第三部 三章
期末考査からおよそ一月。俺達を含めて市の運動公園に沢山の人が野球を見るために集まっていた。今日は全国高校野球選手権大会、その一回戦が行われる。
既に着替えた俺達に続いて一年生から三年生まで全員が集まっていた。炎天下で試合が始まるその前から汗を流しては日射しに皆が暑いと愚痴をこぼす。
「帰ったら洗濯だな」
自分の法被と袴、制帽を確認して悠登が口を曲げる。放っておけば獣臭さと汗臭さでカオスになることは間違いないから鼻を近付けたりはしない、決して。
「………」
悠登と同じように口を曲げたのが彼の背後にいた狼塚だった。
「げ、もう臭う!?」
「いや、そうじゃない……」
狼塚は言うと制帽を被った。
「そうだ狼塚。今回も頼んで悪いな」
違う、とだけ言って会話を終わらせようとする狼塚に話を振った。前の開会式と違って今日は全校生徒がこの場にいる。人手が一人でも必要だったから狼塚に俺から頼んだ。
「もう初めてじゃないしな、これ着るのも」
狼塚が応援歌を絶叫する様を見た覚えはないが、あれやこれやと言いつつも始まれば協力的だった。応援歌の新入生向け朝練も勢いで言ったが最後まで一緒に付き合ってくれたし。
「似合ってるぞ」
「ふーん」
制帽の隙間から目を覗かせて狼塚は鼻を鳴らした。
「虎澤はどうした」
「アイツなら一年生と野球部の方に行ってる。ほら、あっち」
少し離れているが同じように胴着と袴姿で歩いている章助を見付けて教えてやる。気付いていなかったようで狼塚はあぁ、と声を上げた。
「割と離れてるな」
「今日の章助は太鼓もあるし、有志が少ないからな……」
応援団として参加してくれた有志は二十二人。以前のように一年生だけならまだしも、今回はこの人数で三学年全ての応援を指揮しなくてはいけない。
だが、前に出るのは俺達だけではなかった。試合に出ない野球部の一年生達もメガホン片手に盛り上げてくれる。それだけでも人数は倍以上に膨らんだ。
「さぁ、張り切ってくぞ!まずは勝ってもらわないとな!」
悠登が自分の拳と拳をぶつけ合わせて鼻息を噴出する。喉の調子も上々、これだけ広いと叫び甲斐があるというものだ。
「虎澤に影響されてないか?」
「おいおい、応援団が応援しなくてどうすんだ……」
狼塚には一人舞い上がってるようにでも見えたんだろうか。これではせっかく風船を膨らませるように気合を溜めても、そのまま一気に抜けてしまう。
「それもそうか」
狼塚が腰に巻いていた手拭の位置を直すと俺の隣に立った。その直後、試合開始のサイレンが球場全体に響く。俺達もすぐに動き出した。
「臙脂のぉぉぉぉお!旗ぁぁぁぁあ!」
先攻はこちら。当然、我々の応援は選手がバッターボックスに立つ前から始まっている。今回は副団長が最初の応援を仕切る。こうして一度始まってしまえば間を置くことなどない。ひたすらに、選手が力を発揮できるよう皆で叫ぶ。
「あぁぁぁかき血ぃぃ潮は生命の証ぃぃぃぃぃい!」
その中で一際大きなシャウトが後方から聞こえる。見れば、それは高校生ではない。日焼けした人間のおっさん。他にも俺達と同じ応援の手振りを、生徒以上にきびきびと行う中年獣人達が数人いた。
話したことはないが、彼らは疑いもなくOBだろう。応援団なのか、それとも野球部だったのかはわからない。しかしこうして応援に駆け付けてくれているのはとても心強かった。
「野球部歌!ついてこぉぉぉい!」
“おぉぉぉぉぉぉぉお!”
