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第三部 二章

 十幹第一高等学校、第一期期末考査。この高校には一般的な中間テスト、期末テストという概念はない。一年を四期に分けて各期末に考査を行い、最終的に各教科で平均点が赤点より下回っていなければ進級できる。仮に今回の成績や順位が悪くとも後から追い上げできる。平均が四十点以下にならないように、というだけならば三期まで頑張り四期はその教科の勉強を捨てるという選択肢もある。これは極端な話なので進級できても後で後悔するだろうが。

 その初っ端、二学年最初に訪れた期末考査の範囲の広さや難度に二年生のほぼ全員が絶望した。範囲表の横に各教師が“最後の応用も基本がしっかりしていれば解けます。”なんて書いているが基本を網羅するだけでもどれだけハードルが高いか。しかも彼らは、我々が他の教科の勉強もしなければいけないという部分に関しては綺麗に目を背けている。

 かろうじてマシなのは、平均点が低い教科は平常点を盛ってくれるところだ。テストができずとも提出物を完璧にすることで追試をうやむやにしてしまうことすらある。それが去年のある虎澤君の試験対策だった。彼にテストで良い点を取ろうなんて気はない。あるのは早く提出物を出さなきゃ、という未来への希望だけだった。曰く、俺に課せられた試験は考査期間後から始まる、とのこと。

 「テスト終わってから稼げる平常点ってどんだけあるんだか……」

 遠回しに少しの平常点で赤点を回避できる程度は取れよ、と言ったが確実に伝わっていない。得意不得意が綺麗に分かれている章助は一期から取捨選択を済ませているようなものだった。

 「平常点で点が倍、はないと思うけど……」

 図書室で正面に座る桑野さんが俺の隣でノートを読み返している章助を見る。

 「学年全体で悲惨な平均とかにならないと、だよね」

 玲奈の迎えまでは時間がある。考査期間中は職員室に入れないのはもちろんだが、校舎に長く留まることも許されない。しかし少しで良かった。校舎に居られる十四時までを図書室で過ごせればそれで十分良かった。

 放課後の図書室は期末考査期間ということもあってかそれなりに人がいた。普段は前を通って中を見ても、人なんてほとんどいなかったのに。人が多ければ多い程、その弊害としてどうしても騒がしくなってくるが、それでもたまにヒソヒソとした話し声が聞こえるぐらい。悠登達からしても少しは話したかったのでそれは好都合だった。さすがにユキヒョウ男子と人間女子の一年生図書委員しかいない場所で好き勝手に話そうとは思えない。図書委員達からすれば今のこの空間は少しうるさいかもしれないが。

 「狼塚や保谷さんには内緒なんだよね?図書室で鉢合わせとかってないの?」

 以前出されたライティングの課題を読み返す。ここから十五点分そのまま出す、と今日のテスト前に先生が予告した。そのためダメ押しに見直し。少しでも明日見覚えがある、と思えたらラッキーだ。

 「トォちゃんが図書室で勉強なんて有り得ないよ。真衣は真衣でさっさと帰るって言ってたし。私達のクラスで居残りしてるなんてこの三人くらいと……」

 桑野さんが図書室の奥の方を見る。俺も振り返って扉から離れた席へ目を向けると端で男子二人、江川と妻鹿が黙々とノートに何か書いていた。

 「あの二人って仲良いんだ?」

 鹿獣人の妻鹿と人間の江川、高校で初めて知り合ったらしい。二年になってから休み時間はよくつるんでいた。クラスメートはあの二人しかいない。

 「江川がよく妻鹿に一昔前のオススメ漫画とか貸してるらしいよ」

 かくいう俺も江川から漫画を借りたこともある。確か犬のお巡りさんが動力源に子猫を吸収する衝撃的なロボに乗って幼馴染を止めるってやつ。

 「アイツ、妻鹿をセンノーする気だな」

 「物騒な表現すんなよ」

 洗脳とか言いながらも章助はどこかにやにやしている。考えてみると俺もコイツの通販アイテムに振り回されてる感は否めない。知らず知らず、徐々に浸食されている俺も他人事ではいられないかも。

