提案は聞き入れずに俺が笑うと、玲奈は頬を膨らませた。
日中にすることは決まっている。洗濯を干して買い物を済ませたら課題の消化作業。自主的に登校しても良いことにはなっているが、休みに学校へ行きたいとは思えないし、まして玲奈を一人置いて出掛けることはできなかった。今日は休みの日ではなく、自習の日と思い込む。そんな考えではストレスが溜まりそうだが、いつかは対峙するのだから。
玲奈と共に近所のスーパーで買い物を終える。毎日茄子を食べさせるつもりはこちらもないので、籠に入っていないとわかり安心したようだった。
好き嫌いなんて言わない子、と思っていた時期もあったがそんなわけがなかった。単に言えなかっただけのこと。我慢していただけだった玲奈の本心が少しずつわかってくるのはこちらとしても有り難い。ただし、食べなくて良いとは言えないが。
「ただいま!」
「ただいま~……?」
玲奈が家の戸を開ける。最初は気にしなかったが、家へ入ってから気付いてしまった。鍵が、開けられている。
「おっかえり!」
誰もいない筈の家から聞こえてきた返事。その声に聞き覚えがあり、悠登は靴を脱ぐと真っ直ぐ居間へ向かった。
「……なにしてんだ、お前」
「暇だから来ちまった」
居間で横たわりテレビを見ている虎男。彼の名を改めて紹介する理由はない。
「しょうすけおにいちゃん!」
玲奈は虎の姿を見付けるとすぐに飛び付いた。
「おぉ、玲奈ちゃん!久し振り。とらさんごっこするか?」
「脱ぐな、見苦しい……」
楽しそうな二人の水を差すようで悪いが、こっちは炎天下を往復して疲れているのに。しかも帰ってくれば人の家に勝手に入り込んでいる同級生。勘弁してもらいたい。
「なんだよー。麦茶作って冷やしといてるのに」
「それはどうも……」
家を空けた時間から考えて、まだ飲むには早いな。
「ところで悠登」
「どうした」
コイツが俺の家にいるなんて珍しくもない光景だから、これ以上は言わない。まずは買ってきた食材を冷蔵庫に入れよう。台所へ向かうべく背を向けた時、章助が俺に声を掛けた。
「今日からしばらく、ここに泊めてくれ」
章助が突拍子もないが妙に神妙な声で言った。振り返ると、俺に向かって正座している。
「泊めろ?」
どういうことかわからず、聞き返す。玲奈も一歩引いて章助の様子を見ていた。
「頼む。この通りだ。泊めてくれるなら何でもする」
「……理由は」
彼の頼みに何も言わずにそっと俺は部屋へ案内した、なんてできるわけもない。説明が足りぬ友人から情報を引き出そうと向き直る。
「帰って、くるんだ……」
章助が重く呟く。床の一点を見詰めたまま。握り拳に力を入れて口も噛み締めている。
「なに……ぃ!」
一言で理解した。これ以上の情報は必要ない。慌てて俺は冷蔵庫に食べ物を詰めて、居間に戻る。
「どういうことだ、おい!」
章助の肩を掴む。普段なら俺から目を逸らさないくせに、今日に限って見ようともしない。
「俺だってわかんねぇんだ。でも、でも急に……」
「そんな……」
章助も取り乱してわかっていない。察して悠登は手を離すと力なく腕を下げた。
「ふたりとも、どうしたの……?」
玲奈が俺と章助の間でおろおろしている。何か、言ってやらないと。しかし、それすらもできなかった。
「たっだいまー!」
家の戸が、何者かによって無遠慮に開かれた。
♀☆
「玲奈、台所を経由して部屋に入って。良いって言うまで部屋から出ないこと」
「おきゃくさん?」
そんなご立派なものではない。内心では首を振ったが俺が頷くと玲奈は言われた通りに部屋へ向かった。
「…………」
「…………」
俺と章助はテレビを消して自然と息を潜める。二人で肩が触れるくらいに寄せ合って、身を低くする。まるで狩りで獲物の隙をじっと待つ獣のように。
しかし、今回は隙を突くのが目的ではない。できれば見逃してもらいたい、という言わば逃避のために気配を殺していた。
「にひ……見付けたぁ」
足音が聞こえ、居間の戸が開かれる。望みは薄かったがやはり逃がしてはもらえなかった。