今回の応援は野球応援ということもあって、開会式以上に俺達がすべき応援は多かった。団長が叫んだ野球部歌もその一つに過ぎない。定番や流行りの応援ソングを金管楽器やアカペラで歌うなんてことはないが、その分バリエーションに富んだ応援を止めどなく選手達へ送る。
試合にそれ程長い時間は掛からなかった。一回戦の結果は六対二でこちらの野球部が勝ってくれた。四回裏で失点こそ続いたものの、危うげなく優勢は保ったと思う。
「おーし、三年生、A組からバス乗ってー」
ベンチを見れば野球部の面々がまだ片付けをしている一方、教師達の先導で三年生からもう球場を離れ始める。両方を見ながら俺達応援団は人が流れていく様子を見守っていた。最初に来て最後に帰るというのも、台や太鼓の片付けがあるので仕方ない。
「こんにちは、獅子井先輩」
一年生の退場が始まったところで、一人の女生徒が俺の前で立ち止まった。
「伊藤さん」
日焼けで鼻を真っ赤にした一年生の名前を呼ぶと彼女は笑顔を向ける。
「やっと気付いてくれましたね。……こっちはすぐ気付いたのに」
前に立って叫んで踊っているライオンは俺しかいなかったもんな。
「こんなに暑いのにお疲れ様」
天気に恵まれたのはスポーツマンからすれば喜ばしいが、女子からすれば日焼けが怖いんじゃないかな。女子が日焼けに対する愚痴を体育祭後にこぼしていたが、今回は日射しの強さがあの比じゃない。手早く終了したと言っても数時間は経ってるし。
「いえ、私暑いのは平気ですから!」
珍しく力強く言った伊藤さんが目と汗を輝かせる。それに俺も制帽の奥で目を細めて笑う。
「そう。……今日はあの子、一緒じゃないの?開会式の……」
伊藤さんと一緒に俺と握手したって女子。確か名前は……。
「ユリならさっき先輩の前を通りましたよ?」
名前を思い出すと同時に伊藤さんが教えてくれた。悪いけど誰が通ったかは気にもしていなかった。
「なら伊藤さんも早く行かないと。バスもあるんだし」
「あ……そう、でした。すみません、失礼します。ではまた」
わざわざ俺を覚えていて挨拶してくれたのは嬉しいけど、このちょっとした会話でも列は進んでいた。しかしすぐに違う女子と話しながら行ってしまう伊藤さんの後ろ姿に安心する。置いていかれる心配はなさそうだった。
「知り合いか」
制帽を脱いで手拭を外しながら言ってきたのは狼塚だった。俺に興味を持ってくれるなんて狼塚の尻尾まで今日もまた一歩、進展したに違いない。
「応援歌練習や高総体開会式の時にちょっとな」
「……後輩と接することってあまりないイメージがあった」
けど、そうでもないんだな。と言いたいらしい。そこまでわかるようになったのは最近だ。
一言多い親父もいれば、逆に足りなくて勘違いされてしまうタイプもいる。
「……そうだと思うよ、実際。部活で毎日顔合わせて話すみたいなことはないし」
言葉を勝手に補完したが話は続けた。一年生達は俺を見ると、たまに挨拶をしてくるがそれは会話にはならない。
「お前、委員会はどこ所属だっけ」
「俺?選管」
狼塚に聞かれると同時に俺も帽子を脱いだ。
♂≡♂
委員会は全員が所属しなくてはならない。その中で何に入るかは当然、各人に委ねられる。
部活に所属していない者から優先して委員会は選ぶように、と担任が宣言したことから悠登は早い段階で選択権を与えられた。
委員会は大きく分けて十。それらを統括する総務委員会や、いわゆる生徒会と呼ばれる代表委員はその上位に当たる。
そことは別に存在する委員会が端っこにある。その名も、選挙管理委員会。悠登は各学年の各クラスから一人だけ選出されるこの委員会、通称選管へ立候補した。
理由は大きく分けて二つ。その一つとして選管は他の委員会に比べ活動期間が非常に短い。図書委員のようにローテーションで当番が来ることもなければ、交通安全委員会のようにイベントで事ある毎に駆り出されることもない。
玲奈を預かる身としては拘束されてばかりはいられない、と考えていたがこれは杞憂だった。後から思えば、もっと遅くに来る親御さんもいるし、委員の集会と言っても数時間なんて稀。選管は期間が短いが拘束時間に関しては長くなりそうだった。
「…………」