 「私あんまり漫画とか読まないんだよねぇ。テレビだって一日にそんなに見ないし」

 「はは、ぽいね」

 桑野さんが溜め息交じりに呟いた一言に思わず笑ってしまった。桑野さんは屋内で漫画とかテレビを見ているよりも外で遊んでいるイメージがある。

 「獅子井君の家って玲奈ちゃんがテレビの主導権握ってるんでしょ?」

 主導権というかリモコンというか、レコーダーは実質玲奈専用機だ。

 「だから悠登はディスチャージ仮面しか見ない、今や立派な特撮オタクさ」

 「その呼び方は止めろ……」

 章助から与えられた称号は、俺ではなく玲奈にこそ相応しいものだと思う。それを桑野さんは知らずに笑っている。

 「ふふっ、獅子井君も玲奈ちゃんも外で遊ばなきゃ。テレビばっかじゃ健康にも悪いし」

 図書室なのも考慮してか笑いを押さえる桑野さん。その声に耳をもっと澄ませたかったがそうも言っていられない、図書室では静粛に。

 「外で遊ぶ前に頭を働かさないと」

 言うと章助が横にしていたペンを立てた。

 「俺、この考査が終わったら玲奈ちゃんとたっぷり遊ぶぞ」

 「お前の試験は考査後から始まるんじゃなかったのか」

 「言ってたよね。終わってからがどうとか」

 俺の指摘に桑野さんも同意してくれる。章助は声を詰まらせると一度咳払いをして笑顔の牙を見せた。

 「……獅子井君、桑野君。そうお喋りばっかりしていると試験で良い点を取れなくなるぞ?」

 「はいはい」

 誰が一番危ういんだか、と思いつつもやる気になってくれたのなら、その気を削いではならない。章助の口の端がひくついているのをわざと見逃して勉学に戻る。


 三人で予定通り、十四時になる少し前には下校する。図書委員の二人がそわそわしていたが他の利用者は時間ギリギリまでいるのだろう。俺達だけが出て行ったところで戸締まりはできないだろうが図書委員は少しホッとしていたように見えた。