こちらを見付けてニィ、と大きく口を歪めて笑ったのは虎獣人の女。赤と白のストライプ色タンクトップにジーパン姿で、豊満な胸と尻のラインを際立たせている。彼女は悠登の姿を見付けると身を低くし、タックルするように飛び掛かった。
「悠登ぉぉぉぉ!」
「くっ……ぬぅ!」
腰に手を回されてそのまま後ろに後退するが踏み止まった。予めこちらも重心を低くしていたからどうにか受け止められたのかもしれない。
「お、おぉぉお!悠登が!私を抱き締めてくれている!」
腕の中で虎女が叫ぶ。
「いいから離れろ!」
言われて嫌になり、受け流すように横へ放ると彼女は畳に倒れた。
「あう」
今の倒れ方なら鼻を打ったろう。俺と章助はその間に距離を取った。
「ちょっとぉ、久し振りの再会にその態度はあんまりじゃなぁーい?」
起き上がって胡坐をかくと虎の女性は悠登の隣にいた、もう一人の虎に目を移す。
「あれ、ショウ?アンタ出掛けてるって聞いたけど……」
「俺がどこにいようと、姉ちゃんには関係ないだろうが!」
これだけ目に付く章助の存在に今の今まで気付かなかったらしい。その章助が吼えるように姉ちゃんと呼んだ彼女は紛れもない、彼と血が繋がった姉、虎澤実恵である。悠登からすれば近所の友達の、幼い頃から知っているお姉さん。
「……実恵先輩、どうしてここに?」
章助がここにいるとは知らなかったらしい。姉弟の空気がどんどん悪くなっているので俺から口を開いた。
「悠登、どうしてそんな他人行儀になっちゃったの?前みたいにミーエ、って呼んでも良いんだヨ?」
首を傾げて顎に指を当てて俺に言う実恵さん大学二年生。俺は低くした姿勢を正して言った。
「……なら実恵、帰れよ」
「うわー!これ!悠登のこれ!遠慮が無くて懐かしい!」
畳を叩いて喜ぶ実恵に頭が痛くなってきた。無遠慮はどっちだ。
「章助ぇ……」
「情けない声出すなよ。俺も今のお前の感じは嫌いじゃないぞ」
泊めろとかほざいたのに帰れって言われたいのか。この虎澤姉弟の考えは理解できない。
「二人してなんだ。揃いも揃って人の家に勝手に入って……」
縞模様が倍に増えて目に沁みる。言うと実恵が章助を睨んだ。
「……なに?アンタまだ悠登の家に勝手に入り込んでるの?」
「ケッ、姉ちゃんこそ勝手に居間に入り込んで、挙句悠登に体当たりぶちかましてたじゃねぇかよ」
また始まった。
「体で悠登との再会を喜んでいただけじゃん!言わば愛の抱擁!」
抱擁と言うには腹回りが痛むんだが。
「なーにが愛の抱擁だ汚らわしい!俺は悠登が居ない間に獅子井家の留守番をしてたんだ」
そんなこと、頼んだ覚えはない。
「それは留守番じゃなくて空き巣でしょ!」
「返事無いのに入った自分も同じじゃねえか!」
「靴があるから誰かいると思ったんだもん!夏休みだし!」
地声が大きい二人の会話に耳がキンキンしてくる。内容は内容で自己中心的でご都合的だし。
「だいたい、なんで帰ってきてんだよ!」
「自分の家に帰ってきてどこが悪いって言うのさ?」
ここはお前の家ではない。
「それをとやかく言っているんじゃねぇ!」
「そこは言えよ!俺の家だって!」
思わず叫ぶと二人の会話が中断された。
「……夏休みで時間できたし、また会いに来たって言うのじゃ……ダメ?」
実恵の地元も実家も間違いない、章助と出所は同じだ。帰ってくるのに文句を言う筋合いはない。しかし、だ。
「……急に来られても、困るんだよ。俺だっていつもここにいるわけじゃないんだ」
かなり気を遣って言葉を選んだつもりだ。胸中にうずまくもっと過激な言葉は極力伏せる。こうすることで実恵に本心が伝わらないのは悔しいのだが直接ぶつけるともっと面倒だった。
「……そっか。そう、だよね」
実恵が力なくその場に座り込む。
「悠登も私の歓迎で準備とか、したかったよね」
「どうしたらそこまでプラス思考になれるんだ……」
今度は俺から力が抜けてへろへろとしゃがみ込む。目線が似た位置になると実恵は笑ってみせた。
鼻を鳴らして目を逸らすと視界の端に、何か映ってはいけないものが見えた。一瞬俺が目を見開いた時には既に気付かれてしまう。
「そこにいるの、誰?」
閉めた戸の影から覗く小さな手と目。実恵の声にそっと戸は開く。
「玲奈……」