因みにもう一つ、俺が選管を選んだ理由。それはいつも横にいるうるっさい大男が組もう組もう、とうるさかったから。そのおかげで今、今年二回目である選管の集会は粛々と進んでいる。
「……えっと」
いや、進んではいなかった。最初の集会で決まった委員長は何をどうしようかおろおろするばかり。静けさも本来の集会にはあるまじき気まずさから来るものだった。放課後の教室は委員長の声が止むと、外で行われている工事の騒音が開かれた窓から盛大に聞こえてくる。
「あ!この前の生徒大会で決まった日程通り、今月の十三日に選挙を行い……ます。それで、司会なんだけど二年生の方から代表を決めてくれないかな……?」
委員長は人間の女子。三年生なのだが、二年生にいるのが男子のみ。そのためかこちらを見る視線はどこか泳いでいた。
「去年って司会も三年生がやってませんでしたー?」
俺の前の席に座っていた二年生の男子が手を挙げて言うと委員長はそうだっけ、と小声で呟いた。今日は担当の先生も別の用事でいないため記憶でしか確認できない。そして俺は、去年は選管ではないので覚えてもいなかった。ついでに言うと、数ヶ月前に自己紹介もしたが委員長の名字や前の彼の名前も。
「えっと……」
困った委員長とたまたま目が合う。何もアドバイスできず俺は頬を掻くだけだった。
「ま、それでも良いけど」
前の男子がそれだけ言うと振り返った。合わせて後ろの男子達も前に身を乗り出す。
「問題は誰がやるよ?俺は嫌だぞ」
「俺も……。面倒だし」
「あ、俺も!」
六人中半数が既にやりたくないと宣言した。俺も含めて残された三人も、言葉にせずともやりたくないと顔に出ている。
「じゃあジャンケンで決めるか。それなら文句ないよな」
俺に言えたのはそこまで。異を唱える者は誰もいない。
「よし、ジャン」
「ケン」
「ほいっと」
負けた。全員がグー。俺だけ……チョキ。
「ぐ……うぉぉぉ……」
わなわなと手が震える。どうして全員がグーを出したのに俺だけがチョキなのか。勝利のVサインは俺の無難な委員会生活を真っ二つに裂いてしまう。
「あ、決まった?それで……ついでに副委員長も決めてもらいたかったんだけど……」
「……それも俺が、やります……」
他の二年生男子からおぉー、と黄色くない歓声が上がった。もう、なるようになれ。
……これが、野球応援の数日前に決まった。話したのは今のところジャンボと狼塚だけ。
「獅子井が司会、か。候補者は集まってるのか」
「まあな。とりあえず一通り、頭数は揃った」
その中にも問題はあるんだけど、それはいつものことだから仕方ない。まずは当面の選挙をどうするかだ。選挙と言っても、テレビの向こうで行われる票数争いを候補者同士でするわけでもない。自分の演説を行い、そこに生徒達が共感してある程度票が入れば当選。話を聞きもせず適当に投票する者も少なからずいる。言ってしまえば形だけ。たまにはそういう立候補者のバトルも見てみたいが。
「残りは本番と開票だな」
反面、堅実にそんな混沌は来ないで、と願う。開票と集計に時間が掛かるだけだ。狼塚とセンター台を運びながら今度の選挙に今から憂鬱になる。
「うちのクラスからは……」
「議長だっけ?そこに平岡さんが立候補してた」
去年から副議長をやってたからその流れで推薦された、らしい。話したこともない女子だけど、保谷さんとは以前席が前後だった。
「そうか」
聞いてみたが興味はない、と顔に書いてある狼塚と階段を慎重に下りる。それだけでもグラグラとセンター台の足が揺れた。グラグラというか、半分はぷらぷらというか。
「団長、センター台って補強しないんですか?こう、電動ドライバーでネジなり釘なり……」
悠登の横で下駄を鳴らし歩いていた団長が階段を下りると、深い鼻息と共に肩の力をゆっくり抜いた。
「俺もそうしたいのは山々だがな。禁止されてるんだ、伝統だからって」
その割にテープで補強されていたり、釘穴のような物が他にも幾つか見られる。古臭さを保ちつつ、補強は最低限ってことか?
「そうだったんですね……」
伝統と言われてしまえばこれ以上は言えない。使用中に壊れたり、怪我人が出ないようには祈っておく。
「君、狼塚君だったか。今回も有難うな」
「いえ」
汗だくで、声をしゃがれさせながら団長が言うと狼塚も軽く頭を下げる。ごく短い返しだが団長は満足げに微笑んだ。
「じゃ、先に戻る。すまんが台は頼むな」