 「玲奈、今日は早いから喜ぶかな」

 「お兄ちゃんと早く帰れるー!って?」

 玲奈の真似のつもりだろうか、悠登と章助の後ろを歩く明が声を普段より高くして言ったがあまり似ていない。悠登が苦笑するとすぐに明は目を丸くした。

 「あれ、似てなかった……?」

 「いや……ちょっと似てたかな」

 少し後ろにいるのにすぐ自分の表情がバレた。そんな露骨に変顔していただろうか。

 「ちょっと、か。もっと練習しなきゃね」

 あんまり似てはいなかったけど桑野さんにお兄ちゃんと呼ばれるのは嬉しいような、もっと身近に思ってほしいような。

 でも、それはダメのような。……これ以上は止めとこう。

 「桑野までこっちに来て良かったのか?」

 話題を変えるように章助が桑野さんを見た。気付くと前は分かれた横断歩道も過ぎて幼稚園の方へ来てしまっている。

 「あ、本当だ。ごめん桑野さん……」

 「ううん、来ようとしたのは私の方だし。寧ろ邪魔かな?」

 邪魔と聞いてすぐに首を横に振った。今回はブラッシングもしっかりしたから抜け毛の心配はない。

 「そんなことは。だけど時間とか大丈夫?」

 「ちょっと遠回りしてもいつもよりずっと早く帰れるもん、時間はあるよ」

 今から帰ってもまだまだ陽は高い。幼稚園にこんなに早く着けたのは初めてだ。地区予選の時と違い他の園児達とも一斉に帰れる。

 「きょう、はやい!」

 周りに他のママさんがいる中に制服姿が三人。視線が気になったが玲奈は無邪気に喜んでくれていた。

 「あ、おねえちゃんこのまえの」

 「明だよ、玲奈ちゃん」

 俺と章助だけでなく桑野さんも発見して声を上げる。名前は俺から教えたけど改めて名乗ると玲奈は頷いた。

 「しってる!」

 玲奈の返答に桑野さんが微笑む。章助は辺りを見回していた。

 「キョロキョロしてどうした」

 悠登が聞くと章助は一瞬耳を畳んだ。

 「いや、狼塚の弟……トモユキ君?いないかと思ってよ」

 言われて俺も見回した。周囲を駆け回る園児、それに翻弄されず談笑する母親達の中から狼塚の弟を探すがその姿はない。

 「あ、知君ならバスじゃないかな」

 桑野さんが話へ入る。それを聞いたと同時に幼稚園の奥から聞こえていたエンジン音が遠ざかっていった。

 「そうか、狼塚や桑野さんの家ってそれなりに距離あるしね」

 「真衣とトォちゃんを挟んでいつも奥に座ってたんだ。たまに違う子達がいると悔しかったなぁ」

 玲奈もコクコクと何度も頷いて知幸君がバス組だと肯定する。

 「猫垣先生もバスで行っちまったってことか?」

 「かもな」

 俺達が普段会ってる猫垣先生はバスで園児を送り届けた後らしい。今日会ったらきっと期末考査の思い出を聞いてもいないのに語ってくれただろうに。

 「じゃ、帰ろうか玲奈」

 「うん!」

 じわじわと暑くなってきているがそれでも玲奈は迷うことなく俺の手をしっかり握った。玲奈の手はこちらよりも少し冷たいが、この子からすれば熱いと思う。

 「桑野さんは知幸君に会いたかったの?」

 先生もいない、たまに話をするママさん達もいない。ましてやテスト期間中だ、俺達はそそくさと幼稚園を後にして帰路に就く。

 「あぁー、知君も可愛いもんね。トォちゃんと違って」

 さらりと言っているが狼塚が聞いたら……いや、アイツなら気にしないだろうな。

 「でも今日は玲奈ちゃんと話そうかなって」

 桑野さんと玲奈、という組み合わせは考えたこともなかった。すぐに俺とは逆隣になって玲奈の顔を覗く。

 「この前はあんまり話せなかったよね。今日は私達帰り早かったから、ちょっとでもお話できないかなって」

 玲奈を少しでも気にしていたのだろうか。あの日は確か玲奈が俺の背中で寝てて、俺の頭に桑野さんが触って……。

 「めいおねえちゃんはおにいちゃんよりあしはやいんだね」

 悠登が違うことを考えている間に玲奈の方から明へ話題を投げた。

 「最近は腕っ節ばっかり鍛えてたから、あれでも劣化してるんだけどね」

 そう言うが俺や玲奈を引っ張ってあれだけ力強く走れるなら十分だと思う。それに玲奈の言う通りだ、桑野さんの方がきっと足も速い。

 「あれで本調子じゃないとか桑野は何を目指して戦ってるんだ……」

 「その言葉はお前に返すぞ」

 章助は桑野さんを恐れているようだが、部活で汗を流しているわけでもない章助がそんなに肉体を苛めて得た筋肉で何をどうするのか。追究せずにはいられない。

 「俺?俺は悠登の守り神に決まってるだろ」

 親指を立て、にっこり笑って章助が俺にウインクして見せる。

 「お前みたいな神がいるか!」

 俺は怒鳴るが玲奈は俺の手をくいくい引っ張った。

 「いいなぁ」

 「……そう?」

 玲奈からすれば羨ましいようだが共感できない。こんな守り神、いてもかさばるだけだ。

 「じゃあ玲奈ちゃんは悠登に守ってもらって……玲奈ちゃんが桑野を守れば良いんじゃないか?」

 「がんばる!」

 「よろしくね」

 妙な着地点になってしまったが人間女子二人はそれで満足している。この二人の間に好意的な何かが芽生えたというのなら良いのだが。

 その後も桑野さんと玲奈の会話は続く。玲奈は積極的にディスチャージ仮面の話をしているのだが、桑野さんは内容を知らない。だから無難に反応しつつもRLエナジーって何?と尋ねて玲奈の口から作品概要を引き出す。幼く表現は拙いながらも各話、各用語の造詣の深さには横で聞いている俺でも唸る程だった。

 「玲奈ちゃんはディスチャージ仮面博士だねぇ」

 「えへへ……」

 ここで博士という単語からレセプォルガ博士について語りだすかと思いきや、褒め言葉は素直に受け取ってこちらが安心した。

 「あ、私こっちだから」

 話もキリの良い所で桑野さんが立ち止まる。玲奈が俺から手を離すと今度は桑野さんの手を取った。

 「いっちゃうの?」

 「玲奈……お姉ちゃん困っちゃうだろ」

 良い話相手が見付かった、と思っているのだろうか。でもこれ以上は桑野さんに迷惑が掛かる。もう少し一緒にいたいのは俺も同じだけど。

 「また、テスト終わったらお話聞かせてよ。ね?」

 「……うん」

 玲奈の目線まで屈むとそっと桑野さんが頭を撫ででやった。この短時間でかなりなついたようだがその分寂しそうでもあった。

 「じゃ、獅子井君。テスト勉強付き合ってくれてありがとう」

 立ち上がった桑野さんが俺に笑顔を向ける。

 「俺の方こそ勉強になったよ。……狼塚達より良い点取れるといいね?」

 「取ってみせるよ、ここまで獅子井君と縞太郎君に手伝ってもらったんだもん」

 空元気かもしれないが自信は感じられた。

 「桑野なら大丈夫だって」

 「お前は人のこと言える成績じゃないだろ……」

 章助の太鼓判だが人の心配をしている余裕が彼のどこにあるというのか。長所だけで短所を補おうにも今のままでは少し足りまい。わかっているのか悠登の指摘に牙を剥く。

 「ひっでぇ!俺の成績低く見積もり過ぎだって!」

 「あはは、じゃあまた明日ね!」

 まだまだ言い足りなそうだったが桑野さんが帰るから、章助はそれ以上言わなかった。

 「うん」

 「おぉ、じゃあな!」

 「またね!」

 玲奈のまた、に頷いて明は手を小さく振ると曲がり角に消えてしまった。それを見ていたのは悠登だけだったが。

 「桑野も悠登の家で一緒に勉強、って手もあったかな」

 別れて少し歩くと章助がぶつぶつ言い出した。

 「そんなことしてみろ、たぶんディスチャージ仮面観賞会だぞ」

 「……へへ」

 あれだけ語ってからテレビの前で勉強会なんてすればリモコンの主が黙っていない。居間に流れるのは録画した朝の特撮番組に決まっている。その絵面を想像してか、章助は笑うとそれ以上のことは言わなかった。


 期末考査二日目。科目は英語、数学、現代文の三教科。三日目は世界史、化学、古文。残念ながらトラブルも起きず無難且つ厳粛に行われ、終わった。

 悠登の手応えはと言えば、世界史の対策が足りていなかった。どうにか古文で章助と同じかそれ以上を目指して他を怠った結果である。過ぎたこと、次は世界史に重点を置こう、と割り切って考えるしかない。

 「よっしゃぁ!テストも終わったし席替えしましょーよ、先生!」

 期末考査が終わった木曜日、HRのために担任が教室へ入ると共に意気揚々と狐川が提案する。一番前の席で辟易していたのだろうが悠登はテストが終わった側から、と成り行きを見ていた。

 当然それにクラスメートの大半が乗る。席の周りが男子しかいないとか、ここだと毎回のように授業で指されて嫌だとか。席替えを拒んでいるのは後ろの席で満足している狼塚や極一部。悠登も今のままで満足している。