あれだけ部屋から出ないように言って聞かせたのに。
「おにいちゃんたち、たのしそうにはなしてて……」
俺は楽しくない。伝わらないかもしれないが表情を歪めると玲奈は俺の元へ来て、皺をなぞる様に頭を撫でてくれる。
「悠登……まさか隠し子!?」
姉弟揃ってくだらないことを言いやがって。……いかん、口が悪くなってる。
「……章助」
「訳あって悠登の家で預かってる、お隣さんの子」
一言が面倒で任せてしまった。
「ふーん。まぁ、わかってたけど。玲奈ちゃん、でいいの?」
実恵が立ち上がって俺の傍らにいる玲奈の前に立つ。……あれ、実恵ってこんなに小さかったっけ。
「うん、ならはられいな。おねえちゃんは?」
「虎澤実恵。章助のおねーちゃんだヨ」
章助が嫌そうに口元を曲げる。しかし玲奈はぽかんと開けた口を笑顔に変えた。
「しょうすけおにいちゃんの!?」
「そう。ごめんね、ウチのバカ弟がいつも来てるんでしょ?」
本当に週に見ない日の方が少ない時期があったと思う。夏休みこそ日曜朝くらいしか入れないようにしていたけど。
「しょうすけおにいちゃんね、いつもとらさんごっこしてくれるの!」
「……玲奈を乗せて筋トレしてるんだよ」
体力を緩やかに回復してきた俺が補足すると実恵が章助を見る。最近は俺も玲奈を乗せたまま腕立てをする日もある。
「アンタが年下の面倒とか見るようになる日がくるなんてねぇ……」
「いつまでもガキンチョ扱いが困るぜ。この瞬間にも俺はガクシューしてんだ」
説得力はあまりないが、一年半帰っていなかった実恵からすれば大きな違いに見えたのかもしれない。
「あっそ。じゃあ帰ったらその辺の話、詳しく聞かせてもらおーかな」
実恵は俺と章助の間をすり抜けると玄関へ向かう。
「ほんと今さっき帰ってきたところだったんだ。疲れて荷物の整理もしてないし、挨拶はこれくらいでまた来るヨ。次はゆっくりね」
「いや、いい」
口に出すと玲奈が俺を肘で突いた。
「そんなこといっちゃダメだよおにいちゃん。またきてね!」
「ありがとー。ショウも程々にしなさいよー」
玄関が閉められると章助が小声で余計なお世話だ、と呟いた。玲奈は知らない大人の虎獣人を見たからか興奮しているらしい。まだ玄関をそわそわ見ている。
「……最悪だ」
「あぁ……」
俺の呟きに章助が頷いた。
「だいたい、帰ってくるなら俺に先にメールでも送れば良かっただろ。そうすれば……」
「お前だけ遠くに逃げただろ!」
俺の顔を覗き込む章助の目は見れなかった。できることなら今からでもしたい。
彼女、実恵は地元を離れて就職したい一心で別地方の大学へ進学した。新幹線や飛行機を駆使しないといけない場所までわざわざ引っ越し、昨年は一度たりともこの十幹町へ帰ってくることはなかったのだ。故に昨年は章助と共に平和な日常を喜んで過ごしていたと言える。
実恵という人物を一言で表現するならば、後先考えず己に忠実で人を巻き込む事に躊躇しない女だ。具体的なエピソードを挙げると虫採りに森へ行き遭難、川魚を釣りに行けば溺れかけ、木の上に秘密基地を作ろうとして落下し一週間の入院、自分磨きで始めた料理でレンジを爆散させて火事寸前と、まだまだ枚挙にいとまがない。最も身近にいた弟とその友人が場に居合わせたケースの頻度がどの程度のものだったかは敢えて言うまい。
しかも身近な人物のことを実恵は好いていた。年下の可愛い幼馴染という認識だろうが、今も継続中らしいとこの短い嵐の間にも把握した。
「……止そう。いつまでいるんだよ、実恵」
「俺が知るかよ」
お前が知らないで誰が知っているんだと言いたいが、感情的にはなっていられない。
「大学生の夏休みって長いらしいな」
「言うなよ。これから俺、帰ってもまたあの顔に遭遇するんだぞ……」
泊まりたい、なんて言い出した章助の気持ちはわかってしまう。また何かやらされてしまうのではないかと不安でいっぱいなのだ。実恵には何度言っても自覚を持たないから、改善も発生しない。それどころかランクアップした騒動を持ってくる方が多い。一年半の反動が今もたらされるのではないかと俺も穏やかな気分ではいられなかった。
♀