「はい。お疲れ様です」
団長はもう一度深く息を吐くと姿勢を正し、しっかりとした足取りでバスへ向かう。長い髪を揺らして堂々と歩く様は、観戦に来ていた大人達の目を引いた。
「知ってたが夏でもあの服か。暑いよな」
穴が空いてはいるが団長が着ているのは学ランだ。夏は暑く、冬は寒い。
「俺達も人のこと言えないけどな。……舌、出てるぞ」
暑さに堪えているのは団長だけではなかった。狼塚もその一人で、指摘してやるとすぐに舌を引っ込めてしまう。着替えた後にこっそりスポーツドリンクを自販機で買って渡したら、なんと一度だが尻尾を揺らして見せてくれた。……俺がヒートアップしてしまったのは言うまでもない。
『次回、ディスチャージ仮面!』
三十六話の放送を終え、当然始まる次回予告。今回のディオバスタ星人はなんと、フルチャージしたRL・カノンを防ぎきる強度の甲羅を持つ亀怪人。その甲羅を自分で弾丸の様に吹き飛ばし主人公、剣に直撃させたところで話が終わる。久々の二話前後編の構成のようだ。
『俺のエナジーが……底を尽く?』
テレビに映るのは剣が体に包帯を巻いて、ベッドで俯くカット。展開を予想するに負けて一度撤退か。
『剣、新たな力を燃え上がらせるんだ!』
レセプォルガ博士が自分のラボで火花を散らさせながら何かを作っている。
『お兄ちゃんにはあの甲羅の再生力を超えるエナジーが要る!』
『そんなもの……あるかぁ!』
再びディスチャージ仮面と怪人の戦闘シーンの一場面。剣が倒され踏み付けにされながらキャメロンと怪人の会話が繰り広げられる。
『たとえ牙が折れようと……俺は負けない……っ!』
それで終わるかと思いきや、最後に映ったのは見たことのない姿のディスチャージ仮面。下のサブタイトルには“新たな牙!ケルベロスフォーム!”と書かれている。
『燃やせ、猛獣の魂!』
そこでナレーションの叫びが入り、今回の放送が終わった。提供が流れ、CMに移行する。
「「お、おぉぉぉぉ……!」」
テレビの前に座っていた玲奈と章助が同時に声を上げる。俺はそそくさと朝食の準備に取りかかるため立とうとした。
「あぅぅうんっ……」
俺だけ感嘆ではない妙な声を出して力が抜ける。
「……玲奈、尻尾NG」
「だって!おにいちゃん!ケルベロス!」
悠登の尻尾を無遠慮に掴む玲奈の手が放れる。興奮の冷めない幼稚園児は、章助の肩を叩きながら満面の笑顔を見せた。
「そうだぞ悠登。ケロベルスだ」
「ケルベロスな」
紛らわしいが指摘してやると章助は口を曲げた。もう章助が日曜朝に俺の家に居ても驚かない。俺が寝坊すると玲奈が鍵を開けて章助を中に入れている日もあったくらいだ。
「ケルベロス、ってなに?」
「あー、ケルベロスってのは玲奈ちゃん、犬のお化けみたいなもんだ」
もっ回予告を再生だ!と言って章助が早速リモコンいじる。章助の相手を玲奈に任せて今度こそ朝食の準備に取り掛かった。
「ディスチャージかめん、イヌになるの?」
予告を何度か再生してから今度は頭から復習。玲奈は負けそうになっている場面を繰り返し観るのは少し辛い、と実は言っていた。だから今回は後味悪い一週間になりそうだと思う。
「前から犬っぽい仮面だったしな。なぁ?」
とりあえず目玉焼きとベーコンを焼いて昨日の残った白米と一緒に出す。章助も待っていたと言わんばかりにテレビから背を向けた。
「確かに動物だと猫よりは犬っぽかったな」
味噌汁も並べて座り同意する。仮面のデザインは人の顔に合わせたものではなく、若干面長だった。俺や章助みたいなネコ科の獣人が被ってもまだゆとりがありそう。
「はい、玲奈」
「いただきます!」
黄身に醤油を垂らして玲奈も一度テレビから目を離す。俺も口に米を運び、平日より遅めの朝食を始めた。
「……とと」
急に玲奈が目玉焼きの皿を傾けた。何をしているか見ていると、醤油に満遍なく浸けたい
みたいだった。
「玲奈ちゃんは醤油好きだよなー。マヨラーよりは良い、のか?」
「どうかな……」
高血圧とか、腎臓に負担が、とか不安はある。でもそれを言い出したらキリがない、かな。好き嫌いを克服できればまずは好きにさせよう。
「しろみおいしい!」
「白身?」
玲奈の皿を見る。思えば玲奈はいつも黄身を最後に食べていたが、好物で残していたわけじゃない?