 「ねー先生ってば、ねぇー!」

 「あぁー、わかった!わかったでば……。……えー皆さん、長丁場の期末考査、お疲れさんでした」

 狐川が座ったまま尻尾をぶんぶん振ってヒグマのメタボに懇願を続ける。手を横に払ってなんとかそれを制止すると熊田が話を始める。まずは一期末考査について。

 「でも、点数がヤバいと思ってるやつ。まず提出物出してないとかそういうのいたら早めに出せよ。でねーと助けられるもんも助けらんねーからな……自覚はあると思うけんども」

 全員に睨むような視線を送るが彼なりに助けてくれようとはしている。それはつまり。

 「俺が何を言いたいかわかるか?もう採点は始めたが今回の平均点……悪いッス!」

 溜めたと思うと悪い、を強調してハッキリと熊田が言った。何故か体育会系みたいな口調で。

 「二年になってからクラスマッチは良かったが勉学も疎かにしないようになー。……席替えも良いけどよ」

 「てへ」

 狐川が肩を竦めて見せる。それを見て笑いながら熊田は舌打ちした。癖でついつい鳴らしてしまうらしい。

 「ちっ……ふん。あぁ、席替えな。座席表作るのめんどいんだよなぁ……。で、どうやってやんだ。あ、好きもん同士で固まるのだけはぜってぇダメだかんな」

 私語が増えるから、というのは中学からもずっと言われている。俺だってそうしたいが諦めもついている。

 「そんなこともあろうかと、全員分のクジを作っときました!」

 「……用意良いな、おめぇ」

 「てへ」

 クラス委員長は狐川ではない。しかし熊田は感心したのかそれ以上言わなかった。

 「……じゃ、やるなら時間ないんだ、とっととやるべし」

 「はーい!じゃあ今回は出席番号順に引いてもらって良いんかな?」

 狐川が率先して仕切ってくれているが妻鹿、吉田さんと六角さん辺りになると選択肢がほとんどないな。そう思うと吉田さんが手を上げた。

 「こっちの列はじゃんけんでクジ引く順番決めても良い?」

 「その辺は任せるんで各列で決めてどーぞ!」

 リーダーになりたいのか人任せなのか。違う、席替えできればなんでも良いのか。それを察してともかく赤熊から順にクジを引き始める。左端から席が決まり、右端はクジの順番の話し合いで教室内は一気に騒がしくなった。

 「……」

 悠登や明のいる真ん中の列は特に騒がしくならなかった。引く順番でモメることもなくただただクジを待つのみ。

 「この席で良いんだけどね、別に」

 「うん?」

 そう言ったのは桑野さんだった。クジを配る狐川から視線を外すと目が合ってしまう。

 「聞こえちゃったか」

 「そりゃあ隣だもの」

 頬杖をついた桑野さんが笑う。ここにいられるのもあと数分。

 「この席、良い具合に後ろで良かったのに。テストの時はこの席順に戻されるんでしょ?だったら……なんてね」

 「俺もそう思うよ」

 「お隣さんと同じ意見だと嬉しいね」

 話してる間にクジは桑野さんまで回ってくる。箱の中を一度掻き回して折り畳まれた紙を一枚抜き取る。

 「えっと……?三十七!」

 明が宣言すると黒板前にいた熊田はその番号に明の名前を書き込む。そこは廊下側前から二番目の席だった。

 「あぁー、今の真衣の前かぁ。微妙……」

 黒板と実際の位置を見比べて明は肩を落とした。

 「端だから地味に死角とかじゃないかな?」

 「一番の死角は真衣なんだけどね。あーぁ、惜しい」

 桑野さんは笑ってクジを畳むと机に置いた。その間に他の席もどんどん決まっていく。

 「ほい、獅子井!」

 「どれどれ」

 桑野さんの隣と前の席のクジはまだ残っている。それを引ける確率はどの程度か頭で計算しつつ意を決し、狐川の差し出した箱から一枚を引き抜く。

 「………二十」

 そこに書かれていたのは明の新しい席の隣どころか近くでもない。数列跨いだその先だった。

 「離れちゃったね」

 「そうだね」

 俺のクジを見た桑野さんも確認したのだから間違いない。

 「てか、獅子井君の席、今の私のとこじゃん。引っ越しが楽で良かったね?」

 「……そうかも」

 てことは試験期間になったら桑野さんが俺の席を使うのか。そう考えると悪くはない、かも。

 「それにそれに」

 桑野さんが更に続ける。

 「トォちゃんの後ろの席、だよ」

 クジを引き終えると我慢なんてしていられない。一限目まで時間がなくてもドタドタと席の移動が始まった。それを他のクラスの連中が移動教室やトイレ休憩で通りすがりに覗いていく。羨ましい、なんて声も聞こえたがこっちはそれどころじゃない。