玲奈が寝ている横で携帯電話を操作する。携帯の照明だけが点いた部屋で悠登は画面をぼんやりと見ていた。今日も部屋へ入ってくる夜風は心地好い。
【章助に姉がいるのって知ってたっけ?】
メールを送って数分後に返信がきた。バイブレーションも切ってあるので当然、音は一切鳴らなかった。
【縞太郎君は兄弟の話とかすると嫌がってたからいるっぽい、くらい。お兄さんじゃなくてお姉さんがいたんだね】
返信相手は桑野明。悠登が思い慕っている人間の同級生でもある。最近は休みで登校も無いため、会う機会はないがこうしてメールのやり取りはしていた。
【姉が一人ね。帰ってきて、夏休み帰省の初日から家に来て姉弟で大騒ぎ】
そもそも帰って荷物を置いて、よし、悠登の家に行こう!という発想がわからない。長旅だったろうに、ゆっくり休めない性分なのは姉弟揃って変わらないと思う。
【悠登君からすれば巻き込まれて落ち着かないんだ?】
「………」
これだ。桑野さんは三七上の夏祭りから俺を名前で呼ぶようになっていた。画面に自分の名前が表示されているだけなのに、息が詰まり顔が火照って手も止まる。気持ちも体もまだ慣れていない。
……俺も、狼塚や保谷さんのように明、と呼んでみるとか。言った途端におかしくなりそうだ。メールで、ならどうだろう。まずは明さん……から。違和感が半端ない。
【しばらく落ち着けそうにないかな……】
桑野さんに会えない日々、桑野さんとこれから会う日々。ついでに実恵が近所に居るという恐怖。いつの間にか、自分の考えの大半を桑野さんにすげ替えられていた。
【深刻だね……。私は縞太郎君のお姉さん見てみたいけどなぁ】
見てみたい、か。前々から思っていたけど、桑野さんって好奇心が強そう。
【章助に言えばたぶんリボン付きでプレゼントしてくれるよ】
箱詰めは実恵の性格上無理だな。アルミ製程度なら爪で引き裂きそうだ。
【まずは写メとかお願いしてみようかな?部活あるし休みが少ないんだよね】
カメラに実恵の画像を保存しなければならない章助の気持ちを考えると、そこはスルーさせてもらう。やり取りは二人に任せよう。それよりも気懸りなのは部活の方だ。
【炎天下にお疲れ様だね……】
【部活違うのにした方が良かったかな?と、そろそろお風呂入れって言われてるし、またね!】
【急にごめん、聞いてくれてありがとう。おやすみ】
キャッチボールが終わってしまう。惜しいとは思いながらも、風呂なら仕方ない。寧ろ今から桑野さんは裸で湯浴みをする、というのがわかってしまったわけで。
「……いかん…」
定番だが、どこから洗うのだろうとか。やっぱり髪はバスタオルで束ねて入浴するのかとか……。あの日焼けと、焼けていない地肌の色の差はどうなっているのだろう。部活後のシャワーとかは沁みて苦労してるのだろうか、とか考えては悶々としてしまう。もう実恵の話で終始した筈なのに、二の次以下になっている。
「………」
体を仰向けにして天井を見上げると背中がどんどんポカポカしてくる。それどころか、暑い。どんどん熱を帯びて温まっていくのがわかった。
こうして考えると、俺、桑野さんのことあんまり知らないよな……。幼稚園が一緒だったと知ったのもつい数カ月前の話だし。俺は何がわかるんだろう。
もっと知りたい。もっと色々な表情を見て、もっと……触れたい。許されるならば。
どんなものでも良い。会う以前のこと、普段家ではどう過ごしているのか……その、好きな異性のタイプも気にはなる。考えないようにしていたけど、そもそも獣人は恋愛対象外、だから一線を引いて仲良くしているという話も聞く事はあった。桑野さんはそんな人ではない、と思うのは俺の勝手で希望のような側面が強い。
自分の掌を掲げると真っ黒、裏返しにして甲を自分に向けると毛むくじゃら。毛深さだけ見てもこれだけ違うのだ。今日みたいにふとした時に気付いてしまうのが、辛かった。
「………好きな…タイ…プ……」
好きなタイプに好きなスポーツ。好きな本や映画に好きな食べ物。様々に聞いてみたい事を頭の中で渦巻き、ある一点に辿り着いた。眠気で頭がぼんやりしてきたので、片隅に焼き付けるようにしてその日は眠りについてしまう。