「……子どもって白身好きだよな?俺も小さい時はそうだったし」
「そうか?俺は今も白身の方が好きだぞ」
章助がベーコンを舌に敷き、米を一気に放り込む。止めろと言っているが完全に癖になっていた。
昔は俺も卵は白身の方が好きだった。黄身のパサパサ感が嫌だったからだと思う。……今思えば、それは親父が焼き過ぎていただけなのかも。
「玲奈、黄身は嫌い?」
「え?ううん、どっちもすき!でもしろみいっぱいたべたい!」
反応を見るに我慢はしていない。そうそう、俺も白身ばっかり食べたいって言ってた時期があった。
「卵一個じゃどうにもならんよなぁ。悠登、次はガンガン焼こうぜ」
「人ん家で飯食っておいてどの口が言うんだ」
「硬いこと言うなよ。あ、半熟くらいの柔らかさがやっぱり一番だな」
遠慮する気は一切ない、と。毎月楢原さんの家を掃除する時はその分働いてもらっているけど、リクエストまで応える気はない。こっちにもこっちの冷蔵庫事情があるんだ。
昼前までは繰り返しディスチャージ仮面の考察。次回を中心に今後の展開を予想して議論が加速していく。章助の予想だとディオバスタ星に剣が乗り込んで星人を全滅させる。俺の予想はまず地球に来た怪人を全部倒せばそれで終わる。どちらが正しいかはわからないが期待は膨らんでいた。
「今日は帰っかー。邪魔したな」
新しく通販で買ったというプッシュアップバーで一通り筋トレもして章助は帰ろうとした。そこに玲奈が俺の服を引っ張って呼び止める。
「おにいちゃん、しょうすけのおにいちゃんにもおてがみ」
「手紙って……アレか」
会話が聞こえたのか章助が耳をこちらに向けた。
「イベントか」
「そんなとこだ。ほい」
前から壁に貼っていた手紙を取って章助に渡すとすぐに目が動き出す。
「夕涼み会?あったな、こんなの!」
「来るか?再来……」
「行く!」
即答されてしまった。再来週末だけど、と言う前だがそれは手紙で把握してるか。
「やったぁ!」
玲奈は章助も来てくれると知って喜んだ。俺もまず間違いなく来るとは思ったけど。
園児達は浴衣や法被を着て、親達で縁日の模擬店のような真似をする。ちょっと早めの夏祭りだ。親父も母ちゃんも今から張り切っている。
「よぉし、これで新しい楽しみができたな」
「……その前に俺は嫌なことがあるんだけどな」
手放しではしゃげない俺に章助が首を傾げた。
「選挙、今度の金曜なんだよ」
「立候補したわけじゃないんだろ?気楽に行けって」
章助には詳細を言わなかった。下手に励まされ掻き回されないように。司会なんてこと宣伝されてたまるか。
↓≧↑
「……以上で、生徒会役員選挙立会演説会を終わります。信任投票用紙に、信任か丸で記入の上、投票をお願いします。不信任の場合は無記入でお願いします」
やってみると、司会はやることが少なかった。悠登は普段、マイクを使わないで叫ぶ機会が多かったため声量調整の方が大変だった。自分でも思ったより地声が大きいとスピーカーを通して気付く。
そこで声に気付いて、主に二Cの連中がざわついた。整然と着席していた筈が、司会の俺を探して頭が揺れる。わざと下を向いて目立たぬようにしたが遅かった。
「ありがとう獅子井君。副委員長だけじゃなくて司会まで……」
「いえ、委員長も。最初の議事説明とか長かったし」
マイクの電源を切ると隣にいた選管委員長が話し掛けてきた。生徒達も投票をどうするかでがやがやし始める。選挙なのだから意見は自分の考えだけで良いが、気がすっかり緩んでしまったらしい。それは悠登と委員長にも言える。
「ごめん、ちょっと緊張してダラダラ喋ってたよね……」
最初で最後の大役が委員長が行う投票上の注意説明。もちろん原稿は用意していたようだが、俺と違いステージの上で皆の前に立ってそれを読む。緊張していたのは誰の目にも明らかだった。途中から顔を赤くし、原稿から目を離さないでいた。
「それは他の立候補者も同じじゃないですか?」
今回名乗りを上げた面々は去年から続投する意気込みの者も多い、と思いきや違った。引き続き、というのは議長や書記以下。だからこそ真新しさはある。
「そうかな……。私には皆が堂々として見えたよ。前に立つなら獅子井君の方が良かったかも」
「俺、ですか?」
どうして俺が、と思ったが委員長の表情が強張った。
「あれ、応援団……じゃなかったっけ」
あぁ、そういうことか。
「知ってたんですか」
「合ってた?良かった……。そりゃあ、目立ってるもん。前に立つのは慣れっこでしょ?」
場によりけりだと思う。俺だってマイクの前で全員に向かって公約を宣言するなんてなれば、竦んでしまう。