 「…………」

 「………ふふ」

 席替えが終わると俺は自然と笑みを浮かべていた。少し目線を下に向けるとだらしなく垂れたふさふさの尻尾があるのだから無理もない。

 「獅子井」

 「どうした」

 前の席に座る狼塚が後ろを見ぬまま悠登の名前を呼ぶ。

 「……早まるなよ」

 狼塚の一言に己を自制する。何に対してかは言及していないが真に迫るものを感じた。

 「前からだけどお前は俺を危険人物か何かと勘違いしてるぞ……」

 「妥当だと思うんだがな」

 俺は俺なりの信念を持って狼塚の尻尾を狙っている。なのに、狼塚にそれは伝わっていない。今の俺にとって狼塚の尻尾をずっと眺めていられるこの席は特等席とも言えた。それでも目の保養をいつでも受けられる程度。

 「……」

 こうして俺達の二期最初の授業、古文が始まった。開口一番に俺達の採点はまだ終わっていない、返却は来週になりそうと言われた。

 悠登の席は窓際側に一列スライドしただけ。それだけなのに随分見晴らしが変わった。目に映る背中の数は変わらないのだがその大きさが変わっている。

 明の後ろ姿はかろうじて見える。その背中を小さく感じるのは本人の体格か、それとも離れたせいか。

 因みに章助の席は一番窓際。横を向けば一つ飛ばして章助がいる。比較的話す二人が近い分、気は楽だった。


 翌日、最初に返ってきたテストは最初に受けた地理。以降、土日も挟んでどんどんテストが戻ってきた。確認と復習が続くので授業もそんなに苦ではない。採点ミスがあれば儲けもの、と思っていたが周りにいても自分にはなかった。

 「あ~……桑野」

 「はい」

 タバコの吸い過ぎか、痰が絡んだように喉を鳴らしながら先生が英語のテストを返却する。俺からしても今回一番力を入れた教科だ。たぶん、桑野さんも。

 「………」

 桑野さんが呼ばれ、答案用紙を受け取る。その点数だけ確認すると彼女はすぐに用紙を折り畳んで席に戻る。前の方だからすぐに座ってしまったのだが、歩くほんの数歩で目が合った。表情から点の良し悪しはわからない。

 「獅子井」

 「はいっ」

 すぐに自分の名前も呼ばれて立ち上がる。差し出された用紙を受け取って点を見る。赤ペンで右上に書かれていたのは七十六。悪くは、ない?

 全員にテストを返却し終わると先生は黒板に数字を書き始めた。

 「え~……クラス平均が六十二、学年平均が五十八です。ま、程々に良いんじゃないスかね?悪い人もそれなりにいるけんど」

 黒板の数字と先生の言葉に自信がつく。平均点にこれだけ差を付けたのは久し振りだった。やった分だけの成果にしては半端な数字だが、テスト問題の確認をしながら悠登は安堵する。

 「獅子井君!」

 その昼休み、狼塚の横を素通りして桑野さんがやって来て、俺の机を興奮したように何度も叩いた。

 「ど、どうしたの?」

 わざわざ来訪してくれたことに驚きつつも喜んでいた。そんな場合でもなさそうだが。

 「英語、どうだった……?」

 弁当に伸ばしていた箸を置く。そこでようやく桑野さんも机を叩かなくなった。

 「七十六。……桑野さんは?」

 聞きたかったが自分からは聞けなかった。

 「……六十五点、だった……」

 「じゃあ、平均よりは……」

 言いきる前に桑野さんが小さく何度も頷く。狼塚の耳も桑野さんと俺の方へ向けられていた。

 「やったじゃん!」

 「うん、私やったよ!ありがとう!」

 桑野さんが感謝と共にとびきりの笑顔を見せてくれる。その笑顔で二日に分けて行った勉強会の成果を実感できた。

 「ねぇ真衣!英語何点だったー?」

 俺への報告を済ませるとすぐさまターンして保谷さんの方を向く。保谷さんは章助の前の席で静かに弁当を食べていた。思えば良い点を取ることが目的ではない、低かろうが高かろうが目標の相手より上回っていなくてはならない。