翌日、俺は忘れないうちにアイディアを携帯にメモした。
「おにいちゃん、あさごはんは?」
「昨日の大根の味噌汁と、ちくわと鶏肉野菜炒めウィズ溶き卵だよ」
起き出た玲奈に答えてやる。個人的に今日はパンで一日を始めたかったが、残り物を片付けてしまいたかった。昨日安くて買ったちくわはそれでもまだ冷蔵庫に余分にある。
「パンがよかったなぁ……」
「明日はパンにしよっか。土曜日だし」
俺も玲奈も、母ちゃんも朝は米という拘りなんてない。親父の頑固さと俺達の気分屋、どちらにも困った面はあるが玲奈には我慢してもらう。残り物を誤魔化すために卵とじ、というのは幅広く応用を利かせやすい。喜ばれるのだから、こちらとしても欠かせない食材になっている。
「さて……」
弁当と朝食作りや両親の見送り、家事を一通り済ませてから俺は携帯を取り出す。今回の連絡先は狼塚徹。
【突然だが狼塚。食べ物の好き嫌いってあるか?】
メールを送信して今日の作戦を振り返る。玲奈の茄子克服作戦、自分にできないならば友の力を借りたい。俺の場合は好きな味付けをした料理で徐々に食べられるようになったが、玲奈には向かないようだった。違った考えを聞いてみたかった。
【無い】
俺の作戦は返信を待った十分で頓挫した。
「………」
話の膨らましようがない完璧な二文字だった。献立の参考に好きな茄子料理は?と聞いても、きっと“無い”か“別に”と言われてしまう。予想がついて苦笑し引き下がった。
「うーん……」
となると、章助に聞いてみるか。変化球で狼塚を選んだが外れてしまった。章助も嫌いな食べ物はない筈だが、茄子調理のヒントならある程度は持っていると思う。章助ならメールするよりも電話の方が確実だ。着信履歴から一番上を押して数秒。
「どうした悠登!」
「く……!」
呼び出し音が一回鳴り終えるかどうかのところで章助が叫んだ。あまりに声が大きく一度耳を離したが、すぐに押し付け移動する。会話を玲奈に聞かれて察知されないようにしたかった。
「なぁ章助。玲……」
「なに!それは大変だ!すぐに行く!待ってろ!」
人の話はあまり聞かない男だが、明らかに様子がおかしい。
「おい、どういうつもりだ!」
「えーなになに?悠登と電話?……てめっ、近付………いいから貸しなさい……なっ!」
章助以外の声がして身を固くする。一手を間違えた。面倒でも必要事項をメールにしてリストアップしてもらうべきだった。
「………」
「悠登?悠登なんでしょー?ショウに用事なんて珍しいんじゃない?今から行けば良いんでしょ」
スピーカーから聞こえてきたのは章助の声ではない。更に言うなら昨日も聞いた。
「あれー?返事無いよ?ま、とにかく通話はめんどいし今から行くね!気にしないで、大学生は暇だから。あっはっは!」
そこで通話が一方的に切られた。居間から移動してきた玲奈が俺を見付ける。
「おにいちゃん、でんわ?」
「うん……。俺、今からどこか行こうかな……」
どこへ行くか画策するがアテはない。単なる受け入れたくない現実からの忌避。何も思い付かず脱力して立ち尽くす玲奈は不安そうだった。
「……来ちゃった」
十分も経たず、そろそろと章助が獅子井家に入り、靴を揃える。横には上機嫌そうに口の角度を上げて目を細める実恵。悠登はただその二人を呆然と玄関で出迎えた。
「で、どうしたの?悩みなら聞いちゃうヨ」
実恵の一言に笑みを浮かべる。絶対に、嫌、だと。
「お前……」
かろうじて出た声と共に章助を見る。首の動きが油切れのゼンマイ機械のようにぎこちない。
「すまん。俺だけお前の家に避難する、つもりだったんだが……」
きっと彼も実恵から逃れたかったのだ。歯切れの悪い章助を責めることもできない。弟だからこそ、姉の脅威は一番に知っているのだから。
「玲奈、ディスチャージ仮面観ててくれる?」
「うん……」
心配させないようにいつものトーンで喋ったつもりだが、その前段階を知っているのだから意味はないか。
「俺の部屋……いや、台所行くぞ」
「えー、悠登の部屋に久し振りに入りたーい」
俺は入れたくないの。部屋に入れて棚から妙な本出されたりとか色々危険がある。実恵の意見は無視し、章助と共に台所に押し込む。