ただ決まった応援を相手に叫ぶのではない。自分が学校をより良くするための考えを持って、相手に賛同してもらう。それがどれだけ難しいことか。あの人が緊張してたと笑うのは簡単だが、演説を皆の前でやってのけた彼らは尊敬できる。……選管をやってたからで、ただクラスの男子連中と聞いていたら俺も笑う側だったかもしれないけど。
「そうはいきませんよ。全員の前で公約を言って、更にウケまで狙うなんて慣れてたらテレビのアイドルです」
それが問題となったのはこの数時間後だった。
「あれ、この人……票、足りなくね?」
選挙後に何が行われるか。当然、開票である。それをするのも選管を置いて有り得ない。悠登達は放課後の情報処理室に集まって黙々と集計していた。
各学年に分けてそれぞれの票を数える。信任されているかいないかなので、無記入を数えた方が手っ取り早かった。話を聞いていなかったのかバツ印や三角印をふざけて書いた票は無効票、として保留にされる。
その中で一際不信任が多い人物が一人。生徒会議長立候補、二年A組牛山武さん。黒毛が艶やかで、白い角やワイシャツで見事に白黒コントラストな牛獣人男子だった。二Fの委員が沈黙を破ったように、確認すると票が……足りない。
「……足りない、な」
数を確認して俺も言うと二年の選管が騒然とした。
生徒会会則には三分の二の承認で当選、ということらしい。今日は六百九十六人登校しているから単純計算で四百六十四票要る。
「あのアホ牛……」
電卓を叩くと四百六十二票。……やっぱり、足りない。二Aの選管はこの結果を見て苦笑していた。
「ミスかもしれない。数え直そう!」
三年生が慌ててもう一度投票用紙を掻き集める。その作業に悠登もすぐに切り替えた。
「あれ……」
十分程度で再計算。結果、四百六十票。……減った。
「なんで減るんだよ!」
「俺が知るか!」
「もう一度だ!」
……四百六十二。
「………」
「………」
数度集計したが結果が総票数の三分の二を上回ることはなかった。
「あの人の演説、目立ってたもんね……」
「えぇ……」
委員長の溜め息に先程の立会演説会を思い出す。そうすればこの票も頷けてしまった。
覚えている範囲で回想すると、
“俺が!いえ、僕が生徒会議長に立候補したのには理由があります!
それは!可愛い彼女を作るためです!生徒会の議長になって!僕が議事を上手にリードします!まるで君とのデートのようにね!
今まで先輩方も懸命に議事を進め、学校生活の改善に努めてこられたと思いますが!
それを僕が!この牛山が!より!良く!しまっす!”
……みたいなことを言っていた。その後も好みのタイプと公約をぐちゃぐちゃに混ぜながら、時間ギリギリまで喋っていたと思う。俺は次の立候補者にどう渡すか考えていたから最後まで傾聴はできてなかった、かも。こういう人なんだな、って思ったし……。
掴みというかウケは良かった。照れつつも自分の意見を主張する彼の話を、皆が笑いながら聞いている。こうした聴衆を引き込む演説をしたのは彼だけだったのは間違いない。内容が内容だけに、聞いた上でこの結果なのだろうが。
「……盛る?」
委員長が俺を見上げながら心細そうに言った。その仕草と一言に驚いたが、頷く。
「それしかないでしょうね……。無効票の何枚かとか、欠席者の分も合わせて……」
こんな数票でも結果は有か無か。落選とし、今から別の候補者を募ってはいられない。足りないが、ほぼ三分の二と全員が自分へ言い聞かせる。この事件は秘匿とし、居合わせた者の胸の中に仕舞い込まれることになった。
「終わった終わった……」
胸にもやもやは残ったが選管の仕事が終わった。俺の一年間の委員会活動はこれで幕を閉じる。事件が情報処理室で起きてしまったが、これなら来年もやって良いかもな。……委員長は勘弁したいが、来年もジャンケンならパーを出してみよう。
「……あ」
「あ」
一度戻って鞄回収。その後、少し遅くなったが幼稚園へ玲奈を迎えに行く。そのつもりで教室に入ると保谷真衣が一人でいた。
「……どうしたの?」
「新しく買った筆を教室に置き忘れてて。先週から入れっぱなしだったんだよね」
言って保谷さんは自分の机から筆を取り出し、ひらひらと見せてくれた。そうだ、書道部って前に聞いた。
「獅子井君は?」
「俺は選管でさっきまで開票とかしてた」
真衣の質問に答えながら机脇に掛けていた鞄を手に取る。
「そうなんだ……」
「うん。じゃ……」
会話が途切れ、二人だけの教室の影が濃くなった。陽に雲が掛かったらしい。
悠登は以前、大ホール横で真衣が言いそびれた“何か”が気になっていた。しかし、それを聞けずにもう一月近い。