 「……六十」

 「六十?」

 「……だから、ジャスト六十」

 クラスで雑談が飛び交う中、俺は桑野さんと保谷さんの会話にだけ耳を澄ませた。保谷さんはやたら声を潜めていたが聞き逃さない。保谷さんの点数を聞いて章助が反応した。

 「俺は五十五だった!二人とも高いのな!」

 平均よりは低い。しかし章助が英語の赤点を回避したことに驚きを隠せなかった。

 「え、章助……」

 「ふふん、俺ってばヤればできちゃう感じ?これなら英語の課題は無視できそうだ」

 最後の一言は余計だが、今までの章助を知っているだけに言葉を失う。

 「……狼塚は英語、どうだったんだ?」

 「……五十九」

 僅差過ぎる。だが、狼塚の声は低い。

 「明に負けた……。俺が……?」

 しかも独り言を呟いた。これはこれで珍しい。俺が章助に得意教科で負けたらこうなるのかな……。割と危機感を感じてるみたいだ。

 「そういう時もあるって。な?」

 「あぁ……」

 狼塚はテストのことで頭がいっぱいらしい。

 「なぁ、尻尾マッサージしてやろうか」

 「いらない。……飲み物買ってくる」

 それだけ言うと狼塚は教室を出て行ってしまった。

 「ちょっと失礼じゃない?」

 「うん……」

 「私はわかるけどなぁ」

 俺は狼塚にしてはオーバーなリアクションに見えた。でも保谷さんは狼塚の反応が適切だと思っているらしい。それを聞いて桑野さんが頬を膨らませる。

 「真衣まで……。でも約束は守ってもらうからね?」

 「え……」

 約束、という単語を聞いて俺と章助の耳が一度跳ねる。

 「忘れたとは言わせないよ。英国数、どれか一つでも真衣より良い点だったら……」

 「わ、わかったから……。わかったから……」

 桑野さんが約束とやらの再確認を行おうとしたが保谷さんは慌てて止める。

 「よし!」

 桑野さんは満足したように自分の席へ戻っていった。それを見送ってから保谷さんの方を向く。すかさず章助が身を乗り出した。

 「約束ってなんだ?」

 「縞太郎君とは関係無いよ」

 「ふーん…」

 章助はそれ以上言わずに身を引いた。関係無いというだけでも貴重な情報だ。向こうはそれを知らないで話したのだろうけど。

 「獅子井君、後で話せない?」

 桑野さんと保谷さんの間ではともかく仲介の俺達からすれば歯切れの悪い幕切れだったな。そう思いつつ狼塚へほぼ一方的に話を振っていると、保谷さんの方から俺に話し掛けてきた。

 「え……俺?章助じゃなくて?」

 「君」

 弁当をそそくさと食べ終えた保谷さんがおもむろに俺の横に立って短く言った。

 「わかった。いつ?」

 普通に過ごしていて俺に用事があるとは思えない。前の桑野さんと同じように心当たりがないならまた突拍子もないことを言われるのかもしれない。名前を出したからか章助が俺を見ていたが何も言ってこなかった。

 「放課後すぐ、五階の大ホール横の休憩所みたいなとこに来てくれる?時間は……取らせないから」

 「了解、じゃあ放課後」

 新校舎になってから五階は化学室へ実験の時ぐらいしか行ってないが場所はわかった。大ホールと書道室の中間にある、長机と椅子が設置された場所だ。わざわざそこに呼び出す理由があるとすれば、人がほぼ来ないからだと思う。人気を払ってまで話す内容までは知らないが。

 昼休みが終わり、午後の眠気と戦いながら授業を受けて放課後がやって来る。帰りの準備だけして悠登は五階へ向かった。真衣がすぐさま教室を出て行ったのは確認している。

 「来たね」

 「お待たせ」

 鞄は教室に置いてきた。吹奏楽部とかが教室を使うことになっても戻るのは一瞬、それくらいは勘弁してくれる。座っていた保谷さんの前に少し躊躇ったが俺も座った。

 「………」

 「………」

 俺は机の上で指を組んでいた。それを保谷さんが見ている。座ったものの話が始まらなかった。桑野さんは自分からすぐに口を開いたが保谷さんはそういうタイプじゃない。それか、それだけ話難い内容か。

 「……話って?」

 窓から射す眩しい西日を保谷さんの茶髪が反射する。俺の声に反応してその髪が揺れると保谷さんは俺の目を見た。

 「あ……ごめん。うん」

 小声で謝ると保谷さんは一度口を引き結んだ。深呼吸をしてからの保谷さんは俺をしっかりと捉えた。

 「……獅子井君さ、この前の日曜日、明といたでしょ」

 「……!」

 真衣と狼塚には秘密の勉強会のつもりが見られていた。事実だけに、言い返して良いものかと悠登は声を詰まらせる。それだけで真衣は確信を得たらしい。

 「やっぱり。明と一緒にコーヒー飲みながら勉強してたんだ?」

 「うん」

 窓際にいたのが仇になった。

 「……トォちゃんもいたの?」

 保谷さんが椅子の背板にもたれた。その一言で店内まで入ってはいないのがわかった。たぶん、遠目から見付けたんだ。

 「いや。俺と章助と、桑野さんの三人だよ」

 迷ったが、桑野さんに秘密があっても俺が黙っているよう口止めされてはいない。強いて言うなら、自販機の当たりでもらった飲み物くらいだ。

 「………」

 それを聞いて保谷さんは一度目線を外し黙った。

 「保谷さん……?」

 「獅子井君、前も言ったよね」

 再び俺に保谷さんが目を向ける。その口調と目から感じられたのは、静かな……怒り。

 「明はトォちゃんと付き合ってるんだよ?」

 前に言った言葉は冗談交じりにも聞こえた。そう、思い込みたかった。しかし今回でそれは違うと痛感させられた。はっきりと、正面から告げられたその言葉を俺はどこへも流せない。

 「彼氏はほっぽいて獅子井君達といたなんて知られたらトォちゃん、どう思う?」

 「あぁ……まぁ、寂しい、と思うんじゃないかな」

 もしもの話と思いつつも、実際あった出来事に即した内容だった。だからこそ頭が働いてしまう。自分が狼塚の立場であったなら、と。

 「違うよ獅子井君」

 保谷さんは首を横に振った。

 「嫌だ、って思うよ」

 その時感じるのは悲しいなんてものではない。恋人が他の男と過ごしていたと知って覚える感情、それは不快だと真衣は断言した。

 「嫌……。その通りだね」

 寂しいなんてものより先がある。それを俺はわかっていなかった。彼女がいたこともなければ、浮気なんてものをされたこともない。浮気というかこの場合は密会、か。どちらにせよ快くはない。