「話ってのはなんだ」
「お勉強も恋の相談もお任せ!」
……話したくなくなってきたなぁ。
「玲奈、茄子が嫌いらしいんだ。どうにか普通に食べれるようにできないかなって」
「姉ちゃん、出る幕ないな」
「どういう意味!?」
料理できないだろ、と言っているんだ。しかし、今回は味覚の話だから料理の腕前はそこまで重要でもない。
「……実恵って好き嫌いはどうやって直したんだ」
聞くだけ聞けば満足して帰るかも、と思い話に加える。期待はしていないんだが……。
「うーん。食べたら褒めてくれたから、かな?あとは残さないって常識として教わったし」
こういう時はまともな話もできるんだよな。
「玲奈って残さないようにはしてるんだよな。苦戦するけど」
残しちゃいけない、というのは予め教育されていたか玲奈の責任感か。どちらかはわからないが、だとしたら……。
「褒めるのが足りないのか、俺……」
「それはないと思うけどな」
章助がフォローを入れてくれるが、食べたから褒めた、ということはない。そもそも、茄子嫌いとわかったのも昨日の出来事なのだから。
「ちょっとやってみっか。章助は?」
実恵から聞けた意見も見習うべきポイントはあった。弟がいたから客観的に食事風景を見ることができていたのかもしれない。次はその弟の話を聞く。
「子どもって甘い以外に強烈な味付け苦手だよな?だからカレーとか……」
「あぁ、カレーと麻婆茄子はダメだった。……歯応えが嫌いみたいだ」
説明していなかった部分を補足すると章助は腕を組んで唸り始めた。
「そっかぁ……。でもよ、無理に食わす必要もないんじゃないか?」
食べ物は他に多種多様に存在する。茄子一つなくても人は生きていけるという意見には同意したい。他に美味い食べ物は数え切れないほどにある。
「そうなんだけど……俺の夏休みの目標でもあるんだ、茄子克服」
「悠登は何と戦っているの……?」
質問が地味に突き刺さる。それでも、今は俺がやるしかなかった。
「思ったんだけどよ、悠登はおじさんにニンジン入りハンバーグ食わせたろ?あれは……」
「一見乗り越えたように見えるが、そうしなきゃ食えないんだよ」
今でもハンバーグに添えて出したニンジンを父、譲司は平気で残す。涼が横から取って食べてしまうせいもあるがニンジンは現在も好きではない。
「お前そういう細かいの得意だからって今回も上手くはいかんか……」
「茄子のポタージュは飲んだぞ?けど結局、それでしか食えないから……」
「本当に克服したことにはならないんだ」
チャレンジはしてきたつもりだが、自分の無力さを痛感している。原型を留めた上で何かしてやれないか……。
「簡単にはいかないだろうが……やってみせるさ」
やる気だけはあった。問題は譲司と同じように玲奈が克服する気を持っていないなら伝わらない。少しでも見せてくれたら良いんだけど……。
「ねぇ悠登、アイディア出したからご褒美頂戴!」
次の一手を前向きに考え始めたところに水を差される。しばし迷ったが閃いた。
「ありがとう実恵、助かった。特別にもう、帰って良いよ?」
「酷い!用事が済んだらポイって!」
こういう時だけおだてにノらないのも昔からだな……。
「章助……」
「大人しく帰りなよ姉ちゃん……」
自分は居残るつもりか、と思ったがそれならまだマシだ。まだ何も起きていないのが奇跡のようなものなのだから。
「やだぁ!あ、茄子の話してたらお腹空いてきた!悠登、冷やしチューカ!」
「………」
そう言えば、少し早いが昼時か。材料なら既にある、この二人に振る舞うために用意したものではないのだが。
「………食ったら帰れよ、頼むから……」
「あ、私も悠登に頼みがあったんだよね」
頼むなんて下手に出るべき相手ではない。図に乗って痛い目を見るのはいつも近くにいた者だ。
実恵からの頼みに驚きはしたものの、悠登も章助も応じることにした。過去からの不安は大きかったものの、今までの例に当てはまらないものだったからだ。
これは、自分の力は等身大にしか備わっていないと高校生達が自覚を持つ話。把握した上で、彼らが決断を迫られる話。