あの日以降、なんとなくだけど保谷さんに避けられている。桑野さんが間に入っている時でもどこかで話を区切ろうとしている、と感じるのは思い過ごしかな。
だったら獅子井君、私とつ……
つ。……付き合って、とか……?まさか。自惚れも甚だしい。一度思って頭を抱えた。保谷さんみたいな可愛い女子に自分が迫られるなんて。
そんなことを考えたり、考えなかったり。桑野さんに聞くと遠回しに、怒鳴るような真似をしてごめんと言伝を頼まれたらしい。だから俺も気にしていないと伝えてもらった。それで丸く収まったと思ったら今みたいにギクシャクしている。寧ろ最近の保谷さんは狼塚と話す事の方が多いくらいだ。
「あ、あのさ」
「え」
教室を出ようとしたら声がした。振り返ると保谷さんが俺の方を向いている。
「途中まで一緒に帰らない?筆、書道室に置いたら帰ろうと思ってたし」
保谷さんの方から誘われて目を丸くする。
「あぁ、わかった……。じゃあ、一緒に」
意外だったけど了承して、書道室へ向かった。
「書道室って靴脱ぐんだね。知らなかった」
「旧校舎はただの物理室だったんだけどね」
夏至が過ぎても陽は長い。少しずつ染まり始めた青と橙の空の下、真衣と下校。書道部に部室が無かったのは知らなかった。
「てことは授業も……」
「………」
思い付きを尋ねようとしたが真衣は辺りをキョロキョロと気にしていた。
「保谷さん?」
「あ、ごめん!なんだっけ……」
再度話し掛けるとこちらを見た。完全に上の空だったらしい。
「授業も物理室でしてたのかなって。誰か探してるの?」
話題を保谷さんの方に変えることにした。驚かせたのか保谷さんは口を引き結ぶ。
「えっと……」
「もしかして桑野さんを探してた?」
彼女が見ていたのは部室棟の方だ。それで保谷さんと面識ある運動部の知り合いと言えば桑野さんを思い浮かべる。
「あ、そうそう!もしかしたらまだいるかなって」
気にして言うが保谷さんは歩みを早めた。校門を出てしまえば振り返ろうともしない。
「でももう帰ったみたいだし、いいよ。特に用事もないし」
本当は桑野さんと帰りたかったんだろうな。できるなら一緒に、とは思ったが俺も玲奈を迎えに保谷さんとは別方向に行かないといけない。
「そうか……。獅子井君、そっちだもんね」
「まぁね」
電車通学組なら方向が一緒だが、真衣は違う。真っ直ぐ帰れば一緒だが、今日に限って章助も先に帰らせていた。
「あの……先月はごめん。直接謝ってなかったな、って。それは言っておかないとダメかなと思って」
「……俺もごめん、配慮なかったっていうか」
交差点で立ち止まると真衣がこちらに向き直った。自分が丁度気にしていた話題を振ってくれて、有り難さと申し訳なさが込み上げる。
「この前の事は色々忘れてくれると嬉しい、かな」
「わかった。……じゃあ、なかったことに」
口に出して良いか迷ったが言うと、保谷さんはホッとしたようだった。
「ありがとう、また来週。お迎え頑張って」
「うん。……あ、保谷さん」
真衣が悠登から一歩身を引いた時、つい呼び止める。別件で思い出した事がある。
「どうしたの?」
「今度幼稚園で夕涼み会があるんだけど、興味ないかなって」
仲直りとは違うけど。何か掴めないかと思って試しに誘う。今日話し掛けてくれたお礼に。
「章助は来るんだ。狼塚にも来れないか話してみるつもりだし」
そうは言っても、やっぱり幼稚園の行事だ。露店も子ども騙しだし、時間も限られている。ましてや保谷さんに弟や妹がいるわけでもない。
「……明も行くなら、どうかな。前みたいにさ」
しかし条件付きだが検討してもらえそうだった。
「なら桑野さんにも言ってみる。暇なら来てよ」
口にしてから固まった。自分から桑野さんを誘うなんて今の俺にできるか?勉強会の時はあちら側に信念があったけど。
「うん、わかった。じゃあね!」
固まった隙に真衣は話を満足で完結させて行ってしまう。保谷さんから話しておいて、なんて思い付きもしなかった。それだけ頭が一つの事でいっぱいだったんだけど。
真衣の背を見送って横断歩道を渡りながら悠登は明への招待文を考えた。いつも行っていた夕飯の献立決めは帰宅してからやっと思い出す。夕飯作りに手間取って玲奈や譲司、涼の腹が切なく鳴り響いたのは不可抗力だった。
「突然ごめん、今度の週末の夜って何か予定ある?……これが無難か?」
向こうの都合もあるし。一方的に来てね!と言うのは図々しい。……章助には来い、の二文字だけ送った事もあるけど。
夕食も入浴も終え、居間で携帯と睨めっこ。相手に送信するメールの添削を繰り返す。
「いや、こんな相手の様子を伺うことに重点を置いてもな……」