 「どうして明といたの?」

 狼塚は知っているのだろうか。桑野さんと勉強できる、ということばかり考えてアイツの気持ちなんて考えていなかった。でも保谷さんは自分の質問を優先させる。

 「保谷さんに勝ちたいって言われたんだ」

 「えっ……!」

 そこで保谷さんが初めて狼狽する。

 「英国数、どれか真衣に勝てたらって」

 「……」

 悠登が続けると真衣が顔ごとずらして目線を外した。落ち着きなく目線を泳がせて指も握っては開いてを繰り返している。

 「知ってるの」

 「……約束、のこと?」

 俺が言うと保谷さんは夕陽に照らされてもわかるぐらい顔を赤らめて口を震わせた。

 「ち、違う……!違うの!」

 保谷さんが拳を握って立ち上がる。握った拳も震わせて俺の方が慌てる。

 「わ、私……そんなんじゃなくて!」

 保谷さんは俺が約束、と口に出した途端に豹変した。桑野さんが保谷さんとした約束、その内容を俺が知っていると思ったらしい。

 「保谷さん、落ち着い……!」

 誤解を解こうと思って立ち上がるとすぐに保谷さんが詰め寄って来た。両袖の端を掴まれ壁に押し付けられる。

 「そんなつもりない!トォちゃんのことだって明が勝手に!」

 「わか、わかったから……」

 ここでやっと知ってるフリをしてその内容を聞き出せないか、と頭に浮かんだ。でもそれは保谷さんに恥をかかせるかもしれない。

 「だったら……」

 だが、その前に保谷さんが俯く。握られた半袖に力が込められたのがわかった。

 「獅子井君、私とつ……」

 「おぉい、悠登ぉー!」

 顔を上げた保谷さんが何か言う前に聞き慣れた声が階段の方から聞こえてきた。それですぐに保谷さんが俺から離れた。

 「あ、いたね。獅子井君」

 「桑野さんも。どうしたの?」

 現れたのは章助だけでなく桑野さんもいた。その二人を見た途端に保谷さんは一歩身を引いて俺の後ろに隠れようとした。

 「縞太郎君が玲奈ちゃんを迎えに行くのに悠登がいないー!って騒いでて」

 桑野さんが苦笑したので章助を睨むと頬を掻き出した。

 「だって鞄は置きっぱなのにトイレにもいないしよ。混んでて五階か一階のトイレに行ったんじゃないかと思って」

 「トイレ探すのに桑野さんまで引っ張ってきてどうすんだ」

 俺が言うと章助はまぁまぁ、となだめようとする。そこで保谷さんが前に出た。

 「私、部活行くね。獅子井君、忙しいのにごめん」

 「いや……」

 まだ話は終わっていないんじゃないか、と思ったが保谷さんは桑野さんと章助の間へ向かう。

 「真衣、また明日ね」

 「うん!明も早く部活行かなきゃドヤされるよ?」

 そう言って保谷さんはいつものように桑野さんに笑顔を見せて階段を下りていってしまった。途端に俺の緊張の糸が切れる。

 「ふー……」

 「なんだ、お邪魔だったか?」

 「いや、助かった……かも。まず移動しよう」

 本当は座って休みたかったがこの階は書道室がある。となると先程の口振りからして保谷さんが荷物を持って戻ってくる筈だ。

 「鞄なら持ってきたぞ。ほれ」

 「おぉ、サンキュ……」

 手に持っていた方ではなく背負っていた方の鞄を章助は俺に差し出してきた。それに関しては何も言わずゆっくりだが階段を下り始める。

 「獅子井君、真衣と何を話してたの?」

 聞かれるだろうな、と思いつつ頭の中で整理していた。話していた時間は限られたもので長くはなかったがその内容を全部伝えて良いものか。

 「……勉強会、バレてたみたいだよ」

 「えっ」

 桑野さんも驚いていたようで口を大きく開けて固まった。

「参ったなぁ……。後ろ盾があったの知られてたか」

後頭部を掻いて気まずそうにする桑野さんを章助が笑った。

「別に桑野はカンニングしたわけでもないだろ。俺達と一緒に勉強してても試験じゃ自力で解いたんだから、やましくはないだろうよ」

 章助に同意だが、さっきの話だとそうも言えない気がした。だから少し確認。

 「俺達と一緒だったのってまずいの?」

 俺が質問をすると桑野さんが先頭に立って歩き出した。

 「うーん、ま、サポーターを真衣はなしでやったろうしね。その点では私にアドバンテージがあったかも」

 階段の踊り場で桑野さんが振り返る。

 「あと、真衣はやたらトォちゃんに私の面倒見させようとしてるみたいだし」

 その一言に俺が一歩踏み込んだ。

 「それって、桑野さんが……狼塚とその、付き合ってるからじゃ……ないの?」

 直接聞くのは初めてだった。俺の質問に桑野さんは数秒目を丸くする。その間に俺と章助も踊り場に着く。

 「私がトォちゃんと……?」

 俺が頷く。直後、桑野さんの表情が崩れた。

「ふ…ふふ……。あはははは!有り得ないよ。私とトォちゃんとか!あは、はははははは!」

 桑野さんのツボを刺激されたのか桑野さんの笑いはしばらく止まらなかった。

 「……そういう噂、立ってたよな?」

 「まぁな」

 ここまではっきり否定されて俺の方が不安になって第三者に確認する。章助も間違いない、と頷いた。

 「そうなの?私そんなの言われたことないけど」

 挙句、そんなの知らないとまで返されてしまう。

 「保谷さんにも言われたよ。桑野さんは狼塚と付き合ってるんだ、って」

 ここまで来たら聞けるところまで、と思ってしまう。俺の知っている部分もさらけ出す。

 「……勘違いじゃないの?」

 桑野さんはそう言うが、違う。

 「仲が良いとかじゃなくて、しっかり言ってたよ」

 「ふーん……」

 桑野さんが鼻を鳴らす。しかし鞄を持ち直すと前髪とポニーテールを揺らした。

 「だとしたらそれは真衣のデマ、だよ。私とトォちゃんは付き合ってない。どっちも恋人なんていないもん」

 明のはっきりとした宣言に悠登は自分を包んでいたもやもやした霧を晴らされたような気分になった。強い風が吹き抜けた先にあったのは、前と同じ笑顔。

 「真衣にはキツーく言っておかないとなー。ありがと獅子井君、そしてごめんね?」

 「ごめん?」

 最後に桑野さんが謝る。その理由がわからなくて聞き返すと桑野さんは階段の方へ向かった。

 「だって、真衣が獅子井君を呼び出したのってその勘違いが関係してるんでしょ?」

 「そう、かな……」

 二人が来る直前、保谷さんが俺に言いそびれたことが気になった。でも保谷さんが桑野さんを気にしていたのは間違いない。

 「だったら謝らないと」

 「いや、俺の方こそ……ずっと勘違いしてたみたいだし」

 口に出してから恥ずかしくなってくる。

 「あぁ……それはね。トォちゃんは違うから」

 「悠登が尻尾狙ってるもんな」

 章助の付け足しに桑野さんがまた笑う。視線で射抜こうにも目線はすぐに逸らされた。

 「言っとくよ、獅子井君がトォちゃんの尻尾をロックオンしてるって」

 「止めてよ?仕留めにくくなるから」

 欲しいのは狼塚の尻尾なんだけどね。それか耳。

 「ふふっ、わかった。じゃあそれは内緒にしとく」

 「ありがとう」

 本当に仕留めたい人は別にいる。気持ちを伝えるには今の俺があまりに臆病で、自信もない。だから冗談で今を維持してしまう。もっと君を知って、もっと君に知られてから。そう思えた時まで、この気持ちを向けていたい。

 「じゃあ、部活行ってきます!」

 「行ってらっしゃい」

 「行ってこい!」

 桑野さんは勢い良く段抜かしで階段を駆け下りる。俺達は追わずにゆっくりとそのまま下りた。

 「あ、桑野さんに聞きそびれたことあった」

 「どしたよ?」

 最初に質問されてそれに答えてすぐに行ってしまったからこちらから最初に聞きたかったことを忘れてた。靴を履き変えながら章助が代わりに聞いてくれる。

 「お前さ、どうして桑野さんといたんだ?狼塚でもなく」

 保谷さんが俺を呼び出した時、一番間近にいたんだからそれは聞こえて把握してたと思う。だけど桑野さんはもう自分の席に戻っていたのだから知るまい。そこをわざわざ呼んだのか。

 「俺が桑野に言ったんだよ。保谷が悠登を呼び出してたけどなんでだろうなって。保谷のこととなれば桑野だろ?そしたらどこ行ったか知らないかってよ。とっくに話し終わってると思ったらまだだったのな」

 「お前に秘密は任せておけないな……」

 保谷さんは桑野さんに知られたくない話だったから、別の場所に呼び出したんだろうに。これじゃダダ漏れになってしまう。

 「俺、口は堅いぞ?今回はあんな無防備に話してたお前と保谷に落ち度があるって」

 「む……」

 正論、なのだろうか。言われれば口止めはしていなかったし、あの場なら狼塚にも聞こえていたかもしれない。

 「桑野も桑野だよな。狼塚と登校してるとか、仲が良いとかそういうのは認めてるから勝手に女子が付き合ってるって話にしてんだろ?」

 「そうだなぁ……」

 それにまんまと惑わされた雄一匹。章助の言葉がやけに胸に刺さる。

 「てことは毎日一緒の俺と……」

 「止せ」

 何を言おうとしても絶対にその発想はさせない。玲奈は確かに章助を好いている。しかしそれとこれとは話が別だ。このお兄さんを差し置いて許しません。

 「……ちぇ。じゃ、早く行って玲奈ちゃんと夕食の相談だ!」

 「また食っていく気かよお前!」

 ……玲奈を迎えに行くまでの変わらぬ通り道。楽しそうにふざける章助とそれに呆れたり、怒ったりする俺も同じ。でも、暑くなっていた今日の日中までを冷ますように吹いた夕風がいつもより涼しく、心地好く感じられた。

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