こんな感じをかれこれずっと繰り返している。夕飯と風呂では切り替えていたが、そのためにアイデアが再び沈んでしまった。
「夕涼み会を先に……こっちの言いたいことを先に伝えるべきか?桑野さんの回答を待つべきか……」
いっそ、来週会ってから聞いても……。そうか、この土日の間に予定が入ったら出遅れて誘えた筈が駄目になる場合もある。
今夜中には。それだけは譲らない気でいた。だがこうしている間にも時間だけが過ぎる。
「さっきから何をブツブツ言ってるのかなー?」
背後から聞こえた声に携帯を動かす手を止めた。
「あれ?止めちゃうの?ケータイ依存症に苦しむ若者の病状をチェックしようと思ったのに」
声が近付く。俺は無視して閉じていた教科書を開いた。
「無視しないでよ。ふふふ、さ、お医者さんごっこの時間だぞ……。悠登に悪さしてる場所はここかな……?」
「ひ……っ!」
背後から回された腕が服の変な所に入り込む。その感触に堪らず、俺は持っていた教科書の角を後ろにいる人物に叩き付けた。
「やって良いことと悪いことがあるだろ!」
「ぐぉ!……ぐおぉぉ……」
振り返るとパンツ一丁でタオルを首からぶら下げた父親が悶絶している。
「痛いよ……。悠君のやったことは悪くないわけぇ?」
額に上手くぶつけられたらしく、そこを押さえて起き上がる。やはり弱点は体の中心線沿いに集中しているな。
「仕掛けてきたのはそっちだろ。俺のは正当防衛」
「あ、知ってる!そういうのカジョーボウエーって言うんだ!」
懲りない男だ、と教科書を再び持つ。すると首を横に振った。今回のは効いたようだ。
「俺はただ悠登に構ってほしかっただけなのに……」
半裸で息子に迫る父親がどこにいる。
「真夏に男同士で絡み合ってなにすんだよ……」
「それは言えないな」
言えないような真似をするつもりならタダでは済まさんぞ、と睨む。すると父、譲司はタオルを首から外した。
「暑くて飲み物取りにきたら、悠登が独り悩んでるみたいだったからよ。手助けしてやろうと思ったわけ」
足を伸ばしてくつろぎ出すその姿に、協力したいという姿勢は少しも伝わらない。
「気持ちだけ受け取るから部屋戻りなよ。母ちゃん待たせてるんだろ」
言って背を向ける。直後、俺の肩に親父の顔が圧し掛かった。
「手助けはできなくてもさ、何してたわけ?俺の好奇心が刺激されて辛抱できんのだけど」
ニヤニヤしながら尚も踏み込む譲司の鼻にペンを突っ込もうかと考えたが武器は反則だ。教科書を使ってしまったという部分は反省する。
「メールしようとしてただけだ。大したことじゃない」
わかったら部屋に、と続ける前に悠登の背筋が冷えた。実際は譲司の温もりで暑苦しいぐらいなのに。
譲司が静かに悠登の携帯に手を伸ばしていた。それに気付いて慌てて退けると共に取り上げる。
「な、なにしてんだ!」
「なんだよ、章助君とケンカしたんじゃないのか?それなら協力できると思ってよ」
父の介入を前に、すかさず携帯を点けて指を縦横無尽に動かす。その指捌きに機械が追い付かないぐらいに。
「こうして……あぁ、間違った。こうで、ほい!送った!もういい!解決した!ありがとーさん!」
送信完了の文字を見せる。これで良い。しかし親父の表情に影が宿った。
「なんて書いてたか見たかったのに……」
「やっぱり自分が楽しんでただけじゃねぇか……!」
親父が胡坐でニッと笑う。
「自分が楽しくないと、何をやっても上手くいかんぞ。悩むより、やってみろってな」
「………」
言ってることはわかるが、それで俺をおもちゃにされては敵わん。どう返すか考えている間に携帯が震える。メールの着信だった。
「お?どうした。仲直りか?」
画面を見て数秒。消してポケットへしまった。
「……ケンカしてないっての。もう、寝る。ここにいるなら電気消しといて」
課題を持ち上げ部屋へ向かう。取り組むのは明日か明後日でも良い。
「あいよ、頑張りな」
父の言葉を背に、部屋へ入った。玲奈は既に静かに寝息を立てていた。
「……」
ベッドに横たわり、もう一度携帯を点ける。送ったメールの確認から。
【今度の週末、幼稚園でイベントがあるんだ。良かったら付き合ってくれないかな?】
それに対する返信。一分二分の間の出来事だった。
【良いよ!月曜日に詳しく教えて!】
間違いなく桑野明から送信されたものだった。勢いで打って、送信してしまったメールだったがすぐに快諾される。嬉しさに悠登の口元は緩々になっていた。
「やった……!桑野さんとまた休みに会える……!」
静かに、網戸越しに窓の外から聞こえる虫の泣き声よりも小さいくらいに囁いた。繰り返し見てはそれが嘘ではないと確認し、悠登は携帯を握ったまま眠りについた。




